日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

福沢諭吉『福翁自伝』(抜粋)「本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し」

2020-01-07 20:34:00 | 福澤諭吉

福沢諭吉『福翁自伝』(抜粋)

「本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し」

 

乗船切符を偽らず
 右様な大金の話でない、
極々些細の事でも一寸と胡麻化して貪るようなことは私の虫が好かない。

 明治九年の春、
私が長男・一太郎と次男・捨次郎と両人を連れて上方見物に行くとき、
一は十二歳余り、捨は十歳余り、
父子三人従者も何もなしに、
横浜から三菱会社の郵便船に乗り、
船賃は上等にて十円か十五円、
規則の通りに払うて神戸に着船、
金場小平次と云う兼て懇意の問屋に一泊、
ソレから大阪、京都、奈良等、諸所見物して神戸に帰て来て、
(ま)た三菱の船に乗込むとき、
問屋の番頭に頼んで乗船切符を買い、
サア乗込みと云うときにその切符を請(うけ)取て見れば、
大人の切符が一枚と子供の半札が二枚あるから、
番頭を呼んで、
「先刻申した通り切符は大人が二枚、小供が一枚の筈だ、
何かの間違いであろう、替えて貰いたいと云うと、
番頭は落付払(おちつきはら)い、
「ナーニ間違いはありません。
大きいお坊ッちゃんの御年も御誕生も聞きました。
 

 正味十二と二、三ヶ月、半札は当然(あたりまえ)です。

 規則には満十二歳以上なんて書てありますが、
満十三、四歳まで大人の船賃を払う者は一人もありはしませんと云うから、
私は承知しない。


「二、三ヶ月でも二、三日でも規則は規則だ、
是非規則通りに払うと云うと、番頭も中々剛情で、
ソンな馬鹿な事は致しませんと云って議論のように威張るから、

「何でも宜しい。
乃公(おれ)は乃公の金を出して払うものを払い、
貴様には唯その周旋を頼む丈(だ)けだ。

 何も云わずに呉れろと申して、何円か金を渡して、
乗船前、忙しい処に切符を取替えた事がある。

 是れは何も珍らしくない、
買物の代を当然に払うまでの事だから、
世間の人も左様であろうと思うけれども、
今日例えば汽車に乗て見ると、
青い切符を以て一寸と上等に乗込む人もあるようだ。

 過日も横浜から例の青札(あおふだ)を以て上等に飛込み神奈川に上った奴がある。
 私は箱根帰りに丁度その列車に乗て居て、
ソット奴の手に握てる中等切符を見て、
扨々(さてさて)賤しい人物だと思いました。

 

本藩の扶持米を辞退す
 是れまで申した所では何だか私が潔白な男のように見えるが、
中々、爾(そ)うでない。

 この潔白な男が本藩の政庁に対しては不潔白とも卑劣とも名状すべからざる挙動をして居ました。

 話は少々長いが、私が金銭の事に付き数年の間に豹変したその由来を語りましょう。


 王政維新のその時に、幕府から幕臣一般に三ヶ条の下問を発し、
第一、王臣になるか、
第二、幕臣になって静岡に行くか、
第三、帰農して平に民になるかと云て来たから、
私は無論帰農しますと答えて、
その時から大小を棄てゝ丸腰になって仕舞い、
ソコで是れまで幕府の家来になって居るとは云いながら、
奥平からも扶持米を貰て居たので、
幕臣でありながら半ばは奥平家の藩臣である。


 然るに今度いよいよ帰農と云えば、
勿論幕府の物を貰う訳けもないから、
同時に奥平家の方から貰て居る六人、
扶持か八人扶持の米も、
御辞退申すと云て返して仕舞いました、
と申すはその時に私の生活はカツカツ出来るか出来ないかと云う位であるが、
併しドウかしたなら出来ないことはないと大凡その見込が付て居ました。



 前にも云う通り私は一体金の要らない男で、
一方では多少の著訳書を売て利益を収め、
又一方では頓(とん)と無駄な金を使わないから多少の貯蓄も出来て、
赤貧ではない。

 是れから先き無病堅固にさえあれば、
他人の世話にならずに衣食して行かれると考えを定めて、
ソレで男らしく奥平家に対しても扶持方を辞退しました。


 スルと奥平の役人達は却て之を面白く思わぬ。
「ソンナにしなくても宜い、是れまで通り遣ろうと云て、
その押問答がなかなか喧(やか)ましい。
 妙なもので、此方(こっち)が貰おうと云うときには容易に呉れぬものだが、
要らないと云うと向うが頻(しき)りに強(し)うる。


 ソレで仕舞には、ドウもお前は不親切だ、
モウ一歩進めると藩主に対して薄情不忠な奴だと云うまでになって来た。
 夫れから此方も意地になって、
「ソレなら戴きましょう。

戴きましょうだが、毎月その扶持米を精(しら)げて貰いたい。
モ一つ序(つい)でにその米を飯(めし)か粥に焚(たい)て貰いたい。
イヤ毎月と云わずに毎日、貰いたい。

