17時30分より(これも時間予約されていた)自然史博物館の屋上からウィーンの街を見ることができた。
美術史博物館とマリア・テレジア像。
そして18時30分からはこの旅行最後のディナー。
オーストリア風ワイン居酒屋・ホイリゲにて、60分間ワイン飲み放題だという。
ワイン好きの方ならば嬉しいかな?
食事はやはりあまり口に合わず。
毎日、朝食のハムとチーズと野菜でお腹いっぱいにしていたので、ひもじい思いはしなかった
「ホイリゲ」
オーストリアの東部に見られるワイン酒場。作り酒屋が自家製ワインを売るというのが建前なので、ビールなどはなく料理も簡単な家庭料理をセルフサービス方式でたのむところが多い。
ホイリゲという名称は商標登録していないことで、近年は自家製ワインを出さないホイリゲ風レストランが、ホイリゲと名乗って観光客目当てに営業を行うケースが増加している。
自家製ワインを出し簡単な料理しか出さない居酒屋を
、「ブッシェンシャンク」という。
観光地として有名なグリンツィング(地名)には「ブッシェンシャンク」はもうほとんど残っていない。
さて私たちは何というお店に連れて行かれたのでしょう?
ホイリゲだったのか、ブッシェンシャンクだったのか?
でも素敵にしてありましたよ。
みなさん、最後とあって大いにはしゃぎ大いに飲み?とにかく最後にふさわしい夜になったことには違いありません
翌朝は近くに位置する飛行場・シュウェヒャト空港(ウイーン国際空港)に行くだけなので
10時30分 ホテル出発。
ホテルの室内にさりげなくあったサボテンを!
朝食前の散歩でホテル前を!
これでやっと旅行の記録が終わった
旅行前、ガイドブックで勉強することも購入することもなく、前日になって準備をするような
始末だから、この記録は大変 ネットのおかげ
あちこちのサイトのお世話になりました
こんなに苦労しても、じき忘れてしまうのは目に見えてる
美術史博物館とマリア・テレジア像。
そして18時30分からはこの旅行最後のディナー。
オーストリア風ワイン居酒屋・ホイリゲにて、60分間ワイン飲み放題だという。
ワイン好きの方ならば嬉しいかな?
食事はやはりあまり口に合わず。
毎日、朝食のハムとチーズと野菜でお腹いっぱいにしていたので、ひもじい思いはしなかった
「ホイリゲ」
オーストリアの東部に見られるワイン酒場。作り酒屋が自家製ワインを売るというのが建前なので、ビールなどはなく料理も簡単な家庭料理をセルフサービス方式でたのむところが多い。
ホイリゲという名称は商標登録していないことで、近年は自家製ワインを出さないホイリゲ風レストランが、ホイリゲと名乗って観光客目当てに営業を行うケースが増加している。
自家製ワインを出し簡単な料理しか出さない居酒屋を
、「ブッシェンシャンク」という。
観光地として有名なグリンツィング(地名)には「ブッシェンシャンク」はもうほとんど残っていない。
さて私たちは何というお店に連れて行かれたのでしょう?
ホイリゲだったのか、ブッシェンシャンクだったのか?
でも素敵にしてありましたよ。
みなさん、最後とあって大いにはしゃぎ大いに飲み?とにかく最後にふさわしい夜になったことには違いありません
翌朝は近くに位置する飛行場・シュウェヒャト空港(ウイーン国際空港)に行くだけなので
10時30分 ホテル出発。
ホテルの室内にさりげなくあったサボテンを!
朝食前の散歩でホテル前を!
これでやっと旅行の記録が終わった
旅行前、ガイドブックで勉強することも購入することもなく、前日になって準備をするような
始末だから、この記録は大変 ネットのおかげ
あちこちのサイトのお世話になりました
こんなに苦労しても、じき忘れてしまうのは目に見えてる
美術史美術館の鑑賞後は、お茶するため(オプションに含まれている)徒歩でデーメルに向かった。
途中の景色。
王宮
マリア・テレジアが庭で遊ぶ子供たちを見守るために造らせたバルコニー。
遠くに目をやれば市庁舎。
ミヒャエル広場前
コールマルクト通りにあるカフェ・デーメルに到着。
2階に案内され、途中キッチンが目に入ったので階段からパチリ!
さてケーキのザッハトルテって有名だと皆さんご存じで、ちっとも知らなかったのは私ばかり
女性ならば皆ケーキはお好き!私はそれほど執着しない。それでも若かりし頃は美味しいと云われるケーキを追いかけていたこともあったかな?
このザッハトルテは美味しいことで有名ではあるが、裁判になったことが超有名になったのでは!?
ザッハホテルが財政難に陥った際、ウィーンの王室御用達のケーキ店「デメル」が援助を申し入れた。そこで、ザッハの息子とデメルの娘が結婚、援助の代わりに秘伝だったザッハトルテのレシピがデメルに流れたと云われている。
二人が他界後、ホテル側がザッハトルテの商標をめぐる訴訟を起こし、7年間の裁判の末、ホテルザッハのものは、「オリジナルのザッハトルテ」
デメルのものは「デメルのザッハトルテ」と呼ぶことで、和解したのだという。
私はフルーツケーキを、娘がそのザッハトルテを注文。
少しお味見をさせてもらったが、パサパサ感があった。自由行動した人がオリジナルのものを食べてきたというので感想を聞いたところ、しっとりして美味しかったとのこと。
途中の景色。
王宮
マリア・テレジアが庭で遊ぶ子供たちを見守るために造らせたバルコニー。
遠くに目をやれば市庁舎。
ミヒャエル広場前
コールマルクト通りにあるカフェ・デーメルに到着。
2階に案内され、途中キッチンが目に入ったので階段からパチリ!
さてケーキのザッハトルテって有名だと皆さんご存じで、ちっとも知らなかったのは私ばかり
女性ならば皆ケーキはお好き!私はそれほど執着しない。それでも若かりし頃は美味しいと云われるケーキを追いかけていたこともあったかな?
このザッハトルテは美味しいことで有名ではあるが、裁判になったことが超有名になったのでは!?
ザッハホテルが財政難に陥った際、ウィーンの王室御用達のケーキ店「デメル」が援助を申し入れた。そこで、ザッハの息子とデメルの娘が結婚、援助の代わりに秘伝だったザッハトルテのレシピがデメルに流れたと云われている。
二人が他界後、ホテル側がザッハトルテの商標をめぐる訴訟を起こし、7年間の裁判の末、ホテルザッハのものは、「オリジナルのザッハトルテ」
デメルのものは「デメルのザッハトルテ」と呼ぶことで、和解したのだという。
私はフルーツケーキを、娘がそのザッハトルテを注文。
少しお味見をさせてもらったが、パサパサ感があった。自由行動した人がオリジナルのものを食べてきたというので感想を聞いたところ、しっとりして美味しかったとのこと。
シュテファン寺院
一部修復中?にて資料からの映像。実は入国日の夜はしっかと見たけど、暗くてよくわからなかった。この日は車窓からチラッと見たような!? いやいや自然史博物館の屋上から見たはず
夜のシュテファン寺院。
ハプスブルグ家の歴代君主の墓所で、ゴシック様式、内部はバロック様式。
オ-ストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がか
りで南塔が完成、107mの高さを持ち教会の塔としては世界で3番目の高さがある。
モーツァルトとその妻コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂でもある。
地下室(カタコンペ)には、1679年ペストで亡くなった人々(ヨーロッパでは約15万
人)約2000人の遺骨とウィーンの司教、ハプスブルグ家の心臓以外の内臓が保管されて
いる。
食事について
完全に和食党の私は特に旅行では食事には全く期待していない。
しかし、15日ブダペストでのランチ・グヤーシュ(ハンガリー風スープ)と、今日のランチ・ウィーン風カツレツは美味しくいただいた。完食~
カツレツが美味しくいただけるなんて自分でもびっくり
美術史博物館 (ランチ後、オプションツアー)
ハプスブルグ家がヨーロッパ各地より収集した美術品を展示。ヨーロッパ三大美術館の一つといわれている?
ルーブル(フランス)、プラド(スペイン)、ナショナルギャラリー(イギリス)、ウフィッツィ(イタリア)、ヴァチカン(イタリア)、アムステルダム国立美術館(オランダ)の中で三大???
ま!知識のない私個人の疑問はさておいて
美術史美術館はマリア・テレジア広場を挟んで向かい合わせに建つ自然史博物館にそっくりな建物である。
こちらが自然史博物館 マリア・テレジアの向きが違ってくる位置関係。
入った正面 中央階段とテセウス群像(カノーヴァ)
反対方向から 天井画はルネサンス賛歌(ムンカーチ・ミハーイ)
アーチと柱の間にはクリムト兄弟の壁画。
吹き抜けの喫茶スペースになっている二階大ホール。ここも後ろ髪引かれる思いで断念
なんと 歴史ある絵画の撮影可!!ただしフラッシュ禁止。(当然)
ガイドさんの説明の中からほんの一部を掲載。
オランダ美術
フェルメール 「画家のアトリエ」
ルーベンス 「イルデフォンゾの祭壇画」
レンブラント 「小さな自画像」
初期ネーデルランド美術
ブリューゲル 「雪中の狩人(冬)」
ブリューゲル 「バベルの塔」
スペイン美術
ベラスケス 「マルガリータ・テレサ」
当時まだカメラがない時代なので、お見合い写真代わりにも幼い頃から成長段階別に何枚も描かれた肖像画がある。
イタリア美術
ラファエロ 「草原の聖母」
ドイツルネサンス
デューラー 「梨を持つ幼児キリストを抱く聖母」
以上、美術史美術館内の写真を撮るには撮ったが、美しさを考慮し、すべて資料からの映像を掲載させて頂いた。
最後に館内には正式に認められて、絵画の模写をしている女性がいらした。
とてもいいピーアールにもなるし、粋を感じた。
一部修復中?にて資料からの映像。実は入国日の夜はしっかと見たけど、暗くてよくわからなかった。この日は車窓からチラッと見たような!? いやいや自然史博物館の屋上から見たはず
夜のシュテファン寺院。
ハプスブルグ家の歴代君主の墓所で、ゴシック様式、内部はバロック様式。
オ-ストリア公ルドルフ4世の命によって建造されたこの聖堂は、1359年に65年がか
りで南塔が完成、107mの高さを持ち教会の塔としては世界で3番目の高さがある。
モーツァルトとその妻コンスタンツェの結婚式と葬儀が行われた聖堂でもある。
地下室(カタコンペ)には、1679年ペストで亡くなった人々(ヨーロッパでは約15万
人)約2000人の遺骨とウィーンの司教、ハプスブルグ家の心臓以外の内臓が保管されて
いる。
食事について
完全に和食党の私は特に旅行では食事には全く期待していない。
しかし、15日ブダペストでのランチ・グヤーシュ(ハンガリー風スープ)と、今日のランチ・ウィーン風カツレツは美味しくいただいた。完食~
カツレツが美味しくいただけるなんて自分でもびっくり
美術史博物館 (ランチ後、オプションツアー)
ハプスブルグ家がヨーロッパ各地より収集した美術品を展示。ヨーロッパ三大美術館の一つといわれている?
ルーブル(フランス)、プラド(スペイン)、ナショナルギャラリー(イギリス)、ウフィッツィ(イタリア)、ヴァチカン(イタリア)、アムステルダム国立美術館(オランダ)の中で三大???
ま!知識のない私個人の疑問はさておいて
美術史美術館はマリア・テレジア広場を挟んで向かい合わせに建つ自然史博物館にそっくりな建物である。
こちらが自然史博物館 マリア・テレジアの向きが違ってくる位置関係。
入った正面 中央階段とテセウス群像(カノーヴァ)
反対方向から 天井画はルネサンス賛歌(ムンカーチ・ミハーイ)
アーチと柱の間にはクリムト兄弟の壁画。
吹き抜けの喫茶スペースになっている二階大ホール。ここも後ろ髪引かれる思いで断念
なんと 歴史ある絵画の撮影可!!ただしフラッシュ禁止。(当然)
ガイドさんの説明の中からほんの一部を掲載。
オランダ美術
フェルメール 「画家のアトリエ」
ルーベンス 「イルデフォンゾの祭壇画」
レンブラント 「小さな自画像」
初期ネーデルランド美術
ブリューゲル 「雪中の狩人(冬)」
ブリューゲル 「バベルの塔」
スペイン美術
ベラスケス 「マルガリータ・テレサ」
当時まだカメラがない時代なので、お見合い写真代わりにも幼い頃から成長段階別に何枚も描かれた肖像画がある。
イタリア美術
ラファエロ 「草原の聖母」
ドイツルネサンス
デューラー 「梨を持つ幼児キリストを抱く聖母」
以上、美術史美術館内の写真を撮るには撮ったが、美しさを考慮し、すべて資料からの映像を掲載させて頂いた。
最後に館内には正式に認められて、絵画の模写をしている女性がいらした。
とてもいいピーアールにもなるし、粋を感じた。
9月16日、このツアー最後の観光日。
シェーンブルン宮殿
正面全体像、資料から。
ここにも馬車が
9時18分の予約だとか(団体は予約が必要なのね!!それにしても分刻みの予
約時間だこと)
ウィーンの森に接して建つシェーンブルン宮殿は歴代ハプスブルグ皇帝の栄華を今に伝える
バロック様式の宮殿。
1695年 レオポルド一世が夏の離宮として建てたこの宮殿は激動のヨーロッパ史の舞台
となった。
「会議は踊る」で有名なウィーン会議もここで開かれた。(パーティーだけで終わったよう
だけど)
1740年、23歳の若さで即位したマリア・テレジアは、ピンクの壁をイエローに塗り替
え内装はロココ様式にする等増改築がおこなわれた。そして強靭な精神力と巧みな政治手腕
で帝国に繁栄と安定をもたらした。
マリア・テレジア
当時の王族としては奇跡にも近い恋愛結婚だった。16人の子供をなし、1765年夫・フランツ死去後15年間の生涯を喪服だけで生活したといわれている。
マリア・テレジア女帝や、エリザベート皇后(シシィ)の暮らした豪華な部屋の数々が見学
コースとして公開されている。(撮影不可)
大広間、資料からの映像。現在、半分の天井画は修復中で模造写真でカバーされていた。
庭園
ランタナが!!(北海道に近い緯度に位置するここに?)
噴水の向こう小高い丘にある建物は、グロリエッテといいここではマレア・テレジアが好んで朝食をとっていた。現在はカフェとして開放されている。残念ながらここでお茶する時間など全くなかった。
グロリエッテ
コロネード(列柱回廊)として1775年に建造。凱旋門を思わせる中央部
はマリア・テレジア女帝が世を去る前、ガラス張りとなった。
上部には帝国を象徴する巨大な鷲が、地球の上に立って翼を広げている。両翼の階段部分に
は豪華なトロフィーが配されている。
欄干を取り付けた平らな屋根は、すでに19世紀から展望台として利用されていた。
以上、世界最古の動物園を含め、すべてがユネスコの世界文化遺産に指定されている。
シェーンブルン宮殿
正面全体像、資料から。
ここにも馬車が
9時18分の予約だとか(団体は予約が必要なのね!!それにしても分刻みの予
約時間だこと)
ウィーンの森に接して建つシェーンブルン宮殿は歴代ハプスブルグ皇帝の栄華を今に伝える
バロック様式の宮殿。
1695年 レオポルド一世が夏の離宮として建てたこの宮殿は激動のヨーロッパ史の舞台
となった。
「会議は踊る」で有名なウィーン会議もここで開かれた。(パーティーだけで終わったよう
だけど)
1740年、23歳の若さで即位したマリア・テレジアは、ピンクの壁をイエローに塗り替
え内装はロココ様式にする等増改築がおこなわれた。そして強靭な精神力と巧みな政治手腕
で帝国に繁栄と安定をもたらした。
マリア・テレジア
当時の王族としては奇跡にも近い恋愛結婚だった。16人の子供をなし、1765年夫・フランツ死去後15年間の生涯を喪服だけで生活したといわれている。
マリア・テレジア女帝や、エリザベート皇后(シシィ)の暮らした豪華な部屋の数々が見学
コースとして公開されている。(撮影不可)
大広間、資料からの映像。現在、半分の天井画は修復中で模造写真でカバーされていた。
庭園
ランタナが!!(北海道に近い緯度に位置するここに?)
