活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

インシテミル 7日間のデス・ゲーム

2010年10月19日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

7  <ワーナー・マイカル・シネマズ戸畑>

 -本作の感想などは書いていません-

 中田秀夫監督作品が好きだった。「本当にあった怖い話」がデビューだが、劇場デビューの『女優霊』を今はなき、扇町ミュージアムスクエアで観たときのことは今も覚えている。もう15年前の映画だ。映画全体としては安物だが、演出がしっかりしていて、どう見せたら観客が怖がるかを主点に作られていた。ワッ!と出て驚かす、大きな音で驚かす演出を極力避け、あるはずのないもの、いるはずのない人がそこに何気なく写る・・・こういうホラー映画はあまりない。考えに考えなきゃならんし、怖いどころかシラケルカットになりかねない。ワッ!と驚かす方が手っ取り早いし、観客は驚いてくれる。観客もホラーだから、それを期待している。だが、この映画は違っていて、ピンとはりつめたスタジオの空気の中、何気なく、または自然に存在するという手法を使った。これが、観客をドキンとさせた。もしくは、気が抜けるようにハラハラハラと、そこにいる幽霊を見つめた。中田秀夫はドンッと出てくる・・・そう思っていたら、次は『リング』の監督だった。

 『リング』のラストシーンは、原作がふっとぶほどのものだった。原作そのままでは、どう演出してもつまらないものになりそうだ。まったく変えた。そして、今も残る有名なシーンとなった。ハリウッドが原作を無視して映画版をそのままにしたのもわかるし、あのラストシーンがあったからこそ、リメイク権をとったのだろう。ホラーは中田だ!と、監督依頼がどんどんやってくる。ホラー以外も撮りたかったろうが、仕事を選びますという監督ではないようで、どれでも引き受けたものだから、次々にホラーを撮らされた。ついには、ハリウッドに呼ばれて、『ザ・リング2』も指揮している。だが・・・中田秀夫監督作品が好きだった・・・のである。

 中田秀夫は『女優霊』『リング』で己を出し切っている。後の作品も観ているが、あの2作品の上をいくものは、今まで撮っていない。というより、どんどん落ちている。日本の『リング2』も前作の強さから、オリジナルにしては、ストーリーすら楽しめるホラーではなかった。ありきたりなホラーだ。ハリウッド版なんぞは、なにをしたいのかわからなくて、ガッカリして映画館を出た。・・・どんどんつまらなくなっていくので、期待せず観たのがよかったのか、『怪談』は楽しめた。だが、もう少し安物っぽく撮れれば、怖さも増すのではないかと感じた。大作ではいけない。・・・ホラーは怖くなければならない。怖くて楽しめるのが、ホラーを観に行く人の一番の目的である。いい映画だなぁ~などと言われず、お偉いさんから賞はもらえない、とてもかっこいいジャンルの映画である。面倒くさいことは語らず、観客を楽しませればいいのだと、私は思う。

 『仄暗い水の底から』で、黒木瞳を主演とした際のインタビュー記事を読んだ。ただのホラーなら、黒木瞳は断っていたらしい。そこに親の子供への執拗な愛情などが・・・私としてはどーでもいいのだが、やたらゴタクをならべて、出演理由が書かれてあった。黒木瞳って、クソマジメでたいしたことないなと思った。中田秀夫も気をつかって、なにやってんだろうと思った。あの映画は、観客を落とし込む演出をかなり控えているように感じる。まったく怖くはない。怖くない映画はホラーではない。いままで作ってきた中田の色が、あの映画にはない。理由は他にもあるが、中田秀夫監督は、私の中で終わった。

 終わったけれど、目にとまると観たくなるのは仕方ない。今でもスピルバーグと書かれたポスターを見ただけでドキドキする。本作も、最近のよくある似たような密室劇だが、中田秀夫でなければ、あんな予告なんか見せられた後では、「インシテミル一枚」なぞ、一生、言わない言葉だったろう。言わなくてもよい言葉だったが、中田秀夫監督作品の『女優霊』は、ご覧になってもソンはない。リメイクではない香港の『the EYE』とともに、びっくら楽しめるホラーである。愛がどーのこーのというテーマも隠れているけれど、視覚的効果を楽しんでほしい。CGに頼らず、現場の息が伝わる2本である。

 こんな理不尽な世界で、大した疑問ももたず、事が起こって片付かぬ間に話しが進んでいくなんて・・・ラストはどこに居て、どこに帰っていくねん!大金を捨てるくらいのことだったのか、少しは振りかえろ!リアリティなんて求めてないが、リアルでない世界に観客を取り込む力がない。納得させる足場がない。・・・あのころ、私は、中田秀夫監督作品が好きだった。  <35点>


エクスペンダブルズ

2010年10月18日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Expendables_2_1b  <ワーナー・マイカ・シネマズ戸畑>

 大学時代の友人に「高羽哲夫って下手だよねー」と、短いメールを打った。山田洋次監督作品には欠かせなかった名カメラマンである。すぐに「完全に下手。ズームもパンも外れっぱなし!メイキングで見たことあるけど、山田は現場でしょっちゅう罵倒している・・・本番だよ!ちゃんと聞いてろ!とか。でも、後半の長沼に比べるとトーンが全然違う。喜劇の明るさが画面にある。」と、返事がきた。これは、ズバリ、言いあてていると、私は大きく頷いた。「後半の長沼」というのはもちろん、『男はつらいよ』のことである。高羽カメラマン亡き後、長沼カメラマンがシリーズを引き継いだけれど、いきなり映画が変わったと、私も思っていたのだ。高羽カメラマンは上手いとは言えないけれど、画面に「情という味」を出していた。他にも理由はあるだろうが、山田監督はこだわったのがわかるカメラマンである。

 シリーズを撮り続けていたカメラマンが亡くなり、若い長沼カメラマンが指揮をとったら、映画が垢抜けた。しっかり撮っているし、これまでの流れを意識しているのもわかるが、とても洗練された気がした。それは悪い意味で洗練されていた。友人は、さらに「昔?は、画面はリアルが一番だと思っていたけど、違うとわかった。とらやのセットと地続きの世界観をカメラマンが作っていた。リアルな質感は寅さんに不要。満男が主人公になって、就職とか現実が入り込んでダメになったと思う。」と続いた。『男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋』から、満男は芝居を要求され、吉岡秀隆に変わっている。この作品から渥美清の体調は悪くなったのは偶然だろうが、喜劇というより、なにか寂しい作風となっている。

 カメラマンによって、映画は大きく変わる。宮川一夫は、監督と夫婦だと言ったけれど、そうかもしれない。相棒よりも、もっと密接な関係にある。カメラマンは、監督の言われるままに撮っていると勘違いしている人も多いけれど、そんなことはまったくなく、構図やカット割りを決めるのはカメラマンである。また、俳優の動きや台詞によって、どうカメラを動かすかも決めていく。もちろん、監督も指示を出す。監督が気に入らなければ、違う方法を考えさせる。しかし、画の決定権はカメラマンが握っているのだ。だから、高羽カメラマンから長沼カメラマンに変わったときは、シリーズものだったので、明確に感じ取ることができた。高羽哲夫は喜劇の撮り、特に山田喜劇の撮りを自分のものにしていた。昭和の松竹喜劇の雰囲気を保ち続けてくれていた。その味が、あのシリーズのひとつの魅力であったろう。ところがこれ、テレビではわかりづらいのである。映画館だからこそ感じるというところがある。テレビではわかりづらい・・・テレビドラマシリーズのカメラマンが交代にとってもよろしい・・・ということになる。

 カメラマンということでは、私は日本映画しかわからない。他の国のカメラマンの良さとか、上手さとか、味わいとか・・・さっぱりである。アメリカ映画のカメラマンを調べていて、この映画とあの映画の技術的違い、撮りの特徴もわからない。カメラマンでもそうだから、照明、音声、編集なんて気にもしなくなった。日本映画だけ気になるので、他のスタッフのことも、後に書くとしよう。

 そういうわけで、本作もカメラマンの味はわからない。映画を観て感ずる監督、脚本、俳優たちのみである。とても期待してでかけていったのだけれど、私としてはガッカリだった。第二作ができるというが、ヒットは望めまい。そんじょそこらにある、古いタイプのアクション大作というだけである。ただひとつ、アーノルド・シュワルッツェネッガーの使い方はうまい。10年経ったら通じないかもしれないが、ニコニコしてしまうくらい、楽しい台詞が用意してある。それもしつこいくらい。短いカットだと思っていたら、意外に喋る。その上、ストーリー上、まったく不要だから、この遊びは嬉しい。

 これだけの俳優を集めて、この程度の物語、流れだとは・・・もう一本、無理から『ランボー』を作ってたほうがいいかも。新しいシリーズの一作目としてはアクションだけ目だって、中身はしょぼい。まだお前ら戦いたいのか、まだ走り回りたいのかと作った『ワイルドギース』くらい楽しませてくれたらなあ・・・。豪華な俳優をわんさか集めて話題を作る前に、まずは脚本だと思わせる一本だった。ヒットさえすればいいというだけでもOKだが、もう、そういう映画に出る俳優たちではなくなったハズである。いつまでしがみついているのか・・・。  <40点>


春との旅 / 牛の鈴音

2010年10月13日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo Photo_2

 <小倉昭和館>

 設置当初から評判の悪い原発だったという。原発に耐用年数はないらしいが、事故が起こった後、アメリカは「まだあの原発を使っていたのか!」と驚いたという。国民は知らないことばかりだ。原発は100%安全だと言いきっていた。100%安全なものなどありはしないのに、100の数字を出していた。99%安全ですとは言えないのだろう。だが、99%と言っておくべきものであった。・・・もしもの対策、事故が起きたときの対策をこの国はやらない。国民一丸となってやる必要があった。大事故のとき、どうすればいいかの議論も行われないから、チェルノブイリのように、ヨウド剤も配布されていなかった。チェルノブイリでは、ヨウド剤で助かった子供たちがいっぱいいたのに、日本は、そんなものを配れる勇気ある国ではない。配ったとしたら、原発は危ないものとされる。

 次々と明かされる事実に毎日、驚くしかない。原発なんていらない!とは思えなかったが、思うようにもなってきた。日本の原発はどーしてむき出しなのか。なぜ、海外のように、施設全体をコンクリートで囲ってしまわないのか、また、ドームで囲ってしまわないのか。あれでは、テロの標的になるではないか。複雑に入り組んだ利権の話になり、普通に生きる人々には手のつけられないところにある。起きるべくして起きた事故であると、毎日、強く思うようになった。・・・東日本では節電が叫ばれている。これも私の単純な頭では理解できない。何年か前、16基もの原発を止めた夏があった。節電はまったくされなかった。だが、今回は福島原発以外はすべて稼動している。ヒーターもクーラーもあまり必要ない時期に、電力が足りないのだという。真夏日の地震だったら、どうなっていたのだろう。

 浜岡原発を止めたのは、東海地震の恐怖ではなく、原発そのものにあるのではないか。最新の高耐震性の原発ならば、おびえることもなかったのではないか・・・新聞やテレビはどこまで本当のことを隠し、日本国民に伝えているのだろうか。すべてをあからさまにしたら、日本国民はパニックに陥るだろうけれど、インターネットのおかけで、少しは立ち入ることができている。その中にもデマは多く、どれを選ぶかが難しい。ただ、インターネットを読んではっきり見えてくるのは、日本には指導者がいないのだということである。最善を尽くしてくれ、すべてオレが責任をもつ!という人間がいない。それを思うと、批難はされたけれど、阪神大震災のときの村山首相はまだマシだった。責任者として、バックになった。まだ、自民党であったほうがよかったと思うが、現在の首相は、リーダーシップを発揮するよりも、ただ延命を第一に考えているようにみえる。

 戦争や緊急事態で、その前、その後とわけられる。戦前戦後、アメリカテロ9.11、現在の震災は3.11となる。その前、その後となる。本作を観たのは3.11のずっと前である。日本どころか、世界を巻き込む地震に比べたら、小さな小さな世界を描いているなと思うが、平時であれば、これがいい。3月11日、間違いなく、時は止まり、そしてすべてが変わった。現在の映画を語るのは、しばらくしてからだろう。いまは、映画というものを楽しみ、励みとするだけである。

 「春との旅」 仲代達矢主演でも、全国一斉公開とはならなくなった。制作費もