日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

イザベラ・バード・ビショップ 『朝鮮紀行』「三十年前の朝鮮」3「京城入り」    

2019-07-18 15:03:43 | 朝鮮・朝鮮人 


  「三十年前の朝鮮」 

     イザベラ・バード・ビショップ女史著 
     法學士 工蔭重雄抄譯  

 

3 京城入り 

〔麻浦迄の船路〕
 仁川より漢江を遡ること五十六哩、京城の咽喉朝鮮第一の河口と呼ばるる麻浦迄の船路、思へば難儀な事であった。抑もま漢江は汀原、忠清両道の水を萃め、京城を横切て黄海に注ぐ半島第一の大江なれども、惜哉水淺くして巨船を通せず、而も千潮の折には急流となって船を押戻す勢ひ、便乗の小蒸汽船は遅々して進まぬ。隅々船は擱座と云へば物々しいが浅瀬に乗り上けた時たらない。附近のサンパンを呼んで援助を求むれは、集まる面々の怒號〇(不明)喚非常な噪わぎである。

豫定の時間より遥かに後れて麻浦に着いた時は、飢しさと、疲れと、そして不愉快な記憶が容易に消えなかった。

 

〔京城迄の悪道路〕
 麻浦には英国総領事ガードナー君が親切にも出迎へて呉れられた。偖て愈々上陸して見ると、驚いた事には道路が又たひどいーー厳密に云へはこれは未だ道路とは云へない。

 この道路を輿に乗せられて進んだ。領事は護衛の格で朝鮮馬に鞭継を上げる。イヤハヤ賑やかな事だ。六人の輿丁か大声で笑ふやら、喋るやら、叱るやら、旅人を驚殺する覚悟と見える。曾て築造せられる事なく又た曾て修繕せられたる事なき道路は尺地も平坦を好まざるが如く、デコボコして居る。
 幅員は或いは馬鹿に広く或いは馬鹿に廣く、或いは馬鹿に狭く、一間の間も単調を好まぬが如き感がある。僅かに人馬を通する程の隘路かと思へば、廣場を見る如く場所もある。若し路上濘があれば人は之を避けて畑中を遠慮なく踏み固めて其処に自ら新道路が成立するのである。誠に屈伸自在の道と云はねばならぬ。

 

〔風光頗る面白い〕
 然し乍ら六人の輿丁が如何にに騒げばとて天地は悠々として旅情を慰める。白き砂原、なだらかな峰、緑の松、墓所の石人、悉く静かである。折々見ゆる茅屋の家かと疑ふ時に白衣の人が浮ぶが如く出て来るも面白い。太くもない鋤を四五人して使ふ音頭の声も長閉で誠に穏やかである。暫くして領事夫人と御息女は輿で、其他ヒビショップ、コープ氏、税務総弁プラオン氏などは馬で来られるのに逢った。

 

〔出迎えの人〕
 此処は最早京城の城外である。高く石を築き上げた城壁は毀れては居るものの蜒々として眼前に展開する。二層樓の門がある。門を潜れば即ち京城の市街である。市街は不規則にに縦横に走って居る。輿は右曲し左折して漸く英国公使館に辿り着いた。

 

〔京城大観〕
英国公使館に続く丘には更に高く露公使館が聳へ、市街を挟んで向ふの山の中腹には日本公使館が人の目を惹く。市街の中央に高く天空を摩するは働蘭西教會堂である。此の殿堂は曾て大院君が政権を握っていた頃ほひ耶蘇教徒を虐殺した事があって、其の節の殉教者の為に建てられたと傳へられる。

 

〔私は色々のものを見た〕
 私は宮殿も、乃至裏町も、貧弱な不細工な建築又は装飾も、無為無能の群集も稀に見る行列も――それが又た珍妙無類の行列である――不潔な生活状態も、其の他種々な風俗習慣を見た。

 人口二十五萬を包容し世界有数の都市の一と迄も想像せらるる京城、而して其の誇りを私は今正に見且つ聞きつつある。京城は海抜百二十尺、北緯三十七度三十四分、東経百二十七度六分に位し、周囲は丘を繞らし、其の丘の上には城壁が走って居る。城壁外は虎狼の来襲することがあるさうだ。

 眼を放てば四山禿山として半空に鋭き線を劃いて眼界を遮ぎっている。然し太陽が西天の雲を紅に染めて今日の名残を惜しむ頃は、此等の不気持な山々は赤色を帯へる紫の水晶の如く、影はコバルトに緑に見えて誠に麗しいと思った。