(すべ)ての失費は皆米の内で償いさえすれば宜いから爾(そ)うして貰いたい。


 ソレでドウだと申すに、
御扶持を貰わなければ不親切不忠と云われる、
不忠の罪を犯すまでにして御辞退申す程の考はないから慎んで戴きます。
 願の通りその御扶持米が飯か粥になって来れば、
私は新銭座(しんせんざ)私宅、近処の乞食に触を出して、
毎朝来い、喰(く)わして遣ると申して、
私が殿様から戴いた物を、
私宅の門前に於て難渋者共に戴かせます積りですと云うような乱暴な激論で、
役人達も困たと見え、
とうとう私の云う通りに奥平藩の縁も切れて仕舞いました。

 

本藩に対してはその卑劣朝鮮人の如し 

 斯う云えば私が如何にも高尚廉潔の君子のように見えるが、
この君子の前後を丸出しにすると実は大笑いの話だ。

 是れは私一人でない、同藩士も同じことだ。
イヤ同藩士ばかりでない、
日本国中の大名の家来は大抵皆同じことであろう。

 藩主から物を貰えば拝領と云て、之に返礼する気はない。
馳走になれば御酒下されなんと云て、
気の毒にも思わず唯(ただ)難有いと御辞儀をするばかりで、
その実は人間、相互(あいたが)いの附合いと思わぬから、
金銭の事に就ても亦その通りでなければならぬ。

 私が中津藩に対する筆法は、
金の辞退どころか唯 取ること計(ばか)り考えて、
何でも構わぬ、取れる丈(だ)け取れと云う気で、
一両でも十両でも旨く取出せば、
何だか猟(かり)に行て獲物のあったような心持がする。

 拝借と云て金を借りた以上は此方(こっち)のもので、
返すと云う念は万々ない。

 仮初(かりそめ)にも自分の手に握れば、
借りた金も貰た金も同じことで、
後の事は少しも思わず、

 義理も廉恥もないその有様は、
今の朝鮮人が金を貪ると何にも変わったことはない。
 嘘も吐(つ)けば媚も献じ、散々なことをして、
藩の物を只取ろう取ろうとばかり考えて居たのは可笑しい。

 

百五十両を掠め去る
 その二、三ヶ条を云えば、
小幡その外の人が江戸に来て居て、
私が一切引受けて世話をして居るときに、
藩から勿論ソレに立行く丈けの金を呉れよう訳けはない。


 ドウやら斯うやら種々様々に、
私が有らん限りの才覚をして金を造た。
 例えば当時横浜に今のような欧字新聞がある、
一週に一度ずつの発行、その新聞を取寄せて、
ソレを飜訳しては、佐賀藩の留守居とか仙台藩の留守居とか、
その外一、二藩もありました、
ソンな人に話を付けて、
ドウぞ飜訳を買って貰いたいと云て多少の金にするような工風をしたり、
又は私が外国から持て帰た原書の中の不用物を売たりして金策をして居ましたが、
何分、大勢の書生の世話だからその位の事では迚
(とて)も追付(おいつ)く訳けのものでない。

 
 所でその時江戸の藩邸に金のあることを聞込んだから、
即案に宜(い)い加減な事を書立て、
何月何日頃何の事で自分の手に金の這入る約束があると云うような嘘を拵(こしら)えて、
誠めかしく家老の処に行て、
散々御辞儀(じぎ)をして、
斯う斯う云う訳けですから暫時百五十両丈(だ)けの御振替を願いますと極く手軽に話をすると、

 家老は逸見志摩へんみしま)と云う誠に正しい気の宜い人で、
暫時のことならば拝借 仰付(おおせつ)けられても宜かろうと云うような曖昧な答をしたから、
その笞を聞くや否やすぐにその次の元締役の奉行の処に行て、

 今 御家老 志摩殿に斯う云う話をした所が、
貸して苦しくないと御聞済(おききずみ)になったから、
今日その御金を請取(うけと)りたいと云うと、奉行は不審を抱き、
ソレは何時の事だか知らぬがマダその筋(すじから
御沙汰にならぬと妙な顔色して居るから、

仮令(たと)い御沙汰にならぬでもモウ事は済んで居ます、
(ただ)金をさえ渡して下されば宜しい、
何も六かしい事はないと段々説いた、

 所が家老衆が爾(そ)う云えば、
御金のないことはない、
余り不都合でもなかろうとその答も曖昧であったが、
此方
(こっち)はモウ済んだ事にして仕舞て、
その足で又その下役の元締 小吟味
(こぎんみ)
是れが真実その金庫の鍵を持て居る人であるその小吟味方の処へ行て、
只、今金を出して貰いたい、
斯う斯う云う次第で決してお前さんの落度になりはしない、

 正当な手順で、
僅か三ヶ月経てば私の手にちゃんと金が出来るからすぐに返上すると云て、
何の事はない、疾雷(しつらい)耳を掩(おお)うに遑(いとま)あらず、
役人と役人と評議相談のない間に、
百五十両と云う大金を掠(かす)めて持もって来たその時は、
(あたか)も手に竜宮の珠(たま)を握りたるが如くにして、
且つその握った珠を竜宮へ返えそうなんと云う念は毛頭ない。

 誠に不埒(ふらち)な奴さ。
夫れで以て一年ばかり大に楽をしたことがあります。
  



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