活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

ピラニア(2010) <3D・字幕版>

2011年08月31日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_5 <シネプレックス小倉>

 テレビをつけると、北杜夫が亡くなったとニュースが報じている。大事件がなくてよかった。長く、北杜夫という人物を見せている。知らない人も、この作家を知っておくべきだろう。今日10月26日、私は北九州空港近くの「スカイホテル苅田」に投宿した。門司から近いと思って、携帯で、じゃらんnet予約したのだが、カーナビで検索すると20キロ先と出た。近場にしたいけれど、予約決定ボタンを押して、予約済みメールも着信してしまった。キャンセルすると100%なので、貧乏な私は行く・・・渋滞して40分以上かかって到着。なかなかきれいな、結婚式場まであるシティ型ホテルである。夕方に投げ出した3,500円現金のみOK版で、私はポイントを使って3,000円。部屋も広く、家具やテレビも新しく大きい。風呂も清潔で、湯の出もガッツリである。なんだか、一流ホテルに泊まっている感じ。

 明日の朝、チャチャタウンのシネプレックス小倉へ向かう。このブログだけ読んでいると、いつもどこかへ泊って、映画を観て、世の中に愚痴をたれて、まるで遊び人のように思われるだろうが・・・それもある。間違いではない。最近、なかなかいいなあと思った映画は『モテキ』『スマグラー』『HAYABUSA はやぶさ』・・・よく観ている。遊び人だわ、こりゃ。いやいや、やるべきことはいっぱいあり、ちゃんとやっていますぞよ。ここのところ、観たい映画が多くて、睡眠時間がとても少ない。昨夜は平凡な景色が続く中国高速道路で目がシボショボし、ウトウトしかかった。はっと気づいて、ドキドキした。・・・言い訳ですが。はい、遊び人でございます。

 『スマグラー』は絶対に面白いと思って期待感バリバリで観に行って、バリバリに期待以上の映画だった。さすが石井克人監督。とんでもない描写もあるからムカムカする人もいるだろうけれど、他の日本映画なんて寄せつけない出来栄え。鮫肌男の空気をまだ失っていない。全国公開してくれて、うれしい。これは後日、記事にしようと思っている。

 つまんないよと観るつもりではなかった『モテキ』が抜群の出来。深夜ドラマの映画化らしいけれど、そのドラマを観ている人も面白い!と言わせている。私は映画しか知らないが、今という時代をトップセンスな演出で魅せる。ツイッターは出会い系サイト化しているのねー。この映画は、ツイッターなしでは成立しない。ツイッターで出会い、ツイッターで話し、ツイッターで別れる。だが、人間的ぬくもりもちゃんと入っているから、心地よい映画となっている。麻生久美子の上手いこと!長澤まさみと一緒のときは脇だから抑えているけれど、一人になったら長澤まさみなど比にならない大女優っぷり。

 お勉強なんてしたくないと思って、それでも観た『HAYABUSA はやぶさ』。観てよかった。こういう映画もたまにはいいね。130分まったく飽きずに最後まで観客を引っ張る。テレビ監督、なかなか映画らしい映画を撮るようになった。人間が作った機械なのに、感情もなにもないはずなのに、なんだか生きてて、心をもっているように思えてくる不思議さ。いとおしく思えるHAYABUSA。結果は知っているけれど、うぅ頑張れと唸ってしまう。あの難しい世界を面白いトコだけ引っ張り出して、観客にわかりやすいように映像化。脚本、大変な苦労だったろうと思う。1000を学び、知り、1を私たちに教えてくれているハズ。残りの999はわかりやすく解説されても、面白くない物語だろう。1のいいところだけ教えてくれる。いい映画を観た。

  「スカイホテル苅田」から、シネプレックス小倉へは30分ちょっとらしい。上映1時間前には走っていなければならないだろう。「苅田」は「かんだ」と読む。九州ではなくて、読めた人は・・・「復讐するは我にあり」を思い出したのではないだろうか。あの事件は、苅田からはじまるのです。包丁を買って、二人を殺す。その地で、今夜は寝る。

 ピラニアを書こうと思ったのは、スプラッター・パニックの割に、出来が抜群だったから。善と悪のはっきりした筋書きも、ピラニアには通じない。みんな食ってしまう。そりゃそうだ。ピラニアなんて、二昔前なら沸いたかもしれないタイトルも、今は古くさく思える・・・なのに、映画そのものはいろんな試み満載で新鮮だった。CGも、これがCGだぜなんていうイヤミがなくて、ちょっと手作り感あっていい。スプラッター・ホラーだから、飛び出す飛び出す!3Dやるなら、これくらい頑張らねば。3Dブームは3回目らしいけれど、私の知っているのは「ジョーズ3D」や「13日の金曜日3D」以来、二度目。やはり、3Dを楽しませるのは、ホラー、スプラッター、パニックといった徹底娯楽映画だろう。考えない映画の方が楽しめる。

 この映画、70年代に作られた同タイトルのリメイクで、当時、話題になったのは、映画そのものより、日本人女性がスタッフにいるということだった。今は日本人がスタッフロールで流れるのが当たり前になっているけれど、30年前は記事になることだったのだ。いや、ジェームス・キャメロンの初監督の方だったかな?・・・世界的に大ヒットした30年前のピラニアと比較にならないパニックぶりだ。また、残酷度も比ではない。曲芸のような殺され方する・・・ピラニアが食うだけでは面白くないから、小道具いっぱい。楽しませたい、そして恐がらせたいスタッフの気持ちがわかって楽しい。本作は来年早々、『ピラニア3DD』として続編の公開が控えている。日本ではピンとこないお魚さんだけど、見せ方が上手いので、本作を観た人は舞い戻ってくるかもしれない。

 あ、一本、忘れていた・・・『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』、素晴らしい。十代、二十代で満員の土曜日だったけれど、40年前の第一作を知っているのかしら?知らないと、エンディングを見て、パート2があるんだな!と思うだろうが、ないのです。40年前の映画につながるのですぞ。この映画だけでも面白いけれど、本作から第一作を観るより、古い映画「正」「続」「新」たちを観て本作を観たほうがずっと楽しめるように仕掛けている。シリーズ化され、その前の物語は多く作られ、ハズレが多いけれど、『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』は見事なパート0だった。新作の猿の惑星は90点。ピラニア3Dは・・・ <80点>


プリンセス トヨトミ

2011年06月06日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo <小倉コロナシネマワールド>

 ブログは自分の日記だもの、書いた責任はあるけれど、自由に書いていい・・・そんな議論が5年前に展開した。5年も前に?まあ、私も長くブログを書いたこと。お行儀よく書いてもつまらないので、途中から好きに書いてきた。ブログは姿勢を正しても、ツイッターでは胡坐を組んで本音をつぶやく人が多い。ブログではわからなかった人格、性格も読めるときがある。私はブログで本音を書く。多くの人のツイッターを読んでいると、あれは体のよい2chのように思えるから、私はやらない。誹謗中傷の反論がないだけだ。だが時に、ツイッターの一言は、構成を考えた文章ではないだけに、その人の本音そのもので、生身の人間の心臓一撃にもなる。だが、私のブログはお行儀よくない本音だから、悪意はなくても読み手によっては心臓一撃することもある。そのせいで、数年前、大攻撃を受けたこともある。好き勝手に書いてきたし、書きたいが、ここしばらくの前文を削除した。

 先日、「八日目の蝉」という映画を観た。 そんなに印象深い映画ではなかったが、番館落ちした「奇跡」を観たく、同時上映だったのでまた観た。一度目は印象に残らなかったけれど、二度目はラストカットまで覚えているのに、じっくりと楽しめた。スゴイと思わせる映画でもないけれど、二度目の方がずっと楽しめたのはなぜだろう。まわりを見る余裕があったからか。印象深い映画になった。一週間しか生きない蝉の中で、八日間生きた蝉の最後はどうであろうか・・・仲間がみんな死んで寂しい思いをするか、もしくはみんなが見られなかった素晴らしいモノを見ることができるかもしれない。

 ここのところ、蝉の世界も、ちょっとおかしなことになっているらしい。蝉の命は一週間のはずが、平気で十日も、長いのになると二週間もミンミンいっているのだと。人間や動物だけではない。虫の世界も同様、長生きで元気になってしまったのだ。もちろん、免疫力を持つ前に絶滅していく動植物も多いけれど・・・。蝉は環境に強いと言われている。都心のど真ん中の排気ガスをまき散らしながら両側を走る車の真ん中で、ミンミンと元気だ。環境汚染、公害なんてものが、蝉の寿命まで延ばしてしまったようだ。一方、別の免疫力も落ちていっているはずで、人の場合、多くは癌で亡くなるようになった。蓄積されて元気に生きても、その限界があるのだ。いますぐ影響のある問題ではない放射能と同じである。

 二週間も生きている蝉だけれど、まあ、土の中にいる時間から比べたら短いものだ。蝉の寿命って本当にあんなものなのか?私は、子供の頃に「蝉は土の中に7年もいて、一週間しか生きられないのよ。」と聞かされた時から、蝉の一生は土の中にあると思っている。土から出てくるということは、死を意味する。ようやく土から出られて死ぬことができるとする蝉もいようか。蝉は土の中で生き、なにかを見つけ、達成し、または挫折し、苦しみ、笑い、そして死へと羽ばたくために空を見上げる。ませたガキだが、そんなことを考えていた。

