年三回の墓参は、四国南西部の河口の街まで長距離バスで往復する、ちょっとした小旅行である。
朝早く出発して、帰宅するのは、とっぷり日の暮れた一日仕事。
河に面した急傾斜の菩提寺の墓所。
御先祖様の墓所二箇所と父母の墓、合わせて12基の菩提を弔う。
本堂の別仏壇も在るけれど、こちらはお寺の方で管理してくれている。
先祖供養の墓守が、残された私の仕事と観念している(笑)
それも後、何年続けられるか?
バスを降りて渡る橋が、彼岸への渡渉に思えてくる。
そして帰路、バスの車窓から望む宇和海に沈む夕陽が、西方浄土の光なのだろうか?
年三度の先祖供養の慰霊の旅を続けてきて、
我々、日本人にとって死者を弔う慰霊とは何か?
未曾有の死を目撃した3.11 の流れから、色々考えさせられる。
死者に対する「慰霊」というと、今上天皇の慰霊の旅には、只々頭が下がる。
戦後、初めての象徴天皇として何をすべきか?という相当の葛藤があられたのだと御推察する。
現人神であった昭和天皇には為し得なかった、
沖縄を始め、遠く南洋や東南アジアの地に斃れた戦没者を慰霊する旅は、まさに今上天皇に課せられた使命だろう。
そして東日本大震災を始め、被災した現地に赴き、膝を折って被災者に寄り添う姿勢にも。
その膝を折る御姿を真似て「これだよ」と嘲笑する現職総理の性根の卑しさとは雲泥の差だろう。
また最近、読んだ本の中から引用したい。
加藤典洋が「戦争を読む」とういう短いエッセー集に寄せた文章を引く。
この文章の中で70数年前、柳田國男が考えたことを紹介する。
柳田は、烈しい空襲が続く東京で夥しい死者を目の当たりにしながら、
死者を弔うとは何か?と考え続けた。
とりわけ「南の海などで非業の死をとげている若者の魂は、どうなるだろう」と。
日本人は、ずっと死んだ人間は故郷の地に集まり、
そこから生きている者を見守り、
やがて子孫から敬われ、弔われることで、すべての祖先の霊と合体してゆくと、考えてきた。
だが、戦争による夥しい死の中で、
子孫をつくることなく、異国で亡くなった魂はどうなるのか?
そして柳田は、日本人固有の死生観に基づき、
「国に残った縁あるもっと若い人たちが、海の藻屑になったり、ジャングルの奥で野ざらしになった
死者の養子になることで、彼らを先祖にし、その子孫となり、彼らを敬い、弔うようにしてはどうか」
という破天荒な政策を提案した、と加藤典洋は指摘している。
その柳田國男の書、「先祖の話」の中には、
静かな文章の底に、戦争の災禍を前にした柳田の怒りと慟哭が流れているのを感じる。
柳田は戦争の死者を、ひとりひとりの個人がつくる「家」が弔う、
という形を提唱することで、「国家」が弔う、という靖国の在り方を、最も深いところで批判している。
「戦争の死者」が戻りたかったのは、靖国ではなく、彼らの故郷や家族のもとのはずだったからだ。
同時に今、柳田を読めば、もっと別の視点を得ることができる、とも思った。
柳田が憂えたのは、人々が、かつては我が手で行ってきた「慰霊」を、
国家という「外部」に任せてしまったこと、すなわち、慰霊の「外注」だったのかもしれない。
だが、私たちはみんな、少しずつ「家事」も「教育」も、「外注」するようになったのだ。
そのことによって、確かに私たちは自由になった。
その結果、得たものは、何だったのだろう?
三浦半島の山桜は早いですね。
私も以前、野福峠から始まる宇和海沿いの山桜巡りをしました。
三浦半島と由良半島の山肌を染める桜模様は印象的でした。
南予の春風景は、穏やかな浄土の風景だと思います。
帰郷して父母の最期を看取らなければ、ここまで先祖供養に関わることもなかったと思います。
震災前年に相次いで父母を見送り、翌年、後悔の遍路供養をすることで、
その人を育てた土地の意味を理解するようになりました。
仏教であろうと神道であろうと、日本人の信仰心の根っこにあるのは、
土地と共に育んだ血脈の信仰なのでしょうね。
さぁ間もなく、日本全国を桃源郷に変える桜の季節到来ですね。
ただ、それも忘れ去られていく風習になっていくのかもしれません。
3.11のとき、位牌だけはと持ち出すときに災難に遭った方も居たとか。
それだけ先祖を大事にしてきたのでしょう。
しかし、最近は高齢化と多様な埋葬形式になり、昔ながらの風習は・・・
モノクロームにお参りの心がよく出ています。
カラーに変わった岩松川、夕陽の景色・・・
結びの言葉が印象的です。