遠野なんだりかんだりⅡ

遠野の伝承芸能・民俗・歴史を書きたい時に思いついたままに

2024 徳昌寺 灯ろう流し

2024-08-19 12:21:53 | 民俗

16日(金)午後4時過ぎ、徳昌寺でシシ踊りを観た後、急いで帰宅。

汗だらけになったシャツを脱ぎ、ひとまず休憩です。

何だか怪しい天気でしたが、降ってきたら帰るつもりで午後6時過ぎ、また徳昌寺へ。

 

近くの地区センターでは久しぶりに町内の夏祭りがあり、人並はそちらへ。

 

時折、送り盆の為に徳昌寺には家族連れが訪れ、新コロ前の雰囲気と同じ感じでした。

 

関係者の集まり具合から、おそらく7時が舟っこ流しの時間だろうと

思いつつ、境内を散策

 

和尚様の指示に従い、関係者が半纏を着て、そろそろ出発と思っていた6時50分

火災のサイレンが鳴りました!

 

ここ上柳だと云うことで、山門を出ると黒い煙が。

夏祭りをしている地区センターの辺りか?いや町中だ!

 

徳昌寺から薬師橋を渡ると煙と共に赤い炎も・・・。

舟っこ流しに来ていた消防団も皆走りました。

サイレンが鳴ってから何分も経っていない現場では既に放水を始めていました。

初めに書いたように、この日は夏祭りも開催されており、町民の主だった人は

この周辺に来ていたからこその対応だったと思います。

火元は、店をやっている同級生の実家の隣。私が着いた時は、まだ家に人の姿があり、

間もなく、家族全員道路向かいに避難。

それからは、地元消防団や消防署から次々と到着し、延焼を何とかくい止めている頃、

お寺の様子が気になり、戻ると舟っこ流しをどうするか

まだ、結論は出ていないようでした。

以前にも天候の問題で、後日改めて行ったこともあるということでしたが、

別の日となると初盆に合わせて帰省している方もいて、また協力者の手配も。

もう少し、時間がかかりそうだということで、また火災現場へ。

サイレンから20分、ほぼ炎が見えなくなった頃、

 

薬師橋を歩く一団。舟は流さず、灯ろうだけを流すことに。

火災現場のメインストリート手前を右折し、人知れず猿ケ石川のある片岸橋上流へ。

 

例年通りであれば片岸橋上で和尚様の読経が聞こえるのですが、

今回は灯ろう流しのスタート地点辺りから声が聞こえました。

 

誰がこのようなことを想像できたでしょう。

 

途中、雨でずぶ濡れになるかもしれないとは思っていましたが、

まさか放水とは・・・・。

 

今年亡くなられた人の家族のことを思うと、この灯ろう流しも大切なこと。

 

橋の上からは、流していることに気づいた人達が見守っていました。

 

8時20分過ぎ、無事、灯ろう流しも終わり、火災現場へ戻ると、

放水は続けられていましたが、ほぼ消えた様子。

同級生に一声かけ、帰宅。

これでお盆休みの大きな行事は終わり、月曜から普段通りの生活かな?

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2024 遠野春まつり

2024-04-28 18:35:20 | 民俗

先週金曜日は、身体の一年点検第一弾!の結果説明でした。点検のメイン項目は異常なし。

ですが・・・・別項目でひっかかりました。涙

 

その日の晩はお世話になっている方々と、これからも一緒に頑張りましょう~!

と云う意味合いで参加したところ、其々の道で頑張りましょう~!

だったことを途中で知りました。世間は狭いので、またどこかで・・・。

 

その後、同級生たちと合流。総勢10人。

 

花を見ない花見ということで日付が変わるあたりまで、喉は嗄れ気味。

ちなみに私はこの日を最後に、数カ月は禁酒となります。頑張ります!

 

そして、昨日は遠野春まつり

昨年までの遠野桜まつりから名称変更です。

 

昨年に続き、若き清心尼公役は近衛はなさん

 

八戸直栄公役は同様に黒木真二さん

 

八戸からは新田の皆さん

開会の出立式ではステージに上がった方々が紹介されているのに、この方だけ紹介無し。

誰なんだろう?と思っていたところ、新田城まつりの会長さん。

これを逆手にとっての会長の挨拶が一番立派でした!

 

出立に先立っての露払い?清め役は遠野太神楽さん

 

昨年同様にオカメ四方の舞かと思っていたら、獅子舞

 

最近、この獅子舞の笛の音取りに挑戦しようかと思っていたのでラッキーでした。

入部行列後は、蔵の道広場で、郷土芸能披露

 

上郷町の板澤しし踊りさん

 

この日のために構成を考えてきたようだったので、ステージ前で撮ろうと

陣取っていたところ、前に机が運ばれ、場所移動。

 

移動した先が失敗で、中央での踊りが撮れず・・・涙

 

望遠で撮れたのは、御礼の投げ草

 

次は、飯豊神楽さん

ポスターには女子神楽とありましたが、ちゃんと男性もいます。笑

 

御神楽

 

三人鶏舞のことです。

 

もう一演目は鞍馬

 

飯豊神楽さんの鞍馬は、鞍馬と俗にいう「くぐりっこ」がミックスされた構成です。

飛び石連休?の最初は、こうして芸能見学に恵まれたスタートとなりました。

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2024 小友町裸参り

2024-02-27 17:46:15 | 民俗

雪はもう、さほど積もらないだろうから、雪かき道具は片付けようなんて思っていたら、

昨日は、これだもの。

 

来週には3月なのに雪マークの予報があったりして、どうなっているんでしょうね~!

さて、

雪がないと雰囲気が出ないなんて云っていた小友町の裸参りが

24日(土)4年ぶりに開催されました。

 

以前は遠野駅前から小友町まで無料のバスがありましたが、流石に利用客が

私たちの仲間とその他数人と云うこともあってか?今年は運行無し。

 

今年は参加者14名ということで、10年以上見ている中で最も少ないと思います。

 

神社までの先導役は、7年ぶりに鷹鳥屋神楽さんです。

 

おやっ!今年は神社脇に参拝しないで、橋に向かいました。

 

これは以前の様子ですが、神社の参拝を済ませた後は、こちらにも廻っていました。

単純に簡略化したのかと思って過去のデータを見ると、1回目の参拝から脇に

廻った年もあれば、2回目から廻った年もあり、廻らなかった年もあり・・・。

何か理由があるんでしょうねえ~。

 

通りの南側、上宿橋の手前左側にある庚申の石碑まで行って戻ってきます。

今回は、三往復のお供は遠慮させて頂きました。汗

 

その間、神社の中では神事が進められ、鷹鳥屋神楽さんの下舞・権現舞

 

中に入る人数も少なくなっていました。

 

昨年は新コロ明けということもあり、他の例祭などでは氏子・役員の皆さんが、

どんな手順で準備したか忘れてしまっているようなシーンが見受けられました。

 

望遠で、通りの様子を窺うと見守る人たちがいてくれたようです。

小学生が一人参加していたようなので、その関係者かも。

 

小友の通りと云えば、これは昭和29年頃の店などの地図です。

 

こちらは書いているように明治・大正時代

通りに面する家の配置自体は、たぶんそれほど変わっていないと思います。

 

この時間は市民センターで、遠野物語ファンタジー。

8月の小友まつりの日は、上宮守の愛宕神社と附馬牛の菅原神社もお祭り

と云うことで、小友町の行事は地域外のそれと重なることが多いので、PRも大変ですね!

 

元禄年間(1688~1704)に拝殿を造営し、その翌年の初不動の日に不動講の数名を

名代として裸参りを行ったのが始りと云われています。

代表者が神前で大鈴を受取り、振りながら宿に行きます。

参拝者は宿に集まり身支度を整え、一列になって神社へ赴きます。

神社そばの清水で身を清めて礼拝し、鈴振りを先頭に町を歩き

長野川にて更に身を清め神社に戻ります。これを三回繰り返し終了。

その後、宿に集まり講中と共に酒肴を交わしながら年間行事や農事の相談をしたとのこと。

黒石寺の蘇民祭とは違い、だいぶ以前から運営の仕方が変わってきている裸参り、

久しぶりでの裸参りを見ながら、色々と考えさせられました。

 

お振舞の甘酒、御馳走様でした! 笑

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遠野町家のひなまつりと

2024-02-26 16:18:54 | 民俗

やはり素直に春にはならないようで、先週後半から冬到来です。笑

 

足元が悪なった先週後半、元の職場の新年会。

それまでは12月辺りだったので忘年会でした。笑

 

乾杯! 所長を含め、この四人で何十年と結構な仕事をしていました。

 

恒例により、其々の家族のことと健康がメインテーマです。

中でも所長と私は、大変だったここ一年。

 

 

入院していたこともあり、退院したら何が食べたかったかという話では、二人とも鰻。

 

所長は入院した郡山で、一番美味しいと評判の老舗でうな重を食べたそうです。

一方の私は、お蕎麦にセットのうな丼(カットうなぎ一切れ)でした。(;^_^A

そんなこんなの話をしていたら、一口うな丼が出てきてのには、びっくり!

9時少し前、また健康で会いましょう~!

 

と、云うことで、まだ仕事中の時々愛妻に拾って貰うまでの間、一人で二次会へ。

ミイラ取りもミイラになって帰宅です。笑

 

先週土曜日は青空が見えたことから、散歩を兼ねて町中のひな祭りへ

 

何十軒もの商家でひな人形を展示していた頃と違い、観光バスが何台も来る時代は終わり、

 

ご夫婦や友人と一緒に、と云った具合で少人数単位ながら、来て頂き感謝です。

 

蔵の道ギャラリーでは、まだ帰っちゃイヤ~ンと云われました。笑

 

有料ながら見ごたえのある博物館のおひなさま

 

これ以上はお見せしませんが、310円払う価値はあると思います。

 

時代ものの人形が無い場所では吊るし雛。これはこれでいい感じです。

 

瀬戸物屋さんだった場所では、ご覧のような広告絵がありました。

そこに新里嘉助の名前。

嘉永年間に軍馬育成と献金により遠野南部家臣となったのが新里庄右衛門(初代善兵衛)、

その三代目庄右衛門の娘と嘉助が分家となり、古着や陶器販売を営んだのが広告絵の店。

絵の嘉助は、おそらく二代目嘉助かと思います。

この嘉助家や庄右衛門家などの遠野新里家から国華や浜千鳥、岩手商工が生まれます。

 

別な場所での興味深いもの。雛飾りのひとつだと思いますが、三味線。

バチには向かい鶴紋があり、三味線の胴には遠野南部家の裏紋の丸に九曜紋と、花菱紋。

花菱紋をよく見ると、一般的な花菱と違います。

南部変り花菱、正式には日輪花菱と云うようです。

参勤交代には盛岡本藩の家臣の他、遠野八戸氏(遠野南部家)の家臣も参加。

その際、本藩家臣と同姓の遠野家臣が同じ家紋の使用が認められないということで、

陪臣である遠野家臣には、この南部変り花菱紋の付いた羽織が貸し与えられたそうです。

明治維新にて遠野南部家が禄を離れる時、遠野南部家臣には家紋の入った品を、

本同心衆にはその看板羽織が下げ渡されたと云います。

 

3月5日まで町家のひなまつりは開催されているようなので、

寂しくなった通りを賑やかしに散歩してみては如何でしょうか。

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