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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

ナショナル・トレジャー リンカーン暗殺者の日記

2007年12月23日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズ梅田>

 ナビオの満員のエレベータ内で女子高生がヒソヒソ話しをする。「勉強ができるのと、頭がええのって、全然違うやんかあ。」「そうやな。」「あの子、めっちゃ勉強できるけど、頭悪いわあ。」・・・私が30を過ぎて言葉にできたこの台詞を、我が子のように幼い女子高生が短い言葉で語る。その先を聞きたいが、直通エレベータは、あっという間に8階のロビーについた。

 朝一の本作を観終えた大学生らしき男衆数人が話している。観る前に聞きたくないが、耳に入ってくる。「あのハゲのおっさん、なんで最後にあんなんなったん?」・・・あのハゲのおっさん?エド・ハリスしかいない。そんなあ!エド・ハリスのことを「あのハゲのおっさん」とは!

 「アース」のポスターの前で、OLらしき二人が歩きながら、「アースやて。」「しょうもな!」と、トイレへ向かう。一人でいると、話す相手がいないので、いろんな人の声が耳に入ってくる。感心したり、憮然としたりしながら、開場を待つ。今日も、早めに予約したので、プレミアムシートである。「次回のナショナル・トレジャーは、満席となりました。」というアナウンスが流れる。

 1作目は先行オールナイトで観た記憶がある。それも、座席数の少ない東宝系の「敷島シネポップ」というところで、後に、本作が興行的によかったのか悪かったのかはわからない。前作は、2時間の上映時間に対し、多くの情報を詰め込みすぎていて、スピーディな展開なので、私はついていくことができなかった。それほど話題にならなかったような印象があるけれど、第2作目は大宣伝で、テレビ予告も半端な数ではなく、また、東宝だけではなく、松竹と東映のシネコンでもやっている。パート2の方が力を入れている気がしているけれど、敢えてなのか、「ナショナル・トレジャー2」とはしていない。今日の夜、第一作が地上波でオンエアされるが、第一作を観なくてもよいように作られている。「インディアナ・ジョーンズ」のように、話しがまったく違う。どちらを先に観てもよい。作品の内容は、「インディアナ・ジョーンズ」に似ているのだが。

 正直言って、私の頭の脳力では、前作のように、情報量が多い上にスピード感があって、ちょっとついていくことができない。これは私の観る能力の低さにあるのだけれども、懸命に追いかけていくという自分の中の作業をこなしながら、それでもとても面白い。一流の作品だと思う。ラスト近くに出てくるあの巨大なセット、大洪水なんて、ハリウッドにしかできない自慢のシロモノを用意して、私たちの度肝を抜く。インディアナ・ジョーンズを思わせるが、それでいいのだろう。制作者の意図でもあると思う。前作の謎解きより、さらに大きな仕掛けが用意してあるからか、さらにエンターテイメント性があるからか、本作をお正月の大目玉にもってきたのが頷ける。アメリカならではの凄まじい映像、音響、編集技術・・・。世界の皆様、これがハリウッドだぜ!と、ニンマリされた気分。

 「あのハゲのおっさん、なんで最後に・・・」と言われたエド・ハリス。昔からエド・ハリスは、こういう役が多い。悪人だけれども、最後まで悪人にはなり得ない男。渋くて格好いい。悪いのか?と、思わせておいて、最後は助けるなんて、エド・ハリスの適役。でも、エド・ハリスがこういう役をやると、しばらくすると、ちょっと態度が変わるんじゃない?と、映画をたくさん観ている者には、はじめからわかる。そういう意味では、適役ではないのかもしれないけれど、わかるという楽しさもある。

 大統領の誘拐までもってきて、もう無茶苦茶で、絶対にあり得ない世界だが、そのあり得ないエピソードの連続性で、あり得ない集まりのかたまりを楽しむことになっている。こんなストーリーは、とても日本では創造できまい。そのままの設定でやれば、クソ真面目なシャレの通じない作品になりそうだ。こういう荒唐無稽な映画を、ドキドキと時間を忘れさせて鑑賞させてくれるハリウッドは、やはり悔しいけれど、羨ましい。時々、ハリウッドの悪口を書いてしまう私だが、それは、悔しさを込めての時が多い。  <80点>

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ナンバー23

2007年11月25日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

23  <なんばパークスシネマ>

 なんばには、「TOHOシネマズなんば」と「なんばパークスシネマ」の2つの大きなシネコンがある。前者は、もちろん東宝。後者は、松竹と東映が共同で経営している。映画はシネコンにおさまって、映画館に行きたいけれど、仕方ないので映画室に行くけれど、腹を空かせていることが多く、売店で何がしかを買って劇場内に入ることが多い。そこで、いつも思うのだが、ホットドックもポテトもポップコーンも、TOHOシネマズの方が美味い。TOHOシネマズのホッドックは、しっかりしたフランスパンを使っているが、パークスシネマのパンは、昔、給食で食べていたやわらかい味気ないパンだ。ポテトは見るからに違う。言うならば、マクドナルドのポテトとモスバーガーのポテトほどの差がある。どちらもTOHOが勝っている。値段は同じなのに。だから、パークスシネマでは買いたくないけれど、他店で買った飲食物は持って入らないでくれと書いているので、売店で買うことになる。他店よりも何倍も高い料金設定なのだから、せめて、マクドナルドよりも美味しい食べ物を売ってほしい。高速道路のサービスエリアの食堂のように、食べさせていればいいという感じがイヤだ。

 日曜日の18時の回は、混雑するだろうと覚悟して入ったが、半分も席は埋まっていなかった。食指が動くような予告編で、これは、ダ・ヴィンチコード的な謎解きが待っているのかと思って、楽しみにしていた。ダ・ヴィンチコードは私は酷評していて、これは原作を読んで観たという馬鹿な行為をしてしまったから評にはなっていない。点数もつけなかったけれど・・・。だが、忌まわしい事象を数字に置き換えて考えていくと、すべて23につきあたるなんて、観る以前からワクワクする。緻密に計算されたサスペンスなのだろう。これからはじまる物語を想像しながら、味気ないポテトを口に入れる。

 冒頭から怪しげな音楽とともに、スタッフの名前と23にまつわる事象が紹介される。面白い手法だけれど、ここから私は無理があるのでは?と思った。タイトルあけから、23という数字に出合うまではいいけれど、出合ってからの流れが苦しい。23という数字は昔から言われているそうだが、ちょっとやり過ぎ、考えすぎだと思う。それそのものが23であれば真実味があるのだけれど、足したり引いたり割ったりと、とりあえず23にせねばならない進み方に、私は愕然とした。多くの並べられた数字をばらばらにして足すなんて、そこまですれば、23にいきあたるかもしれない。まったく違っても、それはそれで足したり引いたりすれば、納得できる別の数字が浮かび上がりそうだ。2000年を迎える前は、ほとんどが1という数字が頭にくるし、西暦でなくとも、いろんな暦を探せば、いつしか23になるだろう。日本ならば、明治、大正、昭和、平成と1が多く使われる。それ以前は、もっと短い。すべて何かにあてはまる。23にまつわる事件のみをピックアップすれば、23の大集合になろう。

 そんなことを思いつつ観ていたものだから、眠気が襲ってきた。どうでもいいことを長々と解いていて、いつまで続くのかと憤然とする。しかし、この23というキーワードは、ジム・キャリー演ずる男の過去にすべてがあったところから、話しがグンと面白くなる。面白くはなるけれど、この手法は、これまでにも何度か観てきた観があり、特別、びっくりするものではなかった。グンと面白くなったのは、23に執拗になる主人公の長いエピソードがあったからで、眠気を飛ばすだけの力だけはあったという程度しかない。これを知る為に、1時間半も23を観続けさせたのか・・・。物語、主人公の過去はよくできているのだから、もうひとひねりして、前半を端的に展開させれば、秀逸のサスペンスに化けるかもしれないと、私は思った。ジム・キャリーは、コメディからはなれ、こういう作品を選ぶようになったけれど、過去のコメディ作品が優れたものが多いだけに、残念だなと思った。

