日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明『北一輝君を億ふ』

2020-04-01 13:44:43 | 大川周明

大川周明『北一輝君を億ふ』 


 本稿は、廿八年の頃、故笠木良明、里見良明氏が北一輝氏の『日本改造法大綱』の復刊を計計画した時、乞いによって大町明博士が同書のために執筆されたものであるが、同書はゲラ刷まで出た時、印刷所が不慮の火に遭って遂に刊行されず、本稿も全く末発表のまま故博士の手許に留められ、没後遣品整理の際に発見された。


 北君が刑死したのは昭和十二年八月十九日であるが、その前日、獄中で読誦し続け折本の法華経の表に、最愛の遺子大輝君のために以下の遺言を書留めた。

〔遺書〕
 『大輝よ、此の経典は汝の知る如く父の刑死するまで読誦せるものなり。汝の生まるると符節を合する如く、突然として父は霊魂を見、神仏を見、此の法華経を誦持するに至れるなり。即ち汝の生れたる時より父の臨終まで読誦せられたる至宝至尊の経典なり。父は只此の法華経のみを汝に残す。父の思ひ出ださるる時、父恋しき時、汝の行路に於て悲しき時、此の経典を前にして、南無妙法蓮華経と念ぜよ。然らば神霊の父、直ちに諸神諸仏に祈願して汝の求むる所を満足をしむべし。
 経典を読誦し解説し得るの時来らば、父が二十余年間為せし如く、読持三昳を以て生店の根本義とせよ。即ち其の生活の如何を問はず、汝の父を見、父と共に活き、而して諸神緒仏の加護の下に在るを得べし。父は汝に何物をも残さず。而も此の無上最尊の宝珠を留むる者なり』

〔北一輝と法華経〕
 北君と法華経とは、生れながらに法縁があったといえる。それに北君が呱々の声をあげたのは、日蓮上人流謫の聖地と言はれる塚原山根本寺の所在地、佐渡の新穂村の母の生家であり、其家には日蓮上人方は日蓮上人が誦持したといふ法華経が、大切に伝へられて居たからである。大輝君が生れたのは大正三年であるが、北君は、大正五年に此の由緒ある法第経を譲り受けて郷里から取り寄せ、爾来死に至るまでの二十余年間を読誦三昧に終始した。大輝君への遺言は、此の秘蔵の法華経の裏に書かれたものである。

〔二つの形見の品〕
 北君は私にも二つの形見の品を遺してくれた。その一つは白の詰襟の夏服で、上海で私との初対面の思ひ出をこめた物である。大正八年の夏のこと、吾々は満川亀太郎君の首唱によりて猶存社を組織し、平賀磯次郎、山田丑太郎、何盛三の諸君を熱心な同志とし、牛込南町に本部を構へて維新運動に心を砕くていた。そして満川君の発議により、当時上海に居た北君を東京に迎て猶存社の同人にしたいと言ふことになり、然らば誰が上海に往くかという段になって、私が其選に当った。

 この事が決ったのは大正八年八月八日であった。八の字が三つ重なるとは甚だ縁起が良いと、満川君は大いに欣び、この芽出度い日付で私を文学士大川周明兄として北に紹介する一書を認めた。そして何盛三君がの愛蔵の書籍を売って、私の旅費として金百円を調達してくれた。かやうにして事が決ったのは八日であったが、事を極めて秘密に附する必要があり、その上旅費も貧弱であったので適当な便船を探すのに骨が折れ、愈々肥前唐津で乗船することになったのは八月十六日であった。

 其船は天光丸という是亦な縁起の良い貨物船で、北海道から鉄道枕木を積載して漢口に向ふ途中、石炭補給のため唐津に寄港するのであった。私は十四日夕刻に唐津に着き、其の時直ちに乗船する筈であったが、稀有の暴風雨のために天光丸の入巻が遅れ物妻い二晩を唐津の宿屋で過ごし、十六日漸く入港して石炭を積み終へた船にのり、まだ風波の収まらぬ海上を西に向って進んだが、揚子江口に近いところで機関に故障が生じ航行が難儀になった。
 本来ならば天光丸は漢口に直行するので、私は揚子江口の呉淞に上陸し、呉淞からは陸路、排日の火の手焔々燃えさかる上海に行くのであったが、機関の故障を修繕するため予定を変更して上海に寄港することになったので、私は大いに助かった。


