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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

マリと子犬の物語

2007年12月16日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo   <TOHOシネマズ梅田>

 2007年最後の3本ハシゴと、金曜日に計画を立てた。この一週間、毎日のようにレイトショーを観て帰っていたので、さぁ3本ハシゴといっても、選択にあまり余地はない。ほとんど観てしまっている。ミニシアターものは、疲れた体にはちょっとつらいので、全国公開ものにしたい。疲れた体ならば、3本もハシゴするなよと思われるだろうが、頭の中は映画を観たいという神経がビンビンしている。体と頭が左右に大きく開きすぎていて、こういう場合、体よりも精神をとった方が、私としては楽である。映画より、スクリーンをながめているだけでもいいのだが・・・。

 というわけで、精神だけを満足させる為、3本、観ることとした。観ていない全国公開の作品だけを並べていくと、「マリと子犬の物語」「アイ・アム・レジェンド」「カンナさん、大成功です!」になった。これをどう組むかが楽しい。

 映画館は、ハシゴする人のことなど考えないから、間が15分、20分ときれいにおさまったりすると、我ながら見事だと感心することもある。だが、今回の3本は、どう足掻いてもキレイなスケジュールは立てられない。今年最後のハシゴは、今年、最悪のタイムスケジュールになった。12:50~15:10「マリと子犬の物語」、17:20~19:15「アイ・アム・レジェンド」、20:40~22:50「カンナさん、大成功です!」・・・1本目と2本目の間は2時間10分、2本目と3本目の間は1時間25分。タイムがよければ、4本のハシゴもできそうだ。友達や恋人と一緒にハシゴするならば、ショッピングをしたり、食事をしたりと、抜群の計画だろうが、あいにく、私にそのような者はまったくいない。いないからこそ、3本もハシゴするのだけれど。

1 人間の他に、馬と犬だけは、カメラを意識して芝居をするのだという。監督の要求を把握して、演出に応えるらしい。本作の犬たちも、しっかりカメラの前で期待に応えている。私は、こういう「泣かせてやろう映画」というのが苦手で、ちょっと避けてきたが、観客動員数がどんどんのびているようだし、観るものが限定されたということも手伝い、まずは1本目にと決めた。動物と子供・・・昔から、これだけは勝てないと映画界、テレビ業界は言う。テレビでも、視聴率が悪くなったら、動物を出せ、となるらしい。

 いやしかし・・・私は大阪出身ではないので、大阪弁ではないけれど、マトモに書くと恥ずかしいので、大阪弁で書くと・・・「こんなん、あかんやん。絶対に泣くなって言われても、絶対に泣くやん!」という感想になる。スクリーンを観てしまったら、泣く。後ろを見たら、知らぬ人に泣き顔を見られてしまう。走る犬と、絶叫する女の子の別れなんて、長すぎて、長すぎて、もうこれ以上やるなというほどだ。あまり長いと、シラケテしまうけれど、シラケナイまま、涙が溢れて困る。笑いすぎて腹が痛く、もうやめてー!と、若い頃、よくそういう場面に出くわしたけれど、本作のそれは、涙が出すぎて困るので、もうやめてー!だった。私が、泣きなさい映画に泣くのは珍しい。

 ラストも、もうはじめからわかっているのに、どんどん涙が溢れてきた。日曜日の昼間で、親子連れの観客でいっぱいだったが、もう劇場内はすすり泣きでうるさいほどだ。その声も手伝うから、こちらも泣けてくる。つらい涙と、嬉しい涙。本作は、その2つの涙を流すことができる。「やられた!」と思いつつ「だまされた!」とも思う。でも、だまされるのも良いものだ。ひねくれ者で、動物だろうが、子供だろうが、泣かせる映画に泣かない私が、どういうわけか、ボロボロになった。それだけ、演出、編集、音楽の融合がよくできているのだ。

 私は通路側だったが、隣は、小学校の男の子だった。5,6年生だろう。地震の場面、犬が走り回る場面は釘付けで観ていたが、体育館に避難して亡き母のことを語っているなどの説明的な場面は、退屈そうで、しゃがみ込んだり、後ろを気にしたりしている。子供は正直だ。映画なのだから、読むような説明は面白くないだろう。「映画に見どころなんてない。すべてが見どころだ。」といつも言っている私だが、観るべきところはしっかり観ている様子を横目で見ると、そういうモノはあるのかしらん?と、思う。点と点を観ているのだとしたら、もう少し、大人になれば、その間の線も楽しめるだろうか。監督は、点も線も、魂を削って撮っているはずであるから・・・。  <80点>

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ミッドナイトイーグル

2007年12月06日 23時00分00秒 | ま 行 (2006.2007)

1 Photo  <なんばパークスシネマ>

 内容を暴露するので、観に行こうと思っていらっしゃる方は、絶対に読まないで下さい。

 いつものように、いつものごとく、何の知識もなく映画館へやってきた。乗り気ではないけれど、ポスターはとても大袈裟で、大作らしい。この手の日本映画の大作は好きではないけれど、なんとなぁく、観ておきたい。タイトルからして、宣伝からして、内容性からして、漂う空気感からして、東宝系だとばかり思っていた。東宝らしい顔をしているのだけれど、松竹配給のロゴマークの後、ユニバーサルのロゴマークがでる。ロゴに音楽はのらない。松竹の後にユニバーサル・・・こんなもの、はじめて見た。

 ラストシーン・・・工作員はトマホークがあと10分でそこに落とされることを知らない。こちらは知っている。絶体絶命。だが、その場にいながら、トマホークから身を護る方法が、なにかあるはずだ。さあ、どうやって工作員だけをやっつけて、自分たちだけが生き残れるか。自分達が死ぬわけにはいかない。どうしても生きて帰りたい。それは、愛する人と再会するために。死んでいく美しさなんていらない。それは戦場で多く見てきたはずで、いまここで散ることはできない。死ぬことで英雄になるような戦争そのものに、なってはいかん。体現するわけにはいかないのだ。死するより生きる方法をみつけよう。「ステルスの中に、隔離部屋があるか?機体の下の雪を掘り、そこに身を隠すか?」それら何らかの方法で、極限状態の中、トマホークは直撃する。傷を負い、瀕死の状態だが、工作員は全滅し、我々3人だけが生き残った。みんな死んでしまったと思い、うな垂れる本部。しかし、わずかな電波が彼らの声を拾う。トマホークによって破壊されたステルスの中に装備している通信機の線をつなぐことができたのだ。微弱な声が、途切れ途切れ聞こえてくる。「工作員すべて死亡。我々は生きている。核ミサイルを確保。」一瞬、静寂に包まれるが、どっと湧き上がる本部。嬉しい涙を流す義理の妹。子供と抱き合う二人。奥歯をかみ締めて頷く総理。防衛大臣と固い握手。夜があけ、数台のヘリが、雪に覆われた山を目指す。ヘリのパイロット「3人を目視しました!」

 これは、私の勝手に想像したハリウッド的なエンディングである。私の想像したハリウッド的なエンディングとはもちろん大きく違い、本作はとても日本的になっている。あれ?このパターンって幾度も観たぞ?的な日本の涙と愛と勇気のエンディングだ。いまそこにある死をそのまま受け入れるシーン、カットはハリウッドにも多いけれど、まだまだ時間があるのに死を受け入れるなんてノンビリした作品は少ないだろう。昔話をしたり、思い出を語っている場合じゃない。極限まで、最後の1秒まで死んだも同然と動き続けなければ、彼らの死は、美しい映像のように、ただ美しいままに終わってしまう。何十万人を助けた、関東全域の国民を、広く日本人すべてを助けたとしても、彼らも助からなければ、後味が悪くないかえ?ここまで戦ってきたのだから、ナパームを思い出して指示をする気持ちもわかるけれども、自分たちは生きる手段を選んでほしかった。飛んでくるトマホークを見上げて、顔に朝日があたるような美しい演出なんて、くそ食らえだと思う。多くの後悔、責任を背負っているならば、ここで散ることなく、下山して、もう一度人生をやり直さねばならない。娯楽映画だから・・・と、言われそうだが、娯楽映画だからこそ、無理矢理でも生き残ってほしかったと思った。