 本作は、シネマスコープである。予告篇のときはヴィスタサイズだったから、てっきりそのまま横に広がってくれるのだと思っていたら、なんとまあ、横幅はそのままで、上のカーテンだけがおりてきて、ただ横長になった。これでは、ヴィスタサイズよりも面積が小さい。こじんまりしたシネマスコープだ。たまにあることだけど、これでは、広がりのあるシネマスコープの楽しみがまったくない。少なくとも「なんばTOHOシネマズ」では体験していない。売店の食べ物だけではなく、東宝と比較すれば、劇場スクリーンにも難癖をつけたくなる。私は久しぶりに、アンケート用紙にそれらのことを書き綴ったが、読んで笑われて捨てられるだけだろう。それがわかっていても、書きたく、伝えたかった。  <50点>

 

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ナイト ミュージアム(日本語吹替版)

2007年03月27日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

__7  <ワーナー・マイカル・シネマズ 千葉ニュータウン>

 都心から電車でわずか1時間だが、電車を乗るときと降りたときでは空気のにおいが違う。東京で乗るときは気づかないが、千葉ニュータウン中央で扉が開き、プラットホームに立つと、すーっと鼻が通り、気持ちがいい。この地も急げ急げと大開発中だが、まだまだ土地が活きている。もう少し奥へ入ると、蛍も見られ、土筆も取れるという。土筆、ぜんまい、わらび、セリの順番で絶滅していくから、人間の手のつけられていない場所があるのだろう。井戸水も飲めないことはないという。この先10年後、すべて絶滅して、井戸水も禁止になることは容易に考えられるが、地球破壊の立役者であるゴルフ場に蛍を放つ活動も積極的に行われている。

 三泊四日の予定でやってきたが、七泊八日になってしまった。今日の夜はホテルに泊まるが、明日の朝、大阪へもどる。あまりほったらかしにしていると、私の座る席はなくなる。こんなに休むなんて、普通のサラリーマンでは絶対にできないことだが、自由業にかぎりなく近い私は、かなり融通がきく。遊ぶ為に七泊八日なんて、新婚旅行じゃあるまいし、盆や正月じゃあるまいし。しかし、こういう仕事に就いていてよかったなとも思う。昨日の映画には申し訳ないが、私たちは、昨日の口直しのつもりで映画を観ようと決めた。口直しになるかどうかは観るまでわからないが、肩の凝らない作品を観たい気分である。

 世界の歴史を薄っぺらくとも、広く知っていくと楽しめる娯楽映画だ。このくらいの世界史は誰でも知っていると思うのは間違いで、意外にも知らないのが現状である。人物の名前は知っていても、その人が何をした人か、どの年代に活躍した人かを知らない。今から30年前に公開された「メル・ブルックスの世界史」も、時代や背景を知っていれば痛快に面白いが、知らなければ何も笑えない作品である。メル・ブルックスまではいかないが、本作もそられを知識として備えておく必要がある。私は場内を見て、それを思った。ある理由で吹き替え版を観たが、小学生にも満たない子供たちでいっぱいだ。動物や蝋人形が動くのは楽しいだろうが、それだけにとどまるのではないだろうか。だったら、本作の上映時間は長すぎる。はじめは黙って観ていた子供たちも、1時間を過ぎたあたりから喋りはじめた。クライマックスに向かうあたりは流石に黙ったが、動かないものが動くというびっくりに飽きてきたのは明らかだった。私は字幕スーパー版ばかり観ていて、吹き替え版はとりあえず嫌うが、吹き替えも、観客の反応を見るのは面白いものだと思った。

 現代社会の構造、親子の絆・・・底辺にテーマは流れるが、流さなきゃ背骨を外されるからだろう。背骨を外されたら、博物館のあらゆるものが動くバタバタコメディだけになってしまう。発想はそこからなので、なってしまってもいいと私は思うが、連れてきた親が許さないかもしれない。織り交ぜてうまく展開させているが、ありきたり過ぎて、どうでもいい。設定は違うが、何度も何度も観てきたと思った。博物館は別として、親子のラストは、頭に浮かぶ。

 毎日、遊びすぎて、正月気分だが、明日から仕事だ。長く仕事をしていないと、元に戻れないような気が、いつもする。何もできないただのオッサンになっているのではないか・・・調子がでるまで、しばらく時間がかかる。良いことか悪いことか、おっかなびっくりで、私は日々、仕事をしている。 <70点>

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長い散歩

2007年01月31日 23時55分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_207  <梅田ガーデンシネマ>

 仕事がないわけではない。やらなければならぬことはたくさんある。しかし、やらなければならないことでも、今日でなくともよい。他人が困るならばやるが、後で自分だけが困り、困っても頑張ればできるのであれば、今日は休日にしてしまおう。「長い散歩」の上映スケジュールを見て、そう決めた。

 奥田瑛二監督の前作「るにん」は、私は大好きで、小さなプロダクションがよくここまで大きな映画を作ったなと感心した。脚本は予算を無視したものである。奥田瑛二主演を多く制作した松竹に、自ら制作と配給を頼みに行ったが、ケンモホロロに断られたという。奥田瑛二主演で儲かった映画もあった。松竹の映画部門は、とても情がないと私は思った。「るにん」は奥田瑛二自らが大借金をして制作したが、大手は配給してくれず、結局、ロードショーという形で封切った。私は「第一回おおさか映画祭」で封切り前に鑑賞させてもらう機会を得たが、ダイナミックな時代劇映画が最近なかったことを思わせるほどだった。とても映画的であるが、2時間半の緊張感がたまらなくよかった。松坂慶子が20年ぶりに生き返ったとも思った。当たり前だが、映画監督はラストカットにとてもこだわる。観たすべての人が、このラストカットを覚えているのではないだろうか。そのカットをみせた後のカットアウトも抜群だ。フェードアウトさせたら、印象は半減しただろう。

 奥田瑛二の映画が観たい。「長い散歩」は待ちに待っていたのだが、また、ミニシアターである。大阪では『梅田ガーデンシネマ』『第七藝術劇場』のみで、早々と済ませようとしている。今週から一日中、やらなくなった。朝の2回だけで、来週からは朝の1回だけになる。そんなにチビチビやるなら、全国の映画ファンのために、早くロードさせてしまえばいいと思うが、他館にもスケジュールの都合があるのだろう。こんな上映方法ではとても儲かるまではいかない。「るにん」の大借金はどうなったのかといらぬことを思う。

 10年前ならば、子供をほったらかして、いや、殴る蹴るして、晩御飯代を投げつけて、ヒモを家の中にいれて我が子の前でセックスして・・・こんなことは特殊な世界で、有りえないこと、完全なる空想から生まれた物語だったろう。しかし今、こういう生活、こういう男や女はあり得る設定なので、すんなり映画に入り込むことができる。現在の社会、家庭、人間をぶった切っているのだが、押し付けはしない。考えてみる必要はあるのではないかと言っているようだ。 自己の悔いる過去を持つ緒方拳のどうしたら解決できるか、いやほうって置こうか、それでも気になる・・・このあたりの台詞なしの大袈裟ではない表情は、もう、敬服する演技力である。やっぱり、そんじょそこらのオッサンと違い、見た目の恰好ではなく、精神的に貫禄がある。