 死への恐怖が、私は他人よりそんなにない。死への恐怖は、そこに至るための痛みや苦しみであって、この世から消え去る死は、それほどイヤではない。生きているからには役割があり、なにか成せばならぬことがあり、それは自分の為ではなく人の為であろうが、自分勝手なことを書かせてもらうと、イヤなことでもない。親不孝を重ねてきたので、両親より先に死ぬ親不孝だけしたくないとは思うが、なにか過ぎれば、私は土から出て、空を見上げたい。ほとんどこの世を見ていないので、わかったようなことは言えないけれど・・・。命は地球より重いって本当かしら?どうも地球の方が大事な気がする。気力がないわけではない。生きているのではなく、生かされていると思っているので、それまでは働き、人を楽しませ、人が楽しんでいるのを見て自分も楽しむだけだ。なるべく苦痛は与えたくない。どんな目に遭っても、私は人が好きであるから、映画も観ている。

 あちらこちらに話が飛んだが、本作「プリンセス トヨトミ」を二度観たら、なにか自分の人生に与えるモノが見えてくるだろうか?2時間のうち、最初の1時間が興味津々の面白い物語である。後半1時間、ここからだぞ!が、どんどんしょぼくれてきて、この非現実的な世界を見ているに堪えられなかった。非現実をすんなりのみ込める作品も多いが、この話、でかすぎるのに、作品そのものにまわりが見えてなくてアラが目立つ。丁寧に撮っている割には、切り返したカットのつながりがおかしい。撮りを気にして観ている人は多くないだろうが、そんな細かな、普通では気づかぬところで落としていると、実は潜在的に全体に響いてしまうのだ。

 こじんまりと始まった物語が、どんどん膨らんで壮大になっていく様子は圧巻だが、なぜ大阪に人がいなくなるのやら。大阪にいるのは大阪に住んでいる人ばかりでもあるまい。観光客や出張してきた人も多いハズ。だーれもいない大阪駅前、新世界、道頓堀を映し出すが、それは映像の面白さであって話の面白さではないから、説明不足だ。ここで、私は完全に冷めた。CGの大阪府庁前と人の群れも映像的には凄いが、ただながめているだけの映画になった。尻すぼみである。

 映画が好きなのは、人を描いているからである。私は孤独も好きだが、人も好きだ。なので、孤独の中、映画を楽しむ。両方、楽しんでいる。映画がずっと丹念に人を描き続け、それを感じさせることができているならば、私は死を恐れているかもしれないと、意外にマジメに思う。映画は、人間関係が濃かった時代が面白かった。現代のように、あっさりしたもの、希薄になってしまっては映画も並ばねばならぬだろう。逆に、映画が面白かった時代は、苦しくとも、世の中も面白かったのだろう。なければ困るインターネート、メールも希薄さを後押ししている。これだけ通信手段があると、人は顔を合わせる必要もなくなる。目を見て語らねばならぬことも、メールで済ませるようになった。

 二週間も生きている蝉は、なかなか死ねないと嘆いているかもしれない。人は意思を持っている。だから、生かされ、役割がある。だが、蝉に二週間の役割はあるのだろうか。14日目の蝉は、なにを見るのだろうか。  <40点>

 


ビッチ・スラップ 危険な天使たち

2011年02月05日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 海峡を隔てて、あちらは門司、こちらは下関。あちらは九州、こちらは本州。あちらは人口100万の政令都市、こちらは人口30万の中核都市である。どちらも高齢化、少子化に拍車をかけて先が見えている気がするけれど、現在だけに限って言えば、下関は、経済も都市としての機能も北九州に負けている。関門海峡のもっとも狭いところは500mしかなくて、車で直線距離を走れば3分足らずなのに、間は陸ではなく、海ということか、遠く感じる。車の道はトンネルか関門橋の2つしかなく、実際、遠い。バブルの頃、下関から小倉まで一直線に橋を架けようとしたけれど、あれが着工していたら、下関小倉間は5分で行けた。バブルがもう少し続いたら、この街も少しは活きていたかもしれない。

 活きていた・・・今は死んだような街になっている。だんだん死んだから、ずっと住んでいる人は気づかない。下関と北九州は、昔から対抗意識を持っている。食べ物や建物や文化まで意識対抗丸出しだ。で、相手の文句を言う。下関に帰ってきて、それを何十回も聞かされた。私としてはどうでもよく、単なる通過都市で、大都会から忘れ去られた地方都市のウジウジだと思っているけれど、どちらに軍配があがるかと言えば、客観的に見て、北九州市であろう。マシな程度だが・・・。人口がどーのではない。地図を見ればわかる。すでに地形的に負けている。下関はまわりを海で囲まれていて、海岸近くまで山がズラズラと並んでいる。平野部のように見えて、ちょっと市内を入っていくと、もう盆地なのだ。海まで近い盆地。家々は、山肌にへばりつくように立ち並んでいる。日本で二番目に高齢化が進む市なのに、あんな山の上に住んで、老後は大丈夫なのかと思う。盆地で華やかになろうとすれば、一度、都にならねばならない。一方、北九州は小倉から戸畑、八幡にかけて大きな平野部を持っている。人口は減少すれど、それは北九州がただっ広いからで、小倉界隈の人口は伸びている。平野部が広い・・・もう負けているのだ。だいたい、日本で二番目に高齢化が進む市、日本で二番目に少子化が進む市ということを、この街の人たちは知っているのだろうか。自慢にもならない。自慢するには一番になってからである。

 だからこそ、東京からやってくるシネコンは下関をまたいで通った。小倉には、角川系、東映系、コロナチェーンの3つがひしめきあって、ひとつくらい手前の下関にと思うが、群れていたほうが儲けがある。下関人は、文化と接しない。・・・下関に、ツタヤがないのはあんまりだ。あんなに全国展開して、村と呼ばれる僻地にまで建てているのに、30万人の街、下関をシカトするとは。この事実に下関市民は憤慨しないのだろか・・・どうも憤慨していないようである。ツタヤを知らない人も多い。テレビだけ、100円レンタル!と騒いでいる。ここにはないのに。

 そんなわけで、映画を観るためには、小倉まで足をのばさねばならない。一年の間に何度、小倉までやってくることか・・・50回、いやもっと。下関は文化と言えば音楽らしいので、映画なんてやっても観にはこない。そのかわり、タダの催し物には集まる。タダの催しに集まる下関人を怒っている下関人も多く、そういう人とは長話になるが、タダに集まる街はいけない。100円でも200円でも設定すべきだ。東京や大阪では、タダの催しに人は集まらない。タダはタダなりのことしかしない。

 もはや、私は下関市議会に出たいくらいだ。地盤も何もないし、出るお金もないから最初からダメだけれど、意欲ある泡沫候補である。ちまちま、目先のことばかり訴える議員が多すぎる。市役所役員が話し合ってやればいいことを、選挙で選ばれた議員が胸はって公約としている。下関市を50年前のようにしよう!活気ある街にしよう、オレについてこい!・・・市民に夢と希望を与えることが政治家の最初の仕事だと思う。大阪府はそんなに変わっていない、宮崎県もそれほど変わったわけではない。しかし、みんな夢を持った。希望を持った。それらは、生きがいにつながるのだ。

 それすらできない街であるならば、生きがいを与えることすらできない街であるならば、私はもうここを去ろうかと本気で思っている。大阪へ戻るつもりはない。去るなら、東京か・・・埋もれてしまうなら、大人数のほうがよろしい。毎日、刺激があり、毎日が違う。同じ日がなく、毎日が違うのは大阪も同じだが、もうあの地へ戻るつもりはない。

 ケチくさい私の愚痴である。これが本気だから面倒な男だけれど、ケチくさいことをほざいている中で、楽しいことに、ありがたいことに、またまたケチくさいB級映画を観る機会を得た。この映画、2009年制作だが、流れる空気は1970年である。70年代に公開されていたら、歴史に残ったかもしれないが、あの時代のマネなので作りようがない。タランティーノが泣いて喜ぶ、超低予算の車と女と砂漠とロックとエロゲロで、しかもオールロケ。懐かしくて、楽しくて、自分も撮ってみたかったのだろう。私も懐かしくて、楽しくて、アホらしくて大好きである。

 設定を喜び、楽しんでいるだけたろうと観たのだが、なかなか物語の運びにも凝っている。台詞も面白いし、カット割りもよく考えている。砂漠の真ん中で立ち止まり、どこを見回しても砂漠なので、舞台劇にもなりそうだが、そうはいかない映画のカット割りをちりばめて、何度もギョッとさせられる。良いハズが、どーも納得いかない。もっと退屈な映画であるべきだ・・と、変なことを思う。という観客の気持ちを監督は考えてか、セクシーな女性たちのサービスシーンを用意している。完全になくていいシーンで、Tシャツ一枚のセクシーな美女たちにホースで水をザバザバとかけるカットがしばらく意味なくつながれる。おまけにスローで、ロックをかける・・・もはや、B級のアレでござんす映画だ。70年代のパロディ。

 この手の映画は、アメリカではまだまだ作られている。日本に入ってこなくなっただけのことである。今はカルトファンに要求され、支えられて輸入されるのだ。選ばれた一本だから、内容もしっかりしていた。埋もれてしまう映画だが、埋もれてしまうのも悪くない。埋もれるためにはどうすればいいかも、考えに考えるものである。ほっといても、なかなか埋もれないから、面倒なものである。考えねば・・・。 <70点>

 


パラノーマル・アクティビティ 第2章 TOKYO NIGHT

2010年12月01日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

2tokyo_night   <小倉コロナシネマワールド>

 調べもしないで、事故を起こした車両をその日に埋めて、翌日に掘り出してるで、あの国は。デタラメぶりが世界に報道された。政府のレベルは国民のレベルだが、こんなていたらくな国では!と、我が国を変えたいと本名で抗議している人たちがわんさかいるようだ。この事故を契機に、多くの国民が立ち上がることを期待したい。言うこときかない人間は口封じさせてしまうので、日本の良識ある?国政の意見を申しだすのはムリだろうが。にしても、世界で、事故車両をそのまま、即日、その地に埋めてしまう国があろうか。恐ろしい国だ。

 世界一と威張っている高速鉄道は、各国の鉄道技術の寄せ集めである。日本からは川崎重工の技術をパクった。4両か5両だけ買い、権利にはお金を払わず、分解してマネして作った。パクリだ。ずーっと、あの国はパクるのをなんとも思わない。また、契約にうんうんと頷いておきながら、無視する。書面でも無視する。これでは、常識以前の話で、他国から総スカンを食ってしまうのはわかるだろうに・・・。国民の数、安い労働力のおかげである。そのおかげが、軍事力世界第二位にまで押し上げたので、更にタチが悪い。軍事という抑止力を大きくしたのもあり、ますます外交がうまい。だが、今回の事故で、あの国がどんな国なのか、多くの人が知ったことだろう。パクリでは、うまくいかない。

 本物かパクリなのか、世界で大ヒットした「パラノーマル・アクティビティ」のパート2が、日本を舞台に、日本人の手によって映画化された。監督は、「放送禁止」の長江俊和。「放送禁止」は深夜ドラマだが、劇場版も公開された。劇場版を私は観たけれど、とてもとても映画と呼べるシロモノではなかった。あれは、テレビで十分である。・・・無理から作ったゲテモノ映画を観るか観ないか悩んだけれど、この時期、精神的にまいっていたので、ホントーに何も考えなくスクリーンをながめていたいという気だけで入る。観るより、ながめていたい。考えたり、泣いたり、笑ったりしたくなかった。映画にいろんなモノを求める。与えられたままではイヤだ。

 パート1の脚本、監督オーレン・ベリは素人。日本を舞台に映画を撮ってみたいという希望があって、それに目をつけた日本人プロデューサーがいた。柳の下にドジョウは二匹いる映画界で、黒字にはなる!と踏んだのだろう。すぐに映画化権を買っている。アメリカ映画の版権は高いはずだが、素人映画は安いだろう。目をつけたのは商才がある。監督の選択も的を射ていると思う。・・・本作の正式版パート2は、翌年の公開が決まっている。

 たかが知れている。知れているが、小品としてはなかなか面白い映画だった。90分間、興味の糸を切らない上手い脚本、演出である。徹底した娯楽で、私としては、本家のパート1よりも楽しめた。日本的怖さを含んでいるからかもしれない。出るぞ出るぞと思わせて、実はなにもないのよ・・・なんてムダシーンも、どうなる?どうなる?なのに、何もなくてムスッとはならない。すぐに次のシーンへ移行し、興味を持続させる。元ネタ、パクリから作ったのだが、頑張っている。ラストの家の中から出て、車で走って激突する数分間は、本家のラストなど問題にならない。こちらのレベルが上だ。

 パクリでも、ちゃんと版権を獲って、お金を払って、タイトルも同じ。あの国には、もしかしたら、誰も知らないスーパーマンやインディ・ジョーンズやゴッド・ファーザーがあったりするかもしれないぞ。いや・・・経済として成り立たないからやらないか。稼げるディズニーランドはパクッても。ミッキーマウスの横には、似ても似つかぬドラえもんもいたな。  <80点>

 


ふたたび swing me again

2010年11月14日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Swing_me_again  <シネプレックス小倉>

 若い人が、大きな夢や希望を抱くのはとてもいいことだと思う。ある日、私の夢はもっと小さいものであったと気づいてもよい。身近なものであったと気づいてもよい。しかし、当初は大きい夢を抱くべきである。叶うか叶わないか、全身全霊で向かうべし。平凡に生きるよりいい。たとえ夢破れたとしても、そういう人は歳をとって、何事にも視野が広くなっている。と、私は思っている。

 個々に大きな夢や希望を抱いて生きることはよいことで、大切だけれど、これを後押しする環境が要る。もっとも大きいものは、国家だ。夢も希望もない、この先どうなるか不安だらけの国で、夢や希望を抱いて大海を泳げ!は難しい。努力も徒労に終わるかもしれない鈍い光が見えたとしたら、わが人生の結果を見ぬまま堅実の道を選ぶかもしれない。日本は、夢も希望もない国に成り下がった。

 60年安保で学生が一致団結してこの国を変えまい、変えようとしたのは、日本という国に夢や希望があったからである。早足のように見える現在よりも、日本は、あのころの方がめまぐるしく変化している。ユーチューブなどで当時のフィルムを見ると、大人も子供も活き活きしている。目の輝きが違う。現代の日本人は、死んだような目をした人ばかりだ。徐々にそうなったのだろうが、境目がわからない。しかしいまは、夢と希望を国民に与えない国家になったのは間違いない。与えないで放っておくならいいが、絶望感を与えてくれる。若い人たちが、フリーターのまま結婚もせず、住居も持たず、人とかかわらずにフラフラその日暮らしをしているのもわからないわけでもない。20年、30年後に素晴らしい国になっていて、その中でどう生きるか・・・いまを見ている限り、絶望感の中に生きているだろうと察する。国家の指差す道は必要である。中国の国民は、日本の60年代のように元気である。

 あのころにあった、今日一日の仕事が終わった喜び、土曜日の午後からの喜び、風呂へ入れる喜び、夕飯が腹いっぱい食べられる喜び、久しぶりに映画が観られる喜び・・・こんなモノを感じる日本人はいない。とても不幸な国民になった。明るいであろう未来を指差してくれる指導者がいない不幸である。「あのころはあのころでつらいものはいっぱいあった」と言うけれど、50年代、60年代に青春を過ごしてみたかったと思う。昭和昭和と懐かしむだけになったのはつらいことだ。昭和は好きだけれど、昭和ブームが私は嫌いである。

 夢と希望を抱き、それに応えてくれる時代に、不当な差別を受けて隔離された人たちは多い。その中で、ハンセン病患者は、平成の世までそれを引きずっている。小泉首相が告訴を取り下げた後も、いまだにである。長く長く狭い空間で生きた人たちは、社会に出て行ってもオロオロするのみだ。もう行くところなどない。ぬるま湯につかって生きてきた私などは想像もつかない世界である。夢や希望を捨てざるをえなかった場所から・・・ようやく出てきた世界は、夢も希望もない現代。なんとか一筋の光のある国であればよいけれど、ここは自分だけがかわいいトコロ、自分だけを守るトコロである。日本人の美徳も薄れた。・・・宿命・・・国家の、マスコミの、全国民の犯罪のような気もする。本作は、強いメッセージではないけれど、このテーマをもっともっと映画として作って、遺しておくべきであろう。

 ハンセン病の告訴を取り下げたとき、どのニュースでも、「最近では『砂の器』が・・・」と言っていた。『砂の器』なんて、私が小学生のときで、30年も前の映画を最近ではと言うのかと驚いた。思うと、『砂の器』を映画化したのは大したものだ。触れてはならない題材だったのだ。もしかしたら、国を敵に回してしまうかもしれない一大事である。『砂の器』のラストには、ハンセン病の差別はないという意味のメッセージが出る。だが、あの作品を公開したときは、まだまだ差別されていた。映画は、ないと言っている。勇気のいるメッセージだ。しかし、本作なら、堂々と言える。もっともっと強い口調でもよかった気がする。観客に恐怖感を与えるくらいの口調でも。涙だけでは通り過ぎてしまう。

 国に光が見えている時代、指差すリーダーがいた時代、がむしゃらに夢と希望を抱けた時代だが、その後ろには、現代ではとても考えられぬ、許せぬ差別が蔓延してもいた。解けたのは、情報のおかげかもしれない。知ることで、私たちは目覚めたのかもしれない。教訓として活かし、二度と繰り返さないことが大切だ。ただ、その湧いて蠢く情報のせいで、ウソを叩き込まれ、私たちはおかしなことばかりさせられている。環境問題もそう、健康食品もそう・・・尖閣諸島、大相撲八百長も隠しに隠してウソだらけ・・・今回の震災ニュースでウソの嵐に嫌気のさしている人も多いだろう。放射能の安全性、どこまで節電を信じていいものか・・・。これでは、どんどん日本人は冷めて、ますます夢も希望も消えていく。

  <70点>


バイオハザード IV アフターライフ (3D)

2010年09月04日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Iv  <小倉コロナシネマワールド>

 大金かけて、それほど面白くもないシリーズなので、もう観ないつもりだったが、3Dというので・・・ただ、3Dにも飽きてきた。映画館で飽きてるのだから、3Dテレビなんて、ブームの中のブームだろう。3Dビデオカメラも民生機ででている。プロ用はバカ高いのに・・・あんな、値段とは・・・。

 もう、メガネなんぞかけずに、そのまま観たい。いい映画は、3Dなんて不要。かえって邪魔な気がする。立体に見えようが、飛び出して見えようが、映画そのものに集中できない気がする。それほど3Dを漁って観ているわけではないけれど、のめりこんでしまったのは、「アバター」だけ。古い人間になってしまったのかもしれないけれど、内容で勝負する映画を3Dにしては、快作も駄作になりえないかと思う。3Dだと頑張っている映画は、今後、期待できないかもしれないとまで、思っているのだが・・・。

 これがドB級ドタバタゾンビ映画ならば、つまらんものもつまる。A級だから、なにを考えて撮っているのかしら?と首を傾げる。えーっと、儲けのためだけです・・・それならば、しっかりと頷ける。「どーだ!すっげえだろう!」みたいなアクションに、すっげえとは思わない。「ここが、観客のびっくりするところです。」「ワクワクするところです。」と言われているようなシーンが連続する。なにも感じない。他の作品とは違い、3Dを意識したCGカットも、狙っていて、あーそうですか・・・と、私は冷たかった。主演女優にも飽きている。クールなくせに、意味なく力の入った女。こういうタイプの配役は、昔なら途中で死んでしまう形だった。

 平板な物語があり、伏線をばらまいて、突拍子もないシーンから頭へ飛んだり・・・厚みをもたせて、観るものを楽しませる工夫があれば、こんなチンケなドラマでも印象を残すが、一直線上を枝葉もソコソコに、ただエンディングに向かって走るだけでは。これが、ションベン臭い古びた映画館で観ているなら、評価も変わるが(そういうものも心情的に左右される)、シネコンのでっかいスクリーンでメガネかけて観るA級だってんだから、辛口にもなる。どーでもいい映画をプラスン百円かで観てしまった。

 誰も興味持たないだろうが、寅さんあたりを3D変換して上映したら、違う意味で面白そう。それくらい、3Dには飽きてきた。映画がしっかりしていないと、立体ばかりでは、トホホであるから、「アバター」はよほど、いい映画だったのだろう。  <45点>


ベスト・キッド

2010年08月21日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_5  <ワーナー・マイカル・シネマズ戸畑>

 ワーナー・マイカル・シネマズ戸畑は、連日、午後6時からすべての映画が1,000円になる。小倉に3つのシネコンがあるけれど、近くもないし、競争相手なんていないと思うが、サービスデー、サービスタイムと、1,000円を乱発している。ここでショッピングを!車で小倉まで行かないで!ということかもしれない。映画を鑑賞したら駐車4時間無料、千円以上のショッピングでプラス2時間、6時間駐車できる。ほとんどの客は車でやってくるけれど、駅の目の前だ。駅から徒歩30秒、雨の日も濡れずに入れる。車は便利だけど、近い人は、できれば公共交通機関で・・・車で映画館なんて、ゴージャスな。

 ワーナー・マイカルは、ヴィスタサイズに限り、ハコの大きさに比べて、スクリーンがやたら大きい。200席ほどのハコでも、バカでかい。私は嬉しいけれど、人によっては、真ん中あたりのいい席を取ったと座っても、近すぎると感じるだろう。映画のスクリーンはでかいほうがいい。

 あの「ベスト・キッド」のリメイクらしいが、取り込んだのは大筋だけであった。原題は「The Karate Kid」と昔のタイトルそのままだけど、オリジナルのカラテとは違う。これはカンフーではないのか?原題を変えられなかったのだろうか。ジャキー・チェンはメイクのおかけもあり、歳食った、得体の知れない、うだつの上がらない男に見える。ジャキー・チェンがこんな役をやるなんて・・・万年青年だと思ってた。・・・この男が凄い師匠になるのだというのは、筋をまったく知らない観客でもわかる。そこも納得ずくの楽しみ。子供が鍛えられて技を習得する結果も納得ずくの楽しみ。最後にいじめっこ、悪役を負かせてしまうのも納得ずくの楽しみ。本作は、もう先が読めることを楽しむ映画である。そう聞くと面白くないようだが、わかることを楽しむ映画もある。

 昔の映画は、コレが楽しかったのよ!と思うシチュエーションがある。悪役がはっきりしていることだ。この悪役、にくたらしい。先生もいじめっこも。顔も悪役に徹して通している。にくたらしい悪役をコテンパンにしたい。その観客の願いを本作は応えてくれる。この頃、善と悪がはっきりして、悪が散るというタイプの映画が少なくなってきた。物語はどんどん単純になっていくのに・・・。あのいじめっこを演じた子役、上手いなあ。この子、一人だけ特別に上手い。にくたらしいけど、エンドロールでホッとさせる。これは映画なのだ。

 とは言うものの、とりたててみんなに、観た?観た?というほどのものでもない。楽しい娯楽映画を目指しているのに、カット割りか、演出か、全体のリズムが悪い。キレが悪い。スピード感を意識してくれれば、観客の興奮度は上がるだろうに。昔の「ベスト・キッド」は懐かしいけれど、本作を観ている間は、これがリメイクであることをまったく忘れていた。リメイクとは名ばかり、別ものである。

  <70点>


プレデターズ

2010年07月17日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <小倉コロナシネマワールド>

 私は戦争を知らない世代だけれど、今の日本を客観的にながめていると、側で一触即発、勃発!のニュースが飛び込んできても、ノホホンと対岸の火事のように見ているような、ホントーに平和ボケした国家だと感じる。国家を形成しているのは国民だから、言うなれば我々は不感症の民族になったのだろう。実は肝心な部分はひた隠しているはずだが、これだけ雑多な情報が氾濫してしまうと、いちいち食いついて考えて噛み砕くことなんて、なかなかできない。どーでもいい情報の中に、命が明日、消えるかもしれない情報が紛れる。

 戦争は起こしちゃいかんのはわかるが、今も世界のどこかの国が戦争の真っ只中であり、誰かがその犠牲になっている。まあ、日本もそのうち起こる。それくらいはわかる。その時は、植物も動物も何もかも消えうせることになるやもしれんが、人間はそういうことをする。せめて私の時代、子供の時代、孫の時代は・・・それが、今を生きる人の思いだろう。議論は延々と続き、終わりがない。人間が戦争を起こすのは、学習能力がないからではなく、本能そのものなのではないだろうか。

 人間が極限状態の中で作ったモノは現代の文明に大きく貢献している。国を破壊するために作られたもの、人を殺すために作られたものが、時代が流れ、平和利用されることとなる。平和と訳されたピースの語源は、意味無く仲良く握手することではない。どちかが相手に平伏して、その主に従うことであった。Vサインしてピース、ビクトリーで平和・・・どこかの大統領がカメラに向かって微笑んだ。語源はどうあれ、ひれ伏したかもしれないが、ピースは良いことで、これがあるからこそ、戦争の残骸をかきあつめて私たちは楽しく?苦しく?暮らしている。戦争がなかったら、一例だが、自家用車なんてなかったろうし、韓国旅行二泊三日もできなかったろうし、弾丸特急の新幹線すらなかった。インターネットがないから、ブログもツイッターも書けず・・・。悪いことがあれば、良いこともある。すべて良いことなどないのと同じく、すべて悪いことなどない。どちらもプラスでよかった外交なんてあったか?仕方ないか・・・で済ませることができるのは、まだ経済が動けるからだろう。どーすることもできなくなって、世界平和の為に自ら没する国は知らない。

 世界全人口の半分、約30億人が飢えているのに、平和にボケた日本でノホホンと娯楽映画を観ているのは申し訳ないが、今は、そう生きさせてもらいたい。行き着く先がグレーの日本だけれど、ボケたというより、勘違いして生きてみている。本作、プレデターズも戦争三昧の娯楽映画である。戦争は、反戦は喜んで作っても、賞賛したり、事実を坦々と描いてもいかんのだそうだ。煽らなきゃいいんじゃないか?と若干、思いもするが、そういうことになっている。人間と人間が殺しあう戦争はいかんが、人間と異星人が殺しあう戦争は問題ないようだ。こういう作品も、戦争が生んだ残り香みたいなものだろう。戦争から学んだいろいろな武器、作戦、罠を私たちにみせてくれる。人間対人間じゃないから生々しくないだけだ。

 多国籍が団結して奴らをぶっつぶさんとするのだから生々しいのかもしれないが・・・SF戦争娯楽映画で、生々しくはない。ほとんど丸腰じゃないか?のような日本のヤクザまで出て、いまさらながらアメリカの日本の意識に苦笑する。アメリカ人はいつまで経ってもアメリカにしか興味ないのね。このヤクザ松本人志に似てる・・・。日本には、それほどプレデターの熱狂的ファンはいないらしい。エイリアンVSプレデターがヒットしたのは、やはりエイリアンのおかげ。同じバケモノでも、エイリアンは思考能力がなくて人間の形してないから映画では不利に描かれている。ただ、エイリアンVSのくせに、プレデターが善だけど・・・どーでもいいことかしら。

 ロバート・ロドリゲスの好きな世界っていうのはわからんでもない。ロバート・ロドリゲスが携わった映画はほとんど観ているつもりだけど、それは私が「フロム・ダスク・ティル・ドーン」をずっと引きずっているだけで、あれ以上の作品が以降ない。共に仕事をして中の良いクエンティン・タランティーノの映画の方が私としては好きだ。二人はよく比較されるけれど、質がまったく違う。ただ、気が合うのだろう。わざとB級と銘打たなきゃ自分の映画を作れなくなった二人である。B級ネタがA級にされる。本作はそんな典型的な映画だろうか。えーっと監督は・・・知らない人。もう名前とかおぼえられなくなってしまった。  <70点>

 


ハロウィンⅡ

2010年06月28日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Ii  <小倉コロナシネマワールド>

 ブログにログインして、たまたま「トラックバックのスパム」項目をクリックして驚いた。まったくスパムではない映画ブログがそこにビッシリ!昔ながらのお馴染みの顔もあるではないか。私がスパムに指定するハズもない。勝手にスパムにされ、非公開になっているのだ。メールも飛ばされないので、気がつかなかった。なにやっとんねん、OCNのバカァ!と、あわてて全公開にし、トラックバックを返させていただいたが、こういうことが平気であるようなOCNであるらしい。スパムフォルダに入ると一ヶ月で勝手に削除する不便利な機能が備わっているので、これまで、せっかくトラックバックしていただいたのに、公開せず、そのまま消えてった方たちもいらっしゃるかと思う。スパムという別フォルダに吹っ飛ばす機能ができて1年ちょいくらいだと思うが、私は今日、はじめてそのフォルダを開いてみたのだった。契約率No.1とウハウハのOCNの頭のせいであるけれど、開かずにいた、見落としていた私も悪い。消えてしまったお相手はわからないので、この場を借りてお詫びしたい。これからはちょくちょく開いてみることにします。このOCNブログ、無情なこと、たまにやるようです。ごめんなさい!

 ジョン・カーペンターの『ハロウィン』をリメイクしたパート2である。私は、B級ホラー、スプラッターがバカバカしくて大好きな俗物で、マジメな方にはしかめっ面されそうな映画ファンである。しかめっ面されながら観に行くけれど、ここのところ、リメイクものの輸入が多く、ウキウキとまではいかない。『エルム街の悪夢』までリメイクして、新しいブツを生み出さないのか、新しいブツを輸入して配給する勇気がないのかな?と寂しい。どんだけあんねん!と公開を楽しみにしていた時代を知っているので、公開されたらできるだけスケジュールに組み入れることにしている。にしても、よくこの地まできたものだ。九州では小倉一館だけの上映である。

 大阪の『天六ユウラク座』が2本立てでやってた頃は、2本ともB級ホラーだったりしたこともある。東京と大阪の2館のみ封切も多かった。同じビルのホクテンザでは『ミナミの帝王-劇場版-』なんてやってた。『パチスロ一人旅』なんて映画だかVシネだかわかんないものもフィルムでスクリーンで観ている。まだ10年も経っていないハズだけど、そんな映画をかける映画館も少なくなり、配給もしなくなった。B級ホラーなんて場末の映画館が似つかわしいが、そんなもの今時、ない。映画はスマートに、流行りでミーハーたちのものに成り下がったけれど、こういう映画はもっと低い位置にあるらしい。低い位置で結構で、それがまた、ありがたいのだが・・・。

 他の映画をリメイクした方がいいのではないかと思う名前のロブ・ゾンビ監督。前作に続いて第二作目。『ハロウィン』しか撮ってない。ジョン・カーペンターと同じく、音楽も担当している。前作のリメイクはなかなかの代物で、私は大いに楽しんだ。ジョン・カーペンター版の第一作のストーリーだけど、そのイメージを損なうことなく、主人公の精神が破壊していく様をスピーディに丁寧にみせ、残酷さを増幅させた。殺すべき奴らを、今夜限りだと殺していく前半部分はピリピリする嫌な怖さだ。これがいい。精神病院での医師との面会シーンも緊張感漂うなかなかの演出だ。監督の経歴、容姿からこの画は想像でなかった。フィックスとゆったりしたクレーン、レール画でほとんどを構成している。だから尚更、恐怖が増すのだろう。ここんところ、ガクガクと揺れながらドキュメンタリー風に撮る映画が多いけれど、A級であっても安っぽく散漫な気持ちになる映像になりがち。ジョージ・A・ロメロまで『メモリー・オブ・ザ・デッド』を撮っている。あの手法、もう飽きてきた。はじまると、またかと思う。画の基本はフィックスである。意味なく、疲れたくない。

 リメイクがよかったので観にきたが、本作は酷すぎる。同じ監督が撮ったとは思えない駄作だ。まあ、ジョン・カーペンター版でもそうだったのだけど、とにかく意味なく殺しまくるだけ。殺しても死なないのは、後に影響を与えたジェイソンと同じでお約束だけど、今時の若い人に通じるのかしら?・・・ただただ意味なく殺し、それも殺し方に何の工夫もないのは、観ていて「どーせすぐに殺すんでしょ?」と、ドキドキ感も湧いてこなかった。それに、お化け屋敷のようなワッ!というビックリおどしすらない。撮りは丁寧だが、脚本が殺す場面で被われているから、ストーリーも「展開」というほどのことはない。唯一殺されなかった実の妹の物語も薄っぺらい。

 『アウトレイジ』で書いたが、アメリカ映画って、殺し方に工夫がないのね。奇想天外な殺し方・・・日本の方が上をいってるかもしれない。『必殺シリーズ』なんて、殺しを存分に楽しむようにできているし、勝新太郎の『座頭市』も刀一本でどんだけ残酷かと思うシーンが多い。悪い奴は特に残酷な死に方をしてもらわなきゃ観客が満足しない。悪い奴なのに気がついたら死んでる、起きようとしたら死んでるなんて、普通の人が願う理想的な死に方では困る。アメリカ映画は・・・悪い奴ではないし、直接殺すわけではないけれど、『オーメン』の死に方はよく考えられている。あれくらいやってくんなきゃ、無差別殺人を暗闇でダラダラとみせられても・・・社会派で問題を提起した殺人ではなく、娯楽としての殺人映画なのだから。

 ジョン・カーペンター版は誰でも観ることができたけれど、リメイク版は15歳未満はご覧になれません。今時の未成年の意味なき殺人は、大人や親や教師が悪いのではなく、こういう映画が元凶なのです!排除すれば、残酷な犯罪はなくなるハズ!映画を規制しなきゃならんのです!・・・ハイハイ。えーっと、20歳でも早いのでは?もう、R-25にしちゃえ!賢い大人ども。  <30点>


半分の月がのぼる空

2010年06月16日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 博多へ映画を観にいく計画を立てて泊まりで出かけたが、その後、博多に行くよりもやるべきことをやってからではないか!と、大叱責をくらった。自分としては自分なりにやるべきことをやってから出かけたつもりだが、今の私には問題が多すぎる。その前に、映画ごときなんぞで博多に!ということもあるのだろう。博多に映画を観に行くという行為にいたるまで、いろんな人の顔色をうかがった。意味なく肩が凝る。下関では、音楽を聴きに行く、芝居(特に舞踊や歌舞伎)を観に行く、絵画を鑑賞するというのはとてもよいことらしいが、映画を観に行くだけは、映画ごとき、映画なんぞのようである。低俗な娯楽という意識がある。映画を観に行く度に肩が凝る。なにをやっているのだろうと思う。低俗の部類に入るらしい映画を博多に観に行ったが、とても楽しい時間だった。やっぱり映画はいいなと思わせる幸せな時間だった。このことは後日、書こう。

 私が高校生のころは、下関に映画館が6つあった。今は1つである。1つなのに、下関の人はみんな、「下関には映画館が2つしかない」と言う。あれは2つと言わない。1つの映画館が2つのスクリーンを持っているだけで、映画館は1つなのだ。まったく・・・良いように言う。恥ずかしい。そういう風に数えるならば、小倉には映画館が30あるということになる。そんなこと、小倉の人は言わないだろう。それはスクリーンの数であって、映画館としては4つと言う。老舗の昭和館には2つのスクリーンがあるけれど、2館ではない。1館である。私としては、もう下関に映画館などいらないと思っている。

 昔は下関にも映画館がたくさんあったんだけど寂しいなあ・・・なんて、行かなきゃ、入らなきゃ閉めるのは、映画館だけではないだろう。オノレが映画から遠ざかったくせに、映画館がなくなると寂しがるのは勝手すぎる。映画館のある街であり続けたかったら、みんなで映画を観続ければよかったのだ。こういう風に嘆く人とは話しもしたくない。ボーっと昼間にテレビを見る2時間があれば、そこに映画館があったのだから観に行けばよかったのだ。疲れたら、映画を観て、もっともっと疲れて寝たらいい。テレビごときで満足して、映画は昔の娯楽だとしたのだから、なくなるのは当然だ。当然のことなのに、なくなったことを嘆いている。映画を観ない人ばかり。いま、どんな映画がヒットしているのかも知らない人だらけ。市の協力を得てシネコンを作ろうとしているけれど、小倉に行くから、こんなところに映画館なんていらない。市の協力を得てって・・・どれだけ映画をたくさん観ている人たちがこぞって造るのだろうか。少なくとも年に100本は観ていて、現代映画事情に詳しい人たちであってほしい。おそらく、シネコンができても、経営は大変だろう。映画以外の芸術には人は集まるようだから、映画以外の目的の劇場を作ればいいのに。

 たった1つの映画館はボクちゃんの映画館として頑張っているようだが、最近は関係者の出ている映画、監督した映画を封切としてかける他は、どこかで終映した作品をもってくるようになった。フィルムが安いからだろう。小倉で上映が終わったものを持ってきて、正規の1800円では、観ていていなくても、どーも食指が動かない。お互いに生き残ろうと握手している小倉昭和館の方がまだマシな上映方式をとっている。『本物の映画を観られるのはここだけ!』なんて、ミニシアター作品を持ってくるが、本物の映画とはなんだろう。本物があれば偽者もあるはず。私は頭が悪いのか、映画はどれも本物だと思っている以前に、こんなチンケなコピーは浮かばない。良い映画、秀逸な映画ならわかるのだけど・・・。本物の映画・・・映画を上映する側が、映画にランクだとかレベルだとかに執拗にこだわっているのだろう。映画作品を選ぶにあたっての差別感もありありである。なんだか行く気が失せて、一番近いのになかなか覗かなくなった。

 そういうわけで、今日も小倉に行く。本作は予告の作り方はうまいといえないけれど、なにかやわらかな優しい気分にさせてくれるのではないかと気にかけていた。なにをしているわけでもないのに、日々、緊張して生活し、心休まる時間も場所も相手もいないので、こういう類の映画が気になる。・・・二人の若い命を見守る心優しい日本人を配し、駆け足と鈍足を交互に、しっかりした足取りで話しが進んでいく。漫画にもなり、小説にもなり、アニメにもなり、テレビドラマにもなったらしい。そこまで入れ込むほどではないと思うが、日常のイライラをかかえた人は、このゆったりとした時間と空間を素直な心で楽しんでほしい。

 もう治る見込みのない病気をかかえて生きていく17歳に恋をする。お涙とならないのは、彼と彼女は近い未来に必ずや訪れる「死」の別れまで、毎日を精一杯に生きているところにある。思えば、不治の病だろうが健康だろうが、私たちはいずれ死ぬ。死んで別れがくる。精一杯生きていなのは、明日があると思っているからだろう。来年の記念日を気にしてみたり、10年後の構想を語ったりする。必要だけど、この二人からすれば、ちゃんちゃらおかしく、のんびりするにも程がある。明日はない命、そう生きていると、1年は10年分も充実する。新しい年まで生きたという喜びは私たちの比ではない。私たちはなにか忘れてやしませんか、死んでしまう時の事を思い、心やモノをどうするか決めていますか?・・・そんなに長く生きるつもりはない私も、もう少しは時を大切にしたいと胸に響いた。

 小品だけれど、良い映画である。あの映画館に言わせれば、『本物の映画』であろう。濱田マリの看護婦(看護師と言わねばならないらしい)が、飛びぬけていい。若い頃もいいが、歳を食って根は変わらず、しかし、大泉洋に敬意を払った控えめな芝居が秀逸だった。大泉洋の固くなさは観ている私にはわかりにくく、モヤモヤするけれど、最後の決断はそれらをすべて拭いさってくれるほどの爽やかな印象を残した。オーソドックスで当たり前の撮り方だけど、病院の屋上の物干しのシートの使い方が、登場人物の心理をもわからせてくれて、うまい。美術の動きとカメラの位置である。美術とカメラがシナリオを片手に、人物心理を語りながら打ち合わせする風景なんて、見たみたい。  <75点>


パーマネント野ばら

2010年06月07日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_4  <シネマ5>

 -本作の感想などは書いていません-

 宿毛(すくも)市は、一条教房が下向した中村の町からさらに西の奥へ入る。町は豊後水道に面しているから、出るのかもしれないが、地理的にも気分的にも、入ると言ったほうが正しいだろう。一条教房は、中村を碁盤目のように区画し、四万十川も桂川と呼んだ。関白であった頃の栄華を、この寂しい町で懐かしんだのだろう。一条家の領主だが、中村は陸の孤島であった。同じ土佐でありながら、高知から京都へ上る方が早いと言われた。その陸の孤島から、まだまだ奥へ入った港町のお話である。高校生のころ、四国のガイドブックを読んでいて、宿毛の地に憧れた。海に面した陸の孤島。住んでいる人も素朴であたたかそうな風景が頭に浮かんだ。

 高知から西へ・・・窪川から中村まで、中村線は廃線とされ、昭和63年に第三セクターとして動き出した。それから5年経って、私はようやくこの線に乗った。高知までは何度も行ったことがあったけれど、そこから先は鉄道があっても遠かった。閑散とした列車は、海辺を走っているかと思えば、急に山奥に分け入り、四万十川の中流近くを走る。鉄道工事の難所中の難所だったらしい。そのときは、中村の町をブラブラ歩き、バスで四万十川に沿って遡り、宇和島に抜け、松山に泊まった。宿毛に後ろ髪をひかれたが、寄るスケジュールの余裕はなかった。

 中村から宿毛への鉄道敷設の計画は国鉄時代からあった。が、完成されることはなかった。第三セクターは全国に生まれたが、赤字が続き、次々に消えていく。その中、中村線を引き継いだ「土佐くろしお鉄道」は頑張った。建設を再開し、平成9年についに宿毛までを開通させた。本作に出てくる鉄道は、この「土佐くろしお鉄道」である。私は、すぐに乗りに行った。中村から宿毛まで、映画でもわかるように贅沢にも高架である。その上を走る列車はJR四国から譲り受けたお古だけれど、今の時代に、あんな僻地に・・・という心意気が嬉しかった。宿毛には夜、着いた。駅前のビジネスホテルに泊まって、翌朝、港までバスで向かうつもりだった。ところが、終着駅の宿毛に降り立った私は、駅前のネオンに愕然とした。マクドナルドがあり、TSUTAYAがあり、どこにでもあるような地方の顔がそこにあった。それらをボーッとながめていると、高校生のころに憧れた宿毛に気持ちだけ来ていて、体は別のところにあるように思った。港までいけば、頭に描いた景色が眼前に広がるのかもしれないが、私はそのまま、乗ってきた列車で宿毛を後にした。描いたイメージをそっとしておこうと思ったのだった。その日は、中村の駅前の安いビジネスホテルに投宿した。

 あれから10年。まさか、映画で宿毛が舞台になる日がくるとは微塵も思わなかった。とても行きにくいところであるから、ロケも大変だ。吉田大八監督は、前作と同様、合宿スタイルで臨んだのだろう。合宿スタイルの映画には良作が多い。他を頭にいれず、これだけに集中させるから、スタッフもキャストも一体になれる。宿毛という小さな港町の中で、男運の悪い女たちのドラマが展開する。物語のヒネリも気持ちいい。気持ちいいと思わせるのは、夏木マリをはじめとするまわりの人たちの優しさがわかるからだろう。宿毛を映画で見ることになった。

 抜群のキャストで、特に小池栄子の寂しい感情を殺し、あるときは、そこまでというほどに感情をむき出す演技は見事である。頭のいい人なのだろう。かつてグラビアアイドルで、ここまでやれる人はいなかったのではないか。目力も強く、いい女優になりつつある。また、パーマネントに毎日のように通ってお喋りに余念のない、原語丸だしの二人のおばちゃんがなかなかいい。大阪人でもあまり知らないだろうけれど、ミヤ蝶子、町野あかりの二人である。ミヤ蝶子はミヤコ蝶々の弟子で、今では角座くらいでしか見ることができない。町野あかりは芸能界をやめようとしたが、芸人そのものではないかという周りの声に反対されて、チョイ役ながら関西ローカルのドラマに顔を出している。大阪でもあまり見る機会がなくなったが、吉田大八はどこを見ているのか、よくぞ持ってきてくれたと嬉しい。

 今時の監督とは違い、特に凝った撮り方をしない。とてもオーソドックスだ。これは、構成、脚本がすでにいいことと、俳優たちの芝居を邪魔しないきっぱりした画をみせたいからだと思う。つまらぬ小手先の技術は邪魔なのだ。オーソドックスだけど、丁寧に撮っている。オーソドックスな言い方だが、心に沁みる秀作である。行ったことのない町、宿毛も存分に見せてくれた。スクリーンで観ると、ますます想像は膨らむ。  <85点>


フィリップ、きみを愛してる!

2010年06月03日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネマ5>

 リンクしていただいているサラさんのところへ・・・三年続けて、三度(みたび)、大分へということになった。いつものように特急「ソニック」に乗る。臼杵行きの白いソニックだなと思ったら、列車名は「ソニック」だけで、車両は特急「つばめ」である。「つばめ」は、博多と長崎の間を往復している専用列車だが、車両運用の関係で、大分まで乗り込むらしい。臼杵からまた「ソニック」として博多まで帰り、名前を「つばめ」に戻して長崎へ向かうのだろう。

Photo  大分2枚切符は指定席を確保できるお得な企画モノで人気だが、私は窓口へ行かずに自由席へ乗る。プラス500円の指定席料がいらないのだからソンをした気分にもなるが、この路線の特急は指定席が混んでいて、自由席はガラガラのことが多い。指定席に座れる!というので、ほとんどの人がみどりの窓口に寄るのだろう。指定席は2両、自由席は4両。ピーク時以外は乗車率も悪いので、自由席もガランとしている。指定をとればあるけれど、隣にどこぞの誰かが座ることもほとんどない。

Photo_2  今夜から明後日の夜まで大分に滞在する。ホテルまで迎えに来てくれると言うので、とりあえずチェックインを先にする。15分くらいだろうと思ってトロトロと大分城跡のお堀などを見ながら歩くが、なかなか着かない。暑い日差しの中、40分近くかかって、ようやくコンフォートホテル大分の前へ出た。大きなホテルだが、市内の繁華街からかなり離れている。ここのホテル、ネットのじゃらんで予約したのだが、駅から遠いとはいえ、シングル朝食付きの宿泊料が異常なほど安い。最も安いプランだったけれど、二泊で6000円である。私はじゅらんポイントの限度いっぱいを使い、二泊5400円を支払った。豪華とは言えないが、悪いホテルではない。デフレはどこまでいくのだろう。こんな料金で採算がとれるのか。安いのは有り難いし嬉しいが、自分に跳ね返ることもあるから素直には喜んでいられないハズだけど・・・。値段も安く、愛想のいいフロントのおねえちゃんのいるこのホテルは、もうすぐ営業終了となるそうだ。やっぱ、やってけないのだろう。大分は、街の規模の割にはビジネスホテルが多い。じゃらんを見ていても、安いホテルが選び放題で、潰し合いのような料金体系、サービス合戦に驚く。

