大川周明 (ウィキペディア)
〔大川周明 書簡〕
532、昭和21年9月18日 松沢病院より 大川多代宛
粛啓 九月十二付にて卑簡差上候処、今日迄御返事御座候故、或は開封の上没収せられしやも知れずと考へ、再び筆執り申候。扨私儀長らく帝大精神科病院に在り。次で此の松沢病院に移され、新聞に狂へる大川博士など写真まで出で申候へど、母上には私の性格並に頭脳が決して狂人などになる筈なしと御確信のことと奉存候。
事実私は全く健全にて早晩退院可仕へば、此点は御安堵被下度奉願上候。ロックヘラー病院・帝大病院・松沢病院と狂人にもあらぬ者が気狂扱ひされて引き廻され、誠に面白き体験を得申候。尤もロックフェラー病院の方は実は狂人扱いに非ず。
賓客扱ひにて毎日マッカーサー夫人及び令嬢の歓待を受け申候が、帝大病院にては兼子が医師の言を盲信して、私を気狂と思ひ込みたるため実に迷惑仕候。帝大の療法にて実に異常の高熱を発し候が、之は予め私のため強心並栄養摂取の手当を脊ざりしための非常なる失策にて、私に此事を指摘きされてより毎夜甚だしきは三回も麻酔剤を注射し、私をして一切を忘却せしめるため、医員・看護婦こぞりて馬鹿な注射を続け申候。
唯だ発熱最高度に達せる時、明治天皇及び英国王エドワード七世の姿が私の面前に現れ、『かねあき』頑張れと大声疾呼せられ、『さあ生れ変れ』と鼓舞され、そのため啻に異常の高熱に堪えたるのみならず、身長も一寸五分のび、身体柔軟なること青年の如く、顔も若やぎて兼子や松やも驚くほどに相成申候。
其後麻酔剤注射にて睡眠中も常に明治天皇とエドワード七世を中心とする実に興味ある夢を見つづけ、是非之を記録し置きたしと存じ候ひしも、大学側の差金か兼子の心づかひか、病室内に筆も紙もなき故、夢の記録術として私が屢々実行して脳裡に刻み込むやうに致し候故、只今も明確に記憶仕居候。
此事は無人の時に試みつもりなれど、兼子や看護婦が之を見聞すれば気違ひと思ふのも無理なしなど、此の手紙を書き乍らも微笑を禁じ得ず候。此の夢の中に母上も常に現はれ、石原板垣の諸友も現はれ、夢乍ら私の心事最も鮮明に現はれ、恰も私の精神を名鏡に映すが如く、実に面白く感ぜられ申候。
退院後母上を上ノ山温泉に案内し、亀屋の女主人をも聴手に加へゆるゆると話申上度候。但だ此処に至急電報にて御返事願上度きことは、私が左頬下部に人力と衝突して負傷せるは明治何年なりしか、また明治四十年六月に大川家より藤塚の役場に戸籍上重要なる届出でありしや否やといふ事に御座候『○、不、」アリ」又はナシ』と簡単に宜しく候間、御返事被下度候。
大学病院にて兼子堅く医師の言を信じて私を狂人視し、如何にも手の施しやう無御座候ひしが、此処にて副院長村松氏、医長石川貞一氏(石川貞吉博士令息)皆帝大の意図を疑ひ、小生の狂人ならざるのみか健全中の健全者なるを知り、看護人一同も同様にて親切此上なく、兼子も初めて迷夢より醒め申候ヘバ、月末頃には退院し得ることと存じ居候。
新聞雑誌に私が法廷にて東條の頭を打ちたるを狂態などと米国に媚びを売り居候へど、米人側は大喜びにて、退出後東條に似たる米人伴ひ来たり私に頭を打たせて写真を撮り、米新聞スターズ・ストライプスにのせて拍手居候。
日本の大臣・大将皆な刑を恐れて醜態見るにたえざる時、かかる芝居じみたる裁判何ぞ恐るるに足らんといふ意気を示せるだけにて、米人も之を知りて私を重んじ申候。名前を呼ぶとき時も、皆アメリカ訛りにて松井をマツアイ、和知をウエーチなどと呼ばれて苦笑し乍返答するも。
私だけはオカワなどと呼ぶ故、大声にてオカワは小さい川、私はオウカワ即ち大きい川、今後はオカワなどと呼ぶと返事しませんぞと怒鳴り候。其後皆オウカワと呼び申し候。
殊にロックフェラー病院在宿中、米人も最も重要な人々、即ちロックヘラー一族、マッケンジー一族と相識り、彼等の私に傾倒は高橋喜蔵さん以上に候へば、裁判など御心配被下まじく候。私を取調べる主任検事H・B・ヘルム君なども、私に多大の尊敬を払ひ居ることは、喜蔵君も承知の筈に御座候。
殊にマッカーサー夫人は私が今後設立すべき研究所のために莫大の寄付を約束し居る次第にて御座候。
母上も最も御承知の通り、私は幼年時代から今日までボツチャボツチャと他人に可愛がられ、監獄は豊多摩にても看守等が私を必ず第一番に入浴せしむるほどの好意、巣鴨にても所長はハーディ大佐が私にだけ笑顔を見せ、米兵も私だけを例外に尊敬し、ロックフェラーにても思ひがけなき崇拝者を多数の米人の間に得、此の病院にても亦同様にて、此処に移りて三月ばかりは涙を流し乍ら此事のみ思ひ廻らし候。
此頃は巣鴨刑務所にて般若心境を読みて生来初めての霊感を得申候故、之を欧米人に伝へ度、梵漢両文対照の上之を英訳し、英語にて中庸新注の如き体裁にて注釈を加へ、アメリカにて出版するつもりにて原稿を書き居り申候。
まことに至処青山にて自分ながら何故の是程のんびりし、何時如何なる処にても平気なるか不思議に被存候。此の境地母上にはよく御納得のことと被存候。
頓首
九月十八日 周明
御母上様 侍者
△此前の手紙に二三寸と申し上げ候が、昨日計り申候処、昨年まで五尺八寸なりしが、只今は五尺九寸五分と相成申候。
※封筒裏書に「東京都世田谷区沼袋二三五 白川龍太郎」と記載。
出典:『大川周明 書簡(昭和21~1946年)ー書簡戦後 557頁~559頁』