 物語は、チラシの裏側を読めばわかる。それがすべてである。だが、その単純な物語に、監督のこまかな気遣いが伺える。あれは何だろうか。ただ、丁寧に撮っているだけであるのに、間や呼吸にとても気を遣っている。この間、呼吸が気持ちいい。はじめの荒んだ気持ちがきついから、とても柔らかい気持ちにさせてくれる。緒方拳の気持ち・・・遠ざかる背中にエンドロールが流れるが、爽やかな印象を残してくれる。私は独身でオッサンで一人暮らしだ。もし同じ状況があったとしたら、私も同じ行動を取りかねない。そう思わせる佳作であった。 <70点>

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NANA2

2006年12月09日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

Nana2_1  <TOHOシネプレックスなんば>

 朝から映画を観ようと、前日の夜にカプセルホテルに投宿する人は少ないだろう。朝一から観たいならば、朝早く家を出ればいい。だが、なまけものの私は、起きてぼーっとしている事が多く、観たかった映画を観逃してきた過去がある。半端でなく多い。以前、bobbys☆hiro☆goo☆シネプラザ の bobbyshiro さんにお会いしたとき、「観たいと思っても休日の時は腰が重いときもありますからね。」と仰っていた。なまけもので、いい加減に生きてきた私は、この言葉そのもので、休日にあれこれと用事も済ませず、やらなきゃならないことも見過ごし、寝転んで、そのあたりに積み重ねている昔の本を何気なく読んでいると、どんどん時間が経ってしまう。日曜日などは「笑点」の音楽が聞こえてきたら、一日の無駄に焦ってしまう。ついに「サザエさん」の音楽が聞こえたら絶望的だ。これをサザエさん症候群というらしい。私はせめてもとレイトショーへでかける。日曜日は基本的に休みとしているが、記事を書いていない日が多いのはそんなでたらめの生活のせいだ。結婚もしていなく、子供もいないので、注意する者もいないが、これではいけない。いい大人が。そんなこんなの理由があり、私は以前より、カプセルホテルに泊まり、翌日の計画を立てることが多い。

 明日は全国一斉封切の三本をハシゴしようと思っている。立てた計画は9:30~11:50「NANA2」、11:50~13:25「オープンシーズン」、13:40~16:10「硫黄島からの手紙」となっている。元気があればもう一本観たい作品があるが、いつものように過酷なスケジュールだ。誰かと一緒だと、こんな時間は組まないが、一人の場合は効率だけを考える私の性格で、なかなかいい。9:30~11:50・11:50~13:25・13:40~16:10で、一本目と二本目はケツカッチンだ。列車ダイヤのように乗換えがスムーズだといいが、シネコンの終わりはきちんとしていない。早く終わることは少なく、多くは約5分遅く終わるようになっている。まあいい。土曜日の朝からスリリングで、こういう計画を立てると身が引き締まる。

 サウナと冷水を交互に繰り返し、天然温泉につかって、のんびりしすぎ、3時に寝た。サウナ&カプセル「アムザ1000」は、9時に起きても十分、シネコンの9:30の回には余裕の位置にある。私のよく止まる「アムザ1000」は、ロッカーを一新し、きれいになっていた。私はここに10年以上前から度々泊まっているが、浴室、浴槽は改装をくりかえしてきたが、ロッカーをいじったのははじめてだろう。Hi380060 新しいロッカーであるが、キーは従来のままだった。ここらあたりがなんとも大阪らしい。ロッカーは、小さなワンルームマンショHi380062ンに設置してありそうなクローゼットのようだ。アルミの殺Hi380061_2風景なモノより、木作りは温かみがある。カプセルの数は変わらないから、ロッカーの数も変わらないはずで、私は前の並びの数を覚えていたので、数えてみたが、同じだった。だが、これまでのものより横幅が大きく感じた。見た目というのは不思議なものだと思う。

 9時に起きるつもりが、左足で右の壁を思いっきり蹴り上げた勢いで目が覚めた。私は寝相が悪いらしい。カプセルはいびきは聞こえないが、隣から壁を叩かれたり蹴られたりすると、大きく響く。何十回も泊まっているが、私は隣の人に迷惑をかけてきていたのかもしれなHi380064 い。目覚めが良く、時計を見たら7時半だった。もう一度、朝風呂に浸かHi380065る。安いカプセルホテルだが、朝風呂は贅沢な気分になHi380066 る。広いコーナーも人が少ない。露天風呂も貸切状Hi380063 態で、人目を気にしつつHi380067_1 泳いでみたりする。お風呂で遊んでいたら、朝ごはんを食べる時間がなくなり、9時。ちょっと慌て気味なおももちでTOHOシネマズなんばへと歩く。ここからあるいても3分。走れば1分30秒、全速力なら1分はかからない。若い頃はよく全速力をやったなと思う。電車の駆け込みもよくやった。今の私は電車の駆け込みを馬鹿馬鹿しく思う。5分早く着いても、遅れて着いても、いいことがあった例がない。

 はじまって30分経っても面白くない映画は駄作であると私は思う。その典型的な映画が本作ではないだろうか。前作「NANA」は抜群であった。これは奈々を演じた宮崎あおいの魅力がかなり大きく占めているわけで、物語としてだけならば平凡な作品に過ぎない。特別な撮り方もなく、派手でも地味でもなく、映画の魅力を宮崎あおい一人がもっていっている。この天才的女優に棒読み素人の中島美嘉を配したことで、さらに映画は生き物となった。私の手帖には「NANA(85点)」となっている。映画ファンや映画に詳しい方は宮崎あおいをご存知だったろうが、誰でも知っている一般的に知られる女優にしたのはやはり「NANA」だったろう。この出演によって、女優としてさらに開花した。宮崎あおいをテレビで安く見るのはイヤだから、私は朝の連続ドラマを無視した。私はそれくらいこの女優を重く思った。

 物語としてのパート2は、出会いのあるパート1よりも劣るのは仕方ないにしても、私の頭の中の奈々は、宮崎あおいである。どこかで「ただ、君を愛してるの出演が決まり、パート2を断ったらしい」という記事を読んだが、松田龍平はまだいいとして、宮崎あおいを市川由衣にして、みんな納得するのだろうか。私はまったく納得できなかった。奈々は宮崎あおいであり、宮崎あおいは奈々なのである。そもそも市川由衣は宮崎あおいのように器用ではなく、陰りのある笑顔をみせる女優である。違うとは思うがあえて書くと、渥美清が亡くなって別人で「男はつらいよ」を作ることができないのに似ている。大袈裟だと聞こえてきそうだが、パート2、パート3を作るのならば、映画の中の奈々は宮崎あおい以外、いないと私は思っている。そこまで印象付けた女優だった。パート1公開後の宮崎あおいの活躍が物語っている。

 そういう考えで本作を観続けると、市川由衣が苦労しているのがわかる。宮崎あおいらしく演じているのだ。自分色を出してしまえばそれはそれで評価できるが、パート1の奈々をそのまま表現したかったからかもしれない。監督が宮崎あおいの芝居をそのまま要求したのではないか。市川由衣が困っているのが、スクリーンから伝わる。こんなことあってはならない。市川由衣には失敬な言い方だが、宮崎あおいのスケジュールが押さえられなかったのならば、待つべきだった。これは、東宝の儲け主義が最も悪い。確かに全映画会社の中で、東宝は他社と比較にならぬほど、ダントツの興行成績をおさめていて、ほとんどの作品に観客が集まるほど、宣伝が上手いのだが、ここまでする必要はない。私はうつむき加減でロールスーパーを観ていた。

