遠野なんだりかんだりⅡ

遠野の伝承芸能・民俗・歴史を書きたい時に思いついたままに

2024 小友町裸参り

2024-02-27 17:46:15 | 民俗

雪はもう、さほど積もらないだろうから、雪かき道具は片付けようなんて思っていたら、

昨日は、これだもの。

 

来週には3月なのに雪マークの予報があったりして、どうなっているんでしょうね~!

さて、

雪がないと雰囲気が出ないなんて云っていた小友町の裸参りが

24日(土)4年ぶりに開催されました。

 

以前は遠野駅前から小友町まで無料のバスがありましたが、流石に利用客が

私たちの仲間とその他数人と云うこともあってか?今年は運行無し。

 

今年は参加者14名ということで、10年以上見ている中で最も少ないと思います。

 

神社までの先導役は、7年ぶりに鷹鳥屋神楽さんです。

 

おやっ!今年は神社脇に参拝しないで、橋に向かいました。

 

これは以前の様子ですが、神社の参拝を済ませた後は、こちらにも廻っていました。

単純に簡略化したのかと思って過去のデータを見ると、1回目の参拝から脇に

廻った年もあれば、2回目から廻った年もあり、廻らなかった年もあり・・・。

何か理由があるんでしょうねえ~。

 

通りの南側、上宿橋の手前左側にある庚申の石碑まで行って戻ってきます。

今回は、三往復のお供は遠慮させて頂きました。汗

 

その間、神社の中では神事が進められ、鷹鳥屋神楽さんの下舞・権現舞

 

中に入る人数も少なくなっていました。

 

昨年は新コロ明けということもあり、他の例祭などでは氏子・役員の皆さんが、

どんな手順で準備したか忘れてしまっているようなシーンが見受けられました。

 

望遠で、通りの様子を窺うと見守る人たちがいてくれたようです。

小学生が一人参加していたようなので、その関係者かも。

 

小友の通りと云えば、これは昭和29年頃の店などの地図です。

 

こちらは書いているように明治・大正時代

通りに面する家の配置自体は、たぶんそれほど変わっていないと思います。

 

この時間は市民センターで、遠野物語ファンタジー。

8月の小友まつりの日は、上宮守の愛宕神社と附馬牛の菅原神社もお祭り

と云うことで、小友町の行事は地域外のそれと重なることが多いので、PRも大変ですね!

 

元禄年間(1688~1704)に拝殿を造営し、その翌年の初不動の日に不動講の数名を

名代として裸参りを行ったのが始りと云われています。

代表者が神前で大鈴を受取り、振りながら宿に行きます。

参拝者は宿に集まり身支度を整え、一列になって神社へ赴きます。

神社そばの清水で身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に町を歩き

長野川にて更に身を清め神社に戻ります。これを三回繰り返し終了。

その後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事の相談をしたとのこと。

黒石寺の蘇民祭とは違い、だいぶ以前から運営の仕方が変わってきている裸参り、

久しぶりでの裸参りを見ながら、色々と考えさせられました。

 

お振舞の甘酒、御馳走様でした! 笑

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

遠野町家のひなまつりと

2024-02-26 16:18:54 | 民俗

やはり素直に春にはならないようで、先週後半から冬到来です。笑

 

足元が悪なった先週後半、元の職場の新年会。

それまでは12月辺りだったので忘年会でした。笑

 

乾杯! 所長を含め、この四人で何十年と結構な仕事をしていました。

 

恒例により、其々の家族のことと健康がメインテーマです。

中でも所長と私は、大変だったここ一年。

 

 

入院していたこともあり、退院したら何が食べたかったかという話では、二人とも鰻。

 

所長は入院した郡山で、一番美味しいと評判の老舗でうな重を食べたそうです。

一方の私は、お蕎麦にセットのうな丼(カットうなぎ一切れ)でした。(;^_^A

そんなこんなの話をしていたら、一口うな丼が出てきてのには、びっくり!

9時少し前、また健康で会いましょう~!