 そして上陸に際して面倒が起った場合は、船長が私を鉄道枕木の荷主だと証言してくれる手筈であった。私の容貌風采は日本ではとても材木屋の主人としては通すまいが、上海では押通せるだらうと思った。さなきだに船足の遅い天光丸が機関に故障を生じたのだから、殆ど匍うやうにして遡江し、実に二十二日夜に漸く上海に到着した。
 訊問の際に若干でも商人らしく見せようと思って、船中で口髭を落したが、案ずるよりは産むがく、翌二十三日早朝私は何の苦もなく上陸して、一路直ちに有恒路の長田医院に北君を訪ねた。

 北君は長く仮寓していた長田医院を去って、数月以前から仏租界に居を構へて居るとのことだったので直ちに使者をやって北君に医院に来て貰った。そして初対面の挨拶をすまして連立って太場館という旅館にき、その一室で終日語り続け、夜は床を並べて徹宵語り明かし、翌日また仏租界の巷にあった北君の陋居で語り、翌二十五日直ちに長崎に向ふ汽船で上海を去った。
 この二日は私にとりて決して忘れ難い二日であると共に、北君にとりても同様であったことは、後に掲げる北君の手紙を読んで判るし、又、白の詰襟の夏服を形見に遺してくれたことがなによりも雄弁に立証する。 

〔『日本改造法案大綱』〕
 装丁を新にして刊行される『日本改造法案大綱』は、実に私が上海に行く約一ヶ月前から、北君が『国家改造法案原理大綱』の名の下に、言語に絶する著苦悶の間に筆を進めて、私が上海に住ったのは、その巻一より巻七まで脱稿し、巻八、『国家の権利』の執筆に取りかかり、開職の積極的権利を述べて、『註二。印度独立問題ハ来るベキ第二界大戦ノ「サラエヴ」ナリト覚悟スペン。而シテ日本ノ世界的天職ハ当然ニ実力援助トナリテ現ルべシ』と書いて筆を休めた丁度其時であった。

 私は北君がかかる日本改造の具体案の執筆に心魂を打込んで居るとは知らなかったので、日本の国内情勢を述べて乱兆既に歴然であるから、直様日本に帰るやう切願した。北君に乱兆は歴然でも革命の機運は未だ塾しては居らない。 

 但し自分も日本改造の必要を切実に感じて、約一カ前から改造案の大綱を起稿した。参考書は一冊もない。静かな書斎もない。自分は中国の同志と共に第三次次革命を企てたが事は志と違った。日本を憎んで叫び狂ふ群衆の大怒涛の中で、同志の遺児を抱えて地獄の火焔に身を焦がれる思いで筆を進めるのだが、食事は喉を通らず、唯毎日十杯の水を飲んで過ごしてきた。

 時には割れるやうな頭痛に襲われ、岩田富美夫君に鉄腕の痺れるほど叩いて貰ひながら、一ニ行書いては横臥し、六行書いては仰臥して、気息奄々の間に最後の巻八を書き初めた時に、思ひがけなく、君の来訪を受けたのだ。自分は之を天意と信ずるから、欣然君等の招きに応ずる。原稿の稿了も遠くない。脱稿次第直ちに後送するから出来るだけの分を日本に持ちって国柱諸君に頒布して貰ひたい。取敢ず取ず岩田富美夫君を先発として帰国させ、自分も年末までにはを屹度帰国すると言った。

 私は之を聞いて抑へ切れぬ歓喜を覚えた。そして吾々は文字通り肝胆を披歴して忘れ難き八月二十三日の夜を徹した。指折り数うれば茫々三十五年の昔となったが、瞑目願望すれば当夜の情景が鮮明に脳裏に再現する。二人は太陽館の三階の一室に床を並べて横になって居た。猿又一つの北君が仰向けに寝ながら話して居る内に、次第に興奮して身を起こし、坐り直って語り出す。私もまた起き直って耳を傾ける。幾たび寝たり起きたりしたことか。実に語りても語りても話はつきなかった。

 私は一刻も早く、東京の同志に吉報を伝へるため、二十五日朝の船で直ちに帰国の途に就いた。そして北君は私が去ってから三日間で残存の原稿を書き上げ、約束通り岩田富美夫君に下の書翰を添えて東京に持参させた。
            