 時計をのぞくと11時53分。次の映画が11時50分だから、遅刻だ。ロールスーパーが終わり、場内が明るくなった。カプセルホテルから劇場まのんびり歩いてきたが、私は慌てて8番スクリーンへと走った。 <30点>

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不滅の時代劇傑作選5-3

2006年11月24日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

52 <高槻松竹セントラル>

Photo_152 幕末残酷物語

<60点>

  

Photo_153 日本暗殺秘録

<80点>

 

 18時45分の上映に間に合わせるべく、17時30分に仕事を抜け出す。抜け出せる状況にあり、やや余裕があるからだが、映画を観るために仕事を抜け出す大人を私は良いとは思わない。すなわち、私である。 いつもの高槻に18時過ぎに着き、上映まで時間があるのでTOHOシネマズ高槻のロビーへ上がってみる。今日も客はまばらだ。携帯電話のEdyにいくらばかりかを入金し、高槻松竹セントラルへと、JR高槻駅構内を通り抜ける。JR神戸線(山陽本線)で、人身事故がおきたらしく、ダイヤが大幅に乱れているようだ。乗客が改作口でごったがえしている。ダイヤが乱れるというより、全線、止まっているのかもしれない。鉄道の人身事故(自殺の場合)は、後にのこされた家族が金銭的に痛い目に遭う。亡くなった悲しみもそこそこに、とんでもない賠償金額を請求されるのだ。場所によって異なるが、1分ン万円で賠償請求されるという。時間によってはン千万円も払わねばならず、これは親族が支払う。利息はないし、払えなければ鉄道会社はいつまでも待ってくれるが、子供で払えない場合は孫が引き継ぐ。いやでも気に入らなくても、そう決められている。鉄道の自殺、踏切の事故は、後々にとんでもないことになる。新幹線で数時間も止めてしまったら、ン億円の請求が発生する。私は鉄道ファンだが、とても恐いものだと思う。

 高槻センター街へ。こんなところに映画館が?の「高槻松竹セントラル」の狭い階段を上がる。もう何度も来ているし、作品が作品だし、観客は少ないのはわかっている。10分前に着いてもロビーで待たされた。数人のおじさん、おばさんが出てくる。こういう作品は若い人は少ない。映画を勉強したり、よほどの映画好きでないと、こういう特集上映に人は集まらないだろう。それでも12月はマキノ監督の「清水の次郎長全8作一気上映」1月に「傑作サスペンス特集」を控えている。私の生まれる前の映画を定期的に観ることができるのは、「高槻松竹セントラル」と「九条シネ・ヌーヴォ」くらいだろう。古い映画はDVDに頼るしかないが、ここでかけられる作品は、ビデオになっていないものが多い。もう、一生、映画館で観る機会はないと思うから、無理にでもやってきた。あいかわらず人は少ない。10人もいない。

 新撰組を知らず、「幕末残酷物語」のみを観ると、とんでもないエゴの塊のような人間を人間とも思わぬあってはならないモノだと思うだろう。本作は新撰組の悪いところばかりを取り上げて一本の作品としている。いい人はみんな斬首、切腹。悪い奴はのうのうと生き残る・・・近藤勇、土方歳三はとんでもない大悪だ。当時、悪役専門の西村晃(二代目水戸黄門)が土方を演じる。これが憎たらしい。この時代の西村晃が演じると、とりあえずは悪役だと思うから、土方歳三を徹底的に憎まれ役として描いている。しかし、先日観た岡本喜八監督の「大菩薩峠」では、180度違って善人の中の善人を演じていて、観客を裏切る。岡本喜八の配役は観客の心理を考えてあって、うまい。沖田総司役の河原崎長一郎・・・私は中年以降の普通の人、善人役しか知らないが、スタイルもよく、二枚目だ。新撰組を徹底的に悪の巣のように描いた作品は他にはないだろう。これを今作ったら、たくさんの反発を受けそうだ。

 桜田門外の変からはじまり、時代劇がはじまると思いきや、「日本暗殺秘録」は時代劇なんかじゃない。チョンマゲは頭の10分で、明治、大正と要人暗殺の歴史を次々と見せて、昭和初期に入る。大久保暗殺事件、大隈暗殺事件、安田暗殺事件、ギロチン社事件、血盟団事件。ここから本当のストーリーがはじまる。五・一五、二・二六にいたるテロ、クーデターへ導くまでが柱になっている。歴史劇ではあるが、時代劇ではない。この特集には不似合いな一本だった。それにしても豪華な俳優陣だ。若山富三郎、唐十郎、菅原文太、千葉真一、片岡千恵蔵、高倉健、田宮二郎、鶴田浩二、里見浩太郎、近藤正臣、藤(富司)純子・・・千葉真一が主役であるが、こんなマトモな頃もあったのだと思う。どちらの作品にも藤(富司)純子が出ていた。二十代で若い。私は顔を見ながら、誰かに似ているなと思っていた。あっそうか。富司純子の方が目鼻立ちがくつきりして美形だが、蒼井優にそっくりだ。「フラガール」で親子を演じていたのを思い出した。蒼井優は、若い頃の富司純子に雰囲気がよく似ている。

 22時45分。映画館を出てJRの駅へ向かう。5時間は経っているのに、まだダイヤは大幅に乱れていた。乗客があちこちで文句を言っている。世界一ダイヤの正確な日本の鉄道は、尼崎脱線事故という犠牲を出したが、その記憶が新しいのに、乗客にとって、ダイヤが乱れているのが不満らしい。あんな大惨事を思えば、ダイヤの正確性なんて、どうでもいいじゃないかと思うが、日本人は、鉄道の時刻は正確だと頭にあるので、1分や2分遅れただけで「何かあったのか?」と勘ぐる。1分遅れただけで「列車の到着が遅れましたことをお詫びいたします。」という車掌の車内アナウンスが流れる。乗り換え列車は待ってくれるはずだが、乗客はやきもきする。

 蒸気機関車(SL)を早く処分し、電化させてほしいと乗客は願った。電化された鉄道の時間を正確に、より速い列車を、乗換えをスムーズに・・・こういうことは鉄道会社が望んだことではない。乗客が望んだことであった。30秒も遅れると、プラットホームの客は、電車がくるであろう方向を「まだか?」と見る。腕時計を見る。 駅の電光掲示板、時刻表を見ると、分単位で出発時刻が書いてあるが、ちょうど00分00秒に発車するわけではない。都市部のダイヤは、15秒単位で動くようになっている。15秒の遅れは、後続の後続の後続の列車を1分遅らせる。それほど運転手はピリピリしなければならない。安全を第一に考えるとしながら、運転手は秒単位のストレスに悩まされる。今のままの運転で、いかに最新式の自動列車停止装置を線路内に配したからといって、安全性が向上するわけではないと私は思っている。勝手に止まってしまったら、運転手はその責任を問われる。減給処分、教育実習、自宅待機・・・大事故が起こり、それを私達はテレビで知り、心を痛める。だが、それを教訓に、列車本数を減らしてのんびり走っていたら、乗客にとっては不満なのである。尼崎脱線事故というあってはならない惨事があったのにである。単線を複線に、複線を複々線に、複々線を6車線に・・・用地買収して、線路を増やしていくしか手はないと思う。もしくは、5分や10分くらいの遅れで、乗客はごちゃごちゃと言わないことである。鉄道の旅をこよなく愛する私は、現在のニアミスのようなダイヤ編成、運べばいいのだという会社の姿勢を嘆いている。速く走らせる為には列車の重量を軽くしなければならない。大都市を走る列車は車体をアルミで作ってある。車体を軽くして高速で走る為だ。速く走る必要のなかった頃の列車は鉄製で、脱線転覆しても形はそのままのこった。アルミニウムは簡単に潰れる。アルミでなかったら、尼崎脱線事故のようにぺちゃんこにならなかった。車体に挟まれて、多くの命は失われた。鉄道会社の責任は大きいが、鉄道に高い望みを求めたきた者たちも考えねばならないと、あの尋常ではない潰れ方を見て私は思った。脱線転覆の画ではない。この世にあり得ない乗り物が事故を起こした気がした。  高槻駅に30分遅れで快速が入ってきた。アルミにストライプの色を塗っただけの味気ない列車である。そもそも、大阪から高槻まで15分という乗車時間は異常である。事故のなかった昔の時刻表をみると、30分かかっている。これが当たり前だった。早く着きたいのはわかるが、それでよかった。30分を半分の時間にする苦労は、危険と隣り合わせの技術を必要とした。在来線は新幹線と比較されるので、車よりゆっくり走っていると思うかもしれないが、時速125㎞なのだ。急ブレーキをかけると停止するまで800mも進む。

 日本中、どこでも走っていた鋼製の蒸気機関車。脱線転覆しても壊れないように作ってある。煤煙、遅い、ダイヤが乱れる・・・あれほど蒸気機関車に反対されて、乗客の為に、次々に消えていったのに、今更、観光用の汽車としてローカル線を再び走る。そして、大人も子供も高い運賃の新幹線に乗って、遠いローカル線を走る蒸気機関車に乗りに行く。

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ナチョ・リブレ 覆面の神様

2006年11月07日 23時00分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_135 <敷島シネポップ>

  周防監督は「シャル・ウィ・ダンス?」で一財産築き、死ぬまで安泰なのでもう引退したのかと思っていた。痴漢による裁判をテーマにした「それでもぼくはやっていない」が来年の頭に全国公開される。犯人なのか冤罪なのか。人が人を裁くにあたって、これまで多くの冤罪を生み出してきたろうと思う。冤罪によって死刑に処された人は死んでからどこへ行くのだろうか。と、こんな話は今はどうでもいいのだが、火曜日の朝の敷島シネポップは、ガラガラで、若いかわいい女性と私の二人だった。敷島シネポップは大阪のミナミの繁華街の中でももっとも賑やかな場所にある。朝は観客は少ないとはいえ、二人とは寂しい。ホッとしたくて選んだ映画だが、私の指定席は、その女性の真後ろになっている。劇場内に二人しかいないのに、知らない男女が縦に並んで観るのはスクリーン側から見て滑稽である。男女といっても、女性は美しく若い。男性はしょぼくれた中年のおっさんである。真っ暗の中の男女である。こういう状況であったから、周防監督の新作を思い出したのだった。

私は痴漢をしたことのない人間だが、ぎゅうぎゅうの満員電車で若い女性と向かい合ってしまった時はドギマギする。男性の痴漢願望は95%だという。誰もが痴漢をしてみたいと思っているようだ。私も95%の中の一人で、痴漢したいという気持ちはわかる。わかるが理性がそれをさせない。私の場合、これまで理性が勝ってきたし、ほとんどの男性が理性に勝ってきたのだろうが、古くから痴漢電車ポルノはたくさん作られてきた。たくさん作られたのはヒットしたからである。アダルトビデオでも痴漢シリーズは人気があり、毎月、数本の新作が出ているという。痴漢をした経験のある男性は60%だという。ほとんど理性に負けている。これだけ痴漢経験のある男性がいるから、満員電車ではあちらこちらでそんなことが起こり、触った手と違う手を掴まえて「痴漢です!」ということもあるだろう。痴漢している男の心理を思うと、一瞬で手を引っ込める体勢だろうから。こんなことを書いているけれど、痴漢を擁護する気持ちはさらさらない。

満員電車内で、女性の胸が私に押し付けられて身動き取れない、私の股間に女性の膝が押し付けられた場合などは最も困る。そういう時は、両手をあげて、組むことにしている。痴漢と間違われたくないからだ。痴漢の場所の一位は電車内だが、第二位は映画館である。監視人もいない、映画館という閉鎖された環境下、みんなが一方向をみているという状況下では、そういう目的の人も多いのかもしれない。私はこれまで4回、女性がスクッと立って、出口へ走るところを見ている。

映画とは関係ないことをだらだら書いたが、現在おかれている私の状況で、前の女性が悪戯で「痴漢です!」などとロビーに走られたらたまらない。世の中はおかしさ極まっているので、そんなことを思ってしまう。私は予告がはじまって、一番後ろの端に移動した。女性は私をちょっと見たが、スクリーンへと顔をもどした。遠い距離になったが、男性ならばいいが、若い女性とおっさんの二人だけというと、そういういらぬ心配をしてしまう。

ジャック・ブラックという俳優はとても個性が強い。前作の「キングコング」ではジェシカ・ラングの印象が強いが、新作の「キング・コング」は、ナオミ・ワッツよりジャック・ブラックの印象をのこす。主役を脇役を食うのはよくないが、「キング・コング」は、はたして誰が主役かわからないので、あれでいいのだろう。多彩で多芸でいろんな顔を持っている男優だと思う。「スクール・オブ・ザ・ロック」で強烈だったので、本作では驚かなかったが、私は「キング・コング」の芝居に驚いた。相手の女優、スペイン系のような顔立ちだけれど、とてもきれいな女性。どこかで見たような気もするが、覚えていない。ひところ、「ペネロペ・クルス」が話題となり、スペイン映画が輸入されていた時期があり、顔だけの記憶を辿っていっても頭がゴチャゴチャになるばかりだ。昔からそうだが、コメディにはどういうわけか、美人女優を一人、配する。

本作を観ながら「ブルース・ブラザース」を思い出した。主人公の目的、果たす為の手段を選ばぬという行動が似ている。「ブルース・ブラザース」はミュージカル、コメディ、アクション、パニック・・・ロードムービーの大傑作で、映画史にのこっているが、本作はさほどの出来ではない。ジャック・ブラックの一人芝居を存分にみせてくれるが、笑いもそこそこに、その悪戦苦闘だけが印象に残った。他館でも人入りが悪いようだが、それでもいい。ただ、少しでも観客をいれようと思ったら、こんなタイトルではいけない。映画が好きな私でも、こんなタイトルでは食指は動かない。「どんな内容だろう?」と少しの興味はひくべきものにしなければならない。また、邦題にする場合、タイトルは一目見て、記憶させねばならない。若い人なら覚えるだろうが、老若男女を思うと、平凡なのに、何度見ても思い出さないタイトルだ。 <45>

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虹の女神 Rainbow Song

2006年10月29日 23時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

Rainbow_song <TOHOシネマズなんば>

 朝一の9時50分を観ようと計画を立て、2時に寝た。9時に起きれば十分間に合うから7時間も寝ることができる。そう思ってカプセルに入ったが、起きて時計を見たら9時40分だった。そんな馬鹿な!とあわてて起き上がり、カプセルの天井に頭をぶつけてロッカーへ走る。どうしてこんなに着てきたのかと腹立たしく着替えて、表に出たのが9時58分。ここから走れば9時53分には着くだろう。しかし、チケットと引き換えたり、劇場内にたどり着くタイムはどんなに早くても10時5分あたりだ。CM、予告篇がどのくらいあるかはわからないが、私は出てきたカプセルホテルを見上げ、朝一を諦めた。難波、道頓堀をあてなく歩く。こんなことならカプセルホテルのロビーでゆっくり珈琲でも飲んで過ごしたらよかったと思った。