噴水の向こう小高い丘にある建物は、グロリエッテといいここではマレア・テレジアが好んで朝食をとっていた。現在はカフェとして開放されている。残念ながらここでお茶する時間など全くなかった。
グロリエッテ
コロネード(列柱回廊)として1775年に建造。凱旋門を思わせる中央部
はマリア・テレジア女帝が世を去る前、ガラス張りとなった。
上部には帝国を象徴する巨大な鷲が、地球の上に立って翼を広げている。両翼の階段部分に
は豪華なトロフィーが配されている。
欄干を取り付けた平らな屋根は、すでに19世紀から展望台として利用されていた。
以上、世界最古の動物園を含め、すべてがユネスコの世界文化遺産に指定されている。
9月15日ブダペストの観光を終え、昼食後約268㎞走り、初日入国したウィーンに戻ってきた。
ツアーの宿命!時間をフルに有効的に使うため、ホテルチェックイン後すぐに16㎞先のウィーン市内、ウィーン市庁舎内のレストラン、ラートハウスケラーに!!
それでもホテルにあった見知らぬ植物はしっかりとチェック
これ!!ブラッシュの木みたいだけど別物。何でしよう?
夕食を市庁舎で?完全予約制のようだ。
しかし、ビックリ 市庁舎も素晴らしい建物。
他の資料からの写真
内部のレストラン・ラートハウスケラーも負けてない
食後はいよいよコンサートへ。
どこへ連れて行かれたのか?
調べてみたところ、アウエルスペルグ宮殿?ローゼンカヴァリエ・ホール?
ウィーン・レジデンツ・オーケストラについて
純粋な「ウィーンのクラシック音楽」を演奏する伝統あるウィーンの室内管弦楽団である。
数十年前より開いてきた多数のコンサートの会場には、ウィーンでも特に美しい宮殿が幾つか含まれている。
ツアーの宿命!時間をフルに有効的に使うため、ホテルチェックイン後すぐに16㎞先のウィーン市内、ウィーン市庁舎内のレストラン、ラートハウスケラーに!!
それでもホテルにあった見知らぬ植物はしっかりとチェック
これ!!ブラッシュの木みたいだけど別物。何でしよう?
夕食を市庁舎で?完全予約制のようだ。
しかし、ビックリ 市庁舎も素晴らしい建物。
他の資料からの写真
内部のレストラン・ラートハウスケラーも負けてない
食後はいよいよコンサートへ。
どこへ連れて行かれたのか?
調べてみたところ、アウエルスペルグ宮殿?ローゼンカヴァリエ・ホール?
ウィーン・レジデンツ・オーケストラについて
純粋な「ウィーンのクラシック音楽」を演奏する伝統あるウィーンの室内管弦楽団である。
数十年前より開いてきた多数のコンサートの会場には、ウィーンでも特に美しい宮殿が幾つか含まれている。
マーチャーシュ教会 (一部修復中)
聖母マリア教会。
13世紀にベーラ4世によってゴシック様式で建築された。
マーチャーシュ一世が教会を増築し、ここで二度結婚式を挙げたことから後世、「マーチャーシュ教会」と呼ばれるようになった。
歴代のハンガリー王が、この教会で戴冠式を執り行った。
16世紀にオスマン帝国がハンガリーを占領すると、モスク(イスラム教)として使用さ
れ、17世紀にオスマン軍が撤退するとすぐにカトリック教会に戻された。
一時バロック様式に建て替えられたが、1874~1896年にかけて建築家シュレック・フリージェッシュが改築し、ゴシック様式を復元した。
マーチャーシュの人柄(会ったことないけど)に好意を持ってしまった人も
多いのでは
ルネサンス文化を奨励
身分を隠してしばしば国内を廻ったと云い伝えられている
日本の「水戸黄門」のようなイメージ
二度結婚するが、一度目は先立たれ、二度目はご自分が先立ち、二人のいずれの妻とも子供
をもうけることがなかった。
一部修復中のため、美しさが損なわれているので他の資料から引用!