〔岩田富美夫君 持参の書翰〕
拝啓 今回は大川君海を渡りて御来談下されし事、国家の大事とは申せ、誠に謝する辞もありませぬ。残りの「国家の権利」と云ふ名の下に、日木の方針を原理的に説明したものを送ります。米国上院の批准拒否から、世界大戦の真の結論を求めらるる事など、実に内治と共に外交革命の時機も一時に到来して居ります。
 凡て二十三日の夜半に物語りました天機を捉へて、根本的改造をなすことが、先決問題であり、根本問題であります。大同団結の方針で、国際戦争と同じく一人でも敵に駆り込まざる大量を以って御活動下さい。小生も早く元気を回復して馳せ参ずる決意をして居ります。

八月二十七日 
  大川
  満川 盟 兄 侍 史 


〔『国家改造法案原理大綱』の印刷〕

 この『国家改造法案原理大綱』が満川君を初め吾々の同志を歓喜勇躍させたことは言ふ迄もない。それは独り吾々だけでなく、当時の改造運動にたづさはる人々の総てが切望して止まざりしものは、単なる改造の抽象論に非ず、実にその具体案であったからである。北君の法案は暗中に模索していた人々に初めて明白なる目標を与へたものであった。
 吾々は直ちに之を謄写版に附することにした。岩田君が刷役に当ったが、彼にステロを握らせると豪力無双の当世近藤勇のことであるから、二三枚刷ると原紙が破れて閉口したが、とにかく第一戸分として四十部を刷り上げた。四十七は言ふ迄もなく赤穂義士の人数である。

〔反響〕
 そして主として満川君が人選の任に当り、同君が当代の義士と見込んだ人々に送って其の反響を待った。その最も著しい反響は翌大正九年一月体会明け議会の劈頭に、貴族院議員江木干之が秘密会を要求し、此の書の取搬方に就て府に質間したことであった。そのために改造法案は正式に発売頒布を禁止され満川君は秘密出版の廉で内務大臣から告訴されたが、幸ひに不起訴となった。

 さて北君は約束に従って大正八年暮上海を去って日本に帰り、長崎で大正九年の元旦を迎へ、五日、東京に帰って駒込南町の猶存社に落つくことになった。北君帰国の報は当局を驚かした。それは北君が八十名の部下を動員し、まず東京市内に放火し、次いで全国を動乱に陥人れ陰謀を抱いて帰るといふ途方もないデマが飛ばされたからである。

 上海から尾行の警官が、丹念に長崎警察部に引継ぎを行ひ、尾行は東京まで続けられた。彼等が最も注目したのは、北君が「極秘」と銘打って携行せる信玄袋で、過激文書を詰め込んだものときめ込み、着京と同時に北君諸共押収する予定であったらしい。然るに君が何となく危険を予感して、静岡辺で着て居た中国服を洋服に着換へ、別の車に座席を変へたので、尾行に気付かれずに東京駅で下車することができた。

 そして夜に満川君の家に一泊し翌朝猶存社に移ったのである。

〔『極秘』の信玄袋〕
 さて問題の『極秘』」信玄袋である。北君の言行は、天馬空を往くのであるから、下界の取沙汰は途方もない見当違ひのことが多かったが、この信玄袋程馬鹿々々しい誤解を受けた事も珍しい。北君が此の信玄袋の中に大切に蔵って来たのは、決して極秘の危険文書ではなく、実に三部の妙法蓮華経で、その内特に見事に装丁された一部は、今上陛下即ち当時の摂政官殿下に奉献するため、その他は満川君と私にそれぞれ一部ずつ贈るためのものであった。そして摂政宮殿下には、小笠原長生さんを通じて献上することが出来た。



〔革命の道は法華経の無上道である〕

 大輝君への遺書にある通り、大正三年以来北君は法華経誦持三昧に入り、大正五年五月に配布した『支那革命党及革命之支那』は下の一句を以て結んでいる。ー「宇宙の大道、妙法蓮華経に非ずんば、支那は永遠の暗黒なり、印度終に独立せず、日本亦滅亡せん。国家の正邪を賞罰するは妙法蓮華経八巻なり。法衣剣に杖いて末法の世誰か釈尊を証明する者ぞ』

 北君の革命の道は法華経の無上道である。従って真実の革命家は法第経の行者である。それ故に北君に朝夕法華経を読誦するのみならず、独り居る時には殆ど読経三昧に終始した。本来大音声であったが、それとも多年の鍛錬の結果であったかは確かでないが、躰駆の華奢なるに似合はず読誦の声は声は轟き渡る程大きかった。

 北君の帰京当時、私は新宿駅に近い千駄ヶ谷の家に、フランスの哲人リシャル氏夫婦と同居して居たが、大正九年秋、リシャル氏夫婦は滞留四年の後に印度に向かって日本を去り、私は北鎌倉にある北条泰時の寺常楽寺に引越すことになったので、北君が牛込南町から此家に移って裕存社の本拠とした。
 此家は屋敷が千坪に近い広大な邸宅で門から玄関まで相当距離があったが、北君の読経の声は門外まで響いて聞えたので、未た門を入らずして其の在否を知ることが出来た。


〔革命とは順逆不二の法門なり〕

 北君は『革命とは順逆不二の法門なり。その理論は不立文字なり』と言って居る通り、如何なる主義にも拘泥しなかった。口を開けば直ちに咳唾直ちに珠玉となる弁舌を有ち乍ら、未だ曽て演壇に立たず、筆を執れば百花立ちどころに繚乱たる詞藻を有ち乍ら、全くジャーナリズムの圏外に立ち、専ら猶存社の一室に籠りて読誦三昧を事とし、その諷誦の間に天来の声を聞き、質す者には答へ、問う者には教へて、只管一個半個の説得を事とした。此点にて北君は世の常の改造運動者乃至革命家とは截然として別個の面を有して居た。


〔生い立ち〕
 北君は明治十六年四月十日、新潟県佐渡郡港町の裕福な洒屋の長男として生れ幼少の頃から聡明抜群であった。当時小学校は尋常四ケ年、高等四ケ年であったが、北君は六歳で小学校に入り、尋常小学半ばに眼病のため一年半も休学したにも拘わらず、一学級飛ばせられて高等小学に入り、四ケ年間優等生で卒業した。 

 そしてこの四ケ年の間、通学の例ら漢学塾に通って勉強し、中学に入った頃は立派に漢文で文章が書けるやうになり、その一部は今なお県教育会の参考品として保存されて居るとのことである。其上に高等小学校時代から絵が非常に上手で港町の人々は勿論、数里離れた村々から酒を買いに来る人々まで、一枚五銭で北君の絵を買ひ求め、枕屏や襖に張ったといふことである。
 当時は焼餅一個一匣の時代だから五銭は決して少い金ではない。

 中学に人ってからも成績優秀で、一学年の終りに三学年に飛はきれたが、幼年時代の眼病が再発し、新潟と東京で二年近く病院生活を送り全快はしなかったが一応帰郷して復校した。この入院中に北君は片眠で必死に読書を続け、その思想は急激に成塾した。そのために中学校の学課に対する興味を失ひ、五学年への進級に落第したのを機会に退学した。

 従って中学校学在学期間は正第二年に足らない。そして中学校を退学した年の暮、佐渡新聞に日本国体に関する論文を連載し、十八歳の年が、一朝にして佐渡の思第界を風靡し、佐渡新聞の社長・主筆を初め、佐渡の有識者の多くが、挙って北の所論に共鳴した。併しこの論文は新潟県警察の指金によって連載を中止させられ、北君は多くの歌を詠んで其の鬱憤を漏らした。

 その頃北君は、思想界に飛躍し続けたのみならず、その昂潮せる感情を盛んに詩歌に盛っていた。北君の最も愛好したのは与謝野鉄幹・同晶子夫婦の詩で明星にも数多くの詩歌を投稿した。そして明星に載った北君の『晶子評論』に対しては、鉄幹が感謝と書簡を送ってきた。中学中途退学の十八歳の青年が、思想的に内村鑑三の弟子なりし佐渡新聞社長を傾倒させ、文学的には与謝野鉄幹に推重されたことは、北君の天稟が如何に豊かであるかを語るものである。


