昭和の恋物語り

小説をメインに、時折よもやま話と旅行報告をしていきます。

水たまりの中の青空 ~第二部~ (二百六十七)

2022-10-04 08:00:37 | 物語り

「お帰りなさい、女将さん。ああ、お客さまですか?」
 玄関先を掃除中の老人が、手を止めて女将を見る。
「治平さん、ただいま。旦那さまがね、この雨に駅舎で立ち往生なさっておいでだったの。
でも、恵みの雨でした。こうしてお客さまになっていただけたのだから」
 奥から手ぬぐいを持って、若い仲居がドタドタと走ってきた。
「これこれ、おたまちゃん。そんな走ってはいけませんよ。
申し訳ありません、躾がなっておりませんで。
「うん、なになに。若いんだ、仕方ないですよ」
 口ではそう言いつつも、心内では宿選びに失敗したかと舌打ちした。
“どうする? 引き返すか? ここで上がってしまえば、戻れないぞ”
逡巡のきもち湧きははしたが、ぬいのえりあしの色香が思い出された。

 若い仲居が、ぼーっと立ちすくんでしまった。
この地ではなかなかに出会うことのない美男子の武蔵だ。
ぬいの目にも、それは同じだ。しかも上客だ。
仕事関連とあれば、連泊になるに違いない。何としても常連客にしたいと考えている。
色気で釣るつもりはないけれども、表情が柔らかくなるのは当たり前だ。
つい、艶めかしい目つきで、武蔵を見てしまう。
熱海の女将とは違った雰囲気をかもし出している女将のぬいに、武蔵の虫がざわざわとさわぎ始めた。
しかし何といっても、新婚だ。いかな武蔵でも、しばらくは大人しくしていようと思っている。

“しかしだ。女の方から言い寄ってくれば、そいつは別だな。
据え膳食わぬは、男の恥だ。女に恥をかかせるわけにはいかんぞ”などと、勝手なことを思いめぐらせている。
部屋に落ち着いた武蔵。心づけを仲居に渡しながら、早速に声をかけた。
「女将さんは忙しいだろうかな? 手が空いていれば、来てもらいたいんだが」
「まあ、こんなにも。ありがとうございます。
女将さんですね? すぐにも来させますので、少々お待ちください。
他に何かご用がありましたら、お声をおかけください。
何はおいても、馳せ参じますので。」と、満面に笑みを浮かべている。

 女将の情夫かとぞんざいな態度を見せていたが、心づけを手にした途端に豹変する仲居だ。
“ふっ、現金な女だ。ま、田舎女なんてこんなものだろうさ。
しかし好きだぜ、俺は。正直で良いや。女は賢くなくても良いのさ、色香もいらねえ。
男が女に求めるものは、何といっても安らぎだ。ほっとできる時間を作ってくれる女がいい。
外に女を囲うのは、一にも二にも、その為だわさ。
女房には求められねえアホさ加減を、男は求めるんだから。
といって、そんな女を女房にはできない。対外的にまずい。
妻を娶らば才たけて、見目麗しく情けあれ、だ”と、ひとりにやつく武蔵だ。



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