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Tosh!'s Blog

ただ生きるな善く生きよ(ソクラテス)

覚悟の恋

2011-07-31 12:58:57 | 人生

楽な生きかたしろと 世間はささやくけど
損しても あんたらしく 生き抜いて...

やしきたかじん「覚悟の恋」より...

抜粋した歌詞に「覚悟」と云う言葉は出ていないけれど、共感出来る部分を拾ってみた。

死ぬ気で惚れたなら 覚悟の恋
地球(ほし)の果てまでついてく
だけどもし 私を裏切ったら 怖いからね...

恋とは一方的な想いであり、「裏切ったら恐いからね」とは現代じゃストーカー扱いされるね。作詞は「及川眼子(おいかわねこ)」で、彼女のプロフィールには「自分で自分を決めないというのがモットー。つまり、いい加減に生きてるってこと」と記されている。

他所様の人生に文句をつける理由はないけれども、「愛」を理解したならばより良い人生を送れるのにと、よく「愛とは...」と語り、Blogのサブタイトルにソクラテスの言葉を引用している様に「善く生きよ」に通づると、私の信念に組み込まれている。

「愛」と云う言葉を恋愛事としか捉えていないのは間違いであり、簡単に言うと見返りを求めない相手を思いやる情である。小さな子供が転んだら起き上がらせて泣くのを慰めてあげる。これも立派な「愛」である。

私は無信心で無信奉であると先のエントリでも記している。故に、輪廻転生も信じていなく、「死」も元々地球上に存在する分子の集合体である生命体が、また分子に分解されるだけの事。「魂」なる言葉も心・精神と霊魂の意味を持つけれど、霊魂は否定する。心・精神は思考であり、それは他所様にも受け継がれるだろうが、霊魂と云う言葉の肉体とは別の非物質的な存在と云う意味に於いては否定する。

父方の伯父の家に泊まった朝、瞼を開いたが辺りは真っ暗で、ふと右横に目をやると祖母らしきお婆さんが正座している姿を闇の中で見た。何か語りかけている様だが聞き取れない。1分程だろうか、闇が消え襖が目に入ってきた。霊魂を信ずる人はそれに意味合いを持たせるのだろうが、私は白昼夢だと捉える。目を持つ生命は眼球を通しているが、それをイメージするのは脳である。視覚を含め五感(又は六感)を通しての脳の働きに依るものである。

私は父を亡くしたのが中学校1年生の時。訃報を母が受け早朝起こされて病院に駆けつけた時は霊安室だった。先に親戚が居り皆泣いていたが、私は泣かなかった。親戚に「泣きなさい、何故泣かない」と言われた事は今でも憶えているし、血色のない父の顔も憶えている。通夜を迎える前の晩、父の横で寝た。葬儀を終えてからもう帰って来ない存在に気づき泣き出した。

「覚悟」とは、運命の日である私の「死」に付いての事である。死ぬ事に関して恐いと思わない。「死」に直面した人の恐怖心は私にも良く理解出来るし、それが生命の本能である。死ぬ事が恐くないとは本能に矛盾する様に思えるが、そうでは無い。自ら死を欲している訳でなく、運命の日を受け入れる「覚悟」が出来ていると云う事である。長生きしたいと思っていても、明日事故で死を迎えるかもしれない。数年前、火災の煙に巻かれ、睡眠導入剤を服用していたのに目が覚め、生かされている。故に、死ばかりは運命に身を委ねるしかないからこそ、受け入れる「覚悟」を決めているのである。

父は悪性リンパ腫だった。リンパ腫には良性など無いので日本では明示的に悪性としている。亡くなった後に、親戚の京大付属病院(父の入院先)の医師から聞かされたが、「余命3年だったが5年もった、頑張りました」と。治療も病も苦痛だったに違いないが、父はそれを口に出さなかった。酸素マスクをして寝ている父の側に腰掛けて、私も声を掛けず見守っていたら父の腕が動き、差し出した手を優しく握った。薄目を開け私を見つめた父に「後は宜しく頼む」と言われた気がした。

私に取っては父は大きな存在であり、父の生き様を背中越しに見てきた私は父の「魂」を受け継がなくてはならない。父と手を握った時に死を受け入れる「覚悟」を教わった。

冒頭の歌詞「楽な生きかたしろ」とは、精神科医にも言われた。然し、父の「魂」を受け継いだ私には信念を曲げられない。父の享年を過ぎた私は未だ父を越えていない。苦痛や苦悶に満ちた人生であろうと、嫌いな言葉だが「苦労」をしなければ人間性の成長は有り得ない。「苦労」なる言葉は自分が使う言葉では無く、他所様の価値観で測る言葉だと思う。故に、私自身は「壁を乗りこえる」と云う言葉を使う。

何事も「覚悟」を決めれば前に進める。