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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

勝新太郎&若山富三郎特集

2011年09月21日 23時00分00秒 | 映画に関する話

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 「上から読んでも下から読んでも同じってのあるよね。竹藪焼けたなんて、みんな知ってる。こういうの、あんだけどね。談志が死んだ。上から読んでも下から読んでも。談志が死んだ。オレ、死んだら出るかね、見出しに。」

 映画関係者が多く亡くなった年であった。震災ですさまじい数の方が亡くなったけれど、彼らも運命共同体だったかもしれぬと思う。あの阪神大震災の年も、年末までに多くの芸能人が亡くなっている。宇宙に無数に存在するすべての星が、決められた道を回っているならば、その中のひとつの地球も同じで、地球上に生きる人間も運命を持ってるのだろう。偶然なんてない。偶然とは奇跡ではないか・・・たまたまも奇跡だ。奇跡の集合体が自分を動かしている。

 誰でも知る大きな映画俳優、監督、脚本家が亡くなった。私は昔から、映画関係者が亡くなっても、さほど驚いたり悲しんだりしない。あの俳優がいなかったら・・・と思う渥美清が亡くなったときも、これほどではなかった。これほどでも・・・談志が死んだ。のである。私の一番好きな落語家は枝雀だが、人生に影響を受けたのは談志であった。落語以前に、生き方であり、考え方であった。立川談志も大の映画ファンで、あの忙しさの中、実に多くの映画を観ていて、また、よく覚えていた。監督名、主演、脇役の名まで並べあげた。談志は、いい映画を観てエンドロールになったとき、拍手するくらいの映画ファンであった。談志の映画に対する愛情にも、私は影響を受けた。2011年、久しぶりに有名人が亡くなったことにガックリきた。会って話をすると大嫌いになりそうな人だけれど、見たり、聞いたり、読んだりしていると、これほど魅力的な人物はなかなかいない。江戸の落語は、これで一幕を閉じた。二人目がいないので、当分、幕は上がらないだろう。

 小倉昭和館で、勝新太郎&若山富三郎特集をやった。これをすべて観た。上映作品は二本立てで毎週替わり。『続・座頭市物語』『座頭市と用心棒』/『悪名』『兵隊やくざ』/『人斬り』『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』の6作品であった。私はすべて観ていたが、もう一度、スクリーンで観たかった。スクリーンで観られるのは、これが最後なのだろう。

 勝新太郎と若山富三郎は兄弟で・・・おそらく、ここから説明せねばならぬだろうが、面倒なのでやめる。もう、座頭市はビートたけしが最初と思っている二十代も多いし・・・。ただ、勝新太郎と若山富三郎を並べれば、スタァは弟の勝新太郎であったろう。あたり役も「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」と恵まれ、すべてシリーズ化され、映画界で大活躍している。私が生まれたころの話で、リアルではしらないが、映画史を読むと、スタァの何ものでもない。破天荒で常識ないところもスタァとしてよろしい。パンツに隠した大麻なんてガキのような言い訳もスタァらしいではないか。若山富三郎も破天荒なエピソードがいっぱいあるけれど、勝新太郎には勝てない。若山富三郎がぐっと良くなったのは、勝新太郎が萎んできたあたりだ。NHKの『事件』シリーズなんて、一度しか見てないのに記憶にはっきり残っている。『衝動殺人 息子よ』の若山富三郎の演技力は胸にズシンとくる。あれほどの芝居は勝新太郎はできない。

 若山富三郎の方がいい!という方も多い。よくわかるが、人間はムチャクチャでも、私は勝新太郎の方がでかかったと思うし、面白い。『座頭市と用心棒』は、監督が岡本喜八というのもあってか、これでもかーーー!というくらいドキドキハラハラの活劇に仕上がっている。黒澤明監督、東宝の用心棒をそのまま大映にもってきて、座頭市と共演させた・・・今の方が考えられるハズなのに、あの時代にやっている。ただのコラボでしょう?に終わらず、2時間走りっぱなしの休みなしで物語は進み、ラストのうまいこと!観た後、また観たくなる映画だ。いま封切ったら、今年のベスト1になりそうだ。

 しかしなぜ?『続・座頭市物語』を単体でかけるのだろう。あれ、単体ではわからない続篇なのに・・・私は正を覚えているから観ていられるけれど、単体では意味不明なところがいっぱいある。借りようにも、このあたりに正を並べているレンタル店はないぞ。ディスカスあたりにあるのかもしれないが、そこまでして観るほどの正ではない。

 「フランキーなんてのは、渥美が、勝新はねー」と、立川談志はハリウッドのミュージカルばかりでなく、日本映画もたくさん観て、語り、書いている。積極的ではなく、頼まれて映画にも出ていた。企画されていた「談志の生意気シリーズ」は乗り気だったが、最後は蹴った。映画人が亡くなるよりも、映画に興味を抱かせてくれた談志が亡くなったことにガックリした。落語にも興味を持ち、お笑いもたくさん見た。なによりも、考え方が、私は談志的になってしまっている。

 まわりに人は多かったし、近づいてきた人も多かったけれど、親友と呼べる人は毒蝮三太夫しかいなかった。談志は毒蝮三太夫が好きで仕方なかった。大喧嘩して三度別れたけれど、懸命に仲を戻そうとしたのはすべて談志側だった。大好きだったので、俳優だった毒蝮三太夫を談志は芸人にしてしまった。地方公演の行き帰りを共にしたかったのだ。講演もしたことのなかった毒蝮を、ピンで無理に行かせたりして、友達付き合いをしながら、芸人にしていった。最期は、親友の毒蝮三太夫にも無言で、この世を去った。

 「オレはいったい、どういう死に方するんだろうなあ?」と、若いころの談志が毒蝮につぶやいた。毒蝮は「どんな死に方するかは知らないけど、とにかく他殺だろう。」と答えた。他殺ではなかったが、喋りの天才は、声を切られた。声を失うなんて、他の落語家にはマネできないことだ。談志は普通では死ねなかった。

 戒名は-立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。「臭ってきそうな戒名だろう?なかなかいいじゃねーか。」談志が落語のまくらで何度も言っていたこの名前が、戒名になった。あの世で、勝新太郎と話すかもしれない。「勝新、良かったよ。たけしが最近、作ったみたいなんだけどね。いや、観ちゃいないよ、観る前からわかってらあな、ありゃ、あんたのもんだよ。」

 あーあ、談志が死んだ・・・。


2010年 マイベスト10

2010年12月31日 23時00分00秒 | 映画に関する話

 はじめて出会う人の背景は白い。想い、考え、環境、そして過去を知らないからだろう。知るにつれて、行動を共にするにつれて、いろんな色になっていく。目の前の人は、白い背景を背負っていたのに、どんどん色に染まっていく。ブログを通じて知り合った人の背景は、見たこともない、会った事もないのに、私の中ではいろいろな色になっている。・・・もう一度、私は白くなりたい。私を知らない人ばかりの中で、やり直したい。あと10歳若ければ、いや、あと5歳でも若ければ・・・と、悔しい出来事が多い。あと5歳?このブログをはじめた時ではないか・・・でもあと5歳。ムリを言いませんから。今の記憶を持ったまま。やっぱムリだわ・・・そういう願い。映画は夢を見させてくれた。あの時。若ければ。もう一度。叶わぬ願いを映画の主人公は叶え、私たちは自分の人生を振り返る。

 やりたいことがいっぱいあった。時間はないし、お金はないし、相手もいない・・・我慢してきた。まだまだ、やりたいことがいっぱいあり、やらなければならないこともいっぱいあり、いつも我慢している。・・・やりたいことがいっぱいあること、我慢することは大事だと思う。やりたいことがない、なにをやっていいのかわからないなんて人も多いけれど、不幸なことだ。欲望は人にとって必要なことで、それを我慢することも必要である。テレビドラマ、山田太一脚本『早春スケッチブック』の中で、山崎努は、こんな台詞を言う。「我慢することは大事なことだ。満員電車で屁はたれません、女房がいるから他の女とは寝ません。こんなことは、人によっちゃあくだらねえ我慢だ。しかしな、くだらねえと思えるが、我慢をしなかった人間は、魂に力が無え。やりたいことやってきた奴は、いざという時、ここぞという時、踏ん張れないのさ。崩れちまうのさ。」安っぽい私でも、少しは魂に力があるかもしれない。やりたいことがない人は、それ以前の話だ。欲望はためて、いつか出すという気持ちでいなければならないように思う。『パピヨン』のダスティン・ホフマンの言う「誘惑に勝てるかどうかで人の価値は決まる。」に通ずるところがあるかもしれない。

 映画から多くを学んだ47年間。5000も6000も映画を観てきたろう。テレビやビデオを入れると1万いっているかもしれない。映画を観る人でなければ、なにをその時間、過ごしていたろうか。きっと、明日にも忘れているテレビをダラダラと見ていたと考え、プラスに歩こう。・・・2010年に劇場で観た映画は110本くらい。あのころの半分以下だが、最後の最後、2010年マイベスト10を記す。

 <日本映画>

 第一位 悪人

 第二位 告白

 第三位 おとうと

 第四位 ねこタクシー

 第五位 必死剣鳥刺し 

 第六位 パーマネント野ばら

 第七位 ヒーローショー

 第八位 借りぐらしのアリエッティ

 第九位 スープ・オペラ

 第十位 オカンの嫁入り

 <外国語映画>

 第一位 第九地区

 第二位 インビクタス 負けざる者たち

 第三位 ハングオーバー!消えた花ムコと史上最悪の二日酔い

 第四位 カールじいさんの空飛ぶ家

 第五位 フィリップ、きみを愛してる!

 第六位 トイ・ストーリー3

 第七位 ニューヨーク、アイラブユー

 第八位 シェルター

 第九位 小さな命が呼ぶとき

 第十位 シャッターアイランド

 この地には、ミニシアターが無いので、全国系がほとんどである。大阪の頃は、ベスト10を書くと、ミニシアターものが半分を占めていたので、環境の違いは大きなものである。観たいのに観られない映画がいっぱいある。我慢して、我慢を過ぎると諦めとなる。諦めたのでは、我慢した意味はない。我慢して観てこそのナンボである。我慢して諦めるを繰り返すと、諦め癖がついてしまう。なにを我慢したのかさえわからなくなってくる。欲望の封じ込めは、魂の力とはならない。

 日本映画の第一位と第二位は、映画賞総なめしたもので、ありきたりになった。主なもので、『悪人』は、キネマ旬報、報知映画、毎日映画が獲り、『告白』は、アカデミー、ブルーリボンが獲った。なんとまあ、極端な硬派と軟派なわかれかた・・・。

 今年も観た本数は、日本映画の方がずっと多い。物心ついたときから、私は日本映画の方が好きで、今に至っている。日本映画があったからこそ、映画人を目指し、映画を観続けた。洋画と邦画が逆転し、現在は邦画の方がよく観られているけれど、昔のように、洋画びいきの人の多い方がいい。日本映画の良さを話す機会が少なくなってきたのは寂しい。とはいえ、今は、映画の話をする相手もいないけれど・・・。

2010.12.31


『北九州郷土作家原作映画特集』

2010年12月12日 23時00分00秒 | 映画に関する話

Sbsh0059  <小倉昭和館>

 花と龍(1965) 緋牡丹博徒 二代目襲名(1969) 無法松の一生(1958) 放浪記(1962)

 小さいことで悩んだり、苦しんだり、我慢したり、愚痴ったり、責めたり、偉そうぶったり、感傷的になったり・・・所詮、人生は死ぬまでの暇つぶし。幸せを抱きしめた不幸のどん底日本で、大海を見ぬまま、せいぜい半径50キロ程度の世界で、生きて死んでいく人たちばかり。

 私もその一人だろうが、ちょっとでも世界を歩き、日本全国を歩き、普通では見られないたくさんのモノを見せてもらって、たくさんの人に出会わせてもらったのはありがたいことだった。貴重なのはもちろん人との出会いだが、大事なのは、「その土地に住む人」であったろう。土地が変われば、習慣も変わり、考え方も変わるのだなと何度も思った。同じ日本人なのに、外国人に囲まれたような恐怖感をおぼえたこともある。日本は狭いが、細くて長い。行きたければどこへでも行かれる時代、海外を知ろうとする前に、一生に一度、せめて都道府県すべてに立ってみよ。よそ者がその土地に立った時、そこにすべてを合わせると、自分の住む町が見えてくる。自分が小さい世界に住んでいることがわかってくる。と同時に、自分の姿も見えてくるときがある。こんなに狭いのに、旅するには、世界一よい国だろう。環境だけは恵まれている。

 『北九州郷土作家原作映画』と題して、6本の古い映画をかけた。私としては、どこの誰が原作でもどーでもいいが、魅力ある6本だった。うち、4本を選んで観た。『放浪記』などは、映画館で3回目。面白い映画は何度観ても面白いのだと思う。私は小津より成瀬である。死後、見直されて高い評価を得るが、「松竹に小津は二人いらない」と言われ、たくさんの賞を獲った割に恵まれない監督だった。しかし、何度も観たくなるのは、小津より成瀬である。作風は似ているけれど、前のめりにさせる力が違う。「終」のクレジットの後、観たぁ!の言葉を吐かせてくれる。

 にしても、北九州を舞台にした映画は、ほとんどやくざものかよ?と、プログラムを見て思った。火野葦平の原作モノが多く映画化されたためで、またヒットし、現存しているフィルムも多いからだろう。別格の松本清張も6本の中に入っていたけれど、これはこれで特集されるハズだ。添え物映画を観たい気分だったので、松本清張は無視することにした。・・・藤純子(現・富士純子)の下手くそなこと!いまも上手いとは言えないが、現在は、歳を重ねた風格が演技力を上回り、カバーしている。この時代は、かわいいばかりで、学芸会である。・・・『無法松の一生』の純愛が現代に通ずるか。腐っても男はこうでなければならない気がする。・・・物語の途中で終わる『花と龍』、ここからがいいのに、続きを見る機会はなさそうだ。本作はプロローグみたいな映画だ。

 この映画の中には、私の住む下関も出てくる。九州から船でやってきた彦島(ひこしま)で、劣悪な環境の中、強制労働されるくだりがある。実際にこの地で撮影したのかどうかはわからないが、2本立、3本立の時代に、交通も便利ではないのに、こんな遠いところまで、よくまあロケにやってきている。映画で儲かった時代、映画を楽しみに待っていた人たちだらけだった時代、スクリーンから勢いのある鼻息を感じる。

 ある人から「読んでいる」というメールがきたので、しばらく放置していたブログの記事をバタバタッとアップした。メールをいただき、書きたい気持ちがどんどん出てきたのだった。古い記事まで遡って読んでいただいているらしく、自分の恥部を見せているとはいえ、放っておくべきではないと、気持ちを引き締めた。私はそんなことで、重い腰を軽々と上げる。

 とは言え、2010年分の記事は残すところ2つ。あ・・・いまはもう2011年7月か。半年以上遅れているのか・・・縮こまっている。あの頃ではない。もう一度、大海を見にいくか。私はまだ、大海の入江しか見てない筈だから。・・・まだまだ書ける気がしてきた。どこまで続くかは自分でも「?」であるが・・・・・映画を観たから書くでは、確かに書いているのに何も残っていない。だが、書きたくて書いた文章は、稚拙なれど、自分が後で読んでも楽しく読める。


アイガー北壁 / マイ・ブラザー

2010年11月08日 23時00分00秒 | 映画に関する話

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 <小倉昭和館>

 -本作の感想などは書いていません-

 真実かどうか、黒澤明はロケ現場で遠くの山を指差し、「あの山をわらえ(どこか写らないところへ持っていけ)」と言ったという。「わらう」とは、「どける」「はずす」の意味で、諸説あるけれど、「払う」からきているというのが有力だ。舞台でも同じ言葉をつかう。この話しが本当ならば、黒澤監督は巨匠としてよほどうぬぼれていたか、巨匠としてのジョークだったかのどちらかだろう。いくら天才で、瞬時に思ったかもしれないが、わらうなんて絶対に無理だから、スタッフは笑ったか、震えたか、唖然としたか・・・まあ、楽しい冗談だ。

 21世紀も10年経ち、今の監督が「あの山をわらえ」と言ったら、スタッフはすべてマジメに受けこたえるかもしれない。「わかりました!撮りの計算に合わせてCGで別風景を撮り込みます!わらった後の風景は、なんにしましょうか。サンプルもありますが。」・・・黒澤監督の現場の伝説の一言は、語録の中から消えていく運命にある。

 『アイガー北壁』というタイトルで公開された映画があった。今から30年も前のことで、当時としては珍しく全国上映ではなかった。埋もれているから、ネット検索しても出てこない。高校生のころ、この映画をラジオで絶賛するパーソナリティがいて、観たい気持ちが頭のまわりに渦巻きになったけれど、地方都市にまでフィルムは運ばれなかった。しかし、あの絶賛パーソナリティだけは覚えている。詳しく語ったものだから、半分だけ観た気になってもいる。テレビではなく、ラジオだから、なおさら観た気になる。私は、毎週のように淀川長治のラジオを聞いていて、観たことない映画をたくさん観させてもらった。先日、『午前十時の~』ではじめて観た『雨に唄えば』は、観る前に何度も観ている。『駅馬車』は一度しか観てないはずだが、10回は観た気がする。

 話がそれた・・・黒澤監督の「わらえ」は、冗談ではすまなくなった。「わらいましょう」になった。アニメの他には、カメラに写るものだけでいいような気がしているが、もうCGを使わない映画の方が少なくなっている。山田洋次だって使う。30年前の『アイガー北壁』は、そのままカメラがとらえた作品だろう。だが、新しい『アイガー北壁』は、山をわらったり、逆にもってきたりのてんこ盛り映画である。実際に現場では撮っているから大変なのだけれど、監督は「わらえ」を連発させている。そして、スタッフもそれにこたえている。時代である。わずか50年も経っていないのに、無理だったものが、できるようになった。

 撮り方、編集、照明、音響、特殊撮影・・・これらは技術屋のやる仕事だ。技術屋は確かな仕事をするが、できることをプロとしてやる。工夫はするけれど、できない事は無視する。ビデオの世界も同じで、それが技術屋というものであろう。そこに、ムチャを言う者が現れる。監督という厄介な野郎である。技術的に、撮れるのか、照明をあてられるのか、編集できるのか、こんな音がほしい・・・技術の立場に立って考えない。こんな画を作りたいとスタッフに言うだけである。今の技術では無理である・・・が、「できません。」と答えたのではスタッフ失格で、「考えてみます。」または「やってみましょう。」となる。やってみた結果が、多くの画を作り出してきた。特殊な画もいっぱい作ってきた。宮川一夫は、黒澤明に言われて、太陽までカメラでとらえている。

 スタッフから監督になるのは、あまり感心しないことで、技術人の苦労がわかっているから、遠慮気味になる。監督というのは、技術とは切り離し、やりたいことをやるワガママでいいのである。だから、監督は素人でもできる。映画現場で唯一、素人ができるのは監督である。他のスタッフはみんな苦労して一流の技術を培ってきて、ここに立たせられるのだ。だが、創造したのは監督のもの、映画は監督のものである。指揮がうまかろうがどーだろうが、スタッフは懸命に監督によって走るのである。監督の望みが、画を作り、ひとつの作品を生み出す。

 どんどん話しがそれる・・・以前に書いたものを組み合わせようとして、支離滅裂になったけれど、さて、本作『アイガー北壁』のようなCGはどうなのだろうか。この映画は、広いカットはほとんどCGなのに、まったくCGと思わせない。知らなければ、現場で目に見えるものをそのまま写したもののように思う。現場映像とCGの融合が神業で、私はCGを外したブルーバックカット(メイキング)も事前に見たのに、それも忘れてしまっていた。広い画は、ここか?と思うが、さっぱりわからない。現場ロケだけの映画のように思える。となると、CG作成者はCG作り冥利につきるのか、またはオレたちがやったんだから少しはCGってわかってほしいと思うのか。私だったら、俗な人間なので、後者だろう。

 CGだからできる・・・という映画に慣れてしまって、どんなにアクロバットなことをやっても驚かなくなった。CG映画不感症である。『トランスフォーマー』なんていい例で、大都会の中、とんでもなく凄いことやっているのに、ワクワクもしない。カメラが滑らか過ぎるし、爆発もガレキもホコリもきれい過ぎる。人が計算した現場だからだろう。もし、実際に撮れたとしたら、臨場感は何百倍に膨らむに違いない。歳をくったジャッキー・チェンの頑張るアクションの方がワクワクする。CGがどこまでいくか、どこまでできるかはわからないが、今のところ、魂が見えないので、技術は進んでも、まだまだなのだろう。

 話はどんどんそれて、なにを書いているのか自分でもわからなくなった。ただ、CGを悪と言っているわけではない。よくできていると思う映画も多い。ただ、それはCGに驚いているのではない。そんな時期は過ぎた。CGは当たり前。やはり、脚本力、演出力である。その力があってこそ、CG世界にも観客は入っていくことができるように思う。CGでなんでもできるよー・・・では、現場に工夫がなくなる。現場の頭が悪くなる。「どーやって撮ろうか」が、「どーやってCGと結合しようか」ばかりになるのでは、やり甲斐もないだろう。

 「あの山、わらえますよ。」・・・「わらえるのか。だったらわらうな。このままいこう。」黒澤監督が生きていたら、そう言うかもしれない。「CGでいかないんですか?」「じゃあ思い切って、すべてCGでいくか、役者も。」・・・観客の喜ぶ映画、楽しめる映画は、すでに脚本に込められてあり、監督の頭の中にある。


