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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

ワルキューレ

2009年03月24日 23時00分00秒 | わ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネプレックス小倉>

 以前、何でも観るから、選んで観るに変わったと、私はブログの中で書いたことがある。間違いなくそうなった。また、今年こそはたくさん観たいとも書いた。しかしこれは、間違いなくそうなってはいない。

 映画情報のホームページやシネコンのホームページをウダウダと見ていて、アレにしようか、コレにしようか悩んでいるうちに、何でも観ていた私がこの頃思うのは、どれも観たいがどれも観たくないような気がする・・・ということである。これまでにない、不思議な感覚が私の中で膨らみつつある。観たい観たくないを無視して、観ていた時代が長かったから、とてもおかしな感覚が私の中に生まれている。

 今の環境は、映画を観るということに恵まれていないのだが、住む周りからの影響も大きい。私の周りにいる映画好きは、DVDで見るのが映画だとしている人が多いのである。映画館で観るという喜びなんて話すと、それはわかるが・・・だけで、映画館へは見向きもせず、DVDを大量に見ることだけを思っている。映画とは、DVDで見るものであるらしい。仕方ないときは別として、いま、映画が公開されているのに、いつDVDになるのかを気にするような人があまりにも多い。馬鹿馬鹿しくて、同じ映画好きでも話にならないし、したくもないが、私の故郷で会う映画好きは、たいてい、こういう人である。映画館で公開されたからこそのDVDの映画なのに・・・。「映画館は縛られるから、自宅で見る方がずっといい。」なんて、私をカチンとさせる言葉もかえってくる。どっか見えないとこ、行っちゃえ!とまでは思わないが、それに似た憤りもある。ますます、タバコの本数が増えて、体によろしくない。

 私の映画の観かたも変わったけれど、昔は観ていたんだけどね、なんていう連中と同じようになってしまいたくない。悟ったように見切りはつけていない。観続けたいが、どーしても観なきゃならないと思う映画が見当たらないだけだ。それでも私は観続ける。それほど観たくない映画でも観続ける。私は映画と共に生きてきた。映画を観るために生まれてきたとは思っていないが、私から映画を消すと、私も消えるという仕掛けになっているような気がしている。もう少し、私は消えたくない。・・・大げさだが。このままでは、この世に何をしに生まれてきたか、よくわからぬ。

 トム・クルーズは二度と俳優ができない・・・そんな話題が飛び交い、映画に詳しい友達もそう断言していたが、いやいや、超大作とはいかないが、けっこう、何本も出てくる。何でも受けるようになったのかもしれないが、本作も悪いわけではなく、ハラハラドキドキを堪能させてくれた。鋭利な刃物を顔の前で近づけたり、遠ざけたりされているドキドキ感があり、スクリーンをじっとみつめる。小品ではない。私はワルキューレ作戦を知らないけれど、無理なく、説明的でなく教えてくれるのも親切な映画だ。その国の言葉は無視して、米語だけでやる!というハリウッドのいつもの開き直った作り方もイヤミではない。と言っても、これは日本人だから思うことか・・・日本が舞台だったら釈然としない。

 アメリカ本国では風当たりが強いのか、日本へニコニコとやってきて、ファンに大サービスをしている映像がテレビに流れる。日本のファンは、昔から温かい。好意的に迎えられたのがよほど嬉しかったのだろう。握手する姿が延々と流されていた。地道な活動が、ミッション・インポッシブル4を現実とするか?まだまだ旬の俳優なので、落ち着いた芝居よりも、まだまだ、体をはって、走り続けてほしい俳優である。  <75点>

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ワールド・オブ・ライズ

2009年01月12日 23時00分00秒 | わ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  2009.01.11鑑賞

 <シネプレックス小倉>

 2年前、リドリー・スコットの娘が監督になり、父と共同監督で「それでも生きる子供たちへ」というオムニバス映画の中の一本を撮った。これから世界を担う子供たち、いま大人たちがやっていること、犠牲者は当人だけではない・・・戦争というものが根底にあり、最も弱い子供たちが精神的に肉体的に犠牲になっている様を、大人たちに侮蔑の目を向けるように描かれていた。これは、一昨年のベスト上位に入れたほど、私は心を揺さぶられた。それは、リドリー・スコットが携わっていても、監督の空気感はなかった。娘すべてのものになっていたと思う。

 最初から最後まで息つかせぬ走りっぷり。面白い。よくできている。しかし、偉そうに言うわけではないが、リドリー・スコット監督であることが、少々、気に入らない。リドリー・スコットという人は、有り得ないと思われることを、リアルに生々しく、洗練された映像でみせる天才だと私は思っている。現実世界としては、戦争にまつわる様々な映画も撮っているが、それこそ、生々しく描き、あまり遊ばない。それがいい。兄弟で別々の映画の監督をしているが、まったく作風が違い、そして二人とも映画というものをとても楽しませてくれる。

 テロとの戦い、旬な題材で、これまでにもいろんな形で描かれているけれど、どこかでよく似た映画を観たことがある気がした。観終えた後、私は首をかしげた。よくあるパターンなのか、いや、こちらがマヒしているのだろうか。色のよく似ている映画があったか・・・。そう思うとふと、一人の監督の名が頭に浮かんだ。トニー・スコットである。私は劇場のポスターの監督名を、勘違いしてたのかと、もう一度、見た。なるほど、弟のトニー・スコットの映画だったか。そういう色をしている。だが、どうひっくり返して読んでも、そこにあるのは、リドリー・スコットの名前だった。波のある監督だけれど、色がこれまでとは随分と違っている。違ってもいいけれど、色がトニー・スコットみたいだ。トニー・スコットの娯楽色と謎解き?である。実際の物語を脚色して・・・というのは、リドリー・スコットだけれど・・・娘と共同で撮った映画は娘の色をフィルムに焼付け、個人で撮った映画は弟の色がフィルムに焼きついたか?あれ?リドリー・スコットはどこへいった?頭が混乱してきた。私の頭が古くなってしまったのか、固定観念が抜けないのか・・・。

 悪いわけではない。主演の二人はそんなにギャラの高い俳優でなくてもいいし、むしろ無名な方が・・・とは思うが、マーク・ストロングの何を考えているか剃刀の刃のような冷酷な紳士の登場で、ドキドキワクワクさせてくれる。マーシャを演じたイランの女優も、ハリウッドにはとてもいなさそうな初々しい演技に好感が持てる。学校で勉学に疲れたなら、つらい仕事でムシャクシャしたなら、是非、本作を迷わずに選んで、アクションとスリルに酔いしれてほしい。スカッとさせてくれるだろう。あれよあれよという間に画面に引き込まれ、2時間半がすぐに終わる。期待して行っても、裏切られる人は少ないだろう。私は文句みたいなことを書きなぐっているけれど、映画は大いに楽しめる。  <80点>

 聞くと、どうも本作は、お正月映画の目玉らしい。リドリー・スコットというより、主演が華々しいからだろう。監督で観る人は少ないわけだし、こんなことにこだわらなくてもいいけれど、長く観ていると、創造者の変化というものがとても気になるのだった。私の目や頭が変化したのかもしれないので、消極的なのだが。

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ワン・ミス・コール

2008年09月10日 23時00分00秒 | わ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_3  <シネプレックス小倉>

 2008.07.19鑑賞

 映画は芸術であるが、娯楽でもある。日常とははなれた世界を楽しむ為にあるから、そうであろう。それは、映画だけではなく、文芸、音楽、舞台・・・ほぼ全ての芸術に言える。苦しみたくて見たり聞いたりしようと、芸術に向かい合う者はいないはずだ。鑑賞側とは違い、創造主は、苦しんで生む。そういうものになっていると思う。

 映画は、芸術の中でも、まだまだ低い位置に見られている。それは承知していて、娯楽色が濃く、興行という形をとっているから儲けなければならないし、だから、尚更であるらしい。世の中の青少年の犯罪は映画の仕業とされる現在であるから、まだまだ高いところへ立たせてもらえないだろう。この先、まだまだ低くされそうな気配もある。納得が難しいけれど、それでもいいよ~という気持ちが私にはある。まったく相反する気持ちを抱えていて、どっちつかずで自分でも呆れるが、あまり芸術を声高く言っていると、本作のようなB級映画を楽しむ機会が減らされてしまうだろうからだ。それはそれで残念だ。低い位置にあるからこそ、なんでもありで助かっている部分がある。

 青少年の犯罪が、映画に影響されたという世間の「まとめ」だけが、私は納得いかない。気に入らない。これは何度も書いてきた。真面目くさって、実にくだらぬことを書いたと思うが、映画大好き人間の中でも、R指定は青少年の健全化の為に必要だ!なんて風なコメントを見受けられることがあって、私はうな垂れてしまった。凶悪犯罪を映画のせいにするという行為は、実にくだらぬので書いたのに、なかなか賛同を得られないことだった。映画を真似て犯罪なんてしない頃の方が、一般映画はもっとエログロかった。世間の目が、どんどん自主規制させている。総じて、映画は、誰に媚びているのか、優等生のようなものばかりになった。とにかく、目に触れさせなければいいらしい。

 しかし実は、映画の規制は、日本よりアメリカの方が厳しく、日本もそれをまねているのだが、アメリカのB級映画の製作が極端に少なくなったわけではないようだ。60年代、70年代のように、量産とはいかないけれど、アンダーグラウンドとして、まだまだ健在であるらしい。日本には、アンダーグラウンドが泳いでいる隙間はあまりない。だから、アメリカという世界を相手にした映画の作り方がとても羨ましい。どんな時代であれ、どんな目に遭っても、アメリカという国の中では、映画は自由であり続けるのだろう。

 社会を切って考えさせられる映画、感動させたがる厳かな映画も必要だが、お化け屋敷に入るようなゾクゾクしたホラー映画も大事だと私は思う。その作り手が、日本映画には少なくなっている。もし作りたかったとしても、制作会社や配給会社が首を立てに振らない。真面目な映画ばかりを映画ファンは観たいわけではない。三本立て、二本立てがなくなり、どこの映画館も一本立てとなってしまった現在、娯楽に徹底した作品でも、重みを必要とするようだ。観客はそんなものいらなくても、配給側はいるらしい。

 「着信アリ」シリーズは、すべて映画館で観させていただいた。日本映画の99%はハリウッドレベルで言うとB級映画で、ハリウッドは、日本の映画市場をまったく相手にしていないので、面白いアイデアがあると、躊躇いもなくリメイクする。そのほとんどが、娯楽ものである。日本のホラーがアメリカなんぞに受けるとは思いもしなかったが、それは、アメリカが日本のホラーを理解したのではなく、日本のホラーがアメリカ的になったのだろうと察する。都市伝説などのホラーは、万国共通のように思う。日本の怪談を日本人に知らしめたのは、ラフカディオ・ハーンだが、あれはタダならぬ例外で、日本人が間違ってアメリカに生まれてしまったのだと思っている。怪談までは、すべて理解できまい。

 「着信アリ」シリーズは、それぞれ監督が違う。私としては、第一作以外は、評価に値しないと思っているが、リメイクされた本作は、第一作を上回るほどの出来だった。演出、カメラ、編集が実に上手い。本作は、着信して、ソコに至るまでの高まりを楽しむものであろう。ソコに至るまでのおどろおどろしさ、ゾクゾク感が、日本のオリジナルより冴えている。見せかたとしか言いようがない。リメイクというものは、なかなかオリジナルを超えるものではないけれど、こういうスタイルならば、アリということになるのかしらん?と、思った。それは、無国籍のようなホラーという、とても特殊な題材だからだろう。作り直されたとはいえ、B級映画が輸入されたことだけでもありがたい。

 日本のホラーをリメイクしたから、本作は、輸入された。だが、これがアメリカのオリジナルだったとしたら、どうだったろうか。内容としてはとても地味で、上映時間も短く、一本立てでもってくるのは難しそうだ。もし輸入されたとしても、未公開のまま、ビデオレンタル店に並んだかもしれない。日本の映画ファンは知らない、安く仕上げられた、抱きしめたくなるようなB級のホラーが、まだまだたくさん眠っているに違いない。  <75点>

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