 

〔城壁は長蛇の如し〕
 高きに登りて此の大市街を望む時、眼は自ら城壁を追うことになる。南山の嶺、北漢の峰、谷を亘り森を超え、或いは隠れ、或いは現れ、長蛇の状をして中世的の此の都市を取り巻いて居る。其の高さ二十三乃至四十呎、延長十四哩(フオックス氏調査)矢狭間を置き銃眼を穿ち、要所要所に關門を設く。

 關門は其数八個、一層又は二層三層のを櫓を門上に建て、円扉は鉄鋲の太きを叩き込み、偉大なる門を以て固め、日出でて、之を開き、日沒して之を鎖す誠に用心堅固に出来て居る。
 關門に名を附す、或いは崇禮と云ひ、或いは敦義と云ひ、興亡と云ひ、悉く道徳上の箴言を選んだものである。

 

〔市街一端〕
 穢きこと臭きこと世界一の都京城乎。二階建ての家は之を造ることを許されず況や三階四階の家は夢にすら見られぬ有様である。故に二十五萬の間胞は地上に瓦叉は藁を並へ其の下に潜り込んで生活――否不潔な道路に蠢動して居ると形容しゃうか。その道路は廣くとも二頭の馬を並ふること能はす。狭きは一人の憺軍が徃來を塞ぐ程である。

 

〔悪臭紛々〕
 路傍には悪臭紛々たる溝を控へ、路面は飽迄垢付いた半裸体の子供と、獰悪な犬とによりて占領せられて居る。溝の上にささやかな棚を組んで物買入れる人に時々遇ふことかあるが、棚の上には種々の小間物やら、毒々しく染め上げた葉子を並べて稀に來る客を待って居る。買占めた所で高々一圓そこそこの代物であらう。

 

〔温突(おんどる)家屋〕
 家屋は低く廂を突き出し、璧は泥を粗末に塗り立て一向に市街に美観を添へて居らぬ。地上三四尺の所に紙張りの窓がある。温突の煙に燻ばれて憺、柱、壁と共に頗る汚れて居る。温突とは朝鮮特有の暖房装置で、四方の門より入る数百の牛の背に山なす松葉は悉く温突に焼かれるものであるさうな。

イヤ煙る程に燻る程に日暮るる頃此等の町を散歩しやうものなら松の香り高き濃霧に襲はれた感じがある。

〔小さな商店と商品〕
 商店と称すべきものもを見るには相違ないが、多くは店頭十圓内外の品物を羅列するに過ぎぬ。若し京城の商店の特長を求めたら貧弱無価値の一言を以て盡すこと出来る。所謂大商人は鍾路の十字街を中心として集って居るが、それすら店中立って南腕を伸べたら一切の商品を掴み得る位に小さな販賣所に過ぎぬ。
 試に商
品の数々を数え上げて見れば、綿、草鞋、竹の笠、劣等なる陶磁器、蝋燭、櫛、硝子製念球、煙管、煙草入れ、啖壹、骨橡眼鏡、紙類、枕、扇、硯、鞍、洗濯棒、千柿、毒々しく染め上げた菓子、十銭洋燈、懷中鏡の如き安価の船來品等を重なるものとする。

 此外高價品と看做すべきは、銀象眠入鉄製小箱、真鍮製食器又は其他の器具、青貝摺りの漆器、刺繍を施せる絹織物(但し此等の意匠及技術は共に幼稚採るに足らぬ)等がある。

 

〔箪笥町の製作所〕
 外国人が箪笥町(現今の武橋町)と名けた町がある。其の町では箪笥手箱等のみを製作して居る。此処の製作品は見た所餘り大きな物は無いが誠に奇麗で、或いは胡挑材を、或るいは楓材を、或いは挑材を用ひ、真鍮の金具、真鍮の錠前如何にも面白い。

 朝鮮人の家庭を覗いて眼に触るるものは、先ず長い煙管と煙草入れ、椀に小鉢、米櫃、水甕、燐寸箱、金人れ、染粉、食料品として松の實、米、黍、玉蜀黍、豌豆、大豆其他草鞋、布製馬毛製又は竹製の帽子、及び朝鮮国有の綿花等である。

 