 日本の作戦本部は、ただモニターをながめて手をこまねいているだけか。こういう事態に至っても尚、日本国民に核搭載のステルスが墜落した事実をそのまま隠して、明日から安泰にするだろうか。「皇帝のいない八月」のように、自衛隊がクーデターを起こし、朝までに何もなかったかのように全滅、復旧させるという映画を思い出した。あの映画は、そういう姿で良い。とても自然である。だが、本作は、米軍が大きくかかわっている。その米軍のミス、不名誉で、日本が危機に立たされているのだから、アメリカがなかなか取り合ってくれないのはおかしい。日本が戦時下におかれた場合、アメリカの腰が重いのはアリだろう。しかし、今の状態、これがバレたら、世界中から批難を浴びるのは日本ではなく、アメリカだろう。アメリカは、日本を無視してまで、とんでもない作戦で、回収に向かうはずだ。現代の物語なので、アメリカだけではなく、衛星から先進国は、その事態を把握できているはずで、日本だけがアクセクしているのは単純すぎる。ゴジラが東京に現れたわけではないのだ。たとえ、他の国が無視しても、総理の決断はすこぶる遅い。苦渋の決断であるかのような人間らしさをみせるけれども、モニターの前に映るソレを見ていたら、即決せねばにらない事態だ。総理ののろのろに、防衛大臣が先走ってしまっても面白い。戦争を回避するのが、総理の役目ならば、尚更、即決を望む。

 トマホークが飛んでくるまでの10分間。観客が涙を流さなければならない台詞、やりとりが続く。彼らは英雄だろうが、美しい映像の中で死ぬことはないのだ。戦地を知っているならば、肌で感じてきたならば、生きることへの意欲をここで開眼させてほしい。どうにか生きる方法ではなく、トマホーク発射からすでに彼らはあきらめ、死ぬ決意をしている。私は、とても涙など出ず、生きる方法を考えていた。それが、ハリウッドならばこうしたろうという前文につながる。彼らが助かった後、米軍の訓練があきらかになる・・・それを報道は隠す。助かった3人は、真実を伝えるため、もう一度、国という大きな組織に立ち向かうのである。自分で考えた方が面白いと自惚れはしないけれど、こんな大作にして、ラストはやっぱりお涙ちょうだいでは、とてもしっくりした後味とは言えなかった。       <40点>

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モーテル

2007年11月21日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo  <なんばパークスシネマ>

 この頃、あまりなくなった形でオープニングとなる。製作会社、誰の映画か、主演者、タイトル、他の出演者、主要スタッフと、順番に出てきて、そのテロップだしも凝っていて、音楽が、はじまるぞ、はじまるぞと盛り上げてくれる。サスペンス・サイコスリラーを観る前の期待感をすでに頭でもたせてくれる。有名なケイト・ベッキンセール、ルーク・ウィルソンが出ていて、A級扱いなのだろうが、これはB級作品である。はじまって5分、B級のにおいがプンプンしてきた。物語にテーマをもたせる為、一人息子を亡くして、愛は廃れ、夫婦の離婚の問題を車上で、説明するように語る。その愛情のなくなった二人が、これから起こる事によって、変化するわけだが、それは無理矢理で、私には邪魔だった。そのまま、物語の核心に入ってもいい。一流俳優を使うので、出演交渉する場合、そこそこ納得できる構成にしなければならないのだろう。目もあわせようとしない夫婦が、どんどん絆を深めていき、お互いの命を思う・・・それよりなにより、やっぱり、恐がらせようとする設定がいい。

 深夜の運転。町は見えてこない。どこを走っているのかわからない。車はエンストをおこそうとしている不安な状態。行き過ぎたか、まだ先か。そのうち、小さなガソリンスタンドとモーテルが現れる。ほっと一息つくけれど・・・過去に何度も何度も、観てきた設定だ。でも、この設定、私は大好きである。森の中の一直線の道路、何時間走っても対向車がないなんて、日本映画では無理だろう。広大なアメリカならではの設定だ。町の名前も地図にないなんていうところもアメリカには実際にあり、日本では考えられない。

 細かな恐さがたくさん散りばめてあって、すべてが、なぜなのか、どうしてなのかがわからない部分が楽しい。ドキドキしながら、ワクワクもできる。部屋に置かれたVHSに記録された殺人実況ビデオ。この部屋だ。仕掛けられたカメラの数々・・・本作は、この辺りまでが抜群に面白い。なぜなのか、どうしてなのかがわかったところから、急激に面白さがダウンする。わかってしまえば、あっそうかで、謎解きが終わるからで、ここからが、脚本と監督の腕のみせどころとなる。しばし、中だるみはあるけれど、本物の警察官がやってきたところは、よくできている。警官の風貌もいいし、あまりいい気分で様子をみないけれども職務に忠実なところがいい。真実を知り、被害者に銃を向けるけれども、風貌に似合わず勘がするどく、二人を車内へ促すカットは、脚本、監督よりも、この俳優の年季だろう。うまい。

 エンディングに賛否あるだろうけれど、私としては好きだ。あのラストは、この映画の中で、もっともB級らしい。まだあの男は生きているのか、いらぬカットのようだけれど、執拗に写す。目は見開いて死んでいるようだが・・・。二人の絆は固まって、相方が助かるのかどうなのか、これも曖昧だ。問題をいくつか残したまま静かに終わる。静かに終わるけれど、エンドのキャスト、スタッフテロップに流れる音楽は、まだまだ興奮させるぞと迫力がある。このテロップと音楽で、あれからどうなっていくのだろうと更に思わせる仕掛けになっていた。上映時間も短く、こういう娯楽映画は、疲れた頭や体が、喜んでくれる。  <75点>

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ミス・ポター

2007年09月16日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_328  <なんばパークスシネマ>

 1年経たず、携帯電話を解約すると、年間割引を適用しているから、意外な金額の請求が届く。先月、携帯電話を解約した。今日は、いつまで支払わねばならぬのかと、2台のPHSを解約しに行く。ウィルコムの店舗は少なく、仕事場からもっとも近いセンターが日本橋一丁目の交差点にあった。5ヶ月のみの利用なので、ここでも解約金が高くつく。一年も経っていない1台の携帯電話と2台のPHSを解約すると、とても高い。どうして生きようかと貧しているときに、自分でも何をしているのかしらん?と、アホらしさ極まる。しかし、考えもなくウィルコムの店舗にやってきたが、日本橋のこの景色は、私にとって、とても懐かしいものだった。ここに誘われたのかもしれない。

Photo_332  いつが閉館だったか、5年、6年・・・随分と経っていると思うが、ウィルコムの店前からビルを見上げると、いまだに看板が残っていた。とても懐かしい。「最もこだわった映画館」として、ギネスブックにも記載されていた「国名小劇」が、あの日、ここにあった。地下の劇場は、32席と小さく、しかし椅子は豪華で、足掛けまであった。上映前、正面にはスクリーンはなく、花が活けてあった。上映開始となると、観客の頭上の天井にぴったり張り付いていたスクリーンが、90度傾いて正面に鎮座するという仕掛けで、凝ってあるなあといつも思った(閉館前の何年間は、仕掛けが壊れてしまったが)。主に、岩波ホールで上映した作品をかけていたが、32席という狭さながら、独自で映画を輸入したりもした。このビルの何階かには、この劇場でかける為にフィルムを選ぶ試写室まであった。ミニシアターの少なかった頃だが、10本の中で8本は記憶に残る作品で、これほど充実したミニシアターは、今はどこにもないだろう。韓国映画ブームの遙か前・・・「旅人は休まない」を、私はここで観た。

 毎日がオールナイトで、私は徹夜した日など、仕事場から歩いて出かけた。最後の上映は朝の3時半くらいで、いつも15分前に着く計算で仕事場を出た。小さなロビーで、年老いた支配人が一人で客待ちをしている。「もうちょっとで終わりますので、座って待ってて下さいね。」と、スクリーンを写しているモニターを見上げた。上映が終わり、支配人が厚い扉を開けてくれる。中に入ると、誰もいない。夜中は誰もいなくなるのに、毎日、オールナイトだった。誰もいない客席に向かって上映しているところは何十回も見た。それでも、支配人は、いつも「もうすぐ休憩ですから。」と言った。映画好きの支配人は、映画について何を聞いても、いつも明快に答えてくれた。昔の映画から現代の映画まで、穏かな笑顔で語ってくれた。映画のことはよく知っていたが、封切されるといつも夜中にやってくる私の顔は覚えてくれていなかったようだった。

 必ず、2週間交代で映画をかけていたが、途中、「フランスの女」と、閉館の為に用意された映画は、一ヶ月かけた。閉館の数日前に、私は最後の映画を観た。珍しく、中国映画だった。最後の作品という意識では行かなかったが、私は95点を付け、パンフレットを買い求めた。『中国映画祭』以上の作品だった。よくこんな映画を発掘して、かけてくれたことに感謝した。

 私は、しばらく煤けた看板を見上げて、デジカメを取り出し、シャッターを切った。32席のあの小さな映画館にもう一度、入ってみたい。時々、イベントで使っているようだが、32席では、催し物も難しいだろう。2台のPHSを解約し、なんばパークスシネマへと歩く。映画も変わったが、映画館はそれ以上に変わった。あの看板を見て、これから行くシネコンを思うと、この10年、5年間の変わりようはどうしたことだろう。

Photo_333 以前は、レニー・セルヴィガーという片仮名だったが、今はレニー・ゼルウィガーとなっている。とても読みにくい。何度も書いたと思うが、私の大好きな女優である。いくつになっても笑顔が可愛く、肉感的という私的なタイプ的なものもあるが、それよりなにより、役柄によってまったく別人になる、そのものになってしまう魅力がある。続く作品は別として、同じレニー・ゼルウィガーを私は見たことがない。勇ましい逞しい姿、ティーンエイジのような初々しさ、ごく平凡な女・・・これらを見事にこなす。どの役柄も愛らしく、どこか切なさを抱いている。そこは同じだが、それが実は個性で、プラスになっている。そして、こまかな目の動きで芝居をこなす女優だ。すべて良作とはいかないので、つまらない映画の時は、途中からレニー・ゼルウィガーばかり見ていることもある。賞を獲得した時の姿をテレビか何かで見たことがあるが、またまたそこには、別のレニー・ゼルウィガーがいた。自然にふるまっているようだったが、私はここでも、レニー・ゼルウィガーという女性を演じているように見えて、その立ち振る舞いを楽しんだ。そういうわけで、本作を前々から楽しみにしていたのであった。

 端的に書けば、事実を基にした作品なのはわかっているが、この作者が、子供のような純粋な心で絵を描き、物語を作り、自分の生活の中に溶け込ませ、そして、いかに世に出て行くかがドラマチックなだけで、あとは平凡な流れの作りであった。付随する恋物語は、添えた程度なのに、長々と続く。彼女がどんどん売れていて、知らぬ者がいないほどの有名になっていると台詞では出てくるが、映像で表現していない。だから、それほどの実感が湧かない。母親だけが、自分の娘が有名人になっていることを知らないなんてところは笑えるが、その伏線が弱すぎる。つまり、撮っている世界が狭い。彼氏の死によって、さて、これからどうなっていくのかと先を期待するが、テロップで後の人生を読ませ、あっという間にエンディングとなる。面白くなっていくのはこれからだろう・・・そんなじくじくした思いで劇場を後にした。少々の誇張は良いので、じっくり観たい。すべてがあっさりしている。

 それにしてもこの役は、やっぱりレニー・ゼルヴィガー。もう40を過ぎていると思うが、純真無垢の心を、可愛い笑顔の一発だけで表現する。絵を描いている時の笑顔と、恋をしているときの笑顔がはっきりと違う。変幻自在に役柄を自分のものにしている。ただ、笑顔を作っているだけのそこらの女優ではない。それを見ることができただけでも、私は満足なのだが・・・。これは、贔屓目である。  <65点>

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メイド 冥土

2007年06月23日 23時00分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_273  <千日前国際劇場>

 難波も「TOHOシネマズなんば」「なんばパークスシネマ」の巨大なシネコンの登場で、いよいよ館数としては減ってしまった。シネコン以外は「千日前国際劇場」と「千日前国際シネマ」だけで、20年前に10館はあった道頓堀から、映画館は消えた。シネコンのおかけで、国際劇場は、なにをかけていいのかわからないようなプログラムになっている。東映の封切館だった国際シネマは、会社関係なしの旧作の2本立てなんてやってしまっている。こんなことはなかった。指定席ではなく、自由席で、取り残されたようで、なんだかかわいそうだなと思う。

 国際劇場は、500席はある大劇場で、70㎜も上映できるはずだ。土曜、日曜は人入りもいいが、入ってみて驚いた。客席に誰も座っていなかった。私一人である。上映していただけるのかと思う。定時にアナウンスが入り、予告編がはじまる。目指すは単館、ミニシアター系の予告だ。こんな大劇場のミニシアターは他にはないだろう。私が大学生だったころからある映画館は、ここだけになった。わずか20年前だが、もう20年前なのか。めんどくさい指定席もなく、私ひとりなので、真ん中のもっとも贅沢な椅子に腰掛ける。

 タイトルは「メイド」・・・メイドというより、お手伝いさんといった方が似つかわしい舞台だが、メイドと冥土をかけたオヤジギャグのようなタイトルでも、よくつけたなと思って、笑ってしまった。ホラー映画が、タイトルで笑わせてどうするのだ・・・。

 それにしても本作・・・こんな映画まで輸入する必要はないじゃないかと思うくらいの質だった。ホラー映画は、全国系でもミニシアターでもコケルことはなく、これは安定客がいるからだが(私もその一人で)、こんなものまでいらない。東南アジアでもホラーブームなのかどうかは知らないが、幽霊をみせる描写はあいかわらず優れたものがあるものの、どう決着していいか、苦心惨憺がみてとれる。そうだったの?でも、そんなことまでしなくても・・・。幽霊が出る、見てしまう、その理由なんてどうでもいいのであって、みせかたが大切なのだから、後半がとてもつまらなかった。無理矢理にもほどがある。アジアンホラーとしては、やっぱり、「the EYE」の第一作は最高だった。あんな幽霊のみせかたは、はじめてだったし、じっとしているだけの霊の姿が怖かった。背中がムズムズとした。なぜ、幽霊を見て、声を聞いてしまうのかの理由もわかりやすく端的で、納得でき、新鮮な後味がよかった。

 もともと、どこで公開するはずだったものだろうか。こんな巨大な劇場で上映するタイプじゃない。ミニシアター系タイプだ。同系列の天神橋筋六丁目のユウラク座あたりで上映するはずではなかったのか・・・しかし、シネコンのせいで、ヒットがのぞめるフィルムを借りられなくて・・・シネコンの乱立で、どこまで頑張れるかわからない国際劇場だが、どうかいつまでも頑張ってほしい映画館だ。シネコンは、映画館とは言わない。映画室、劇場だ。こういう建物こそ、映画館という。  <40点>

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舞妓Haaaan!!!

2007年06月16日 23時00分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Haaaan  <TOHOシネマズなんば>

 監督としてのデビューもけんもほろろと思ったし、この頃の脚本家ぶりも名前だけだと思っていた。名前は印象的だし、字も良いし、音がいい。しかし、早くも時期は過ぎたと思っていた。なにをいまさら、こんなタイトルで・・・そう思っても、やはり観に行く。脚本家は、力を溜め込んで戻ってきた。

 私の観る18時30分からは、座席指定×印で満員御礼。昼過ぎに買い求めていたので、後ろの通路側のお気に入りの席をとっていた。大宣伝しているし、特番まで放送しているし、雑誌は本作の特集記事で華やかだ。さすがこのあたりは東宝で、東映、松竹には真似のできないことだろうと思う。そんなこんなで、賑やかだけの映画らしいという予告編だけを頭に入れて劇場へ入った。

 面白いです。この映画。できすぎたエンターテイメント作品で、そのできすぎたが、とてもテンポをもたせていて、楽しめる。笑いのセンスは東京的だし、絶叫型だが、とても冴えている。そして、それも細かい。文句のつけようはいっぱいあるが、私としては一切の文句を言うつもりはない。純粋に楽しめたからだ。上映時間が長いと観る前は思ったが、観終えた後、まだ観たいと思ったくらいだ。いいところは、いっぱいある。

 発想、構成、脚本、カメラ、編集、キャスティング、ロケーション、セット、タイミング、演出・・・これら、すべて、どこかが手を抜いていると感じることがあるが、見事にかたまっていた。説明せねばならないところもあって、これをナレーション的にみせるが、それも上手い処理をして、流れに溶け込ませている。

 新幹線の方向性や、京都と金沢を組み合わせたロケーションには、あらまっ!と、ギョッとするが、よく丹念にロケハンをしている。言わなきゃわからない意外なカットが他にもいっぱいあるのだろう。こういう丹念な下準備が、画に広がりをもたせ、スピーディさを生み出すのだろうか。とにかく、かなり完成度の高い脚本を読み、スタッフとキャストが一丸になって作った観がある。主人公の鼻息以上に、スタッフの勢いがある。見事だった。いつもとは違う、柴崎コウの使い方もいい。いつものパターンではなく、ちょっと違った女優ぶりを楽しめる。

 本作は、大ヒットするだろう。劇場内は、日本一、笑いに厳しい大阪のド真ん中であるにもかかわらず、笑いがうごめいた。大阪人が口コミすると、テレビや雑誌のそれとは勢いが違う。莫大な制作費を投じたのは、すべてのシーンからうかがえるが、一週間あれば、取り戻すだろう。後は儲けだ。東宝は上手い。・・・ただし、予告編だけは、東宝らしからぬ食指の動かぬものだった。見せようがなかったのかもしれない。それにしても面白い。久しぶりに、興奮して劇場を出た。満員の観客の顔をなにげなく見ていたのだが、みんな、笑顔だった。この映画、自然自然と、笑顔にさせてくれる。  <85点>

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蟲師

2007年03月26日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_251  <シネ・リーブル印西>

 本作品についての感想、コメントは書きません。

 新幹線から東京駅、品川駅で下車し、在来線に乗り換えて目的地へ向かいながら、いつも関東平野って大きいなと思う。日本地図で見ても、関東は緑色に広く塗られている。愛知や大阪と比較したら、とてもかなわない。どこまで行っても街は続く。山が無い。ようやく山に出くわしても、東京のベッドタウンの為に、削って造成している。鉄道はその開発に追いつけとばかりに先の計画なく敷設するので、時刻表を見ると、とんでもなくおかしな線路図になっている。JR、地下鉄、私鉄が相互乗り入れしているので、黙っていると、同じ電車なのに、3社も4社も乗っていることになる。相互乗り入れは楽だが、郊外への電車賃は高い。関東の人は、大阪と違って、何時間もかけて通勤している。東京の人口は、昼間と夜とでは大きく変わるが、大阪の人口は24時間それほど変わらない。大阪人は、大阪に住んで大阪で仕事をする。そう思うと、やっぱり、東京ってすごいなと思う。一目で、建ち並ぶビルや歩く人の数が違う。目的地へ行く列車の本数も関西の二倍はある。

 東京都は、京都の東にあるから、東京都と言う。あたりまえだが、日本が関西と関東に分断されたのは、間違いなく徳川家康のせいだ。繁栄する京都と大阪をのこしたまま、江戸に行ってしまった影響は、現在の私たちの生活に多大なる影響と、甚大なる損失を与えた。良くも悪くも・・・。JR東海が東海道新幹線で大儲けできるのも、徳川家康のおかげである。会社の経理を圧迫し、観光客の懐からお金が逃げていく。日本の鉄道は値段が高い。

 ファックス、インターネット、携帯電話、メールと、世の中は便利になっていくが、やっぱり商売というものは、人と人が会って、目を見て話さなければならないものなんだと、サラリーマンやOLでごったがえす新幹線車内を見て、いつも思う。そこへ「そうだ、京都へ行こう」なんて、観光客も煽るから、JR東海は面白くて仕方ないのではないかしらん?と私は目を細める。金曜日の夜は、上り下りとも、指定席は×印が並ぶ。単身赴任のおじさんたちが、西へ東へ、家族に会いに帰るのだろう。

 のぞみは、名古屋は止まるが、徳川家康が本当に止まってほしいだろう駅は、皮肉なことに通過する。これが私は痛快でならない。そのくらいのことを思わなきゃ、1万ン千円も支払って、2時間30分を楽しく過ごせない。そういえば、いつの間にか新幹線は2時間30分で東京と大阪をつなぐようになったが、ひかりが最も速かった頃は、3時間30分が普通だった。こだまは、5時間かかった。今では、こだまも4時間を切っている。東京大阪間、ドリンク付きで1万円を切る、こだま専用の切符もあるので、急がない時は、私はこれを利用する。500円上乗せすれば、グリーン車に乗せられてしまう。岡崎城も、ビルに囲まれながら、のんびり見下ろせる。

 私たちが観にきた「シネ・リーブル印西」は、10のスクリーンをもつ巨大なシネコンである。千葉の山奥を開発した広い空間にニョキッと立っている。シネコンは、スーパーや専門店街と一緒になったところが多いが、ここはシネコンだけで、他は何も無い。宅地造成で人口が増えているといっても、まだ時期尚早で、大きすぎる。本作は、大きな場内に、私たちを含めて、観客はわずか5人だった。同じ系列で、大阪にある「シネ・リーブル梅田」は、2つのスクリーンでミニシアターだが、とても盛況だ。建物だけを交換してはどうかしらん?などと思う。

 観終えたのが20時50分。真っ暗闇の歩道をテクテク15分、駅に向かう。駅前は、巨大なショッピングセンターで、ここだけが煌々と明るい。スパセンターが建ち、硫黄のにおいがする。賑やかだが、賑やかなのはネオンのせいで、人は数えるほどしか見えなかった。 とにかく、関東平野は広い。広い上に、まだまだ広くしようとしている。 目の前を走る北総線は、成田へと工事を進めている。これが完成すれば、また一本、都心から成田への路線が増える。羽田が起点だから、羽田発成田行きの空港間専用電車が走るのだろう。ますます便利になり、ますます日本人は忙しくなる。

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シネマコミニケーター「bobbyshiro」

2007年03月11日 23時45分00秒 | ま 行 (2006.2007)

1_16  <宝塚ソリオホール>

 寒い暑いで一喜一憂する男ではないが、今日は朝からとても寒い。一気に冬がやってきたような朝だ。一枚、余計に着込んででかける。 bobby's☆hiroのシネプラザ のbobbyshiro(高橋裕之)さんがプロのシネマ・コミュニケーターとしてデビューする日である。人生転機のデビューとなれば、行かねばならない。私は仕事だろうが何だろうが、絶対に行くと自分で決めていた。一日2回の上映の合間にトークショーが設定されている。観た後のトークがのぞましいので、私は前夜、bobbyshiroさんの携帯に「朝から観るヨ!」と、メールした。ところが私はハタッ!と思い直した。明日の朝は実家から何やらの宅急便が届くことになっている。私は慌てて「ごめん!午後に行くよ!」とメールを送った。時間指定のチケットをもっているbobbyshiroさんに迷惑をかけている。当日の朝、部屋で宅急便を待つが、なかなかこない。10時、11時・・・13時には宝塚に着いていなければならないので、気が焦る。タイムリミットは11時45分で、宅急便が間に合わなければ、もう出ようと思った。11時30分になり、着替えて出ようとすると、ピンポンが鳴った。私は印鑑をもって、不機嫌に玄関を開けた。配達していただいて申し訳ないが、こちらにはこちらの事情があり、それでも配達している方には、やはり申し訳ない。

 地下鉄から阪急へ。終点の宝塚で下車し、頭に入れたソリオホールの地図をさぐりながら、小走りで改札を抜ける。13時45分・・・宝塚は様変わりしていた。最後にいつ来たろうか。のんびり動くエレベーターで3階へ出る。ホール玄関前にbobbyshiroさんが見えた。小走りで近づく。私は「遅くなってごめんなさい。」と言ったが、「いや、一番乗りですよ。」とのこと。トークショーは14時30分からのはずで、もう45分前だというのに、大丈夫なのかと思う。通常料金1,800円のところ、bobbyshiroさんの力で1,000円のチケットを受けとる。ぴあのチケットで、1,500円となっていて、本当に1,000円でいいのかと恐縮する。久しぶりに会ったので、話したいことはいっぱいある。が、次々とbobbyshiroさんの関係者のお客さんがやってくる。天六ユウラク座好きの方もいらっしゃった。私と話していると、やってくるお客さんを見過ごすので、「ちょっと席を外しておくね。」と言い残し、外へ出る。寒い。宝塚は標高が高いので、大阪市内とは比べ物にならない。10分たったあたりから、ミゾレが降ってきた。今年、はじめて、ミゾレを見た。

 トークショーぎりぎりで舞台のそでに行ったと思う。bobbyshiroさんの心構えもあるだろうHi380001_3 から、みんな早く来てほしい・・・自分も遅れていると恐縮していたが、私ははじまる寸前にやってくるお客さんに憮然とした。第一回目の観客を残しHi380003_2 たまま、第二回目の観客を入れて、トークショーがはじまる。堂々たる足取りで、舞台に現れる。bobbyshiroさんとHi380004_1 テノール歌手であり、講師の三井専志先生。bobbyshiroさんは、はじめ、ちよっと震え声だったが、すぐに乗ってきて、よく喋るシネマコミュニケーターに化けた。bobbyshiroさんは映画を喋り、三井専志先生は映画のオペラを喋る。オペラの講師で、多くの方の前で講義をしているからか、三井先生はひとりでよく喋る。私はbobbyshiroさんばかり見ていたが、よく聞くことがあるなと感心するばかりである。私などはオペラなんて言われても、オペラ座に入ったことがあるだけで、まったくその分野を知らない。流石はシネマコミュニケーターで、下調べも大変だったろう。約40分のトークショーは、会場の温かい空気に囲まれて過ぎていった。最後は三井先生の一声披露で幕となる。これも、bobbyshiroさんの設定した計画なのかとも思う。のせて、観客の求める拍手を誘う。bobbyshiroさん、場を踏んで、垢抜けてきたら、これが天職になるだろう。

 私はこの映画について何も語ることはできない。オペラ映画だが、こういう分野の映画をはじめて観た。ストーリーを追うことが精一杯で、歌い続けていて、退屈でもあったが、どう説明していいかわからない。説明できないものは感想も評論もできない。本当に伝えにくい、感じたことすら伝えにくい映画であった。映画を観終え、ロビーにいるbobbyshiroさんに、「この映画でよく喋ることができるなあ。俺は書きことができないよ。」と言った。笑っていたが、いよいよ、bobbyshiroさんのプロの映画人生が幕をあけた。近々、一緒に呑もうということで、別れる。話したいことはいろいろ溜まっているが、bobbyshiroさんの知り合いが集まっているので、私は遠慮して宝塚駅へと歩く。これからまた、私は高槻へ行く予定になっている。寒さは若干、やわらいでいた。私はダウンジャケットを脱いで、梅田行きの特急に乗った。

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モンスター・ハウス(日本語吹替版)

2007年01月29日 23時45分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_203  <TOHOシネマズ高槻>

 映画を観る事ができなくとなるとして「ブログの休止」を書いたが、その舌の根もかわかぬうちに、日曜日をはさんだだけで映画を観るという体たらくである。これは、人間の行為としてはとてもけしからん。休止のコメント、直接いただいたメールの相手を馬鹿にした行為だ。いけない。馬鹿にするつもりはまったくなく、私の稚拙な文章にしっかり反応してくださる人に感謝している。ただし、私はいい加減な性格の上、自堕落に目を瞑っている傾向にある。映画をやめるということは、煙草をやめるよりも苦痛で、やったことはないが、覚醒剤常習ときっぱり縁を切るのに似ているのかもしれない。やめようと思ったら、その種の病院に入って強制訓練を受けねばならない。私は何を書いているのか・・・そんな病院はないが。

 土曜日の夜、サスペンス傑作選3の二本立てで、当分は映画も終わり・・・そう思って日曜日はテレビもつけず、むさい男の部屋でジトジトしていた。休止と書いたが、ある事情で、本心はインターネットブログをやめるつもりだった。自分の言葉を素直に書けない、監視されて書かねばならぬ状態に置かれたからである。昨年末の記事も、今年初頭の記事も「削除しろ」となり、不本意ながら削除した。また、気を遣って書かねばならず、自分の言葉をそのままアップでくなくなった。削除しろと言われるか、訂正しろと言われるか・・・そんなことばかり考えていると、映画評論どころか、映画を観ることすらアホらしくなってきた。1月末の土曜日の夜、映画鑑賞中、映画を観ていることそのものがグータラのような電話がかかってきて、私は映画を観るのをやめようと思った。自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。生きているのも邪魔くさい。

 ただ、この1年に何度もやめると言っているヤカラで、たくさんの方に迷惑をかけいていて、本心を書く勇気がなかった。高校生が隠れて煙草を喫うように、私は隠れて映画を観たくなった。これは事実で、これをアップすると、さっそく電話がかかりそうだ。

 私は削除しろと言われても、訂正しろと言われても、映画の途中で映画館を出ろと言われても、そのことだけは逆らうことにした。逆らうとまた、恩を仇でかえすようだが、私の精神を苦しめても何の得も、徳も、なかろうと思う。90%の病は精神から起こるとされる。こんなことで、精神的苦痛が、肉体的苦痛となり、生き甲斐も、生きていく意味も見失うのはイヤだ。大袈裟だが、そんなことで命を削りたくない。私は「反抗期」とレッテルを貼られていて、今度は、我が儘だと言われそうだが、映画に関しては無視を決め込む。あとは何を言われようが、頷く。映画を観たいのに観ることはできない。映画のことを書きたいのに監視されて自分の言葉を文章にできない。実につまらない。これからは「削除せよ。」とされても、何も反応しないことにした。

 曜日は何もせず、練って考えた予定表を破り捨て、食って寝ただけの一日を過ごした。実にもったいない。1月も末だというのに、暖かくも寒くもない。部屋でジトジトしていると梅雨と錯覚する。暖房なしでTシャツでも暖かくも寒くもない。とろとろと過ごすうち、夜になり、外を見ながら、京都か奈良でもぶらついてくればよかったと思う。明日は月曜日で仕事の予定が入っているが、いろいろ(休日)やり残したようで、休むことにした。こういう時、サラリーマンとは違い、私のような我が儘な仕事は便利である。休むとしても誰も文句は言わない。そのかわり、後にしわ寄せがきて、バタバタすることにはなるが・・・。未明に寝て、朝の9時に起きる。さっそく着替えて、さてどこへ出かけようかと思う。思うが、どこに行くなどまったく決めずに寝てしまったので、着替えたはいいが、地団太を踏んだまま玄関の扉を開けたり閉めたりする。予定は破棄して、頭にも入っていない。まったく、気持ちの悪いオッサンだ。自分でも呆れつつ、小春日和の長居を歩く。昨日は大阪国際女子マラソンで中継されていた陸上競技場が目の前にある。地下鉄に乗り、このままどこまで行こうかと考える。すべて漠然としている。梅田まで乗ったが、これ以上先に行っても住宅地が建ち並ぶばかりだ。人の流れにまかせて下車する。御堂筋線の梅田では、座っていないかぎり、人の流れに身をまかせると、自然に下車する。自分の意思ともどうともつかぬ足取りで梅田を歩く。月曜日の朝はサラリーマンやOLが灰色のような顔をして歩いている。金曜日の朝は楽しそうに歩いているのに・・・。

 さあ、梅田で・・・アルコールも駄目で、風俗も駄目で、コミックも駄目で、パチンコから足を洗った私は、繁華街を歩いても、落ち着いて座るところがない。いつもの習性で映画館を見歩いた。ナビオTOHOプレックスは、大阪で一番豪華な椅子と座席数を誇っていたが、シネコンの乱立で、大きいだけの映画館になってしまった。悪いわけではないが、スタジアム(すりばち状)形式のシネコンが人気なので、前の頭が邪魔になるナビオは不利だ。梅田の中心部という位置に恵まれていて、平日でも人入りはいいが、このままではとり残されてしまう。このシネコンも阪急デパートの改築と共に変わるらしい。・・・などと、どうでもいいことを考えながら映画館のチケット売り場あたりをぶらついていて、私はハタとTOHOシネマズ高槻へ行きたくなった。土曜も日曜も人入りは悪いが、私の好きなシネコンである。今日は月曜日で、まだ午前中なので、おそらくガラガラだろう。ちゃんとした人たちは来ない。

 大阪駅から新快速に乗り、11時30分に高槻駅に着いた。何を観ようなんて考えてないToho が、とりあえず4階のチケット売り場へ行く。思ったとおり、人はいない。大Photo_215 きな映画館で、9つのスクリーンがもったいない。時間表 を見て、私は12時00分からの「モンスター Hi380005_1 ズ・ハウス」に決めた。何 ヶ月も前 から本作のチケットは財布に入っていて、そろそろ終わりなHi380004ので、半分、 あきらめていたが、朝、2回だけやっていた。チケットを取り出してカウンターへ向かう。客は私一人なので、売り場の2人のアルバイトの女性が同時に私を見た。2人が同時に見たので、いけないことでもしているかのような気になる。平日の昼の日中からオッサンが映画を観るという行為が、とてもいけないことのように思えるような、キリッとした目で見る。

 本作は「プレミアスクリーン」だった。通常、2,500円もするのだが、劇場の都合によって、プレミアスクリーンを解放する。劇場の都合の場合、通常料金である。私のよく通う「TOHOシネマズなんば」では、しっかりとプレミアっているが、高槻でプレミア料金としてかけているのを見たことがない。椅子は、左右が離れた一人席で、自分専用のテーブルもあり、背もたれがリクライニングする。スタジアム形式の映画館の上、前に誰が来ようが、頭まですっぽりと背もたれにおさまるので、まったく他人を気にせずに鑑賞できる。「今でしたら、どこでもお取りできます。」と言われ、私は久しいぶりに「後ろ目の真ん中で。」と頼んだ。上映3分前に入ったが、広くて座席数の少ないプレミアスクリーンには誰もいなかった。私は指定されたとおり座席に座ったが、予告がはじまっても誰も入ってこない。しばらくすると、映画館の係員がちよろりと覗きに来た。人がいるかどうか見に来たのだろう。私が一人いる。

 従来の、普通のアニメーションより、CGアニメを観る機会が増えた。というより、CGアニメが多く作られるようになっただけなのだろう。昔のセル画のアニメーションの製作過程は知っているが、現代の鮮やかなアニメーションもフルCGアニメーションも、私はどうやって仕上がっていくのかわからない。わからない私でも、フルCGの方がたくさんお金をかけているのだけはわかる。なにもCGにしなくてもいいじゃなかというアニメーションもあり、どこにどうお金をかけているのか、どう技術力が高いのか、要するのか、私にとっては曖昧である。まだCGアニメの歴史は浅く、この先、もっと変革を遂げていくのだろう。昨年の「カーズ」は最高の出来ばえだった。他のCGアニメとはまったく違い、卓越したストーリーの上に、無機物の自動車を観客に感情を持つ生き物としてみせたのには驚くだけだった。二次元ではなく、三次元のフルCGにした意味もよくわかる。オープニングのレースシーンは特にCGの魅力が詰まっている。あれはセル画では出せない迫力だ。画いたモノとは思えず、私は生唾を呑みながらスクリーンをみつめていた。

 動物モノは、私は飽きた。人間も人形も飽きた。実写と合成してCGにした方が迫力があるのではないかと思う作品も多い。ところが、本作は出演がオール人間というフルCGアニメーションでありながら、実写であった方がつまらないのではないかと思わせた。童話、御伽噺、都市伝説が入り混じった子供の為の子供のフルCGアニメである。でも、私の子供の頃も、こういう怪しげな家、怪しげな大人っていなかった?大人に真剣に話しても笑って済まされなかった?観ながら、私は子供になってしまった。今でも脳構造は子供だし、親には「反抗期」と烙印を押されているので、オッサン顔の子供かもしれないが、本作では、まわりにいる大人の気持ちの欠片もわからないのに、3人の子供の気持ちはよくわかる。家に入るドキドキ感も伝わる。懐中電灯の灯りのまわりが妙に恐い。単調に進むのではなく、モンスター・ハウスという真相がわかってからのクライマックスは、映像も音響も凄まじい迫力だ。神業のようなアクションが展開する。これが実写であれば、「ありえないよ!」と大人気なくなってしまうが、アニメの効果で、自然にのめりこむことができる。はっきり、面白い。後味もよいのだが、ラストの日本のイメージソングはどうでもいい。なんであんなことするの?タイアップか金儲けか、ちょっと間違えば映画そのものを台無しにしかねない。日本語吹替版ばかりで、子供だけを対象にしているが、大人も楽しめる娯楽フルCGアニメーション大作である。

 長いイメージソングが終わり、場内が明るくなった。しこたま楽しんだが、結局、この回は、私一人の為に上映された。プレミアスクリーンで贅沢をさせてもらった。出口にもモギリにもスタッフはいなかった。  <80点>

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めぐみ -引き裂かれた家族の30年-

2006年12月04日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

30 <シネ・リーブル梅田>

 8月15日は終戦記念日で、これを敗戦記念日と揶揄するものがいるが、確かに敗戦だが、日本は戦争を放棄したのであって、やはり終戦記念日である。敗戦を記念日とする国はない。 日本は国を開いて以来、ロシア、朝鮮、中国を徹底して叩いてきた。何万、何十万という爆弾を中国に投下し、女子供も関係なく殺した。間違いなく日本が仕掛けた戦争だったが、人を殺したくて自分が殺されたくてはじめた戦争ではなかった。身勝手にイケイケで行ったわけではない。明治、大正、昭和にかけて戦争をしかけた日本の動機、根本的理由は何だったか。当時、日本に対してロシア、朝鮮、中国の各政府が考えていたところに、実は根本理由があった。独自の言葉と文化を持ち、単一民族である日本は、古代より諸外国に危機感を抱き続けてきた。遠い神武天皇から昭和に至るまで、ずらずらと歴史を知っていくと、ただ日本人だけが悪いとは言えないのではないかと私は思う。裏の裏は表だが、単に見える部分だけではなく、裏の底部を掘り下げていくと、軍国に走らざるをえない焦りが読み取れる。もちろん、戦争などはやってはならないし、私はそれを物心ついた頃から学んできた人間である。爆弾も地雷も機関銃も原子爆弾もなくなるならば、私は人間は原始時代に戻ってもいいとさえ思っている。極端だが、本当にそう思う。しかし、外国と外国が戦争をしている時代、あの時代に、日本国が海を隔てた諸外国を無視していたら、今の日本はないと私は思っている。日本という国どころか、日本人も一人もいないのではないかと。大陸に侵攻するしかなかった。と、テレビではご法度、本を書く人も命が危ないので、私はこれ以上書かないが、真実を知らず、日本が大陸に侵攻していったことだけを罪深いとするのは私には納得いかないのである。無条件に身勝手に国土を広めるだけ、植民地にする為だけで攻めたわけではないのは、私のような凡頭でもわかる。

 日本はその戦争責任を今も問われている。靖国神社問題、国家や国旗問題、戦争慰安婦賠償問題と、60年前に終わった戦争の問題をずっと抱えている。賠償問題は、戦後すぐはこの世になかった。高度経済成長を経て、日本が世界第二位の経済大国になって持ち上がった。もし日本国が、現在も戦後直後の貧国だったら、これらの問題はなかったはずだ。賠償できないからだ。経済大国になったから、賠償できる大国になったから諸外国は日本に抗議をしてきた。賠償できるからだ。いくらでもできると言ってもいいだろう。賠償とは何か。とどのつまりは「お金」である。心をこめて謝ることはできるし、歴代の総理大臣もそうしてきた。だが、賠償となると、お金しかない。何か与えるならば、お金しかない。謝罪しつつ、お金を渡すしか方法はない。謝罪しつつ、大阪から西日本の領土をあげるわけにはいかないのである。

 何年か前、ナナゲイで「ナムルの家」「ナムルの家2」というドキュメント映画を観た。日本軍が慰安婦にした女性が身を寄り添って暮らしている様子を撮っていた。年老いた彼女らは貧しくつつましく生き、あの時の苦痛を今も新しい記憶としている。評価を得たようだが、私はこのドキュメンタリーに疑問をもった。日本政府は、慰安婦問題が持ち上がり、責められる度に賠償金を支払ってきた。言われたとおりの金額で、一度でいいはずだが、一度や二度ではなかった。払ったのに、しばらくするとまた言われる。多額の賠償金を支払ってきた。このお金は、日本政府としては、慰安婦へ、心に傷ついた彼女達の為に支払ったのである。経済的に助ける、心の傷の慰謝料である。ところが「ナムルの家」を観るかぎりは、彼女達の手には渡っていないと知った。私は賠償に関する書籍を読んでみたが、日本政府が支払った賠償金は、どうも相手政府で止まっているようで、慰安婦にまで渡っていないらしかった。政府に止まって慰安婦に渡してないのに、何度も慰安婦賠償請求をしてくるのがわからない。「ナムルの家」は悪い作品ではないが、そこにメスを入れることなく、ただただ、年老いた貧乏な彼女達の生活を撮っていた。

 慰安婦というと、日本の慰安婦問題を思われる方も多いだろうが、慰安婦は戦争があるところには必ずいる。映画で、アメリカがベトナムをえがく時、女性は一人もいないように思うが、いっぱいいる。第一次湾岸戦争でも、第二次湾岸戦争でもいる。戦争と慰安婦はセットになっているのだ。ただ、戦争が終わっても、いつまでもその責任を問われ、賠償金を支払い続けている国は、日本だけである。現在の日本は、大陸の罪もない多くの人民の命を虫けらのように殺した罪悪感をもっている。罪悪感を持たない国民性ではなく、何とかしてやろうという気持ちのある日本人であるから、相手ばかりではなく、こちらも問題視する。謝罪を形にするには、お金しかない。どんなものより、お金である。慰安婦に謝罪し、お金を払ったが、当時の慰安婦に渡っていない。これはどういうことか。まだ、なにかあると問題を持ち出してきて、日本は支払い続けるのだろう。わけがわからない。

 私は政治には興味がなく、特別な思想もなく、決められた中で静かに生活しているものの一人である。これ以上書くと、考えをもった誰かに殺されかねないのでやめるが、本作のインタビューの中で「日本も拉致をやってきた国だから。」という声を聞いて、戦争のきっかけ、戦争責任といものを少し書きたくなっただけである。メディアは絶対に言わないし、どの本も回りくどく書いている。自分の危険を考えたものだろうが、「なぜ日本は軍国化していかねばならなかったか。」「戦争責任で政府が支払ったお金はどこへ消えているのか。」真を突いた文章を読んでみたい。

 「日本人も拉致をやってきた国だから」ということで、拉致されても仕方ないとは、とても思えない。できるなら日本は、北朝鮮と敵対せずにやっていきたい。北朝鮮は休戦状態であっても、日本は戦争をしていない。拉致を赦せる国家と、拉致は問答無用の国家との違いである。拉致なんて、いつの時代の戦略をしているのだろう。巻き込まれた人、家族、家族のまわりはたまったものではない。あってはならない犯罪だと、現在の世界を見ていてわからぬ程、金正日はアホなのか。自分さえよければいいにも程がある。私はこの件に対する日本の政治家にも情けないと思う。社会党(今の社民党)、共産党は、拉致は無いと言い続けてきた。これが拉致解決を遅らせたと私は思っている。地村さんの母は、帰国する半年前に「死ぬまでに一度会いたい。」と泣きながら亡くなった。もう少し早ければ・・・。これは社会党と共産党が「拉致はない!」と頑張ったせいだ。拉致問題を党派問わずに考えていれば、地村さんの母は、息子に再会できたはずだ。そんな党が、いまだに存在している。堂々とテレビに出て、自民党の悪いところを突く。拉致問題が現実であったと知った時、解散するべきであった。賄賂よりひどい大罪だ。人殺しに近い。そのことに、民社党も共産党も気づいていない。堂々とした党首の顔がテレビに映る度に、忘れたか!と言いたくなる。

 あれだけテレビで知っていて、何度も同じ場面を見たが、本作はそれを凝縮して、新たなインタビューを撮り、編集されていた。発展した華やかな日本の中で、哀しすぎる運命である。場内からはすすり泣きが聞こえたが、私は涙など出ず、憤まんやるかたなき心境だった。憤然として、怒り、憎しみをこらえて観た。拉致された日本人はみんな生きている。二人の骨と犬の骨とまぜて二度焼きした遺骨を持って帰らせるなどは、一国の責任者がやることではない。金正日の側近は、何を信じて、何が楽しくてつかえているのだろう。特に、諸外国をまわる者。諸外国を見て、自国が最高と本当に思っているのだろうか。必ず近いうちに崩壊する国だとわかっているだろうに。それまでは頑張るのだろうか。

 ドキュメンタリーとして質の高いものではない。だが、同じ映像をテレビで見るより、映画的に編集された映像を観るのとでは大きく違った。オンエアとして撮られた映像も、映画上映として編集されると立派な映画に化ける。私には、そこが新しい発見であった。 <65点>

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地下鉄(メトロ)に乗って

2006年10月25日 23時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_128 <アポロシネマ8>

(鑑賞記録のみ-コメントなし)

(鑑賞記録のみ-コメントなし)

(鑑賞記録のみ-コメントなし)

(鑑賞記録のみ-コメントなし)

(鑑賞記録のみ-コメントなし)

 昨日、本日の件に関して、多くの方から励ましのコメントをいただきました。コメントをいただいたすべての方にお礼のコメントを書かせてもらいます。ホームページのわかる方にはお邪魔してコメント致します。また、ホームページのわかる方も、ホームページのわからない方も、27日の「夜のピクニック」の上段へお礼の言葉を書かせていただきます。コメントで心配してくれた方。心優しい人たち。本当の仲間です。お節介、押しつけではなく傲慢でもなく偽善でもなく、何かあって私を頼ってきた時、私は彼ら彼女らに真剣に、私にできることならば、力の限り尽くす覚悟です。この気持ちは一生、持ち続けます。私は裏切りません。困ったことがあれば、いつでも気軽に言って下さい。真剣です。ありがとうございます。  2006.10.27記 冨田弘嗣より


真夜中の少女たち

2006年10月03日 23時00分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_108 <シネ・ヌーヴォX>