 

と、云うことで、まだ仕事中の時々愛妻に拾って貰うまでの間、一人で二次会へ。

ミイラ取りもミイラになって帰宅です。笑

 

先週土曜日は青空が見えたことから、散歩を兼ねて町中のひな祭りへ

 

何十軒もの商家でひな人形を展示していた頃と違い、観光バスが何台も来る時代は終わり、

 

ご夫婦や友人と一緒に、と云った具合で少人数単位ながら、来て頂き感謝です。

 

蔵の道ギャラリーでは、まだ帰っちゃイヤ~ンと云われました。笑

 

有料ながら見ごたえのある博物館のおひなさま

 

これ以上はお見せしませんが、310円払う価値はあると思います。

 

時代ものの人形が無い場所では吊るし雛。これはこれでいい感じです。

 

瀬戸物屋さんだった場所では、ご覧のような広告絵がありました。

そこに新里嘉助の名前。

嘉永年間に軍馬育成と献金により遠野南部家臣となったのが新里庄右衛門(初代善兵衛)、

その三代目庄右衛門の娘と嘉助が分家となり、古着や陶器販売を営んだのが広告絵の店。

絵の嘉助は、おそらく二代目嘉助かと思います。

この嘉助家や庄右衛門家などの遠野新里家から国華や浜千鳥、岩手商工が生まれます。

 

別な場所での興味深いもの。雛飾りのひとつだと思いますが、三味線。

バチには向かい鶴紋があり、三味線の胴には遠野南部家の裏紋の丸に九曜紋と、花菱紋。

花菱紋をよく見ると、一般的な花菱と違います。

南部変り花菱、正式には日輪花菱と云うようです。

参勤交代には盛岡本藩の家臣の他、遠野八戸氏(遠野南部家)の家臣も参加。

その際、本藩家臣と同姓の遠野家臣が同じ家紋の使用が認められないということで、

陪臣である遠野家臣には、この南部変り花菱紋の付いた羽織が貸し与えられたそうです。

明治維新にて遠野南部家が禄を離れる時、遠野南部家臣には家紋の入った品を、

本同心衆にはその看板羽織が下げ渡されたと云います。

 

3月5日まで町家のひなまつりは開催されているようなので、

寂しくなった通りを賑やかしに散歩してみては如何でしょうか。

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫波町郷土芸能祭へ 後編

2024-02-21 14:42:03 | 郷土芸能

岩手県内にしし踊りはいくつあるのでしょう?

廃絶・中断も含めて私のデータでは157。

軽米町、二戸市、九戸村、一戸町、岩手町、八幡平市、盛岡市、矢巾町、紫波町、花巻市、

田野畑村、岩泉町、宮古市、山田町、大槌町、釜石市、遠野市に幕系しし踊りがあります。

これを見ても、やはり藩成立後に伝播したんでしょう。

 

しし踊りの三団体目は二日町鹿踊さん

斯波氏の高水寺城のあった麓の二日町が政治・経済・文化の中心だった1500年代に

伝わったものと云われて、一説には長岩寺中興の祖、梅岩嶺雪和尚が伊勢から

赴任した時に伝来したものと言い伝えられている。

また、八人の二列縦隊で踊り、その中に扇子を持って踊る中踊と云う人が付く、

県下でも類を見ない形態だと資料にありました。

 

こちらの太鼓は踊りません。

 

ささらの天辺にはクジャクの羽根のようなものが付いています。

 

お尻に大口

 

ここでも女鹿子狂い

 

しし踊りの4団体目 平沢鹿子踊りさん

宝暦4年(1754)、長岡の耳取稲垣家から分家し矢巾町煙山に入植した人がいた。

その際、鹿踊に関する巻物一巻を開拓の伴侶とするよう授けられたと云われる。

そして安永年間(1771)頃から盆踊りとして踊られたのが矢巾町耳取の鹿踊の始まりで、

それが寛政11年(1801)に平沢に伝わったという記録がある。また明治8年に

煙山矢次の踊り組に師事したという記録もある。本来は7人で踊る。と資料にありました。

 

最初の紹介した宮手鹿踊りさんと同じように耳取鹿踊りさんからの伝承で、

同じような衣装です。

 

大口は太鼓系ししや剣舞と異なり、柔らかそうです。

 

こちらの一八

 

踊る太鼓

これも踊らない遠野・釜石系のほうが珍しいです。

 

写真で別なシーンですが、やはり女鹿子狂いがありました。

紫波町は江戸時代、青森の八戸藩の飛び地があり、

同様に遠野を領地としていた八戸(南部)弥六郎の領地が上佐比内村にありました。

このことが芸能と関係するのかどうかはわかりませんが。笑

 