入り口の扉。 思わず2007年欧州フラワーデザイン研修の際、ドイツの古城、マルチン・ルターが身を隠していたという部屋の扉の感じに似てるー!!と。
教会内部
本日最後の観光は、ベスト撮影スポット ゲレルトの丘。
ゲレルト~ハンガリーをキリスト教化するために、国王に招かれたイタリア人伝道師の名前らしい。
お天気が今一つだけど、う・つ・く・し・い
ドナウ川にくさり橋、右河岸に国会議事堂。
昼食! グヤーシュ(ハンガリー風スープ)美味でした
さあまたまた あわただしくウィーンに向け268㎞走り、夜はレジデンツ・オーケストラによるウィーンクラシックミニコンサート
聖母マリア教会。
13世紀にベーラ4世によってゴシック様式で建築された。
マーチャーシュ一世が教会を増築し、ここで二度結婚式を挙げたことから後世、「マーチャーシュ教会」と呼ばれるようになった。
歴代のハンガリー王が、この教会で戴冠式を執り行った。
16世紀にオスマン帝国がハンガリーを占領すると、モスク(イスラム教)として使用さ
れ、17世紀にオスマン軍が撤退するとすぐにカトリック教会に戻された。
一時バロック様式に建て替えられたが、1874~1896年にかけて建築家シュレック・フリージェッシュが改築し、ゴシック様式を復元した。
マーチャーシュの人柄(会ったことないけど)に好意を持ってしまった人も
多いのでは
ルネサンス文化を奨励
身分を隠してしばしば国内を廻ったと云い伝えられている
日本の「水戸黄門」のようなイメージ
二度結婚するが、一度目は先立たれ、二度目はご自分が先立ち、二人のいずれの妻とも子供
をもうけることがなかった。
一部修復中のため、美しさが損なわれているので他の資料から引用!
入り口の扉。 思わず2007年欧州フラワーデザイン研修の際、ドイツの古城、マルチン・ルターが身を隠していたという部屋の扉の感じに似てるー!!と。
教会内部
本日最後の観光は、ベスト撮影スポット ゲレルトの丘。
ゲレルト~ハンガリーをキリスト教化するために、国王に招かれたイタリア人伝道師の名前らしい。
お天気が今一つだけど、う・つ・く・し・い
ドナウ川にくさり橋、右河岸に国会議事堂。
昼食! グヤーシュ(ハンガリー風スープ)美味でした
さあまたまた あわただしくウィーンに向け268㎞走り、夜はレジデンツ・オーケストラによるウィーンクラシックミニコンサート
歴史
西暦89年頃 ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近く
に建設した都市アクインクムに始まり、4世紀の終わりまでローマ帝国のバンノニア州の州
都だった。
900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がバンノニアと都市を占領。
100年後にハンガリー王国を建国(イシュトヴァーン 一世)。
その後、オスマン帝国やハプスブルグ帝国の支配を経て、1873年ブダペスト市が誕生。
第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は、首都にも一時的な打撃を与えた
が、オーストリアとの分離により主権国家となった。
ハンガリーの首都となった第二次世界大戦中の1944年ドイツによる占領以来、ブダペス
トで3番目に多いユダヤ人のうち20万人がナチス・ドイツの虐殺によって死亡。
それにつづくソ連軍の占領により、さらに人口は減少、1960年代になるまで増加回復し
なかった。
日本は島国のため、時代ごとに他民族に占領されたりしたりということがなく、日本人同士
で戦っていたという事が、現在にどう反映されているのだろう。
漁夫の砦
マーチャーシュ教会の裏手になる。
ドナウ川越しにペスト地区が一望でき、絶景。
ネオロマネスク様式の七つの塔と回廊から成る。
20世紀初頭、街の美化計画の一環として造られた。
中世時代、魚市場があった場所に建てられたそうだが、ドナウの漁師がこの辺りを守っていたとも言われている。
しかし、砦としての役割は一度も果たしていない。
マーチャーシュ教会と漁夫の砦
マーチャーシュ教会と漁夫の砦との間に勇ましく立つ像は、初代国王・聖イシュトヴァーン。
漁夫の砦から見た国会議事堂。美しい
西暦89年頃 ローマ帝国が、もともとケルト族が定住していた現在のオーブダ地区の近く
に建設した都市アクインクムに始まり、4世紀の終わりまでローマ帝国のバンノニア州の州
都だった。
900年に今日のハンガリーの主要民族であるマジャル人がバンノニアと都市を占領。
100年後にハンガリー王国を建国(イシュトヴァーン 一世)。
その後、オスマン帝国やハプスブルグ帝国の支配を経て、1873年ブダペスト市が誕生。
第一次世界大戦の敗戦による多くの国民と国土の喪失は、首都にも一時的な打撃を与えた
が、オーストリアとの分離により主権国家となった。
ハンガリーの首都となった第二次世界大戦中の1944年ドイツによる占領以来、ブダペス
トで3番目に多いユダヤ人のうち20万人がナチス・ドイツの虐殺によって死亡。
それにつづくソ連軍の占領により、さらに人口は減少、1960年代になるまで増加回復し
なかった。
日本は島国のため、時代ごとに他民族に占領されたりしたりということがなく、日本人同士
で戦っていたという事が、現在にどう反映されているのだろう。
漁夫の砦
マーチャーシュ教会の裏手になる。
ドナウ川越しにペスト地区が一望でき、絶景。
ネオロマネスク様式の七つの塔と回廊から成る。
20世紀初頭、街の美化計画の一環として造られた。
中世時代、魚市場があった場所に建てられたそうだが、ドナウの漁師がこの辺りを守っていたとも言われている。
しかし、砦としての役割は一度も果たしていない。
マーチャーシュ教会と漁夫の砦
マーチャーシュ教会と漁夫の砦との間に勇ましく立つ像は、初代国王・聖イシュトヴァーン。
漁夫の砦から見た国会議事堂。美しい
ブダペスト
ハンガリー共和国の首都。
街の美しさから「ドナウの真珠」ともいわれる。
ドナウ川両岸に広がった都市。右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペストの3地区からなる。
これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。
両岸の地区を結ぶ代表的な橋が、セーチェニ鎖(くさり)橋。
世界遺産としては「ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通りを含むブダペスト」が対象。
アンドラーシ通りはパリのシャンゼリゼ通りを模したプラタナスの並木道であり、セーチェニ鎖橋の袂からベシュト地区の市民公園までの通り。
地下には地下鉄、地上には聖イシュトヴァーン大聖堂、英雄広場、セーチェニ温泉、リスト音楽院などがある。
また有名ブランド店も軒を連ねている。
地下鉄としては唯一の世界遺産である。
英雄広場
聖イシュトヴァーン像(ハンガリー初代国王)
英雄広場に向かって左側、国立西洋美術館。とてもゆっくり鑑賞できる美術館だとか。
聖イシュトヴァーン大聖堂
パイプルガン
ハンガリー共和国の首都。
街の美しさから「ドナウの真珠」ともいわれる。
ドナウ川両岸に広がった都市。右岸(西側)のブダとオーブダ、左岸(東側)のペストの3地区からなる。
これらの地区はもともと別々の町であり、1873年に合併されてブダペスト市が形成された。
両岸の地区を結ぶ代表的な橋が、セーチェニ鎖(くさり)橋。
世界遺産としては「ドナウ河岸、ブダ城地区、アンドラーシ通りを含むブダペスト」が対象。
アンドラーシ通りはパリのシャンゼリゼ通りを模したプラタナスの並木道であり、セーチェニ鎖橋の袂からベシュト地区の市民公園までの通り。
地下には地下鉄、地上には聖イシュトヴァーン大聖堂、英雄広場、セーチェニ温泉、リスト音楽院などがある。
また有名ブランド店も軒を連ねている。
地下鉄としては唯一の世界遺産である。
英雄広場
聖イシュトヴァーン像(ハンガリー初代国王)
英雄広場に向かって左側、国立西洋美術館。とてもゆっくり鑑賞できる美術館だとか。
聖イシュトヴァーン大聖堂
パイプルガン
9月14日、プラハのホテルを8時15分出発、一路(334㎞)をブラチスラバへ。
スロバキアの首都。
ブラチスラバ城
ドナウ川を見下ろす高台の上にあり、かってマリア・テレジアの居ともなっていた古城で、城内からはドナウ川や付近の林野、ブラチスラバの市街が一望できる市内随一の観光名所。
16世紀ハンガリー王国の首都であったブラチスラバの象徴。
四角い建物の四隅に塔がある形状から「ひっくり返したテーブル」と呼ばれている。
聖マルティン教会
1563~1830年 マリア・テレジアを含むハンガリー王国歴代の国王や王妃たちの戴冠式が行われていた。
一部修復中にて本来の教会の姿を資料より
モーツァルトの館(現在はオーストリア大使館)
1762年 6歳のモーツァルトがこのパールフィ宮殿で演奏したといわれている。
モーツァルトの記念碑
リストの記念碑
19世紀(1811~1886年)代表的なハンガリーの作曲家、ピアノ演奏家であったリスト。
1820年、ブラチスラバで9歳だったリストの初のコンサートがここで。
ミハエル門
かって旧市街の入り口だった門のひとつ。
フラヴネー広場を囲むように、国立オペラ劇場、日本大使館、アメリカ大使館、旧市役所庁舎などがある。
旧市役所庁舎
国立オペラ劇場
日本大使館
クリスマス時のフラヴネー広場では生きた鯉が売られるらしい。
中欧でのクリスマス料理は圧倒的に「鯉料理」。長生きするといわれ、フライかスープにする。
下水道掃除人のブロンズ彫像
街には他にも数点このような彫像があった。
国会議事堂
斜張橋
ドナウ川にかかる。主塔の上には展望レストランがあり、エレベーターで上ることができる。ドナウ川対岸は共産時代のアパート群が見られる。
ブラチスラバの観光はこれで終了。
あとは194㎞先のブダペストへ向かい夕食後、ドナウ川イルミネーションクルーズが待っている。
スロバキアの首都。
ブラチスラバ城
ドナウ川を見下ろす高台の上にあり、かってマリア・テレジアの居ともなっていた古城で、城内からはドナウ川や付近の林野、ブラチスラバの市街が一望できる市内随一の観光名所。
16世紀ハンガリー王国の首都であったブラチスラバの象徴。
四角い建物の四隅に塔がある形状から「ひっくり返したテーブル」と呼ばれている。
聖マルティン教会
1563~1830年 マリア・テレジアを含むハンガリー王国歴代の国王や王妃たちの戴冠式が行われていた。
一部修復中にて本来の教会の姿を資料より
モーツァルトの館(現在はオーストリア大使館)
1762年 6歳のモーツァルトがこのパールフィ宮殿で演奏したといわれている。
モーツァルトの記念碑
リストの記念碑
19世紀(1811~1886年)代表的なハンガリーの作曲家、ピアノ演奏家であったリスト。
1820年、ブラチスラバで9歳だったリストの初のコンサートがここで。
ミハエル門
かって旧市街の入り口だった門のひとつ。
フラヴネー広場を囲むように、国立オペラ劇場、日本大使館、アメリカ大使館、旧市役所庁舎などがある。
旧市役所庁舎
国立オペラ劇場
日本大使館
クリスマス時のフラヴネー広場では生きた鯉が売られるらしい。
中欧でのクリスマス料理は圧倒的に「鯉料理」。長生きするといわれ、フライかスープにする。
下水道掃除人のブロンズ彫像
街には他にも数点このような彫像があった。
国会議事堂
斜張橋
ドナウ川にかかる。主塔の上には展望レストランがあり、エレベーターで上ることができる。ドナウ川対岸は共産時代のアパート群が見られる。
ブラチスラバの観光はこれで終了。
あとは194㎞先のブダペストへ向かい夕食後、ドナウ川イルミネーションクルーズが待っている。
午後からは自由行動。
でも私たちはオプションで、ボヘミアの古城・個人所有のお城「メルニック城」へ。
王宮のミニチュア版のようなお部屋が揃っている。
約4時間予定されていたオプション・メルニック城観光も道路交通事情に恵まれ、17時からのエステート劇場コンサートにギリギリ間に合いそうだと、添乗員さんが云ってくださった
これには経緯があり、知り合った仲間のお二人は自由行動なので、街中で配布していたパンフを見て添乗員さんにコンサートチケットを手配?してもらったという話を聞いた。
そこで私もメルニック城観光後にコンサートに行きたい旨、添乗員さんに伺ったところ、交通事情がわからないので、時間的に無理でしょうということになり、残念だけどあきらめていたのだ。
そんな訳で、他に2組のご夫婦も希望され合計6人で、案内して下さる添乗員さんの後を走ること5分位?チケット売り場でも御世話頂いた。感謝
意外に空席もたくさんあり、憧れのバルコニー席へ通された。
演奏終了後くらいなら、写真もOKと聞いていたので、花束贈呈あたりから劇場内を数枚撮影できた。
国立オペラ座をそのまま小さくした感じの豪華な内部。
お二人には承諾済みです
コンサートはアンコールもなく、予定通り一時間で18時には終了。
夕食の集合時間まで余裕の30分もあり、エステート劇場前で記念撮影
パンフによる全体像
エステート劇場(スタヴォフォスケー劇場)
1773年にノスチツという貴族によってクラシチズム・スタイルで建てられた劇場。
モーツァルトが「ドン・ジョバンニ」を 1787年10月29日初演したとされる歴史ある劇場で、モーツァルトの作品を中心的に扱っている。
この劇中の歌の一つがチェコの国歌になっている。
今夜はプラハ2泊目。
でも私たちはオプションで、ボヘミアの古城・個人所有のお城「メルニック城」へ。
王宮のミニチュア版のようなお部屋が揃っている。
約4時間予定されていたオプション・メルニック城観光も道路交通事情に恵まれ、17時からのエステート劇場コンサートにギリギリ間に合いそうだと、添乗員さんが云ってくださった
これには経緯があり、知り合った仲間のお二人は自由行動なので、街中で配布していたパンフを見て添乗員さんにコンサートチケットを手配?してもらったという話を聞いた。
そこで私もメルニック城観光後にコンサートに行きたい旨、添乗員さんに伺ったところ、交通事情がわからないので、時間的に無理でしょうということになり、残念だけどあきらめていたのだ。
そんな訳で、他に2組のご夫婦も希望され合計6人で、案内して下さる添乗員さんの後を走ること5分位?チケット売り場でも御世話頂いた。感謝
意外に空席もたくさんあり、憧れのバルコニー席へ通された。
演奏終了後くらいなら、写真もOKと聞いていたので、花束贈呈あたりから劇場内を数枚撮影できた。
国立オペラ座をそのまま小さくした感じの豪華な内部。
お二人には承諾済みです
コンサートはアンコールもなく、予定通り一時間で18時には終了。
夕食の集合時間まで余裕の30分もあり、エステート劇場前で記念撮影
パンフによる全体像
エステート劇場(スタヴォフォスケー劇場)
1773年にノスチツという貴族によってクラシチズム・スタイルで建てられた劇場。
モーツァルトが「ドン・ジョバンニ」を 1787年10月29日初演したとされる歴史ある劇場で、モーツァルトの作品を中心的に扱っている。
この劇中の歌の一つがチェコの国歌になっている。
今夜はプラハ2泊目。
聖ヴィート教会のステンドグラスを一挙に8枚!!
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貸切トラムに乗車、徒歩でカレル橋のふもとまで。
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ヨーロッパに現存する最古の石橋、カレル橋。
プラハを流れるヴルタヴァ(モルダウ)川に
架かっている。
全長516m、16連のアーチから構成されている。
橋を守るために3つの塔が建てられており、特に旧市街側の塔はゴシック様式建築として名高い。
橋の欄干には15体ずつ合計30体の彫刻が並んでいる。
中でも、カトリックの聖人ヤン・ネポムツキーの像の基部にあるレリーフに触れると幸運が訪れると云われ、多くの人に触れられてツルツルに光っていた。
カレル橋ではやはりストリートアーティスト達や、お店が!!