 ホテルでサラさんを待つ。ホテル前まで車で迎えに来てくれた。ここから10分も走れば、大分唯一のミニシアター「シネマ5」に着く。今夜はレイトショーの『フィリップ、きみを愛してる!』を観る予定である。3月に全国公開されたが、シネコンではかからなかったらしく、約3ヶ月遅れでやってきた。小倉の上映はあったが、上映回数が少なく、すぐに終わってしまったので観ていない。私は映画を観るのに小倉に度々出かけるけれど、残念ながら、終わるから今夜でも観にいこう!という距離でもないのである。鑑賞は遅くなったが、本作はアメリカ公開より日本公開の方が先になっている。これは、ゲイの描写が問題となったからだということ。描写を短くするなどの工夫を重ね、編集しなおして、日本より一ヶ月以上遅れでかけられた。そんなことを聞くと、まだアメリカなんかより日本はマシだなと思う。

 服役中の接見から原作を執筆し、それを脚本化、映画化したのだという。『ウッディ・アレンの泥棒野郎』みたいだなと観ていたけれど、この映画のエピソード、すべて本当であるらしい。ウソの塊のような人生で、ウソの塊のような映画なのに、このウソはすべてホントウです・・・だと。しかし、モデルとなった服役中の男が、真実を伝えているかどうかはわからない。だいたい、ウソで固められた人生である。ウソを喋り倒している可能性もある。この男の心がウソではないと客観的にわかるのは、フィリップに捧げる愛だけである。会いに行く日をフィリップの誕生日の13日の金曜日にしているところをみると、ここだけは自分にウソはついてないのだろう。13日の金曜日に脱走する・・・これを押えておけば、留置所、刑務所側も手をうてたろうけど。ただ、脱走後にどこに行くのかわかるので、警察の手は早い。

 どれだけたくさんの面白く破天荒なエピソードを抱えた男なのだろう。かなりのエピソードを切ったらしいが、それでも映画は走りっぱなしで、次々と彼の生き様をみせる。事故を機会に人や自分にウソをつくことをやめてしまった・・・ウソの形が変わっただけで、基本的には同じ事の繰り返しだ。繰り返すしかない忸怩たる思いが、自分を苦しめ、相手をも苦しめる。彼でなくても、人というのはそういうものなのだろう。一生の中で、普通の生活をしながら生まれ変わることなんて不可能に近い。まわりのモノが変わるだけで、自我は変えようがない。本作は、苦しみや哀しみを笑いに変えて、深刻ではない爽やかな物語とした見事な逸品である。主人公も、ジム・キャリー以外は思いつかない。ジム・キャリーが受けてくれて、もう成功したようなものだったろう。老けたが、味のあるいい俳優になった。

 アメリカを舞台にしたフランス映画。こんなに豪華なのにインディペンデントだという。質はいいけど、脚本に多くの問題があったのだろう。ただし、インディペンデントだから好きなことができる。注意して観ていると、画面に遊び心がいっぱいつまっている。実に細かい。看板や標柱など、時間をかけて道具にこだわっていたりするが、贅沢にもチラリとしか映らない。・・・実際のフィリップ・モリスが、法廷でジム・キャリーの横に座っている。ユアン・マクレガーとはまったく違い、ただのムサいオッサン。この男のために?事実は現実より奇なり。ただ・・・観るならば、現実より映画の方がいい。  <85点>


パリより愛をこめて

2010年05月17日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <小倉コロナシネマワールド>

 観て良かったと思う映画は多い。ただ、どんな駄作を観たとしても、観て損したなんて思ったことはない(以前、書いてしまったかもしんないけど)。観て得した映画ばかりなんて無理だし、映画ファンはそんなの観続けていると不感症になる。駄作や凡作を観ているからこそ、観て良かったと思える作品に出会えるし、映画の素晴らしさがわかる。映画をたくさん観続けている者だけがわかる細かなところも見えたりして、楽しさも増す。

 観て良かったと思う映画と、楽しみにしていた映画は一致しない。また、楽しみにしている映画と気の合いそうな映画もちょっと違う。楽しみではないが、気の合いそうな映画もある。この辺はとても微妙な心が揺れ動き、かなりのぼせあがって、おかしな頭がどーのこーののマニアの域だから説明のしようがないけれど、どれがいいかというと、楽しみにしている映画を観にいく時である。ただ、楽しみにしてた一本が不発に終わると、じとーっと背中に嫌な汗が流れる。これまでそのような体験はン百本あったろう。そんなにあったのに、勉強になってなく、眉につばつけず、毎回、絶対に面白いと思い込んで観はじめる。観はじめて30分経ったあたりから、じとーっと背中に嫌な汗が流れる。またか・・・これ、人生の終わりまで続くのだろう。

 今日の背中の汗は、何百回目か覚えてない。原作を読んで観てしまうのは別として、私は観る前にあまり多くの情報を頭に入れないようにしている。インターネット、雑誌の記事内容、新聞のコラムの類はみんな無視する。チラシも表は見るし読むが、裏は鑑賞後に読む。予告も観てないことが多い。なにも無しではなにも観る気は起きないので、私の興味は「ポスター」「チラシの表」「雑誌の映画情報を見た印象(中身は読まない)」くらいのものである。観たいなと思っていて、予告を観てやめてしまうこもとあれば、まったく情報を閉鎖してしまって、たまたま予告を観てピンとくることもある。ただ・・・これは全国公開系に限り、ミニシアターものの中にはポスターやチラシだけでは何が何だかわかんない事も多かったので、場合によっては情報をつめこんでいた。私は特殊なんだろうと思っている。実は、鑑賞中に、情報誌のアレコレなんて浮かんできて邪魔になるのだ。予告のあのシーンが出てこないと、いつまでも気になったりする。・・・ちょっと違うが、原作を読んでから映画を観るのはいけない。原作の方が何倍もよく、満足したことは数度しかない。映画を観た後、原作を読むとどちらも楽しめる。ただ、原作の登場人物が映画の配役そのままになるんだけど・・・。

 そういうわけで、情報はポスターとチラシと予告篇のみ。後は、本国フランスでコケたということだけ。気が合いそうで、とても楽しみにしていた一本だった・・・のに。原案、リュック・ベッソンらしい世界が広がるが、なんだか70年代、80年代の古臭いB級刑事アクションという印象。ド派手にみせましょう!だけで、なーんにも印象に残らないアクションがどんどん続くだけ。単純すぎるから、粋なヒネリがほしいけど・・・。悪い奴らをたくさん殺すのは爽快なんだが、ニューヨークやロサンゼルスを舞台にしても、これだけ殺しや破壊の後始末を無視して進む映画も珍しい。あの狭い狭いパリの町にどれだけの死体が転がってるのよ・・・。時間が瞬く間に過ぎていくならばいいけど、割とのんびりする余裕があるから不自然だ。しばし前にバンバンッやった事件現場近くにまた戻ってきて、同じようなバンバンッをやってしまうので、パリに住んでいる人が見たら、アレ?と思うハズ。そこんとこは以下省略しないと物語が面倒だが、理屈こねてるわけではなく、こんなの、イマドキの展開ではないと思う。モノクロ時代の安物のテレビアクションじゃなかろうか。ジョン・トラボルタ演じる無敵男も、浅くても中身を掘ってくれないので、わざわざアメリカからお招きするほど魅力ないけどなあ?映画として。

 アクションの新しい形、手放しで絶賛した『レオン』を生んだリュック・ベッソンが・・・そのずっとずっと前に考えてた中途半端な原案を今更もってきたのかしら?・・・実写とCGアニメが合体したリュック・ベッソンの『アーサーと魔王マルタザールの逆襲』が公開中である。3部作の第2部で、私は前作をTOHOシネマズなんばで観ている。ブログに興奮して書いていて、90点をつけた。こっちにすればよかった。そういうわけで、とっても観たいのだが、第2部を観る前に、DVDでしっかりと第1部を頭に入れて観にいこうと思っていたら、朝のみの上映で、早くも終わる予定。前作は3Dだったのに、今回はナシ。おまけに、日本語吹替版のみ。小倉では、3つのシネコンのうち、1つしかかけてない。あんなにいい映画の第2部なのに、やる気ない感じ・・・そういう劇場の様子から行く気が失せることもある。どっかで3Dやってないかしら?遠くてもいいから・・・。

 本作を観終えた後、タイトルを読み直してみて・・・意識しなかったが・・・『パリより愛をこめて』って。原題そのまま直訳だけど、もうちょっとつけようがあろう。どんな切ない儚いラブロマンスよ。     <30点>

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武士道シックスティーン

2010年05月15日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_3  <シネプレックス小倉>

 小倉昭和館の2本を観終え、帰るつもり小倉駅に向かう。駅前の歩道をあがり、振り返るとチャチャタウンの観覧車の光が鮮やかで眩しい。帰る・・・よりも楽しそうな灯りへ小走りになった。レイトショー終わりでは、下関駅からのバスの便がなく、高いお金を払ってタクシーに乗るしかない。歩いてもそんなに遠い距離ではないけれど、昔の下関とは違い、夜中に歩道を歩いていると、足元も見えないほど暗い街と化す。でもまあ、いい。観たい気持ちの方が強い。私には、明日は死んで居ないかもしれないという気持ちがずっとついて回っているので、早く帰って寝るよりも映画を選んでしまう。

 2本立に満足しなかったのだろうか、よく自分でもわからないが、レイトショーを観るとなると、本作しか思いつかない。一日一回のみのレイトショー、明日で終わりの映画である。観ようか観まいか迷っていたが、日本映画でもスポ根ものにはハズレが少なく、また、監督が古厩智之というのが気になっていた。ぴあフィルムフェスティバルでグランプリを獲ってもう18年になるのか・・・記憶の間がポーンと飛んでいる。まだ私の頭の中では新人のままだ。見る機会を得たなら、勢い勇んで観よう。木曜日の21時。閑散としたシネプレックスのロビー。誰も観に来るものはいないだろうと場内に入る。予想した私一人とはならず、若い男女が10人ばかり座っていた。「アリス~」も「タイタン~」も「シャッター~」も観たのだろうか。いや、そんなものに目もくれずこの映画へ?だとしたら、関係者ではないけど、ありがとう。

 主演が成海璃子というのも気になっていた。とびっきりの美人ではないし、着膨れするのか体系がズンドウに見えるけれど、一度見たら忘れられない目力が印象的だ。「武士道シックスティーン」、続いて「書道ガールズ!!」と彼女の主演で封切られる予定になっていて、撮影に入る前のシコミが大変な作品が続く。映画に鍛えられている。演技はまだまだだろうが、この2本だけでも、先の相当な力になるだろう。助演は北乃きい。どちらもガキで、そりゃシックスティーンの物語だからそうだけど、若手の中では実力派と言える二人を配した。私は、演技力としては、北乃きいの方が上だと思っている。また、万人受けする可愛らしい顔立ちだ。が、成海璃子の方が難しい役を与えられる。どちらが主演級かと問われれば、やはり成海璃子だからで、北乃きいは彼女ほどのオーラはない。北乃きいが、キャピキャピの現代の女子高生を演じ、成海璃子の難しい役どころをうまく補佐して、カット、シーンを晴れやかにしていた。自分の役割、さりげない芝居、学芸会のような大げさな芝居などというのがはっきりわかっている頭のいい女優だ。

 スポ根ものとしては、手に汗握る試合の場面が少なく、またサラッと過ぎていくので物足りない。相当、練習を重ねてきたろうに残念だ。「シムソンズ」が頭に浮かぶ。あの演出は拍手したいほどうまい。まあそれは高望みだが、この物語の中では、北乃きいの純粋さが頑固な成海璃子とぶつかるシーン、友情が濃くなっていく過程がよく描かれていて、観ていてやわらかな気持ちにさせてくれる。青春時代の、起きてる間ずっと発散させている熱、何でも一直線の心、いくらでも取り返しのつく挫折・・・なんて観ていると、胸が熱くなる。原作は「武士道シックスティーン」にはじまり、「武士道セブンティーン」「武士道エイティーン」と続くらしい。本作は、これ一本で完結するように仕上げてある。また、続けることもできるように〆ている。興行的に成功したら次を・・・だろう。成功したのかどうか、野暮でも大作がそろう中、公開をゴールデンウィークにもってきてしまっては、もったいない。  <70点>

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不毛地帯 (1976)

2010年04月29日 23時00分00秒 | は 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉昭和館>

 一ヶ月続いた山本薩夫特集も明日で終わる。今日は「昭和の日」、もと「みどりの日」、もと「天皇誕生日」である。この日が祝日だったから、ゴールデンウィーク、もと「黄金週間」は抜群な連休、もと「飛び石連休」となった。下関から小倉まで車で行くと、早いときには30分で着く。今の私は連休など頭にないので、いつもの気持ちで関門トンネルに入ると、そこからもう大渋滞。広島、名古屋、静岡と、遠くから走ってきている車に埋もれて、じっと止まる。1時間以上かかりそうで、これでは13時45分の上映時間に間に合いそうにない。『不毛地帯』は3時間の大作で、次の回は17時だから、どこで暇をつぶすかを考える。違う映画を観たくない。ゴールデンウィークのシネコンにかかっている日本映画にはまったく気持ちが動かない。・・・門司港から門司へ、湾岸道路をトロトロ走り、1時間40分もかけて小倉に着いた。連休の初日は、とりあえず動くようで、車は止まる。大行列や大渋滞を見ると、みんな自分と同じ目的地に行くような気分なるが、今日はそんなこと思わない。連休初日に小倉昭和館で『不毛地帯』なんて人はいないだろう。

Photo  小倉昭和館裏の丹過市場をウロウロ歩く。昔より小さくなったらしいけど、昭和20年代、30年代の風景が眼前にある・・・まだ私は生まれてない。でも、なにか懐かしい。その頃のモノクロ写真をカラーで実際に見ている気分だ。メインの市場を横目で見て、細い道にそれると、狭いし、暗いし、誰もいないのに賑やかだった人の気配があり、ここだけ置き忘れてしまったよう。時間が止まったなんていうありきたりな言葉しか思いつかないが、こちらの気持ちも引き戻され、心に響く魅力がある。ほとんどの店が営業中で、シャッターを閉めてない。高度経済成長の頃は、日本中がこうだったのだろう。意味なくテンションの上がる時代で、あの頃、映画館をねり歩きたかった。市場の陳列に並んでいるてんぷらでもコロッケでもつまんで食べてみたいが、腹は減ってない。いつもの弁当屋で「シャケそぼろ弁当」とお茶を買い込み、昭和館のロビーに座った。映画を観ながら弁当を食っていいならば、昔はありきたりでやらなかったけれど、なかなかできない今はやりたい。はじまって1時間経ったあたりで開くこととする。

 テケツもモギリも丁寧だが、ほとんど愛想はない。大阪にいるときも思っていたが、「第七藝術劇場」や「九条シネ・ヌーヴォ」といった独自でやっているこだわりの映画館は、まったくではないが、丁寧な言葉遣いで、愛想はない。そして、共通したマジメな優等生的な空気が館内に漂っている感じがする。下品なジョークを交えて会話したら叱られそうである。シネコンのように、必要以上に愛想をふりまくことはないのだけれど・・・。劇場に入ると、思ったより客は多かった。30年以上前の映画に50人ばかり。ほとんどが年配で、今時のイマドキはいない。3人ばかり二十代と思われる男女がいるけれど、映画大好き人間と思われる顔。同類は顔をチラッと見ただけでわかる。

 1978年までサンデー毎日に連載された原作だが、本作は1976年の公開である。だから、映画は原作の途中までとなる。連載中なので、当時、観客は多かったろう。儲けたい一心で無理から作った感じもあるが、原作途中までであっても、しっかりと完結させる脚本力がある。昔は、連載中に映画化、公開されてしまう作品が多くあった。この特集で上映された『白い巨塔』もそうで、後に同じ田宮二郎主演でテレビリメイクされ、原作の最後まで映像化した。私は映画の『白い巨塔』のエンディングカットが好きだ。ごく最近のテレビリメイクもアレを真似したカットを再現する。ナレーションがわりの院内のアナウンスが効果を増し、観る者には強烈なカットである。映画はこう終わりたいものだと思う。高い点をつけたが、『第9地区』の甘ったるいラストカットなんて・・・。あれが無ければ、最高だったのに。

 山本薩夫の計算された粗い構図に展開されるサスペンス、どろどろの人間ドラマに魅了される。一時の勢いは衰えているけれど、ワンカットワンカットが力強い。3時間1分、スクリーンを睨みつけてしまう。なにが怖いって、人間ほど怖いものはないと震える。車中や管制塔でのやりとりは、CGに慣れた今では拙いスクリーンバック。こういうカットでは、いつも照明の具合だとか、ヒキとヨリのつながりだとかに気をとられてしまう私なのに、ちょっと気にしただけで、飛び交う台詞に集中させる力はどうだろう。

 仲代達矢、丹波哲郎、山形勲、高橋悦史、神山繁、大滝秀治、井川比佐志、山本圭、田宮二郎、小沢栄太郎、内田朝雄、加藤嘉、小松方正、久米明、日下武史・・・いいねー、脇役もチョイ役も、まだ役者が揃ってる。もう、ほとんど死んじゃってるのね。ソコにはこの俳優、ココにはこの俳優と並べられた、まあ言えばギリギリの時代かもしれない。小沢栄太郎が最高。どの作品もいい味を魅せるが、本作では、一瞬、コヤツめ!だいたいツラが気に入らん!と勘違いするほどにくったらしい。内田朝雄もいい。あの貫禄は、ホンモノ(政治家)以上かもしれない。

 それにしても・・・前回も書いたけれど、スクリーンの上下、黒幕で切りすぎ。監督・山本薩夫の「監」がまるまる一文字切れているほど。映画館で観たいのはあたりまえだけど、DVDで見たら切れまいに。どうしたら切らずに上映できるのか、それはどうあがいても不可能なのか、またはそんなこと考えてもいないのか・・・古いフィルムは承知で、上映前に「古い映画なので途切れる箇所がありますがご了承ください」なんて、私にとっては不要なアナウンスが流れる親切はあるのに・・・。  <85点>

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