最後はしし踊りの5団体目で、四ツ堰鹿子踊りさん

幕は鹿踊になっていますね~

 

鎌倉流四ツ堰鹿子踊りと称し、巻物によれば二日町の踊りの伝承を受けたもの。

現状を見る限り、むしろ耳取型に近いと思われる。これはいくつかの時期に途絶え、

後年復活する時に変わってしまったと考えている。現在残されている文書によると、

一、正徳2年(1712)8月 書之扇田五郎兵衛成行

一、文化2年(1805)8月 写之佐藤久兵衛良房

右の本書巻物新規書之久兵エ家二代有之 明治17年8月高橋倉松

約320年以上も前から伝承されているが、踊りが変わった時期ははきりしない。

と資料にありました。

 

特徴的なのはしし頭で、神楽の権現様、大神楽のしし頭のようです。

 

こちらのししには大口がありません。

すいません、ありました!

 

紫波町内のししの中では、風貌が唯一変わっているからこそ、

説明資料にもその辺の経緯を不明としているのでしょう。

 

今の時代、調べよう、見ようと思えばいくらでもネットで可能です。

それでも、今回のようにその地域の同一芸能が一気に見られるというのは稀で、

生の雰囲気を感じながらということで、また新鮮な気持ちでしし踊りが観られました。

今回、衣装で大口と書いていますが、正式には大口は袴の種類で大口袴を差し、

しし踊りでは大口袴も一般の袴も使用されているので、太鼓系ししや剣舞のように

大口(袴)と云うのはふさわしくないんだろうと思います。

其々のしし踊りでは、どういう名称になっているんでしょう?

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紫波町郷土芸能祭へ 前編

2024-02-20 14:24:08 | 郷土芸能

先週金曜日は検査の予約に矢巾町まで。

予定では3月中にひとつ検査をし4月にもう一つ受け、その後、状況説明のはずでした。

ところが混んでいるようで最初受けようとしていた検査が5月になったことで、

検査の受け方が前後逆になり、説明はそれ以降になりそうです。

検査が伸びたぶん体重管理も少し先延ばしできそうな感じになったことから、

矢巾町に行く途中の紫波町郷土芸能祭へ出撃してみました。笑

 

この芸能祭は60回になるそうです。

イメージする紫波町の芸能は、遠野で観たことがある山屋の田植踊や南日詰の大神楽。

さて、今回の出演団体はと云うと、

 

最初は星山神楽さん

 

神楽別当家に大正時代の獅子頭があり、当時から親しまれていたと推察されるようで、

昭和6年に大迫町の大償神楽さんに正式に弟子入りしてから始められ、

昭和40年代に一時途絶え、昭和62年に復活。昨年伝承90周年記念神楽大会を開催とのこと。

 

演目は八幡舞。流石に90周年を迎えただけあって、素晴らしい舞でした。

ちなみに紫波町の神楽は3団体で、大神楽が4団体。

 

続いて、宮手鹿踊さん

紫波町には5つのしし踊りが伝承され、この日その全てが出演と云うことで

足を運んだ次第。

先ほど神楽と大神楽の数を記しましたが、このしし踊りの他、剣舞1,田植踊5,さんさ5

と、バランス良く様々な芸能が伝承されているようです。

 

紫波町のしし踊りは全て幕系しし踊りで、この宮手鹿踊さんは、

源義家が阿部貞任攻略のため、陣ケ岡に立ち寄った際、一頭の大鹿が現れ、

義家軍を道案内したことで勝利。その祝宴で将兵たちが鹿の様子を

真似て踊ったのが始りと伝えられる。その後盛衰が繰り返され、明治29年に矢巾町の

耳取の鹿踊りから伝授を受け、現在の宮手鹿踊りが確立される。と配布資料にありました。

 

盛岡・矢巾系しし踊りに見られるさんさ同様の一八。

 

女鹿狂い

 

袴に地下足袋、お尻には大口

遠野のしし踊りには、大口はありません。

 

遠野のししの後ろについてのいるのは流し

仙台藩領でも盛岡藩領でも、ほとんどが大口を付けており、宮古と山田、釜石では

付けていない団体もあります。遠野と同じように流しは釜石・宮古にも見られます。

太鼓系では見せるために意匠的に優れた流しになっていますが、

遠野系の流しは、伝承当初の名残りとして用いているのでは?と思っています。

今では、背中のかんながらで見えないことから、流しを付けないししも見かけます。

 

笛は篠笛のようです。

笛を使用するほとんどのしし踊りでは篠笛のようですが、遠野では神楽笛に近いもの。

この笛の音程とリズムの違いが、其々のしし踊りの差にも。

 

続いて、春日流紫野鹿踊りさん

江戸時代の正徳年間(1711~1716)に紫野の三右エ門家に徳丹村から嫁が来た。

当時から両家の農作業等では互いに行き来あり。

徳丹村に伝わる鹿踊を三右エ門家の若い衆たちが見真似て、紫野にも鹿踊が生まれた。

その嫁が「女鹿踊由来」の巻物を持ってきて、それを写したのが「紫野鹿踊来広記」。

 

ここのは町内の他の鹿踊りとは異なり、太鼓は踊らない。扇踊りがあることや、

掛け唄の調子から遠野地方のものと同系と思われる。と資料にありました。

 

と云うことですが、遠野と同系と云われても、どう答えればよいのか・・・。

 

袴姿で、お尻には大口

どの団体の演目にも女鹿狂いが入っており、これは県北にもあるようなので、

メインとしての共通認識があったのだろうと思います。

遠野では神社例祭などのお祝い事では、争う内容なので敬遠されます。

盛岡藩領に伝わる多くは幕系しし踊りで、遠野人は自分達のが主流だと思いがちですが、

それは全く逆で、独自に変化したのが遠野のしし踊りなんだと思っています。

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2024 東和町 土沢神楽舞初め 後編

2024-02-14 14:53:15 | 郷土芸能

訃報あれば慶事もありで、昨日結婚式の招待状が届きました。

(我が家の子供達のではありません。涙)たぶん6年ぶりの披露宴かと。

その時に憂いなく飲食できるよう、来月辺りにはポンコツ笛吹号の各種一年検査。

その検査前には、また絶食になるので、今のうちにと思い、

先日、花巻の日和佐さんに行ってきました。

 

お肉屋さんの食事処と聞き、行ってみると焼肉用のテーブルだったので、

焼肉専門かと思いましたが、各種定食もあり、これを選択。美味かったですよ~!

また、たらふく食べられるようになったら行きたいと思います。笑

さて、

町中華の店が遠野より沢山ある東和町での土沢神楽舞初めの後編です。

 

4番目 橋掛け

 

川幅が広くて渡れない名取川での音鶴御前の舞になるのでしょうか?

 

男の子の先にいる方の役がわかりません。役人でしょうか?

 

伐っても翌日には切口が埋まってしまい、伐り出すことができない御神木を

橋にしようとします。

神子に占ってもらうと乙鶴(音鶴)御前が思いをかけた木なので、

その御前が御神木に手をふれなければ伐ることはできない。

と云うことで、御前に手をふれて頂き、ようやく伐ることができた。

 

その御神木を大勢の人足で引き出します。

 

言葉通りに大勢出てきます。

 

土沢神楽さんだけでは足りないので石鳩岡神楽さんも応援に入っていたとのこと。

こうして御神木を引き出して目出度し目出度し。

 

6番目 鞍馬の舞

 

颯爽と出てきたのは牛若丸

 

そこに唐の天狗の首領善界坊がやってきて、兵法比べ

 

勝った牛若丸の軽やか舞

 

あくまで大変そうにではなく、さわやかな牛若丸の舞でした!

 

7番目 悪神退治の舞

葦原国の悪い神を退治させようと八百萬の神々は天穂日命を遣わします。

 

この恰好いい命の舞が前段です。

 

皆さんじっくり見ていますね!

 

命が何年経っても帰ってこないので、三熊大人と天稚彦遣わします。

 

それもまた帰って来ないので、タケミカヅチ、フツヌシという剛力の神を遣わし、

悪い神とされた大国主、事代主の神は降参。

 

葦原国を天照大神に奉げ、めでたく舞い納める。

と、パンフレットにありました。笑

 

最後の下舞

 

権現舞

 

ほぼ予定どおりの時間で終了です。

他の地域へ行く回数が少な目な私ですが、今年は頑張っています。

超満員の会場やカメラマン多めの場所へは行きませんが・・・(;^_^A

このところ、インフルエンザと新コロが想像以上に流行ってきているようです。

御油断なく!

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする