昨日10月7日(日)、第33回殿ヶ谷まつり本祭が開催されました。
まさかの「夏日」。朝からギラギラと日差しが照り付けるなか、恒例の子ども神輿渡御・トラック屋台巡行が行われ、大勢の子どもたちが集まって、賑やかに町内を巡りました。
ここ10年ほど、本祭は御神輿と山車が帰ってきたらお握りを配って終了という簡略スタイルが続いておりました。
しかし、今年はささやかではありましたが、かつての本祭のスタイルを復活させて、舞台を使っていくつかの出し物とカラオケ大会をし、模擬店も少し開きまして、10軒の農家が参加して農産物の直売も行いました。さらにお昼のまかないも、長年続いたコンビニおにぎりをやめて、手作りの焼きそばとフランクフルトが振る舞われました。
囃子連のこの日の活動も、多くの皆様のご協力をいただいて、事故なく終了することができました。
また、多くのご芳志も賜り、厚く御礼申し上げます。
そして、瑞穂・殿ヶ谷囃子連より、2名の師匠が応援に来てくださり、盛り上げてくださいました。
写真掲載と細かいレポートは後日にいたしまして、まずは終了報告。
殿ヶ谷まつりに参加されたみなさん、おつかれさまでした。
・・・ながーい追記・・・
こんなテンションのときじゃないと、こっ恥ずかしくて書けないネタでも少々。
たぶん初めて書きます。このブログタイトル「けやきと見る夢」の意味。
この殿ヶ谷まつりが始まったのは、昭和61年。
その2年前の昭和59年に、当時の子供会が手作り神輿で「殿ヶ谷こどもまつり」を行い、翌60年にも開催。その後は「殿ヶ谷まつり」に合流しました。
では、その前は?
といいますと、ずーっと何もしてませんでした。
神社の祭礼の日には、氏子が集まって、砂川四番の阿豆佐味天神社の宮司を呼んで、拝んでもらい、一杯やるだけ。
そういう「おまつり」が、約100年ほど続いてたのです。
でもね、ウチの神社にはあるんですよ、古い大きな御神輿が。
これがその写真。
「なんで担がないの、これ?」
子どもだった私は、親や祖父に聞きました。
「重すぎて、かつげないんだって」
子どもダマしのそんな回答だったことを記憶してます。
でも、その親も祖父も、自ら担いだことも、担いでるのを見たこともないんですからね・・・
その後、いろいろな人の口伝えの話や、図書館にあった資料などから、その神輿が担がれていた「おまつり」の様子がぼんやりと見えてきました。
当時は、五日市街道の北側の「殿ヶ谷」地区と南側の「宮沢」地区で、協力してお祭りをしていたようです。つまり殿ヶ谷の阿豆佐味天神社と宮沢の諏訪神社のお祭りを一緒に行っていたのです。
出し物は「御神輿」と「獅子舞」。この二つを、両地区の氏子が協力して行っていたんですね。
この獅子舞は、私たちのお囃子の獅子舞とはちょっと違うもので、立川の諏訪神社に奉納されている古式獅子舞のようなものと思われます。御神楽的なやつで、頭に直接、獅子頭をつけて踊るタイプですね。この獅子頭は、今でも宮沢の神社で保存されているそうですが、私は未だに見たことがありません。この「獅子舞」は、宮沢地区に五日市の養沢の出身者がいて、そちらの獅子舞を伝えたんだそうです。一説に、当時、殿ヶ谷に笛の名人がいたなんて話も・・・。
そのお祭りが、なぜ行われなくなったかは、いろいろな理由があったようですが、詳細は控えます。
あまり深く掘り下げないほうがいい部分も、きっとあるので・・・
いずれにしても、そのお祭りを見て覚えてる人が、もう、誰もいないんですから、わずかな「文字」の情報と、残っている実物を見て、どんなお祭りだったのか、想像するしかありません。
そうやって、いろいろ調べたり、想像していたある時、ふと気づいたんですよ。
「アイツらは見てたんだよな、そのお祭りを・・・」
そう。五日市街道沿いに、わずかに残る、かつての防風林の名残の大欅たち。推定樹齢200~300年のヤツラは、かつてのお祭りのときも、ここに立って御神輿や獅子舞を見下ろしていたはずなんですよ。なんだ、いるじゃん、見てたヤツが。
三十数年前、ヤツラはきっと思ったことでしょう。
「あれ?コイツら、またお祭り始めたぞ。」
十二年前には、
「あれ?コイツら、お囃子も始めたぞ。けど、ヘタクソだなぁ。」
今日の一枚目の写真は殿ヶ谷公会堂前(玉林寺境内)の様子。
手前の欅も大きいですが、お寺の屋根の向こうに見える欅が、おそらく殿ヶ谷で現存する欅でいちばん大きいと思います。
殿ヶ谷の長老であるその欅は、今年の私たちのお祭りを見て、どう思ったんでしょう。
「少しはマシになってきたじゃねぇか。」と思ってくれてるといいんですが・・・。
いつもこの欅に見守られながら練習してる、私たちの囃子連のブログタイトルを考えたとき、こんな私の妄想から、
「けやきと見る夢」と名付けたんです。
あーはずかしい。もう寝ます。