Tosh!'s Blog

ただ生きるな善く生きよ(ソクラテス)

孤独にメスを

2012-05-22 03:55:27 | うつ


愛なら此処にあるじゃない
通り越して何処を見ているの?
決まった言い訳がまた 幸せから手を引いているよ
愛なんて誰の胸にも
記憶して 刻まれているよ
私がきみの孤独に メスを入れてあげるよ 今から
孤独に メスを入れてあげるよ...
紅月ノリコ「孤独にメスを」より

写真は「ハリエンジュ(針槐)」、「ニセアカシア」とも云い、マメ科の落葉高木樹。

先週は眠れぬ日々が続き、意識も朦朧としていました。例え、短時間でも熟睡出来れば一旦は意識が途切れるので、途切れた前後で昨日今日の認識が簡単に得られます。1日に何度か熟睡しても、今日が何日で何曜日か少々混乱を来しますが、比較的簡単に現状認識は可能です。が、眠れずに意識が途切れず何日も意識が連続し、意識が朦朧とすると今日が何日で何曜日か確認しても、それが本当の認識か幻想か混乱した侭で、正常な認識が出来ずに見ている物さえ信用出来ない状況になります。

或る意味、私は違法ドラッグを使用した経験など有りませんが、そう云う覚せい剤等で幻想に支配されるのが何となく理解出来ます。恐らく、薬物に依る幻想と私が経験する幻想は或る意味似ている物と想像は出来ますが、前者は悦楽を、後者は混沌と云う苦痛が伴う意味では似て非なる物です。故に、後者では依存など有りません。

結果には原因があるものですが、原因は単一ではありません。単一の原因で結果が生まれるなど、世の中そんなに単純なものではありません。私が「うつ」になったのも、様々な複合的原因が齎した結果です。私が「うつ」を治す意味でも、治癒した後に再発しない様にする為にも、その複合的な原因の幾つもの原因に対して対策を講じなければ、また、その経緯を認識して於かなければなりませんが、その前に、結果を見誤ると、其処に至ったプロセスを間違ったプロセスに見誤る可能性があります。

「うつ」を理解しようと私也に勉強して来ましたが、その大前提が「うつ」は「病気」である事。最近になって、その前提が間違いでないかと疑う様になって来ました。生理的になるべくしてなった結果であると捉えると今の私には自然な事で、ウィルスが体内に入った事に依る発熱も自然な事で、其処で解熱剤を使う事自体ウィルスを逆に増殖してしまう訳で、発熱でウィルスを殺す自然な反応を「病気」として捉えるから発熱は通常と違うから「病気」とする様なもの。

「病気」だから「薬」で治す。と、安易に考えては治るものも治らないのだと、幾つもの症例で体験していましたから、昔から少し医療に対して少し疑念を持って居りました。更には、自然治癒していたと云う症例も幾度となく体験しています。

今では笑い話の類いですが、20代の頃高熱が続いて、病院に行くと診察の後「今晩泊まりなさい」と云われたので、今晩だけならと気軽に応じたのですが翌日になっても帰して貰えず、インフォームドコンセントもなく、看護師に「何時帰れるの?」と聞いても「熱が下がらないと帰れません」と云われるばかり。訳も判らず、検査だと称して「髄液検査」をされ、腰に太い注射を刺して髄液を抜かれるのですから痛いのなんの。その結果も教えて貰えず、その後、職場の上司が2人見舞いに来ました。退院時にも一悶着あったのですが、職場復帰した後に見舞いに来てくれた上司から聞かされて驚きました。私が「余命僅か」だと医師に聞かされたから見舞いに来られたのだそうで。入院時、点滴も投薬もなく、自然に熱が下がるのを待って退院したのですから、「余命僅か」が本当なら、何らかの処置をしたでしょう。しないのかなぁ?だから、私がその上司に言ったのは「(同室の)隣の患者と間違ったんじゃないの?」

20代の頃は、他にも「狭心症」「心外膜炎」等、心臓疾患も診断されましたが、何れも自然治癒です。と云うよりも、本当に病気だったのか?と云う疑念が拭いきれないのです。狭心症の発作時の薬として「ニトログリセリン」を処方されていました。

さて、体験していますと云っても、それが症例だと云っても、診断が正しかったのかと考えると、医師が誤診していたかもしれず、そうだとしたら体験も誤診の体験、症例もたいした症例ではありません。私のカルテを総合すると、今の年齢まで生きて来た事も奇跡の様にさえ思えて来ます。実際の処、そう云ったあまり聞き慣れない珍しい診断名を聞いても実感はありませんでした。

ついでに記しますと、「心外膜炎」と診断したのは、或る会社の診療所の所長さん。心電図やエコーの結果での診断でした。次回診察時は、外部大学病院の医師で、診察時に一連の問診で私が「心外膜炎」と口にした途端、茹で蛸の如く顔を赤くして「そんな病気は○万分の1しかないんだ!」と怒り始めたのです。恐らく「心内膜炎」と聞き間違えたのでしょうが、たとえ○万分の1だとしても、その1人が目の前にいる可能性を統計学で否定するなんて医師とは思えませんでした。私は顔色変える事なく内心「お前は統計学者か!」と思いつつ、それを診断したのは私ではなく、医師である診療所の所長さんですよと、怒りを私にぶつけるのは筋違いでしょと医師に言いましたよ。

或る意味、巡り合わせが悪いと云うか、あまり信頼出来る医師に当たった事がないので、医師の言う事もあまり信じてはいません。「早期発見、早期治療」と云いますが、私は若い頃から高血圧で、会社の定期検診で必ず「あら、高いわねぇ。もう一度計りましょう」と血圧測定は毎回2回計られて、それでも医師からは「若いから大丈夫」と無視され続けられて来て、この歳になって医師の方からリスクが高いからと薬を処方される様になってしまいました。私にしてみれば何を今更なのですが、私の健康を気遣ってくれる医師を無碍にする事は出来ませんから従ってはいます。副作用が出れば勿論止めますけれど。

兎角、医者は標準値にしようとしますが、人の心・精神も身体的にも千差万別です。リスクを否定しませんが、血圧が高い事も、反対に低い事も、その人也の生理的メカニズムに於いては正常なのかもしれないと云う考え方は成り立たないのでしょうか。

人の寿命が機械的に決まっていて、その寿命に足りないから治療するしないの判断なら何となく判る気もするのですが、寿命と云う観点からすると医療によってそれを出来るだけ長くが果たして正しいのかな?と考えると自然の摂理に反する気がするのです。まぁ、それよりも社会生活に支障を来す事は、廻りの人にも迷惑を掛ける事になるので、社会生活を滞りなく過ごす為の医療だと捉えた方が良いのでしょうね。

話が廻り諄くなりましたが、「うつ」は身体的な自然なメカニズムで、実際にその治療薬は「対処療法」でしかなく、原因を治すものではないので、服薬で治すものではありません。「うつ」に至るプロセスを把握して、同じ轍を踏まない様にしないと再発するのだと思います。そこで、今までの思考パターンと変える必要があるのだと思うのです。「自尊心」の無さに気付いた時、大きく私の体調も心理的負担も減りました。が、また「うつ」の波に飲まれてしまいました。と云う事は、まだ、思考プロセスの改革が必要で、「病気」と云う概念を疑っている処です。

( ´ー`)yー-~

「先生、僕の病状はどうでしょうか?」
「ええ、だいぶ良いですよ」
「以前より良くなっていますか!」
「いえ、明日よりです」