〔日本の居留地〕
 南山の中腹に木造白塗の建物とこしては餘り感心出来ない日本公使館がある。其の麓は即ち日本人居留地で約五千の日本人が小なる天地を~作って居る。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反對に清潔で能く整って気持ちがよい。例の日本風に帯締めて、男も女も下駄をはいて、カラコロと誠に忙がしさうである。憲兵が居留地を護衛して居る。海外駐箚軍隊も居る。細身のサーベルを佩いたるは即ち士官である。
 但し此等日本留民は朝鮮人の憎しみを受けること甚だしく、明治十五年以来ニ度も暴民の襲撃を喰らって公使館員は身を以す海に逃れた程であった。現在の.公使館は私の最初に朝鮮に来た節即も大島公使の時代に出来たものである。

 大鳥公使は自髯を胸に垂れて能く京城の交際社会に出入りされる。寡言恭儉にして物柔かな老人で迚も鋼鉄の如き意思を抱いて居る方とは思はれぬ。尚ほ日本人街には銀行あり、郵便局あり、深く外人の信用を受けて居る。

 支那人町は其人口日本人町と伯仲の間に在って、外国人は需要品を多く此処に求める。支那人町と関聯して特記すへきは其の衙門の主人公袁世凱氏である。袁氏に即ち「王権ノ上ニ王権アリ」と称せられる支那の宗主権を代表して朝鮮に臨めるものであって、国王の前に勝手に出て勝手に振舞って居ると云ふ話である。支那公使館は言はゞ袁氏一人の衛門である。

 

〔虎の威をかる〕
 大門堅く鎖し、屋上守護神の像を書き門内には大厦擔を接し、物々しく武裝したる兵士は常に王宮と衛門との間を住來して警戒の任に当たり、朝鮮人をして清国の尊厳と袁世凱氏自身の勢力とを感ぜし

めて居る。然れども袁氏は私一個の愚見によれは唯単に虎の威をかる一介の支那人に過ぎぬと思ふ。彼は事實上支那人の生殺与奪の権を掌握し、曾々刑罰を加ふる際の如き實に野蛮を極め、清韓人共に彼を恐るること夥しい。

 

〔清渓川〕
 市街の中心を西より東に流るる下水道は市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄して居る。其の為めに下水直の泥は眞黒に幾世も昔からの濁水に染められ悪臭を空中に放散して旅人を惱して居る。然し乍ら此の下水道が如何に不潔だとて強ちに斥け難きは京城の婦人を此処にして初めて見ることが出来るからだ。

〔婦人の洗濯場〕
 生活に倦んで生気を失った男ばかりの都と思ひきや、此処は又幾百の女房ばかり、淺緑りの衣打らかつぎつつ、洗濯にいそしむ樣は湖北の野に花見る心地がして嬉しい。

 下水道の洗灌とて静り笑ふ可らず。洗濯棒を振り上りげ振り下ろす風情餘り優美とは云えないにしろ、甲斐甲斐しと讃めてよかろう。特に夜は砧の音京城内に充ちて。東洋の詩人これに涙を搾るさうだ。

〔南山から見た京城〕
 京城は四面環らすに山を以てすることは既に記した。其の四山の麓がなだらかに傾斜して長さ五哩幅三哩の盆地を作り人口二十五萬の都が建設されて居る。南山に登って見ると十五平方哩の野は正に暗灰色の屋根の海である。樹木なし、況や森林もなく廣場も無ければ公園も無い。單調手凡只一面の死殀の如き姿して居る。

 此の平原の隅々二層樓の大厦と見るは即ら市を限る關門である。石垣あって地を匝るは宮殿である。東西に道と見ゆるは鍾路である。南するは南大門を通する道である。

 動けるは男子。吠ゆるは犬、此の外にしては天地聞として聲なく、無人の野に立つも同然である。

〔鍾路の鍾の音〕
 既に記したな鍾路の大鍾が夜八時頃を期して其の重々しき響を傅へると、今迄辻々を占領して居た男子は逃くるが如く影を潜め市中は全く女の都と早変わりをする。往くも来るも女ばかり、彼等は初めて一日の束縛を逃れ、宇宙の廣きを楽しみ、友情の熱きを酌み交はすのである。
 此際男子にして交通を許さるるは盲人と、官吏と、外国人の奴僕と、輿丁ばかりである。十二時になれば鍾は再び響く。女は家に帰って男は更に享楽を求めに出懸ける。此社會制度は堅く守られて一人も之に背かない。世界に珍しき慣習だと思ふ。


〔続〕
イザベラ・バード・ビショップ 「三十年前の朝鮮」4 傳馬旅行





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