吉永さゆり&栗原小巻特集

2010年08月19日 23時00分00秒 | 映画に関する話

Photo  <小倉昭和館>

 第一週・・・「あゝひめゆりの塔(1963)」/「わが青春のとき(1975)」  第二週・・・「愛と死をみつめて(1964)」/「忍ぶ川(1972)」  第三週・・・「キューポラのある街(1962)」/「サンダカン八番娼館~望郷(1974)」

 三週連続で、吉永さゆりと栗原小巻を二本立てでかけた。こういう特集をやってくれると、どうでもよい新作が、更にどーでもよくなる。もう一度観ることになろうとも、私としてはシネコンの新作よりも心惹かれる。というわけで、三週続けて観ることとする。若くはないし、この機会を観逃してしまうと、一生、劇場鑑賞はできないかもしれない映画が並ぶ。どんな大きな画面でも、DVDではイヤなのだ。

 デビューしたばっかりの吉永さゆりの映画が3本あって、これはすべて観ていない。どれも、日本映画史を読むと出てくるタイトルである。私の生まれる前の日活・・・嬉しい。はちきれんばかりのプクプクした体型と、とびっきりの笑顔。デビューしたばっかりでも、オーラを放っている。立ち位置を考慮しない群集カットに紛れても、そこにいるとわかる。映画を量産していたこの頃の吉永さゆりは好きだ。年代的にサユリストではないけれど、熱狂的なファンがいたことも納得である。そんじょそこらの美人とはケタが違う。芝居はけっして上手いとは言いがたく、ハツラツと頑張っているだけのように思える。それがまたいい。この若さで、妙に芝居が上手い映画女優というのも気持ち悪い。その下手さを脚本や監督は知っていて、大人たちが上手に使うのだった。

 サユリストに対して・・・ちょい時代が新しくなるけれど、栗原小巻のファンをコマキストと言った。比べようがない二人だが、今回の特集では『あなたはサユリスト?コマキスト?』とタイトルをつけている。こそばい名の特集だ。どちらでもないが、映画女優と舞台女優の映画を二本立てでかけると、どうしても吉永さゆりに軍配が上がる。栗原小巻は、とてもとても映画向きではない。私が小学生から高校生のころ、栗原小巻はよく映画に主演で出た。映画会社と俳優座が提携して映画を作っていたのだ。主演クラスは栗原小巻しかいない。相手は加藤剛。お決まりのパターンだったろうか。

 舞台女優としては素晴らしいのかもしれないが、吉永さゆりとは格が違いすぎる。舞台で育った芝居をそのまま映画にもってこられては困るのである。特に、私としては、無声音のないはっきりした喋りが高校生のころから気になって気になって仕方なかった。口元を見ていればよくわかる。いちいち、あんなにハッキリした言葉で話しをしようなんて人はいない。立ち振る舞いも大げさに思え、舞台を観ているようだなと感じた。最近はそんなに映画に登場しなくなったが、今回、あらためてそれを思った。舞台と映画の芝居は変えなければならない。栗原小巻は、変えられないのだろう。

 「わが青春のとき」はどーだろう?と思うが、他の二本は素晴らしい。「忍ぶ川」「サンダカン 八番娼館」熊井啓監督。70年代に秀作を多く残している名監督である。2時間で、これだけ広く深くみせることができたのだと思う。短いと感じるが、5時間くらいの内容ではないか?しかし、急ぎすぎてもない。つまんだのだろうが、どこを切ったのか想像もつかない。今の映画は2時間にすることばかり考えている。内容がなかったら、1時間半でもいいのに・・・。

 「キューポラのある街」は99分だ。とても短く感じつつ、何時間もスクリーンを見つめていた気がする。今では後半部分がネックで、オンエアできる内容ではないけれど、脚本力、演出力、編集力、役者の幅広さを知る上でも、一度は観ておいた方がいい。こういう映画も作ることができたんだよ、日本は・・・と。監督は、浦山桐郎。驚いたことに、本作がデビューである。デビューで、これほど質の高い映画を撮ったことに驚く。次々に撮らせてもらえるハズが、いちいち作品にケチがついて、生涯、恵まれなかった。自由にさせてくれたら、もっと秀作を遺したろう。

 懐かしんで観にくる方も多いだろうが、私は懐かしんで観に行っているのではない。儲け以前に「午前10時の~」を上映したい目的は何か?「午前10時の~」の作品群を見て、ミーハー好きの女子高生までも興味をそそられているではないか・・・今の映画に期待できるか?ここ10年内に封切られた中に、ン十年後、誰もが知る、語り継ぐ「名作」と呼ぶにふさわしい映画がいくつありますか?名作に埋もれたサユリスト、コマキスト映画を観て、いいなぁと言ってるくらいだもの、もう新作なんかいらないのではないか。現在の映画たちが、ン十年後、「午前10時の~」に数本でも入ることができるか・・・ただただ願いだけで、私は観ているような気がする。

 ホラーやスプラッターなどが封切られると喜んで観に行くのは、徹底した娯楽として観客を楽しませようとするスタッフやキャストの意気が見えるからである。それが、今の秀作と呼ばれる映画にすら、ないと私は思うのだが。

 「あゝひめゆりの塔(1963)」<75点> 「わが青春のとき(1975)」<65点> 「愛と死をみつめて(1964)」<80点> 「忍ぶ川(1972)」<85点> 「キューポラのある街(1962)」<85点> 「サンダカン八番娼館~望郷(1974)」<85点>


社長シリーズ・駅前シリーズ 2本立

2010年01月26日 23時00分00秒 | 映画に関する話

Photo  <小倉昭和館>

 「はりきり社長」「喜劇・駅前音頭」/「社長洋行記」「喜劇・駅前天神」/「続・社長洋行記」「喜劇・駅前開運」

 -社長シリーズについてのみ書いていますー

 森繁久彌が亡くなって、東京や大阪では大々的に森繁映画特集を催しているようだが、ここ地方都市の小倉にも、わずか6本ながらやってきた。週変わりで上映される作品をすべて観ることにした。「夫婦善哉」「恍惚の人」「次郎長三国志」なんてかけてほしいが、新春にふさわしく、また森繁のエンターテイメントぶりを端的に見るには、やはり喜劇なのだろう。チラシには社長シリーズ30作とあるが、正確には33作である。男はつらいよの48作には遠く及ばないまでも、待ってました!の大人気シリーズだったのだ。21作目の「続・社長紳士録」で、このシリーズは一旦、終わりとなるが、映画館主やファンの熱烈なコールに応え、翌年のお正月映画として「社長忍法帖」が封切られる。映画の中で、森繁久彌が「お待たせしました」と言う。当時の観客は、この台詞を喜んだに違いない。

 『駅前シリーズ』が終わったのは1963年で、私はまだ6歳。『社長シリーズ』が終わったのは1970年で、まだ7歳。リアルタイムには観ていない。私が映画館に通い始めた頃は、喜劇は主に松竹の仕事であったので、映画史を読むたびに出てくるこれらのシリーズが気になって、観たくて仕方なかった。願ってみるものである。高校生から大学生、社会人になったあたりで、『無責任シリーズ』とともに、なぜか劇場で鑑賞する機会を得た。大阪、十三の第七藝術劇場、その前身のサンポード・アップル・シアターだったのではないかと記憶する。封切から30年も40年も経っていたけれど、私の目には新鮮だった。森繁って凄いなと、強く頭に残った。

 『社長シリーズ』の脚本は全作笠原良三だが、監督は杉江敏男、松林宗恵ら5人が手がけている。しかし、やはり『社長シリーズ』と言えば松林監督。多くの人が語るように、私も一番好きだ。喜劇役者たちに好き放題やらせて面白がっているような監督の姿が、映画を通して目に浮かぶ。事実、お馴染みの宴会風景は、笠原良三が松林宗恵監督のときだけ、「おまかせ」と脚本に書いたらしい。「おまかせでいいですか?」「いいですよ、あれほどの役者が揃っているんですから、こっちが何も言うことはないです。」・・・今の映画では考えられないけれど、森繁久彌、三木のり平、フランキー堺が揃ったところに、ストーリーとは関係ない「観客を笑わせるだけの芸」を書くこと、演出することに何の意味があろうかと。そういう笑いは彼らが最もよく知っている。脚本は真っ白、おまかせの部分は、森繁久彌が松林宗恵監督に色々なアイデアを出し、それでいこうと決めると、舞台上で三木のり平が肉付けしていくという形だったらしい。たったいま決まった即興の宴会芸をやるのだから、エンターテイメント森繁、三木は抜群だが、マジメな加藤大介、小林桂樹は素人丸出しである。このバランスが何ともおかしかった。映画というより舞台である。そして、これほどの大御所俳優たちが、あんなバカらしいことをというのも笑いに拍車がかかった。後に『釣りバカ日誌シリーズ』の西田敏行にも、この宴会芸は受け継がれているが、比ではない。

 『社長シリーズ』は松林宗恵だと私は思っている。だが、昭和館で上映する作品は、杉江邦男と、シリーズ1本だけしか撮ってない渡辺邦男のもの。また、前後篇にわかれている「社長洋行記」「続・社長洋行記」を別の日にかけてしまっている。前篇だけ観ると途中で終わってしまい、後篇だけでは意味がわからないので、続けて観に来いというプログラムだが、これは不親切である。だいたい、「社長洋行記」は、シリーズの中でも私としては、パッとしない部類に入る。3本選ぶなら森繁が抜群に気分がのっている、俳優たちの気が伝わる「社長三代記」「社長太平記」「社長道中記」だ。脚本も面白いし、どれも続篇があるけれど、正だけで完結する。フィルムの高い安いという理由だろうか。それにしても、正続を観なければ完結しないものなら、同時上映すればいいのに。観客のなにを期待しているのやら。

 『駅前シリーズ』は、一作目の「駅前旅館」を持ってきてほしかった。監督は豊田四郎。旅館で生まれ育ち、布団部屋で寝起きし、気がついたら番頭さん。しかし時代はもはや旅館の番頭なんていらなくなってしまった。森繁久彌が背中で語ってみせる芝居がたまらない逸本である。同じ豊田四郎で「駅前開運」を上映したが、作品の良さとしては、「駅前旅館」の方が数段上である。私の好きな映画を次々にかけている東京、大阪がうらやましく、にくたらしい。

 松林宗恵監督は、東宝の喜劇を<山の手の笑い>、松竹の喜劇を<下町の笑い>と言ったことがある。これは差別ではなく、映画会社独自の色を出した結果のことだったろう。設定や出ている人や行動のことを言っているわけではない。東宝と松竹の喜劇を見比べると、その言葉は雰囲気としてよくわかる。どちらが好みかと言われれば、私は松竹喜劇である。が、東宝には森繁久彌がいる。前にも後にも、森繁久彌ほどの主役級が存在したろうか。日本一の俳優ではなかったか・・・三船敏郎、高倉健、渥美清・・・いやいや、森繁久彌はなんでも出来た。森繁久彌にできないことなどなかった。日本で唯一のエンターティナーではなかったかと私は思っている。もう、あれほどの俳優は、二度と現れまい。

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2009年09月22日 23時00分00秒 | 映画に関する話