〔『国体論及純正社会主義』の刊行〕

 然も北君の名を一挙天下に高からしめたものは『国体論及純正社会主義』の刊行である。この著書は既に佐渡新聞び連載し、不穏思想の故をもって掲載中止を命ぜられた研究論文の完成で、二十三歳の時に筆を執り、半年ならずして脱稿し、二十四歳の春、精確に言へば明治三十九年五月九日の日附で発刊された菊版約千頁の大冊である。

 明治三十八年、北君は上京してく早稲田大学の聴講生となったが、多くの講義に満足せず、谷中清水町に下宿して上野図書館に通ひ詰め、数ヶ月にして二千枚以上の抜粋を作ったほど、精根籠めて勉強した。そして準備なるや、直ちに紙を展べ、疾風迅雷の勢を以って筆を進め、半年ならずして完成し去った。 その驚くべき読書力並びに批判力と共に、まさに絶倫と言ふ外はない。而も北君は恐らく過労りために呼吸器を痛めて吐血病臥するに至ったが、幸ひに幾はくもなくして健康を回復した。これも其の強大なる精神力によるものであらう。

 此の書に対して福田徳三・田嶋錦治・田川大吉郎を始め、多くの知人が賞賛の手紙を北君に送った。福田博士の如きは、日本語は勿論のこと、西洋語に於いての著作中、近来斯くのき快著に接したることなしとし、『一言を以って蔽へとならば、天才の著作と評する尤も妥当なるを覚え申候』と書いて居る。矢野竜渓は、二十四歳で斯やうな著作の出来る筈はない、北輝次郎といふのは幸徳秋水あたりの偽名ではないかと熊々佐渡の原籍地地に照会の手紙を出し、北君が真なる著者であることを知ってから、終生北君に敬意を表し続けた。当時読売新聞に社会主義論を連載して頓に名声を揚げて居た河上肇は、此書を読んで喜びの余り直ちに北君を訪問した。

〔社会主義運動への参加勧誘〕

 当時の社会主義者達は、北君が日露戦争を肯定せるの故をもって、此書に対して意見を公表することを避けたが、幸徳秋水・堺枯川・片山潜などが、屢々牛込喜久井町の寓居に北君を訪ひて、社会主義運動に参加させやうとした。而も一世を驚倒したこの書は発売以後僅に旬日にして朝憲紊乱の廉で発売頒布を禁止された。

 そしてそれが自費出版であったたけ、北君は物心両面に於て大打撃を受けたが、やがてこの書の法規に触れぬ部分だけを分冊して自費出版することとし『純正社会王義の経済学』及び『純正社会主義の哲学』を刊行した。此の時北君は喜久井町から矢来町に居を移して居たが、自分の思想は孔孟の唱へた王道であるとして、その寓居に『孔孟社』という看板を掲げた。

〔出版所を孔孟社と標榜したこと〕
 北君が『純正社会主義』の書籍の出版所を孔孟社と標榜したことは、北君を知る上に於て決して看過してならぬ重要な事実である。北君の社会主義はマルクスの社会主義でなく、二十歳前後に於ては、孔盂の『王道』の近代的表現であり、後に法華経に帰依するようになってからは、釈尊の『無上道』の近代的表現であるに外ならない。さればこそ、北君は、一切の熱心なる誘致を斥け、君の謂はゆる『直訳社会主義者』と行動を共にせず、中国革命の援助を目的として、菅野長知・清藤幸七郎・宮崎寅蔵・和田三郎・池享吉等が相結んで居た『革命論社』の同人となった。

〔袁孫妥協は成立、第二革命の挫折〕
 そしてこれが機縁となって当時つぎつぎに日本に亡命し来れる孫文・黄興・張継・宋教仁・章炳麟・張群などと相識り、明治四十二年その二十九歳の時、武漢に革命の烽火上がるや、宋教仁の召電に応じて直ちに上海に赴いた。この革命は清朝を倒すことには成功したけれど、結局袁世凱をして名を成さしめるに終わった。

 北君は袁孫妥協による革命の不徹底を憤り、宋教仁と謀りて討袁軍の組織に着手したが、日本政府の方針によって袁孫妥協は成立し、宋教仁は暗殺されて所謂第二革命は中途で挫折した。そして北君は、帝国総領事から三年間支那在留禁止の処分を受け、大正二年、その三十二歳の時に帰国した。





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