 ようやく、新しくできたシネ・ヌーヴォXへやってくることができた。場所も悪く、経営も大変だろうに、九条シネ・ヌーヴォは奥の2階に小さな映画館を作った。30席という話だった。経営なんてできるのか・・・入ってみて、まず頭に浮かんだのは「学園祭の映画室みたいだ」という印象だった。足元は平地なので、段をつける為に椅子の高さを変えている。椅子は固定されていない。一番前は足を投げ出さないと座れないような低い椅子。それが5つ横並びになっている。後ろにいくに従って高くなる。試しに一番後ろの席に座ってみたら、脚が高すぎて、私の足はぶらんぶらんとした。よくこんな小さな部屋があったものだ。そして、よく映画館にしたものだと感心する。本作は2時間の作品だが、椅子が硬くて、尻が痛い。何度も姿勢を変えた。 上映がはじまるとスクリーンの目が粗いのに気づいた。これはビデオ作品か?と後ろを振り向くと、レンズ用の穴はなく、天井にプロジェクターが固定されていた。DVかデジベーか・・・。

 「セブンティーン」という雑誌があったように、17才という年令は、人生の中で最も輝く青春時だという。その17才の女子高生を主役にした4つの話からなるオムニバス映画だった。本作については一切の知識なくしてやってきたので、3つめの話になった時、「あっ、オムニバス」と思った。一切の知識なくして観にくるなんて、まともな人間はやらない。

 なんでもない4つの物語である。ちょっとした心の変化や状況の変化を写すが、全編、特別なことは起きない。今時の女子高生を淡々と追っていくだけである。私としては、それが実に新鮮だった。女子高生の日常、考え方、生き方を観ているだけのはずで、本作を今時の女子高生が観たとしたら、駄作と思ってしまうかもしれない。いや、反対に共感できると思うかもしれない。今時の女子高生を取材する機会がないからなんとも言えないが、これが今時であるとすれば、私が思っているよりは救われる。 淡々と何気なくみせるだけなのだが、尻が痛いのは別として、2時間が早足に過ぎていった。とはいうものの、映画が熱狂的に好きな人にしかお勧めはしない。 <55点>

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もしも昨日が選べたら

2006年10月01日 22時30分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_105 <敷島シネ・ポップ>

 ケイト・ベッキンセールは本当に美しい。観終えた後、観客の女性達も「すっごく綺麗」と口々に言っていたので、女性から見ても男性から見ても同じなのだろう。女性受け、男性受け共にというのは、多いようで少ない。パール・ハーバーで私は知ったが、もう33才だ。残念ながら、あまり良作に恵まれていない。

 クリストファー・ウォーケンがいつもながら味わい深い顔立ちと演技力を魅せる。若い頃は悪役、厭味な役、危ない奴のイメージが強かったが、この10年くらい、どういうわけかコメディに積極的に出演する。「マウスハント」で、ねずみ駆除で悪戦苦闘するクリストファー・ウォーケンを見た私はぶったまげて、笑った。あの俳優が、こんな恰好で、ドタバタしている。それだけで私は「マウスハント」に満足した。

 15年以上前になると思う。「Mr.ディスティニー」という映画が公開された。本作ほど慌しさはないが、よく似ている。クリストファー・ウォーケンの役割をマイケル・ケインが演じている。マイケル・ケインの受ける仕事、つまり映画は、観に行っても失敗はないと私は思っている。ジャンル問わず出るが、ほぼすべてが良作である。私は、特にマイケル・ケインが好きなわけではないから、良作を選択しているのだろう。「Mr.ディスティニー」を観ていない方は、一度ご覧になってほしい。スティーブ・マーチンとの共演の「ペテン師と詐欺師」も良作である。新しくなった「ピンクパンサー」ごときで喜んでいてはいけない。スティーブ・マーチンの最高傑作は「ペテン師と詐欺師」だと思う。

 最近、映画を観て、関係ないことばかり書き残しているが、一本観ると、思い出すことが多すぎるせいだ。小学生から43才のオッサンまで・・・35年も観続けると、映画を話し出すと止まらなくなる。できるだけ短く書いているが、書き終えて読み返してみると「長いなあ。」と思うことも少なくない。普段の私は寡黙だが、喋り始めると止まらなくなることがある。「映画」「旅」「古代史」「鉄道」なんて教科があったら、私はオール5だったろう。ひとつのことに対して深くは知らないが、浅く広く、人生に意味のないモノを覚えている。自慢をしているわけではないが、何でも知っているように思われている観もあり、とりあえず私に聞く人も多い。しかし、薄っぺらな知識であって、それはすぐに露呈する。知らないことは「全然知らない。」と答えるので、相手をがっくりさせ、侮蔑の目をむけられることもある。知ったかぶりしても構わないが、意味のない知ったかぶりは恥ずかしすぎてできない。

 と、まだまだ関係ないことを書いている。読んでいただいている方には申し訳ない。 本作のような形は今までにもたくさんあった。あったが、過去、未来だけではなく、一時停止、早送り、巻き戻しまで取り込み、ここまで忙しい映画はなかったと思う。「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」も忙しいが、その何倍も忙しい。そしてその忙しさひとつひとつがとても面白い。嬉しい、寂しい、哀れ・・・とんでもなく速いテンポで進んでいく。こういう種の作品だから、もちろん矛盾だらけだが、かたぐるしく考えず、矛盾は無視して、この世界を楽しんでほしい。

 こういう類の映画の結末は、ほぼ決まっている。決まっているので、滅茶苦茶になっていく運命が描かれたとしても、安心して観ていられる。子供も大人も楽しめる良作だと思う。しかし、この邦題をみんなはどう受け止めるだろうか。オリジナルタイトルは「クリック」だ。いいタイトルだと思う。コメディであることをわからせる為、タイムトリップすることをわからせる為の苦心の邦題だ。邦題の付け方は私の知るかぎり、30年も前から変わっていない。短い邦題だが、内容がわかるという意味で、2時間ドラマの長いタイトルに似ている。「もしも昨日が選べたら」と「クリック」・・・どちらも集客を期待できるものでもない。だったら、そのままのタイトルにすればいい。観終えて「クリック」のタイトルに頷くだろう。短くて、記憶に残る。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」を邦題なしでそのまま公開しておいて、こんなに短くわかりやすいタイトルに邦題をつけるなんて・・・。 <75点>

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マイアミ・バイス

2006年09月30日 23時00分00秒 | ま 行 (2006.2007)

Photo_101 <敷島シネ・ポップ>

 タイトルは知っていたが、テレビシリーズの「マイアミ・バイス」を私は見ていない。見ていなくても観られるはずである。何だか大作らしい。制作費もたんまりかけているという。だが、日本ではヒットしていない。前売券があり、もう終わるらしいので時間を作った。

 正直言って、書いている今・・・私はストーリーも忘れかけている。場面もあまり記憶に残っていない。これは私が健忘症になったからではなく、そういうレベルの映画だということだ。柱になるものがないし、主演の男二人は恰好だけで、大したユーモアセンスもなく、アクション映画なのにゆったりしている。サービスのつもりか、だらだらしたラブシーン、ベッドシーンが長く続く。このシーンに深い意味はないから、単なるサービスシーンだろう。 潜入捜査だから緊張感が高まっていくだろうと期待するが、緊張感も何もない。大金をかけた古いB級作品のようなA級作品。2時間20分も長い。前評判の割にはロングランにならなかったのもよくわかる。口コミにならない。

 この映画は、ほぼすべて、ハンディカメラで撮っている。Aカメ、Bカメともにハンディだ。三脚を使わない。なぜだろう。リアリティを出す場合、ハンディを多用するが、芝居ぶりを含め、どう頑張っても作り物だし、わざわざカメラマンに肉体労働を架して、ハンディにする必要はあるのか。私には理解できなかった。 空撮も多く出る。ここはスカイカムを使用し、スムーズにみせる。地上はハンディで空撮はスカイカム・・・空撮もついでにハンディでもいいじゃないか。その意図は何なのだろう。ハンディは観ていて精神的に疲れる。好きな人は好きだろうが、大衆娯楽アクションではない。撮っていて楽しかったのか、面白かったのか・・・監督のマスターベーションにつきあわされた。私はそう思う。 <25点>

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