1 戦後映画傑作選「戦争と平和」「安城家の舞踏会」「蜂の巣の子供たち」

<山口情報芸術センター>

 県庁所在地、山口の山口情報芸術センターへ行くため、下関12時30分発の糸崎行き普通電車に乗る。新山口(旧・小郡)で乗り換え、山口着は14時24分。約2時間かかる。山口駅から徒歩何分なのか、場所がわからないので、15時ちょうどの「戦争と平和」に間に合うのかどうか心配だが、人生で今日と明日を逃したくない。久しぶりに映画のために一泊し、フィルムでは死ぬまで二度とお目にかかれないであろう3本を鑑賞する。

 下関から山口までの乗車券は1,450円である。新山口での乗換時間が23分ある。構内で過ごすのも退屈だろうから、この時間を利用して駅前をぶらぶらしようと、私は山口まで買わず、途中の新山口までの乗車券を求めた。1,110円だった。改札口を出て、新幹線側と在来線側を一巡する。落ち着いた喫茶店で珈琲でもと思ったが、喫茶店どころか、入る店もなかった。幹線ののぞみ停車駅とは思えない寂しい駅前だ。ビジネスホテルだけは乱立している。工場が多いのだろう。

 新山口から山口までの乗車券を買う。230円。乗車券を見て、あれ?と首をかしげる。下関から新山口の乗車券は1,110円だった。ここまでの1,110円と、これからの230円を足すと1,340円だ。下関から山口まで通しで買うと1,450円だから、通しで買うより110円安い。分けて買うより通しで買うほうが安いはずだけど、JRは運賃計算をする上で、各線を幹線、地方交通線、電車特定区間などと区分しているので、それらを通して乗ると、時々、こういうおかしな料金となる。

 私は奈良が大好きで、大阪在住の頃、住まいの近くの長居から奈良までJRを利用したが、通しで買うと680円。どうしても乗り換えなければならない天王寺で一旦、改札口を出て奈良まで買うと長居→天王寺170円、天王寺→奈良450円で620円となり、60円安くなった。東京や大阪は私鉄との競争で、他線区より運賃をぐんと下げているのでこういうことが起こりやすいけれど、地方都市の下関から山口という単純な区間でもこういうことになるとは・・・時刻表からはよくわからなかった。途中下車してみるもんだなあ・・・110円くらいのことだけど。でも、1万人がやったら差は110万円になるし、10万人乗ると・・・こういう利益計算ってどうなっているのかしらん?

 地方交通線の山口線に乗る。山口県庁を目指しているのに電化されていない上、ワンマンカーである。県庁所在地のJR線が地方交通線、いわゆるローカル線なのは山口県だけじゃないかなと思う。田園風景を眺めながら、ゴトンゴトンと低速で走り、一つずつ丁寧に駅に停まる。県庁所在地と新幹線駅をつないでいるからか、のんびりしたディーゼルカーでも乗客は少なくなかった。山口線は、SL貴婦人の走る線で有名だ。この先に津和野がある。

Hi380009  「次は山口です」の車内放送で、どれが情報センターかと、右左と遠くを探す。電波塔が見えた他は高いビルがあまりない。NHKのすぐ側だと聞いていたので、もはやそこなのだが、歩けば遠そうだ。歩いた挙句に道に迷って上映時間に間に合わぬとなると、はるばるやってきた意味はないので、駅前に一台だけ客待ちしていたタクシーに乗る。映画は500円だけど、いろいろ高くつく。

Hi380011 Hi380012  公共交通機関を利用する人には不便な場所にたっている。地方都市は、基本的に車でやってくる客を優先に考えて作るらしい。電車やバスではどこに行っても遠いし、ようやく着くと、建物より巨大な駐車場が隣にあるのが常だ。駐車場のまわりをぐるりと歩かされて中に入らねばならぬこともある。環境保全のため公共交通機関を利用しましょう!なんてウソなんちゃうん?車が増えるにつれて、電車もバスも間引かれていっている。私は環境問題を解決するのはもう無理だと思っているので、こんなところまで来るのは車がいいけれど、映画ごときを観にいくのに車でとは気がひける。ここのところ、とても遠慮深くなった上、わけのわからぬ神経を使いすぎていると思う。なんだか、そういう性格に変化した。性格なんて変化することはないと思っていたのに、いろんな面で、弱々しく変わっている。

3「戦争と平和」(1947)・・・池辺良、岸旗江、伊豆肇。この三人の主役、60年2_2経った今も健在である。当たり前だけど、みんな若い。特に、今でも活躍する池辺良のピチピチの若さと存在感に圧倒される。だけど、この頃の池辺良、台詞は棒読みなのね。岸旗江も伊豆肇も棒読み。表情も硬い硬い。学芸会っぽい。永遠に残る名作らしいけど、池辺良がかみさんの顔もわからぬほど精神的におかしくなっているのに、髪型も服装もビシッと決めているのに苦笑してしまった。苦笑する類の映画ではないし、笑っては怒られてしまうかもだけど、私などは、トイレや食事はまともにできているのかなんてことが気になってしまう。わけのわからぬままに、生きる屍のように何ヶ月も過ごしているのに、その辺りの説明が不必要とは思えない。

Hi380007 Hi380008  映画が終わってブラブラと中を見物する。ロビーも通路も休憩所も図書館も、随分と贅沢な空間になっている。広い広い。休日だからほとんどが閉まっているけれど、どこかしら中が見えるような構造になっている。とても民間ではマネはできまい。憎たらしいけど、税金で作れるっていいね。これで、民間のように使用できれば何もいうことはないが、催しによってうるさいのが常だ。儲けるつもりはサラサラないので、どうぞ借りて下さいとは公共の場合いかない。時代が変わっても、使わせてやるは変わらない。スケジュールがいっぱいになっては、職員が忙しい。忙しかろうが暇だろうが給与に変わりはないから、静かな方がいい。

 タクシーは裏通りを走ったが、表通りを山口駅まで歩く。この街に泊まりたいけれど、モバイルのじゃらんでは一軒もヒットしない。県庁所在地がなんということだ、ありえないと思うが、山口というところはそういうところである。新山口までディーゼルカーに乗り、在来線側のホテルα-1に荷を解いた。飲み屋とコンビニばかりが明るく、食事だけをしようと思うと困る。一軒だけ開いていたラーメン屋に入る。腹がすいていたせいか、美味かった。

 「安城家の舞踏会」(1947年)・・・名作と言われているので、詳しくは書かない。本作に関して、ひとつだけ面白いエピソードがある。滝沢修が拳銃自殺を図ろうとするシーンだ。それに気づいた原節子が滝沢修に飛び掛り、もみあった末に拳銃をはたいて落とす。台本にはしっかりと「もみあって拳銃を床に落とす」と書いてあるのに、このカットを原節子は「撮ってない」と思ったらしい。<もみあった末に拳銃をはたいて落とす>の、「もみあう寸前」を撮り、次は「二人とも倒れている」を撮っただけだった。肝心な、<もみあった末にはたいて落として>がない。ところが、試写を観て、原節子は驚いたらしい。もみあう寸前にカットアウト、次のカットは拳銃だけが床をすべって壁にぶち当たるカット、次に二人とも倒れているカットだった。脚本の<もみあった末に拳銃をはたいて落とす>を、拳銃が床をすべる画だけで表現したのだった。もみあって、拳銃を取り上げ、投げ捨てるというカットも撮れたろうけれど、滝沢修も原節子もいない拳銃の画だけですべてをわからせたのである。脚本を変えたわけではない。拳銃を床にすべらせたのは俳優が帰った後のスタッフだけの撮りであるから、原節子は知らなかったのだった。私の拙い説明ではわかりづらいだろうから、鑑賞する機会があれば、ここに注意して観てほしい。

 「蜂の巣の子供たち」(1948年)・・・冒頭、『この子供たちを知りませんか?』と字幕で出る。実際に戦争で孤児になった子供たちを出演させていて、監督は、出演した子供たちを養子にしている。人情のあるいい人だなと感心するが、スタッフ、キャスト、映画関係者の評判はとても悪い。感情的な性格だったようである。最初の10分、下関駅が登場する。下関は、大陸からの引き揚げが多かったらしい。今とは違い、立派な大きな駅舎である。身内をすべて失って、お金もモノもなく、それでもたくましく生きようとする子供たちに胸打たれる。見えぬ夢だけを胸に秘めているのが伝わってくる。しかし、音声が悪すぎて、なにを言っているのか聞き取りにくいフィルムだ。勘で、こういうことだろうと見当をつけて観る。デジタル時代、音声を鮮明にすることは難しくないはずだが、そこまでお金をかけられないだろう。

4  それにしても・・・「戦後映画傑作選」と銘打った特集のパンフレットを見ると、映画はどこへ行こうとしているのだろうと考える。傑作や名作が生まれない時代なのは実感しているけれど、傑作や名作が生まれた時代の映画を国や県や市が、公共施設で上映するなんて。映画はやっぱり娯楽で、芸術の中ではとてもラクに楽しめるものだと思っているので、あまり崇高なところにまつりあげてほしくない。眠ったままの東京フィルムセンターの映画をかけてくれるのは嬉しいことだが、税金を投入して利益無視で上映する時代は・・・どうなのか。

 山口から新山口を経由して下関へ。在来線は新幹線連絡のみを考えてあるから、下関方面の接続がとても悪い。新山口で40分も待たされる。近くのホテルには大浴場完備の安いホテルもあるらしく、もう一泊したくなったが、二泊する勇気は私にはない。勇気というほどのことでもないが、気が小さくなってるなと思う。

 閑散とした新幹線駅に佇んでいると、私一人が乗り遅れたように見える。駅員やキオスクの店員と何度も目が合う。わずか20分早く着くだけだが、新下関駅まで新幹線に乗った。近場までの新幹線はとびきり高く感じる。長いホームに、短い4両のこだまが入線してきた。一車両に2人か3人しか乗っていない。山陽新幹線の年間を通した乗車率は、下りで岡山までが60%、広島までが40%、その先の博多までが10%だという。JR西日本からすれば広島までで、先の博多までを切ってしまいたいらしい。それでも新幹線を持ちたいJR九州・・・再来年の3月、新幹線が鹿児島まで延伸し、新大阪から鹿児島行きの「さくら」が走り始める。ますます、山口県は通過県になる。

 

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松本清張生誕100周年

2009年08月07日 23時00分00秒 | 映画に関する話

Photo  <小倉昭和館>

「波の塔(1960)」「ゼロの焦点(1961)」2本立・・・映画については一切、書いていません。

 清張生誕100周年で、小倉では、それにまつわる様々な行事が行われているらしいが、海峡をわたって二駅、電車で13分の下関には、あまりその情報がこない。下関市と北九州市の交流の歴史は古いのに、こちらが上という意識がどちらにもあるようで、表面上はニコニコしていても、腹の探りあいをしているらしい。お互いに自分の良いところをあげ、相手の悪いところを言ってみたりするのも時々、聞く。

 道州制が議論される中、関門特別都市が一番注目されている場所なのだから、できれば、もっと大交流したい。海峡を挟んだ本州の下関と九州の北九州市の合併、関門市になればいいと勝手に思っている。実際にそんなことになったら、市庁舎の場所などの争いがはじまるだろうけれど・・・。

Photo  下関は歴史の宝庫で、古代から明治維新まで、ことあるごとに出てくる地名だが、現在の都市としての発展は、人口を含め、北九州市にかなわない。平均年齢も北九州は若い。下関にはない車の通れないアーケードもある。賑やかである。下関に居るより気持ちは上がる。シネコンも4つあって、さらに新しい計画が現実化しそうである。

 下関市の人口は30万弱、北九州市の人口は100万弱だから、合併したら、当然、北九州市が強い。関門特別都市は、道州とほぼ同様の権限を持つ自治体で、中国にも九州にも道州にも属さない。面白いと思う。私は、いい加減な想いだけれど、北九州の主導でもかまわないから、やってみたらいい。下関から一直線の橋もかかるだろうし、トンネルももう一本できるかもしれない。経済の行き来がもっと活発になるだろう。本州から九州へ陸路で行くには、関門特別都市を通らねばならないのだし・・・。

1  そんなことをボヤァと考えながら、清張色に彩られた小倉の街を歩く。小倉2 昭和館では、松本清張特集をパート1パート2にわけて、20本前後の映画を上映するらしい。すべて古いフィルムである。ホームページを開いて、さあなにをやるかと楽しみにしていたが、私はこのすべてを観ている。若い頃に観たので、かなり記憶にあって、もう今更だけど、懐かしいフィルムに再会したい気持ちもある。どれを観ようかとタイトルとにらめっこしていたが、上映が近づくにつれ、どれも観たく、どれもそっとしておきたい気持ちになった。私の場合、懐かしい映画を観て、よかったなあーと思った映画を後々に再見すると、「やっぱりいいね」と「なぜあの時?」の二極にわかれる傾向にある。どれも「なぜあの時?」になるのがこわい。上映予定の作品は、私にとっては心の中にしまった宝物であるから、それでは困る。ますます、映画から足が遠のく。ということで、「波の塔」と「ゼロの焦点」のみに決めた。新作の「ゼロの~」は観るつもりはまったくないので・・・。「張込み」を確かめたくはなかった。あれは名作である。死ぬまで観ない。

3  会員証を提示し、800円を支払い劇場へ入る。準新作2本立てと同じ料金なので、この入場料が高いのか安いのかわからない。フィルムは安く借りられているハズだけど・・・。この際、もうけるべきです、昭和館。

 中年からシニアの目立つ映画館だが、今日は若い人が多い。二十代らしき女性の一人客も数人いる。映画が好きなのか、松本清張が好きなのか、生誕100周年が影響したのかわからないが、若い世代が自分の足で、お金を払って、この頃の映画を観に来てくれるというのは嬉しい。しっかり観ておけよと言いたくなる。ただ、時代が違いすぎるので、キャストの気持ちがわかるかな?と心配でもある。特に「ゼロの焦点」は私でも古すぎる。相手もよく知らず、すぐに結婚して、なぜあんなに懸命に・・・その時代に自分から飛び込む必要があるのだが、映画をたくさん観て、本をたくさん読む人は、そういう能力を勝手に身につけてしまう。どーか、スクリーンをにらんで観ているお嬢さん、映画をいっぱい観ている人でありますように。新人俳優は棒読みで、考え方も滑稽に見えるかもしれないけれど、いやいや今でも秀作ですぞよ。

 堪能したので、清張特集にはこない。「砂の器」をもう一度観たい気がするけれど、今回のプログラムには入っていなかった。「張込み」は・・・渋い宮口精二の顔を頭に刻んだまま、名作として墓場までもっていく。

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新年、明けましておめでとうございます

2009年01月01日 23時00分00秒 | 映画に関する話

 「親に読ませられるような脚本を書いているようじゃダメだ。」と、大島渚監督は言った。結果として、親が読んでもいいような脚本を書いたとしてもいいけれど、要するに、人の目を気にするな、自分のありのままのナニモノカを出せ、魂を見せろということなのだろう。少しは長く生きてきたなら、心の奥の奥まで見せるのは、ケツの穴を見せるより恥ずかしいこともあるだろう。他人より、肉親に見せる方がきつい。叫びでもいい。これはよくわかる。

 この言葉は、原作ものではなく、オリジナル脚本を指している。ベストセラー小説、コミック、テレビの高視聴率ものがたくさん映画化されている現在では、あの大きな声で、別の怒りが聞こえてきそうだ。そして、プロデューサーにその矛先は向きそうである。エンドロールでだらだらと会社別に出るプロデューサー、映画興行後の尻拭いは誰がやってくれるのだろう。あの中にカリスマ的なプロデューサーはいるのか。監督と同じくらい有名なプロデューサーの名前を私はいま、まったくわからない。

 さて、2009年の幕はあけた。昨年は88本というテイタラクだったが、今年は困難だろうとも、200本は目指したい。特に、良作がたくさん観られる「下関スカラ座シアター・ゼロ」を知人に勧め、私もできる限り観たい。また、「小倉昭和館」で観のがしたヒット作、単館系を観よう。・・・全国の封切系はどうか。数少ない情報から期待作を挙げてみると・・・。

 「タイタニック2」「パラサイト・イヴ2」「ナイトミュージアム2」・・・「踊る大捜査線 THE MOVIE 3」「アイス・エイジ3」「トイ・ストーリー3」・・・「リング4」「ターミネーター4」・・・・・私が一人で映画館に通いはじめたころから、パート2、パート3と柳の下のドジョウすくいで評論家たちは嘆いていたようだが、時代はずーーーっと続く。私も「またやるの?」と眉間に皺を寄せながら、でも、それでは行ってみますかと足を運ぶ。険しい顔でチケットを買いながら、実は心はウキウキしてしまっている。お恥ずかしい・・・。続くにしたがって、映画そのものはつまんなくなるという歴史は長いが、面白かった映画のパート2、パート3はやっぱり気になる。挙げた作品で、すべてを観たいとは思わないが、「もう、あかんやろう?」と口では言いつつも、タイタニック、リング、ターミネーターなどは気になって仕方ない。タイタニックは、何を続けたいのかわからぬが・・・。

 これらの「2」「3」「4」を並べていくと、映画がヒットしたから続くのだけど、感心するのは、そのほとんとがオリジナル脚本だということだ。「リング」ももう、パート2からは小説を無視していてオリジナルだ。原作はヒントに過ぎない。ミーハー気分もあるけれど、オリジナルであることは好ましい。だから、私はけっして嫌いではない。あまり好きではないのは、ハリウッドのリメイクである。

 日本映画は世界市場ではないので、カンヌなどの映画祭を除いては、ハリウッドでは興行としては相手にされていない。だから、日本映画としては素晴らしい出来であっても、ハリウッドはそのまま作り直す。この傾向が多くなってきた。日本映画のリメイク権が安いということもあるのだろう。今年、山田洋次監督の「幸福の黄色いハンカチ」がハリウッド版になる。あの映画の原作はアメリカ人のピート・ハミルで、それをヒントに日本映画としたのだから、逆輸入リメイク版と言えるかもしれない。オリジナルを踏み潰すような作品が生まれやしないかと危惧しているけれど、どうしても観たい。

 シリーズものとしては、「007 慰めの報酬」で、沈黙シリーズのような安っぽいタイトルだけれど、前作のカジノ・ロワイヤルが久々、観ごたえがあったので、期待している。そして今年の暮れに「ソウ6」がやってくるのだろう。もうここまで続けると、マニアの為の映画で、私はパート5にガックリきたから、フンッと飛ばしてやりたいが、封切が近づくと、きっと・・・涎を垂らしながら待つだろう。まあなんと、節操のない映画ファンである。

 本がン百万部売れたから、視聴率がン十%だったからという理由で制作し、それを観にいくよりも、グダクダ言いつつも、オリジナル脚本で仕上がったシリーズものの方が、出来はどうあれ、観る前のワクワク感、ゾクゾク感が高い。新しい発想の脚本で、「これはいいぞ!責任はオレにあり!」というプロデューサーが手腕をふるってほしいものである。腹を切る覚悟のプロデューサーは、歴史に残る。そして、そういう映画であれば、続編、続々編も大いに結構。映画でしか観られない物語・・・「あれは面白かったなあ、パート2がくるの?楽しみだなあ。」になるのである。ゴタゴタ抜かす私でも、続編はイマイチだとは思っていても、封切を浮き足立てて、待つのだから・・・。

 さあ、今年は走るぞ。

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2008年 マイベスト5

2008年12月31日 23時00分00秒 | 映画に関する話

 2008年、大晦日である。今年で3年目になるマイベスト・・・前年、前々年はマイベスト10だったが、今年はマイベスト5にしよう。というのも、今年、映画館で観た作品の本数は、ぐぐぐっと減って、88ととても少ないからである。88だわ!末広がりぃ!と、喜ばれる数字ではない。88作品しか観ていないとは情けない。2006年は328作品、2007年は195作品。昨年の半分以下、一昨年の4割以下しか観ていないのだ。ここ20年は、毎年、200本前後は観てきたので、とても寂しい年になった。これをマイベスト10にすると、古い映画も含んでいるので、外した作品は50本程度になる。無理やり、ぶら下がらせるのも意味ないので、5つの作品を選ぼう。観たくて、手帳に記した映画の本数は250以上である。大阪時代だったら、どんなに多忙な日が続いても、200本は観たろう。ぜひ来年は、ベスト10の書けるブログを目指したい。

 2007年に公開され、2007年のベストに入れられている方もいらっしゃる作品もあるが、東京では2007年でも、大阪で1月に公開されて観たもの、下関や小倉で2月、3月に公開されたて観たものは、2008年とした。

 観た時の末尾に記した点数は、映画ファンの独りよがりを避けるため、読まれる方を意識して付けているが、毎年、このベストは、点数を無視して並べている。だから、誰にでもお勧めできる映画は上位に持ってきているわけではない。31日に思う、これが、完全なるマイベストである。

日本映画

第一位 「アフタースクール」<シネプレックス小倉>(全国公開系)

第二位 「休暇」<下関スカラ座シアター・ゼロ>(単館系)

第三位 「クライマーズ・ハイ」<シネプレックス小倉>(全国公開系)

第四位 「陰日向に咲く」<シネプレックス小倉>(全国公開系)

第五位 「歓喜の歌」<シネプレックス小倉>(全国公開系)

次点 「母べえ ハンサム★スーツ」

外国語映画

第一位 「白い馬の季節」<九条シネ・ヌーヴォ>(単館系)

第二位 「ノーカントリー」<TOHOシネマズなんば>(全国公開系)

第三位 「胡同(フートン)の理髪師」<下関スカラ座シアター・ゼロ>(単館系)

第四位 「バンテージ・ポイント」<シネプレックス小倉>(全国公開系)

第五位 「いつか眠りにつく前に」<下関スカラ座シアター・ゼロ>(単館系)

次点 「ヒッチャー 再会の街で サラエボの花」 

★ 今年は単館系が少ない。ほとんど観てないからで、毎年のように仕事の如く映画館に通えば、やはり単館系がそのほとんどを占めたろう。わずかの上位をこねくりまわたしてみた。2日考えて順位を付けたが、どう並び替えても、やはりしっくりこない。だが、例年のように、鑑賞本数が少ない分、次点が少ない分、まだ楽だった。

 2008年、みなさまに多くのご迷惑、ご心配をおかけしました。ありがとうございました。これからも末長いお付き合いを宜しくお願い致します。

よいお年をお迎え下さい。

2008.12.31記

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雑記 「ペーパードライバーは映画館のない田舎をひた走る」

2008年12月08日 23時00分00秒 | 映画に関する話

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 <本作についての感想文は一切書いていません>

 大学時代、18歳の時に免許を取り、それほど運転をせずにこの歳まできた。乗るのは、一人暮らしの引越しのときのレンタカーくらいだった。何年も乗らないと、運転する自分さえ想像がつかなくなる。レンタカーを借り、1時間ばかり近場をぐるぐるを走り、勘を取りもどす。それからでないと、荷物を運ぶことさえできなかった。ここ10年以上、引っ越す機会はなかったので、私はますます運転から遠ざかっていた。仕事でも乗ることはなく、もう一生、乗らなくてはいいような環境にいて、自分でも乗るつもりもなかった。

 ところが、故郷に戻ってみると、ほとんどの人の移動の手段が車であった。電車やバスなど眼中にない人がいっぱいいるのである。これには正直、驚いた。公共交通機関を無視すると、ますます電車やバスから時刻の数字が消える。25年前は、バスの発車時刻など考えずにでかけたのに、現在の下関ではしっかり考えないと、20分くらい平気で待たされる。「バスなんてもう何年も乗ってない。」という言葉を故郷に帰って何度も聞いた。地方都市では、人より車の方が数が多い。そんなことは何となくわかってたはたが、そういうところに居住することは考えてなかった。

 7月の終わり、自動車学校に電話をかけ、ペーパードライバーであることを告げ、さっそく講習にでかけた。2時間乗ってみたが、私にはとんでもない事態だったけれど、運転は何の問題もないと言う。本当に十年以上乗ってないのか?と、横に座る一回り年下の教習員とペチャクチャ喋ったが、喋る口の中は、緊張から、実はカラカラに乾いていた。その翌日から、実家の車に毎日乗るようになった。どこへ行くわけでもない。練習のための運転であった。一ヶ月もすると随分慣れ、電車やバスが交通手段だった私だが、車で遠出してみたりする。下関を少し離れるともうそこは僻地で、いろんなことが感じられる。

 私は日頃、映画館が遠い、映画館がない・・・不満爆発で書いてきたし、今も書いているが、もっと田舎へ行けば、この不満はとても贅沢なことのように感じ、恥じ入ってしまった。下関から山陽路は明るいが、山陰路は旅情を誘う道が続く。昼は閑散とし、夜はとても暗い。映画館など求めても無理がありすぎる条件である。映画館へ行こうと思えば1時間2時間かかって車を運転しなければならない。そういう人たちが私の書いた記事を読めば、へんっと思うだろう。ということは、下関に住んでいるのは恵まれてるけど、私は、文化の地域の差が気に入らないのではなく、交通の便の悪い映画ファンが、下関に出ても観ることができないのか、というのが気に入らないのである。下関から多くの映画関係者が誕生したのには、映画館の存在がやはり大きいだろう。

 そんなことをウツラウツラと頭に、「ハンコック」と「20世紀少年」を観る。こんな全国公開して、どこでも観られる映画のはずが、実はどこでも観ることはできないのだ。下関という地方都市からまだ地方へ行って思う。映画人口が減少し、消えなかったからいいものの、観客は横ばいだからだ。いつまでもTVのせいにはしていられない。映画は映画だ。映画を映画館で観る楽しみや喜びを伝えてこなかった私たちのグータラのせいでもある。

 映画が興行であることを悲しく思う。だが、美術館で観る絵画のように、国や県が管理してもらってはつまらなくなるので、興行であって良かったとも思う。しかし・・・一番いいいのは、無理だけれど、国や県が管理しつつ、一切文句を言わない形である。フィルム・コミッションの規定のように、どんな脚本、映画でも受け入れる!という態度であれば、公営も大いに歓迎したい。Rで規制して、問題ある映画は上映中止にしようなんていう国だから、まだまだ頭の難い連中が入れ代わり立ち代りトップに鎮座しているけれど、今日、シネコンに入ってみてしみじみ思う。公営であれば、どの市町村でも映画は観られるのにと。私なぞが小泉首相だったら、わがままだと言われても、映画公営化解散する・・・。「公営でありながら!民営のサービスを!」などと・・・。

 シネコンの乱立は、地方都市で映画を観られるようにしてくれたが、中途半端に集まりすぎている。最も如実に考察するには、本州では中国地方がいい。5つも県があるのに、都市と言われるのは広島くらいで、あとはみんな中途半端な地方都市である。そこに、ニョキニョキとシネコンが建てられている。地図を見ると、観にいくのには十分すぎるほどあるように思うが、シネコンとシネコンの間の距離はとんでもなく遠いし、悪路だ。下関はいまや2つしか映画館がないが、昔は駅があれば映画館があったというほどだったらしい。駅すなわち映画館のある場所だったのだろう。

 地方都市だろうが、ど田舎だろうが、フィルムの値段が変わらないというのが地方の映画館をつぶすひとつの要因ではなかったかと思う。もちろん、東京と下関ではフィルムの借り代は違う。地方都市の方が安い。しかし、下関よりももっと田舎はどうかというと、下関と同じというのが問題なのだ。配給会社が、封切をかけるのは惜しがっても、少し遅れて安く貸し出せばよいものの・・・入場者数を勘案して、フィルムを貸し出せばいいものの・・・どうせ中央へ帰っても、倉庫にしまいこんでるだけなのに・・・DVDも早く出すぎ。忘れた頃より、完全に忘れてからやってこいと、映画館で映画を観る映画ファンは思うのである。岡本喜八監督が嘆きながら映画を作っていたのは、映画ファンならば頷くことだろう。DVDで儲けている今の映画会社もだらしないか・・・。

2  「ハンコック」と「20世紀少年」・・・大ヒット間違いなしの、観なくてもいい映画を2本続けて観て、この映画を作ったお金をまわしてくれたら、地方にたくさんのいい映画館ができそうだと感じた。怒られるかもしれないが、それしか感じなかった。大作にもいいものはいっぱいあるけれど、金儲けだけで楽しませてもしくれない、自分たちだけで面白がっている映画も多い。面白がっているのは歓迎するが、それが観客に伝わってこないのでは、シラケルばかりだ。「ハンコック」がなぜあんなのになっちゃったのか、理由からはじめなきゃ、やはり、映画には入り込めない。主語がないじゃないかと、最後までウソくさすぎた。CGの極めを見せ付けられただけだった。これを観れば、スーパーマンがどれほどよくできた映画かがわかる。 <45点>

 「20世紀少年」は、前半がとても面白いのに、わかってくるうちにつまらなくなる。後半がダレルほど興味なくなる。これは、映画の尺に問題がある。どうしても2時間にしなゃなんないと、なぜ、この頃の日本映画は長いのだ。1時間半で面白いものを、2時間半にしてつまらなくする傾向が、この何年間か、とても強くなっている。三部作にするなら、続きが観たい!どーしても観たい!というエピソードで終わりたい。だからこの映画、1時間30分ものだったら、私は来年1月のパート2をワクワクして待ったろう。最近のシリーズもののラストとして抜群なのは、「ソウ3」だ。ここまでやるか、まだやるか、そして絶頂で盛り上がっているぞ!というころでロールスーパーが流れる・・・続きはどうしたの?と、呆気にとられる。途中じゃないか!と、ドキマギする。とてもグロテスクな映画で、毛嫌いする方も多いようだけれど、「ソウ」シリーズは、何もかも上手い。 <55点>

 今日も車で、下関市内を走る。昔、映画館のあったところを訪ねる。大きくて広かった映画館の跡地には、大型スーパー、ビジネスホテル、ファミリーレストランへと変わっている。家が建て込んだり、全国チェーンの駐車場になっていないのは、元々、場所がよいからであろう。

 私の車の運転は確かである。なぜなら、私はゴールド免許なのである。乗らなかったからだろう?と言われる。その通りで、ペーパードライバーはみんな、ゴールド免許だ。ペーパードライバーなんぞにゴールドを与えていて、そのままの構造を何十年も続けていて・・・そんなもの意味ないし、とてもいけないことだ。公務員め。そう思うと・・・いろいろ考えてみて、映画館を公営にしたら・・・やっぱり映画をダメにするばかりだ。構造改革が先だ。やっぱり、映画公営化法案、否決!

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小倉昭和館まで旅する

2008年07月24日 23時00分00秒 | 映画に関する話

Photo Photo<小倉昭和館>

 2008.06.29鑑賞

 何ヶ月か前の1本立て封切作品を2本立てで1,000円。女性サービスデー、毎月1日、シニアという割引は、800円になる。時には先月公開したはずの映画が2本立てでかかることもある。昔はこういう映画館は、いっぱいあったけれど、今はない。というわけで、これが、小倉昭和館の魅力である。昔のままである。単純に、要するに二番館だが、この映画館直営の一番館はない。

 ミニシアターものを2本立て、全国系を2本立て・・・昭和館1は邦画に徹して、昭和館2は洋画に徹している。地方都市であるが、しっかりこだわりを持って番組編成を考えてある。新世界を舞台にした「ビリケン」の台詞ではないが、どんな組み合わせやねん!と思うことはあるけれど、ソレはソレで面白い。共通点のあるかけ方の面白さよりも、意外性でニヤリとさせる。大阪では、新世界、小阪、駒川中野くらいしか思い出せない。

 ただ、私は映画をたくさん観るタイプのオッサンで、かかる映画、かかる映画、ほとんど観ている。2本のうち、1本だけ観ているということもある。ホームページを見ながら、腕組みしてしまう。2月から今日まで5ヶ月。ようやく2回目の小倉昭和館となった。この間、すべて、大阪で観たか、シネプレックスの封切を観ていた。

Hi380004  下関駅のホームで電車を待っていると、意外に長い編成の列車が入ってきた。8両もある。下関は、昔、東洋一の港町であったこともあり、九州への玄関口でもあり、プラットホームの数が多く、また、長い。今の大阪駅は、実は下関駅を真似て造られたらしい。何気なく歩いていると気づかないだろうが、改札からホームまで、意識して歩いてみると、大阪駅と下関駅は造りが同じだ、ソックリだと気づくだろう。大阪駅が真似をするくらい、下関駅は人でごった返していたのだ。だが、今は昔、人はいなくなって、大袈裟な駅舎だけが残った。いたずらに長いホームに、2両、3両、4両編成の電車、ディーゼルカーが、真ん中辺りにチョコンと停車する。

 だが今日は、珍しく8両もつないである。電車は1両でも編成で、1両でも列車と呼ばれるが、今日は、立派な列車となっている。列車運用の仕組みはどうなっているのだろうかよくわからないが、この列車、真ん中で色が変わっているので、どこか途中の駅で切り離すのかしらん?と思う。4両つなげても全員座ることのできる時間帯だから、私はガラガラの車両に乗り、小倉へと向かった。下関駅を発車し、しばらくすると、短い鉄橋を走り、関門トンネルに入る。戦争の真っ只中、昭和17年に開通したこのトンネルは、石炭を本州へ運ぶために日本初のシールド工法で掘削された。今のシールド工法は、死者が出るのは珍しいが、このトンネルは多くの人命を落とした。窓の外を注目していると、下関トンネル入口側に、慰霊碑がチラリと見える。

Hi380005_2  小倉駅を背中に、右手の歩道を下り、銀天街へ出る。小倉は、ここだけが華やかで、人通りも多い。アーケードの下をしばらく歩いていると、近代化は背後の姿となり、大きな道路を渡れば、昔ながらの昭和の香りがする店がいくつも現れる。この辺り、どこにカメラを向けても画になりそうで、白黒写真にしたら、行ったこともないのに懐かしい感じがするだろうと想像する。昭和館の看板を左手に見て、右折すると、目の前に映画館が現れる。ここへ来るのは3度目(帰郷してから)だが、いつも天気が悪い。今日も小雨がチラチラしている。だが、小雨がチラチラするというのが、これまた昭和館の建物に似合っている。叱られるかもしれないが、太陽サンサンで、健康的じゃないほうがいい。

 人いりは少ないと思って遠慮して入った。遠慮したのは、招待券でやってきたからだ。次の上映まで10分ばかりあるので、覗くようにドアをあけると、結構、いっぱい入っている。いま、入って座れと言われても、誰かの横に座らなければならないくらいだ。ロビーの椅子に腰掛け、次回の番組のポスターをながめていたら、3人のおばさんが、雨傘を激しくたたみながら、ワイワイと入ってきた。雨粒がロビーに飛ぶ。「あと、何分?」と、モギリの女性に聞いている。私の見ているポスターを指差し、「今度、これに来よう!」と言い合う。よくやってくるのだろう。私の観る回は、最終回の2本で、終わるのが20時30分を過ぎる。そんな時間までおばさんたちは大丈夫なのかな?と、いらぬ危惧をしたが、1本目はいたけれど、終わると出て行き、そのまま場内には戻らなかった。1本だけ観て、帰ったようだ。

 この映画館に私がはじめてきたのは、高校一年生のときだった。今は、どちらも一般映画をやっているが、あの頃は、どちらかが洋画2本立の封切、どちらかがポルノの2本立てだった気がする。近くには松竹系、東映系、東宝系がデーンと構えていた頃で、独自の映画をひっぱってきていた。ここで私は「ジャンク」を観た記憶がある。あのような恐いもの見たさ、惨酷なドキュメンタリー映画は、今ならR-18だろうが、その前に、輸入もされないだろう。ゲテモノ映画もいっぱい日本に輸入され、面白い時代だった。エログロなんでもあり、年齢制限もされなかったが、今のような異常な犯罪は少なかった。だから、犯罪は、映画のせいにされなかった。今は、とりあえず、映画のせいにされる。健全な映画ばかりが輸入される。だから、とても狭い中で、作品を選び、輸入している。そのうち、文部省選定モノばかりになりはしないか・・・これは、自分達の責任にされたくない、そして、頭の堅い大人たちへの皮肉である。

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 小倉昭和館は、番組編成、料金、すり鉢状の客席、椅子、入れ替え無し、指定無しなど、とても嬉しい映画館だが、ひとつだけ気に入らないことがある。映画と映画の間の休憩が、わずか5分なのだ。いや、確かに、昔の映画館の2本立て、3本立ては、間の休憩が5分だった。それが、あたり前だった。だが、この休憩時間は、1本立てのシネコンが乱立している今、そのまま現代にあてはまらない。私のようなハシゴするようなアホな男であっても、映画と映画の間は、一呼吸したいという体になっている。

 トイレは、場内からロビーに出て、右側の小さなドアをあけると、遠くに見える。劇場の後ろから前まで歩くのと同じ距離で、トイレまで細く長い通路を歩かされる。誰も居ないので、写真を撮ってみた。静かなので、カシャッという音は、ロビーまで響いたろう。どこで何の写真を撮っているのか?と思われたろうか。写真を保存した後、足早に駆け込み、素早く用を済ませ、もときた長い通路を小走りにロビーへ出る。モギリの女性と目が合った。が、もう、場内から、映画の音が聞こえている。5分も経ってない。3分くらいだ。前の回が、ちょっと時間を過ぎたのだろう。かかっているのは予告篇だったけれど、写真を撮って、足早に駆け込んで、小走りに戻ってきたというのに、もうはじまっているのでは、気を抜く間がない。ここだけ、難がある。

 1本だけ予告を観て、「潜水服は蝶の夢を見る」がはじまった。入ってきたときは、かなりの観客で、「マリア・カラス最後の恋」で、入れ替わったけれど、20人以上いたはずなのに、この最後の上映は、私を含めて、たった2人だった。どちらもいい作品だが、この2本立ては私には重過ぎた。テーマが重い。

 退屈ではないのだが、ボソボソと喋るとても静かな映画だからか、後ろの映写機のカラカラという音が、いつもより大きく聞こえていた。カラカラ音は、フィルムチェンジする度に大きくなった。カラカラ、カラカラ・・・私の大好きな音である。

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bobby's☆hiro氏のプチトークに行ってみる

2008年05月10日 23時00分00秒 | 映画に関する話

 <淡路東宝2> 2008.04.19の出来事

Photo  3月の中ごろだったと思う。関西でシネマコミュニケーターとして活躍するbobby's☆hiro氏からワード添付のメールが届いた。淡路東宝で、第二回目のプチトーク、お楽しみを開催するのだという。このメールを私は故郷の下関で受け取った。ちょうどよい時に大阪に行っているかどうかは定かではなかった。下関では台本を書くのみで、お呼びはかかっていなかった。新幹線車両の改良で、移動時間は短くなったけれど、大阪は私のいる地から500キロも離れていて、まだまだ遠いところである。往復の新幹線代、宿泊費などを考えるとバカにならず、それを支払うプロダクションは、考えあぐねているようだった。だから、私は返事を出さなかった。それからしばらくして、4月13日から2週間、大阪にいることが決まっても、私はbobby's☆hiro氏にメールも電話もしなかった。仕事のスケジュールが流動的で、プライベートの時間を確定することはできなかったからだ。映画は、既に観た「チームバチスタの栄光」であるが、映画がどうとかいうのではなく、行くことができれば、行きたいとは思っていた。会いに行くという気持ちだけがあった。

 ちょっと我がままをしたけれど、行くことができるとなったのは、この日の朝だった。カプセルホテルから仕事場へ行き、昼過ぎに地下鉄堺筋線に乗った。この地下鉄は、大阪市内から阪急電鉄へ直接乗り入れていて、淡路にはすべての電車が停車する。淡路駅周辺は何度も来たけれど、この駅で下車するのは2度目である。以前も、bobby's☆hiro氏のプチトークを聞きにやってきた。今度も同じだ。広いけれど、はみ出した商品たちで狭くなった商店街の通りを歩く。この商店街、細く長く、くねくねと曲がっている。土曜日の昼は、肩がぶつかるほど、人で賑わっていた。

2  この記事を書いている今日、すでに淡路東宝2は無い。連休明けに閉鎖した。映画館らしい映画館、淡路東宝2の最後の映画は、bobby's☆hiro氏のトーク付きの「チームバチスタの栄光」だった(淡路東宝1は開業、上映中)。細い階段を上がっていくと、何人かのお客の向こうに、bobby's☆hiro氏の姿が見えた。遠くから私をみつけ、おっ?という顔をした。驚かせようとしたわけではないが、この際、メールも電話もしていなかったので、まさか来るとは思っていなかったという顔だった。私に近づき、開演までしばらくソファで話す。bobby's☆hiro氏は、この頃、シネマコミュニケーターとして、どんどん活躍の場を広げているようだ。グルメ雑誌に、新作映画のコメントを書きはじめた。先日、読ませてもらった。第一回は、「黒い家」だった(日本の森田版ではない)。雑誌の関係者もロビーにいる。その方にお願いして、ツーショットを撮ってもらう。日東紅茶も協賛していて、グルメ雑誌の他、箱入りの紅茶のパックをもらう。

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 プチトークがはじまって、写したのが、上の写真。ちゃんとしたデジカメで撮りたかったが、旅行できたわけではないので、携帯のカメラしかない。手ぶれ補正をして撮ったけれど、かなり粒子が粗い。私の他にはカメラを向けている者はいなかった。それはそうで、今のbobby's☆hiro氏にとって、これは大きな晴れ舞台ではない。日常になりつつある。とても精力的で、1年半前にはじめて会った時とはまったく環境は変わっているようだ。

 プチトークが終わり、映画を観るかどうか迷ったが、私はブザーが鳴るのを背に、ロビーへ出た。映画を観るのが目的ではなく、bobby's☆hiro氏と会って話しをするのが目的だから、少しは話せるかなと考えたのだった。映画がはじまり、誰もいなくなったロビーのソファで、二人でしばらく最近の映画について盛り上がっていると、「メシ、食った?」と聞いてくる。実は、朝から何も食べてない。この映画が終わって、昼食と考えていたのだ。bobby's☆hiro氏は、「どこか食べに行こ!」と、テケツのおばさんに「ちょっと出てきます!」と挨拶をし、私を連れて、表へ出た。難波でも思うが、bobby's☆hiro氏は、路地裏をよく知っている。ここ、淡路も商店街の表通りではなく、道をそれて、店の前に立ち、ここがいいとか、ここはどうだとか言う。あれこれ迷った挙句、私たちは「餃子の王将」へ入った。昼も随分と過ぎていて、店内は人も少なかった。bobby's☆hiro氏は、よく喋る。お喋りという意味ではなく、映画に関して、とても饒舌になっているのだ。仕事柄、先取り情報も私に提供してくれる。もう完全に職業となっていて、それは楽しい楽しい仕事となっている。仕事が楽しいというのは、羨ましい。

8 食事から変える途中、必要な買い物があると、スーパーへ寄った。聞くと、アイスを買うのだという。「チームバチスタの栄光」の中で、竹内結子が食べていた、あの棒のついたアイスである。これを、来てくれたみんなに配るらしい。こんな洒落たこと、私などは思いもつかない。感心しながら後についていく。アイスクリームの棚からひとつの箱を取り出し、「これでしょ?竹内結子が食べてたの。」と、私に見せた。映画上映中の2時間、私はbobby's☆hiro氏と映画の話しをして、飯を食い、アイスを買って、一緒に過ごした。そろそろ上映が終わるというので、淡路東宝2に戻る。私は映画館の前で、「この辺りで。」と言って、記念の写真を撮った。2時間、私が一人で束縛したのだから、後はbobby's☆hiro氏のトークを楽しみにきた人たちのものである。

bobby's☆hiroプチトークin淡路  クリックすると、bobby`s☆hiro氏のブログへ飛びます

 私はまだ大阪にいるけれど、仕事が詰まっていて、このまま下関に帰りそうだから、次はいつ会えるかわからない。もしかしたら、これが最後の再会かも知れない。しかし、「またいつか会おう。」と言って別れた。そう言えば、きっといつかまた会える。bobby's☆hiro氏は、私に手を振って、映画館の階段を駆け上がっていった。その後姿が見えなくなって、私は淡路駅へと歩いた。胸躍る、爽やかな土曜日の午後だった。

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芸大時代の友人たちのその後

2008年04月10日 23時30分00秒 | 映画に関する話

 3月30日の「走り回る宮川キャメラマン」を書いた後、記事にある「サインをもらった友人S」から大学時代の宮川先生の思い出のメールをもらった。みんな、自分も名のある者となるはずだったからか、自分の先生だから思いつかなかったからか、S以外の友達はサインをもらわなかった。目の前に映画人の大御所がいるのに・・・。いや、S以外にもサインをもらった者はいたかも知れないが、私のまわりにはいなかった。仲間の中ではS、ただ1人だった。

 大学4年間を通し、友達はほぼ同じメンバーのままだった。東京出身のAとM、千葉出身のS、静岡出身のO、長野出身のU(写真学科)、愛知出身のS、大阪出身のF、徳島出身のM、山口出身の私、福岡出身のN(舞台学科)、長崎出身のH・・・まだまだ友達はいたけれど、入学直後から卒業までずっと一緒にいて、後も友達なのは、だいたいこの10人である。映像学科ではない者が2人いる。これは、同じ寮だったという仲である。11人のうち、8人は入学してすぐに同じ寮に入っていた者だった。朝から夜中まで一緒にいて、飯も一緒に食い、風呂も一緒に入り、ふざけあって笑いあって、クソ真面目に議論して、寝るときも同じ部屋だったりしたものだから、いつ会っても、この仲間とは18歳のその時に戻ることができる。彼らはその後、どうなったか。自分もサインを書く方の名のある者となったか?

 サインをもらった愛知のSは、大学で学んだこととはまったく関係のない会社に就職した。サインをもらった時点で、この大学4年間の生活はただの思い出となるように封じたのだろうか。当時、私はそう解釈した。東京出身のAとMはラジオ局に入り、後にAはイベントの企画会社へ入った。Mは自主制作映画を撮り続けている。静岡のOは地元のテレビ局に入った。長野のUは広告代理店に入り、所長までいっている。大阪のFはディズニーランドのメイキングスタッフになった。徳島出身のMは実家の大型電気チェーン店を継いだが、今はやめて広告代理店にいるようだ。福岡出身のNは、某有名な舞台スタッフとなった。千葉出身のSは、ぴあでグランプリを獲り、映画監督となった。長崎のHも、ぴあでグランプリを獲り、映画監督となった。この夏、新作が公開される。深い親交があったわずか10人の中から、商業映画を撮る監督が2人も出現した。自分の力で監督までのしあがったのだ。サインを求められる者が2人いる。これには驚くが、みんな、芸術とは関係のない世界にはいないことに私はまだ驚く。Sは、業界とは縁のない世界へ入ったけれど、今から12~3年くらい前、突然、その職を辞し、大手広告代理店へ入った。今は幹部だ。私は今もまだ、ビデオのディレクターをやっている。

 11人にはそれぞれ違う友達もいるはずだが、この11人はすべて友達同士だ。今から4年前、このうち6人が東京に集合した。仕事柄、生活も滅茶苦茶で、その上働き盛りが、徳島から、大阪から、長野から、愛知から、同じ時間に同じ場所へ集まるのは困難だけれど、無理を承知で呼びかけて、不可能を可能にしてやってきた。卒業してはじめて、これだけの仲間が集まった。一泊二日、ホテルの一室で、明るくなるまで昔の話しをする。夜が明けなければ、倒れるまで喋っていたろう。何を話したか覚えていない。覚えなくていいことを延々と話したのだろう。

 友人Sの大学時代の記憶は四半世紀近く経っても鮮明で、そのメールを読むと、私の記憶とは比較にならなかった。私は記憶違いをする男で、宮川先生は自分のことを「僕」と言うのは覚えていなかった。3月30日の記事には「私」と書いている。また、「トリスのCMのラストカットは宮川先生の孫娘のマンションからの俯瞰。」「宮川先生は、キャメラマンだけでなく、フィルムもヒルムと呼んだ。」「<乱>の撮影をするんですか?と聞いたら苦笑いして、いや僕は体力がないから無理やわ。阿久悠のシャシンで<瀬戸内少年野球団>を撮るよと言った。」「<瀬戸内少年野球団>の夏目雅子が空振りするカットは本番でもなんでもなく、宮川先生が独断で回していたもの。エキストラの反応は本物。」メールの一部だが、すべて、友人Sの記憶である。よく覚えているなと感心する。

 11人全員、形は違えど、芸術関係にひっかかっている。それを本業としている。畑違いのところへは行っていない。大学時代の4年間から23年目・・・不思議な縁が、目に見えない糸で、今までつながっている。そのように思う。面白い。

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走り回る宮川キャメラマン

2008年03月30日 23時30分00秒 | 映画に関する話

 私がはじめて講義を受けたのは今から24年前だったから、宮川一夫は76か77歳だったのだろう。まだまだまだまだ働き盛りの現役で、篠田正浩監督についていた。あの勝新太郎が、「大映撮影所で挨拶に行かなければならない偉い人は、溝口健二先生、長谷川一夫先生、宮川一夫先生、大河内傳次郎先生だった」と言うほどの人が、実は私の大学時代の先生であった(先生だったので、宮川先生と書く)。

 フィルムの現像からスタートし、無声映画のキャメラマンとなり、「無法松の一生」(稲垣浩監督)で高い評価を受けた宮川先生は、その後、溝口健二、黒沢明、小津安二郎、市川崑という大監督の映画にキャメラマンとしてついている(宮川先生は、自分のことをキャメラマンと呼んだ。カメラマンとはけっして言わなかった)。黒澤明の「羅生門」が海外のカメラマンに影響を与えたことは有名だ。白と黒と鼠色で、見事に太陽をフィルムに焼き付けた。同監督の「用心棒」の対決する両者をシネマスコープの広い画で、真横からとらえたカットは、世界から宮川カットと呼ばれ、後の西部劇がこぞってマネをしている。俯瞰の宮川としても知られ、宮川キャメラマンであれば、どんな巨匠についても、俯瞰カットが出てくる。はじめてのテレビCM「サントリーのトリス、雨と子犬」は今も新鮮だが、短いタイムであるにもかかわらず、やっぱり俯瞰が出てくる。宮川キャメラマンにはエピソードが山のようにあるけれど、私の知る宮川先生は、20歳そこそこの学生達と子供のように、同期のように、楽しくはしゃいで講義している姿だ。

 映像の講義というより、「現像ばかりしていた新入りの頃」「手回しの撮影の頃」「黄金時代の映画の話」「いま携わっている映画の話」ばかりしていた。そこには、教えてもらっているというより、楽しい映画の話を聞かせてもらっている私たちがいた。勉強だったのだろうが、勉強しているという気はしなかった。楽しいお喋りを聞く時間だった。

 宮川先生は黒澤明監督の「影武者」を撮ることになっていたが、目が悪くなって降板する。白内障だった。普通は徐々に見えなくなるのに、宮川先生の場合、急にソレが襲ってきたのだという。カメラをのぞく人、顕微鏡をのぞく人に多いらしく、急激に悪くなる原因はわかっていない。すぐに治ったのだが、撮影は別のカメラマンに渡された。これをとても悔しがって、私たちにフィルムを見せてくれた。たくさんの影武者のフィルムを持ってきていた。というのも、テストフィルムを撮ったのは宮川先生だったからだ。芸術性を求められたワンカットワンカットは、フィルムだけではなく、現像にもこだわりがあった。本番より、テストの方がとても大変らしい。膨大なテストフィルムがまわり、後は、役者とからませて本番!という際に、突然の白内障。「あれだけテストがあったから、カメラマンは楽だったやろうなあ。」と宮川先生は笑った。その様子を、教壇を所狭しと右へ左へ歩きながら語る。歩くというより、走ると言った方が正しいかもしれない。

 「木枯らし紋次郎のオープニングタイトルのときね。」「まさか私がテレビコマーシャルを撮るとは思ってもなかったけれど。」「今は篠田くんに恋をしているんだ。」「篠田くんがこう撮ろうと言ったんだ。だけど私はこう撮ろうと提案してね。」・・・・・まったく座ることなく、それどころか走るように前をちょろちょろとして、両手を広げ、体でいろんなものを表現しながら私たちに説明した。80歳近い人にはとても見えなかった。宮川先生自身、そんな歳だとは思ってなかったのじゃないかしらん?と思う。「まず私が恋をした監督はね・・・」「市川監督に恋をしていた頃は・・・」と、目を輝かせながら喋った。話しは多岐にわたったけれど、講義の半分は、今週に起きた出来事だった。たった一週間で、この人はどれほどの出来事と遭遇しているのか?それを聞いているだけで、映画の世界は憧れていて正解のような気がした。

 大学3年生からの講義で、その頃まで残った映像学科の学生は200人あたりだけれど、すり鉢状の教室には300人以上の学生がいると思われた。別の学科の生徒が聞きにきているのである。講義というより、もうこれは講演会だった。宮川先生の講演会は、篠田正浩監督の「悪霊島」の撮影時期をのぞいて、毎週2時間開催された。入場料は、学費に含まれている。私たちが大学を卒業する頃、友人のSが、色紙を持って私たちの前に現れた。手には宮川一夫と書かれた色紙があった。サインをもらったのは、このSだけで、私を含め、他の学生はそんなことに気づかなかった。映画の世界では巨匠中の巨匠で、世界的有名人だが、先生という意識が先にいっていたのかもしれない。Sは、そのサインをまだ大事にしている。ちょっと羨ましい。

 その後、宮川先生は名誉教授となり、80を過ぎてもまだまだ元気で、教壇に立ちながら、篠田正浩作品のキャメラマンを続けた。デビューは1935年の「お千代傘」、遺作は1989年の「舞姫」だった。64年間、第一線でキャメラマンの仕事をした人である。私が卒業してから14年後、1999年、宮川先生は、91歳で亡くなった。最後に恋をしたのは、篠田正浩監督であった。亡くなった今でも、宮川キャメラマンは「世界一のカメラマン」として、世界映画史に燦然と輝いている。この名を抜く者は現れるだろうか?・・・・・あ、カメラマンではなかった。宮川先生に叱られるぞ。「世界一のキャメラマン」として・・・・・。

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