旧市街側から見る景色
旧市街広場 ティーン教会、左端に見えるのが横から見た時計塔(天文時計)
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貸切トラムに乗車、徒歩でカレル橋のふもとまで。
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ヨーロッパに現存する最古の石橋、カレル橋。
プラハを流れるヴルタヴァ(モルダウ)川に
架かっている。
全長516m、16連のアーチから構成されている。
橋を守るために3つの塔が建てられており、特に旧市街側の塔はゴシック様式建築として名高い。
橋の欄干には15体ずつ合計30体の彫刻が並んでいる。
中でも、カトリックの聖人ヤン・ネポムツキーの像の基部にあるレリーフに触れると幸運が訪れると云われ、多くの人に触れられてツルツルに光っていた。
カレル橋ではやはりストリートアーティスト達や、お店が!!
旧市街側から見る景色
旧市街広場 ティーン教会、左端に見えるのが横から見た時計塔(天文時計)
プラハ歴史地区観光。
ホテル8時30分出発
千年前からの歴史は、ロマネスク時代からゴシック、ルネッサンス(14~16世紀)、バロック時代(16世紀末~17世紀初頭)と続いた。
14世紀全ヨーロッパにペストが大流行、その後17~18世紀頃までに何度か流行。
ウィーンにも見られたようにペストから復活した喜びは大きく、記念碑が多い?。
その復活後、ここプラハでは 1787年10月29日、作曲を依頼したエステート劇場にて、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」が初演された。
そのエステート劇場でのコンサートを偶然と幸運に恵まれて 聞くことができた (自由時間中)そのチケットがこれ!
料金は、1200コルナ、ユーロにして48ユーロ、日本円にして6000円。
あれ?50ユーロ支払ったけど・・・。
(プラハ・3 参照)
さて、プラハ城と城内中心に建つ聖ヴィート教会。
衛兵交代。
プラハは「百塔の街」と云われるほどに、塔が多い。
聖ヴィート教会内の撮影は、フラッシュなしでOK
聖ヴィート大聖堂の奥にカラフルな家が並んだ「黄金の小道」があり、16世紀に造られた通り道。名前の由来は錬金術師が住んでいたことから。
他にもプラハ城内に仕える召使なども住んでいた。
現在では小物など、お土産やさんとして親しまれている。
その「黄金の小道」は2010年5月1日~2011年4月30日まで修復工事のためクローズされていた。残念
ホテル8時30分出発
千年前からの歴史は、ロマネスク時代からゴシック、ルネッサンス(14~16世紀)、バロック時代(16世紀末~17世紀初頭)と続いた。
14世紀全ヨーロッパにペストが大流行、その後17~18世紀頃までに何度か流行。
ウィーンにも見られたようにペストから復活した喜びは大きく、記念碑が多い?。
その復活後、ここプラハでは 1787年10月29日、作曲を依頼したエステート劇場にて、モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」が初演された。
そのエステート劇場でのコンサートを偶然と幸運に恵まれて 聞くことができた (自由時間中)そのチケットがこれ!
料金は、1200コルナ、ユーロにして48ユーロ、日本円にして6000円。
あれ?50ユーロ支払ったけど・・・。
(プラハ・3 参照)
さて、プラハ城と城内中心に建つ聖ヴィート教会。
衛兵交代。
プラハは「百塔の街」と云われるほどに、塔が多い。
聖ヴィート教会内の撮影は、フラッシュなしでOK
聖ヴィート大聖堂の奥にカラフルな家が並んだ「黄金の小道」があり、16世紀に造られた通り道。名前の由来は錬金術師が住んでいたことから。
他にもプラハ城内に仕える召使なども住んでいた。
現在では小物など、お土産やさんとして親しまれている。
その「黄金の小道」は2010年5月1日~2011年4月30日まで修復工事のためクローズされていた。残念
9月12日午前8時30分、チェコへ向け出発。
オーストリアとチェコ共和国との国境。
かっての出入国検問所。
今は人間は自由に行き来できるが、大型トラックなどでの物流経済は一応、手続きが必要らしい。
世界遺産 チェスキー(チェコの)・クルムロフ歴史地区散策。
現在もいにしえの姿そのままの貴重な中世建築群。
ブルタバ川(モルダウ川)をのぞむ崖の上に、クルムロフ城最古の部分を築いた。
スペインのトレドの街を彷彿とした。
ヘンリー蔦がすばらしい。
お店やさんのガラスドアに張られたビーズや刺繍の飾り物。
ショーウインドウにこんな素敵なガラス細工人形が。
歩いた順に写真を載せています。
聖母マリア柱
ブラーシュチョビー橋
クルムロフ城。
初期ゴシック様式、後になされたルネッサンス様式改築によって得た美しい姿を今もそのままにのこしている。
この路地からの撮影がお勧めという。
167㎞先のプラハへ向かって、15時出発。(迷子になった方がいらして実際には40分くらい遅くなったかな?)
プラハ泊