 いつも私のブログへやってきてくれていた映画、映像の勉強をしている芸術大学生がある日、ぴたりとこなくなった。私は相手のことも考えず「芸大で映画の勉強をしても大した学びにはならない。現場へ出て肌で感じてスタート地点に立てる。」という風なことをコメントしたからである。それ以来、彼は私のブログから消えた。浅はかで気配りのないコメントだったと今も時々思い出す。「同じ学生と映画を語り合うことが人間の成長につながる」「芸術大学は個性の強い者の集まりだから刺激を受け自分のものにすることができる」・・・いろいろ言いたいことはあったが、後から言ってもウソっぽい。吐いた唾は飲み込めない。傷ついたろうと今も悔いている。本作は大学生が映画を撮り、映像世界に羽ばたきかけるまでの時間を撮っている。

 「宮川一夫みたいになりたかったですよ!」という台詞が何となく出てくるが、こういう台詞は映画に詳しい人しかわからないだろう。私が芸大に行っていた頃、宮川一夫が講師だった。当時は何も思わなかったが、今考えると、脚本家の依田義賢、カメラマンの宮川一夫、森田富士夫、評論家の滝沢一と豪華な顔ぶれだった。私は小学生の頃から映画監督を目指していた。芸大に入り、個性の強い連中と仲間になり、私は監督をあきらめ、脚本家になる夢を抱いた。それでも8ミリで2作品を監督した。大学4年、2時間のロング映画をみんなで撮った。私は監督は諦めていたので、脚本を書いた。脚本執筆に2ヶ月、準備に2ヶ月、撮影に6ヶ月、編集に1ヶ月。ほとんど1年かかった。この映画に出てくるフジカのZC-1000で撮った。当時の最高峰だった。

 8ミリには2つのタイプがあった。フジカのカメラはシングル方式で、フジフィルムを使用し、同録はできない。主にキャノンのカメラはスーパー方式で、コダックを使用し、同録可能である。ZC-1000にスーパーのコダックは入らない。これはあきらかな間違いだと思って観ていたら、フジフィルムのカセットを分解し、コダックのカセットに巻きなおして写しているのだという。こんな細かい話し、8ミリで撮影した人、作品を作った人しかわからない。よほどのフィルム知識がいる。誰にもわからないことをすらっと言う。突かれないように説明したのだろうが、スーパー(コダック)の質感がいいというのはわかる。これも見比べてみた人にしかわからないのだが・・・。

 本作中で、新人がサンドバックのように殴られ、怒られてばかりいるシーンが度々出てくる。つらそうだが、この描写は大袈裟ではない。映画なら助監督。テレビではADである。大学卒でも給料は相場の半分、365日のうち休みは20日くらい、徹夜はしばしば。これが私の現実であった。甘やかされて過保護に育った私は苦しんだ。こんな地獄はないと毎日思っていた。同期の連中が集まると先輩の愚痴を言った。同期の10人に8人は逃げ出したが、最も精神力の弱かった私はどういうわけか残った。あれだけの苦しみに遭ったのに、ディレクターになった同期の友は新人を自分がされたと同じように扱った。私はできなかった。優しく接したというより弱かったのだろう。新人に文句は言わなかった。やられた苦しみの体験を新人に味あわせたくなかった。本当は厳しさが優しさであるのだけれど、私にはできなかった。そういう意味も含めて、私はディレクターに今も向いていないと思っている。しかし、私に慕ってくる新人が多く、そういう部分は恵まれた。今はバラバラになったが、15年以上前の後輩から年賀状はくるし、時々電話もある。なぜ結婚しないのかと言う後輩が多い。それは私にもわかりかねている。

 ストーリーに直接は関係しないが、相田翔子のエピソードが抜群にいい。こういう女性を演じるようになったのかと驚きもした。家族ぐるみで摩訶不思議な切ない生き方をしている。私は誰にも話した事がないし、ブログに書くのもはじめてだが、こういう経験をさせてもらっている。私が相田翔子側ではない。相手である。43才のオッサンに39才のオバサンがストーカーしている。もう一年以上、悩んで困っている。「ウソをつきすぎて事実と思い込む」「毎日のように電話してくるし出ないと20回くらいかけなおす」「自分が不利になると話題を変えたり相手のせいにする」・・・嬉しくも楽しくもなく悲痛の1年以上を過ごしてきた。すぐばれるのに虚言癖がひどい。辟易しているが、待ち伏せや電話で私を苦しめる。諦めて結婚するなんてできない。ならば、一生、独身でいたい。こんなオッサンにストーカーがいる。相田翔子のように「じゃ、さよなら。」とはならない。「もうしません。一生会わないから。」と言った次の朝に電話がある。固定電話番号をそろそろ変えようと思っている。と、ここまで書いて・・・話が完全にそれたと自分でもびっくりしている。

 さりげない台詞がいい。台詞がいい映画はいっぱいあるが、この映画の台詞はきれいなキャッチボールとなっていてうまい。「うーん」「はあ」「へえ」などという相槌をなるべく排除し、自分らしい自分の喋りを吐き出す。そして自分らしい自分の喋りで応える。これにはしっかりした細かなバックグラウンドを設定しておかなければならない。「どんな両親か、その性格と子供の育て方」「これまで生きてきた中で印象的だったこと、心に残った出来事」「趣味や嗜好が子供の頃から今までどのように変わってきたか」・・・たくさん書き上げる。書き上げて脚本にとりかかる。そうすると、どうなるか。脚本家自身にも予想できないことが起こる。ストーリーは決まっているが、彼女、彼らの台詞を書いていくうちに勝手に喋りはじめるのだ。自分の頭ではとうてい浮かばない台詞が出てくる。ある意味、脚本家は傍観者になってしまう。高校生の頃に脚本を書きはじめた私は、何度もこういう体験をした。勝手に行動したりして、ストーリーからかけ離れて困ったこともある。本作の資料を読んでみたい。膨大な資料ではないかと思う。

 台詞のキャッチボールに重きを置く為、市原隼人、上野樹里、蒼井優という3人を配したのだろう。まだ若く、自分の顔は出来上がっていないが、次世代の映画を背負っていく主演を張れる俳優である。そして、小日向文世、佐々木蔵之助・・・どんな設定でも成りきってこなす。特に小日向文世は3人くらいいるのではないかと思わせるほど、作品によって別人になる。このままいくと、大杉漣のように、名脇役として名をのこすだろう。 <85点>

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涙そうそう

2006年10月09日 22時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_115 <高槻TOHOシネマズ>

 ヒットしているようである。この二人のポスター、舞台は沖縄、目頭が熱くなるであろう予告・・・ヒットするのは馬鹿な私でもわかる。東宝はうまい。今年に入って、東宝はうまいと何度思ったことだろう。毎年、東宝はうまいと何度も思う。内容はどうあれ、東宝の邦画は、3本に2本はヒットする・・・.。

 長澤まさみは、本当にたくさんのファンがいて、売れている女優なのだろうか。私はこれにはカラクリがあると思っている。東宝のシンデレラガールが売れないなんてことでは東宝のプライドがゆるさないだろう。どの映画に出ても、同じ演技力の女優でも、東宝の面目を守るために、東宝の映画に出し続ける。東宝は、懸命に長澤まさみを多くの人に知らせ、垢抜けさせ、万民のアイドルとし、後は大女優にしたい・・・その計画に躍らされている私達がいる。いまのところ、東宝の計画はすんなりいっている。NHKにも出ることができたし、CMにもひっぱりだこである。出られたし、ひっぱりだこにさせたのは東宝の「やったぜ!」である。これからどうなるか。国民はいつまでも踊っていないから、長澤まさみが垢抜けて、役柄によって役を演じるのを早く早くと祈るのみだろう。

 この作品で泣くことができるか。高い評価を得ることができるか。ミーハーファンは喜ぶだろうが、端的に書けば、「どうでもいい、あってもなくてもいい映画」である。主演二人のファンならば満足だろう。しかし、それだけである。何もない。本当に何もない。泣くことも笑うこともできない、楽しめない娯楽映画だ。2時間も観なければならない。1時間で十分の作品だと思う。

 こういうボロクソなことを書くと、たくさんの熱狂的な「涙そうそう」ファンから批難集中されるのはわかっているが、そうとしか書けない。私を批難される方の9割は名無し。一方的にヒステリックにかかってくるのみで、返事ができない。返事ができるよう、ホームページアドレスを残してほしい。私はブログに関して、個人攻撃はしないので、これは本当にお願いしたい。 <40点>

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日本以外全部沈没

2006年09月26日 22時00分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_97 <テアトル梅田>

 私は高校生の頃、筒井康隆と松本清張の文庫本を読み漁った。どれもみな興味深く面白かった。読んでしまうのがもったいなく、ここまでと決めて読んだり、次回作が出るまで今の本を読まずにいたりした。読みつきると、当時、ブームであり、次々と映画化された横溝正史を読んだ。しかし、筒井康隆、松本清張を読んでいる私としては、文章の下手さが目立った。大御所の小説家だが、私はそう思った。何冊か読んだが、市川昆監督の映画の方がよくできていて、原作は読まなくなった。

 高校生の頃、この原作に出あった。原作は20ページくらいの短編だったような気がする。同じSF作家協会の小松左京は筒井康隆と親友で、「日本沈没」をパロディとして小説にするとき、小松左京は喜んで承諾したという。 筒井康隆原作は映画化しにくい。それは読んでいてもわかる。小説を読みながら、映画にしてもつまらないだろうと思う。だから私は、筒井作品が映像化されていないことに満足していた。狂気に満ちた小説は、自分の頭の中で乱舞していればいいのである。それが筒井文学である。

 それが「日本沈没」公開を完全に意識して映画化された。無理がある、と私は思った。時代が当時(25年以上前)のもので、出てくる実名の人物だからだ。それに、これはパロディであるから、根底から無理がある。その無理を承知で小説を書いているから、画にすることはできない。私は興味津々で銀幕をみつめた。

 少ない制作費というより、チープという言葉が似合う映画だった。大きな話であるのに、こじんまりした舞台は原作と変わらない。あの頃の首相、事情を現代に置き換え、オリジナルもふんだんに盛り込んでいる。チープになるのは仕方ないが、あまり広い画を撮るとバレてしまうから、特撮以外は、狭い画でみせる。 しかし、これでいいのではないかと私は思う。少ない制作費と短い日数の中で、よく頑張ったと思う。これが映画か?という疑問も残るが、もともと映画化は無理だったわけで、「日本沈没」の公開にあわせ、作ろうとした姿勢が嬉しい。それ自体、ふざけている。この「ふざけている」という姿勢は、筒井康隆の求めるものであったろう。観た後は心に何も残らないが、制作し、公開した事はずっと頭に残るだろうと思う。 と、いろいろな面で絶賛しているが、これは私の独りよがりであって、客観的に観れば、駄作のなにものでもない。しかし、好きだ。 <35点>

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日本沈没(2006)

2006年07月23日 21時30分00秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_63 <三番街シネマ>

とても書きにくい映画を観た。私はすべてを書いているわけではないが、少しだけ書かせてもらいたい。  前作は未曾有の制作費1億円をかけた。興行収益は40億だった。もう30年以上前のことである。そして平成の本作は未曾有の20億円の制作費だという。「躍る大捜査線2」も20億の制作費と言っていた気がする。本作は話題ではあるし、宣伝にかなりのお金を割いているので、20億円は一週間で取り戻すだろう。ロングランにもなりそうな気配、というより、ロングランになるはずだ。 本作は、小松左京原作とも前作とも違うオリジナル作品だ。リメイクと言っているし、タイトルも同じだが、新しい映画である。別物だった。そういう意味では良い作品である。新しい別作品として立ち上げている。

ターミネーター3以来、久しぶりにプレミアシートに座らせていただいた。2階席の一番前で、眼前にはスクリーンのみ、後ろも高い背もたれで、誰にも迷惑をかけることなく、自由な姿勢で鑑賞ができる。必要以上の贅沢だから、貧乏性の私はかえって居心地が悪くもある。腹は出始めたが、太っているとは言いがたい体型なので、真ん中に座ると両脇に大きな空間ができる。詰め物をしたいくらいの贅沢な椅子だ。たまに仕事で乗せてもらうグリーン車も私には居心地が悪い。要するに、根っからの貧乏なのだろう。私にとっては、新幹線に乗るのに、グリーン車は不必要だと思っているし、映画館でプレミアシートも必要性を感じない。しかし、ちょっと優越感をおぼえつつ、はじまりを待った。

「日本沈没」というタイトルに期待するのは、どのようにその説明をし、どのように沈没していくか、政府はどう対処するか・・・である。臨場感を求めるのが普通だと思う。私もそれらに期待する。特に、沈没する様が気になる。要するに娯楽に徹していることが望ましい。しかし、パニックの中にドラマを盛り込み、仕立てる。気持ちはよくわかる。多くの観客はどう思っているかは知らないが、私はドラマ部分を軽視した。「守らなければならないもの」「命の尊さ」「愛するとはなにか」という細かに出てくるテーマなんて、どうでもいいと考えた。もっと言えば「日本沈没」という大きな話を主演なく、ドキュメント的に仕上げてしまったらどうだろうと思う。総理は、やや滑稽で、あっけなく冒頭で消えるが、政府の対応が面白い。「5年後に沈没することにしよう」なんて、有りそうだ。もっと、国民の知らぬところで、闇の部分をみせてくれたら楽しいものになる。「政治家」「自衛隊」「やくざ」「在日外国人」「ホームレス」彼らがどのように動くか、また、動かしてくれるか、本当に起きた場合、そこに目が向くと私は思う。何人かの集まりを描くには、話がでかすぎ、どうしてもこじんまりする。

「日本沈没」はSFだが、科学的にも有りえるという。リアルに検証までしている人も多いようだが、娯楽映画であって、そんなにしかめっ面で「プレートを切り離す為に爆弾を仕掛けるなんてナンセンスだ」という評論には苦笑してしまう。ワクワクドキドキ、楽しめればいいではないか。科学的に証明しようと、頭の硬い評論家看板を掲げ、難しい文章を書く人が多いので、読むたびに、どこを突っ込んでいるのかと、私には理解できない。

日本としては最高のCGを駆使し、噴火や津波や都市の崩壊を映し出す。苦しい面もあるが、出来ばえはいい。2時間15分が苦痛ではなく過ぎていくのだから、頑張ったなと思う。日曜日の最終回だが、客入りもよく、ほとんどが埋まっている。やっぱり東宝はやるなぁと思う。客のもってきかたがうまい。映画より、東宝の戦略にまいっている。<65点>

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ナイロビの蜂

2006年05月14日 23時25分25秒 | な 行 (2006.2007)

Photo_14 <梅田ピカデリー>

日本人の感覚として、映画はまだ「特別な時間」である。多くの日本人は、1年に映画を10本も観ない。平均すると5~6本。つまり、2ヶ月に1本である。10年で50本。だから私は「ターミネーター」でも「スパイダーマン」でも「ミッションインポッシブル」でも「ハウルの動く城」でも・・・大作、話題作、人気作、全国一斉公開だけをご覧になっても結構だと思っている。いくら「仕立て屋の恋」「ニュー・シネマ・パラダイス」「ホテル・ルワンダ」が素晴らしい映画だと思ってはいても、それを観ろと押し付けるつもりはない。観たい映画を観ていただければよいと思っている。しかし、だが、そう居直っているばかりでもない。ジレンマがある。私の場合「観ないで死んだら後悔する」と言う。しかしこれも言い方としてはおかしい。映画好きが言う言葉だ。世俗のいやな思いをひとときでも忘れさせてくれるのに映画が一役買ってくれるのなら、一流のハチャメチャアクション映画だけを好んで観てもよいと思っている。だが、だが、もう一歩、奥に踏み込んでいただければ、広く映画を受けいれてくれれば、映画は人生をも変える力がある。誰でも大切な宝物の本が一冊あるように、誰でも大切な宝物の映画が一本、抱きしめられる。それはお金でははかれない。私は映画を勘定として評するのが嫌いな人間である。

現代の悩み、とても大きな世界を扱い、そして裏社会を教えてくれる映画は多く作られてきた。本作は構成が素晴らしい。とてもわかりやすく話を前後させてくれ、ひとつにつながる。やり方としては普通だが、こうもわかりやすくさせるには、かなりの悩みがあったことだろうと思う。「静かで凶暴で背筋の凍る作品」だ。私たちは、この映画に出てくるアフリカの現状に鈍感だが、じっくり見せてくれる。そして、その問題も、解決する方法も教えてくれる。さらに、それらを阻むものも。これが現実だとしたら、映画監督もスタッフもキャストも消されるだろう。だから、日本の「白い巨塔」的なフィクションとして扱われている。駆け引き、闇社会、仕掛け・・・じっくり息を殺して観る秀作だ。多くの人に勧めたい映画だが、1年に数本しか観ない人にはお勧めできない。この作品で、映画に目ざめることはないだろう。だが、いい映画だ。ビデオでは耐えられないだろうから、是非、映画館での鑑賞を。

このところ、あまりにも忙しくて映画館に着いた時にはくたくたになっている。くたくたではなく、気分のさわやかな時に観たらどう思うか・・・そう感じさせる映画でもあった。<80点>

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寝ずの番

2006年04月23日 23時45分00秒 | な 行 (2006.2007)

Nezunoban_1 <動物園前シネフェスタ>

伊丹十三監督は「お葬式」でデビューした。伊丹監督が亡くなるまで、すべての映画に津川雅彦は出演している。そして津川(マキノ)雅彦監督は「寝ずの番」でデビューした。何かの因果か、私は目に見えぬつながりを感ずる。 監督名を聞いたとき、マキノ正博を思い出し、何が何やらわからぬ錯覚をした。マキノ正博監督の映画は、大学を卒業後に観る機会があり、現存する映画のうちから何本か観させてもらった。津川雅彦、長門裕之兄弟の伯父であり、日本独自のトーキー(音声のついた映画)をはじめて世に生み出した。声を最大限に活かす為、侍ミュージカル(サムライオペレッタという分野があった)なるものを制作している。もちろん戦前の話だ。マキノ正博監督は良作には恵まれていないと思うが、抜きにしては日本映画史を語ることができない。そして、マキノ正博の父はマキノ省三監督である。マキノ省三は、日本映画を初めて監督した人だ。変位系三世代で映画監督となった。マキノの名は、無声映画からトーキーへ移行する時代には必ず出てくる。津川雅彦が監督するにあたり、マキノと付けたかった気持ちがよくわかる。 「寝ずの番」は、前評判を呼び、全国で公開されている。好調なデビューだ。

こんな映画はアリなのだろうか。永久にテレビでは放映されないだろう。ここまで淫語をまくしたてる映画を他には知らない。中島らも原作であり、間違いなく松福亭松鶴と門下をヒントに書かれている。この脚本は見事だが、よく、このホンを読んで、みんな、出演交渉に応じたものだと思う。特に中井貴一と木村佳乃の出演承諾を得たのは拍手だ。それもこれも、長い俳優人生と人柄なのだと思う。化けようによったら、この映画は、彼らのイメージを完全に崩すおそれもあるからだ。俳優としては賭けではないか。大袈裟かもしれないが。 とは言うものの、コピーのとおり、本当に「バチがあたるほど面白い」。 師匠が死ぬまで、その通夜と生きていた頃のエピソードが抜群に楽しめる。そして、一番弟子が死に、その通夜と生きていた頃のエピソードも痛快だ。ここまでで1時間20分。観させる、楽しませる、笑わせる。落語「らくだ」のかんかん踊りで師匠が足を動かすカットなんて、天才だと思う。「地獄八景亡者戯」は桂米朝の十八番だ。これを35分でやりとげるエピソードも楽しいし、淡路島での「お茶子」の聞き手側からのエピソードなんて、撮影、編集に手腕がかかる。最後までこの調子でつっぱっていくのかと思っていた。だが、堺正章の登場から、トーンダウンするのだ。堺正章登場だから、もっと面白くなりそうだが、違った。 上手(かみて)よりドリーショットで弟子たちを語らせ、ドリーストップで堺正章の横顔がフレームインする。カメラはフィックスをきめて、堺正章がカメラ前へ出て構図を確立し、エピソードを語る。ここまでやや長め、ワンカットで処理している。こういう撮影は、カメラのドリー速度と俳優の台詞をリンクさせなければならない。さらに、堺正章がカメラ前に移動し、両脇に空間をつくらない構図にもっていくのは難しい。何気なく流れるが、実は大変な撮影なのだ。みんなの呼吸があわなければならない。さらりと、そういう凝った撮り方をしているので、ここから山場か?と思ってしまう。しかし、最後のエピソードは全体の中では冴えないものとなる。これをラストエピソードにもってくるのはどうだろうか・・・。 この映画、カメラは特殊な動きをしないのに、役者が動き、交差し、映像に立体感を与えている。役者自身がカメラの動きの役割をしている。長いカットでも、動きがある。スタッフのアングルや動きに頼らず、役者に担わせた。流石は、長年活躍した俳優の撮った映画である。

ちなみに、ずっと座っているだけの蛭子能収をいらないと言う評を聞くが、確かにいらないのかもしれないが、あの役は原作者の「中島らも」なのである。喋るだけの人物ばかりではなく、聞く人を、俳優ではない蛭子能収としたのだ。俳優ではなく、素人に演じさせた。終始、見続ける、聞き続ける役である。<80点>

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日常

2006年03月16日 23時50分00秒 | な 行 (2006.2007)

Nichijyou_1 <動物園前シネフェスタ>

わずか一週間のレイトショーのみの単館である。また、DVである。そして、何が問題なのか、なかなか上映にこぎつけなかったという。 吉本芸人の若手が、大阪のなんでもない日常を演じている。演じているのは間違いないが、ドキュメントのような面白い試みであった。この小さな空間にそよぐ風は、お笑いの映画でなくとも微笑んでしまう居心地のよさだ。いろいろなショートエピソードを同じ風にするには、どのような演出であったろう。前後の物語がなく、芝居じみてない芝居をさせるのは難しい。個人個人を理解させなければならない。脚本は4人がかりだったようだが、長い脚本を書いたのではないかと思う。ラッシュは膨大で、オフラインも長かったのではないか。それを観やすい80分にさせて、飽きのこない作品へと確立させている。吉本の若手芸人に一人一人、いい味を植えているのは、芸人そのものの個性もあろうが、独創的な監督の手腕、観客の立場を最大限に尊重した編集の力だ。 300人のキャパ、約150人の若い観客が埋めていた。<75点>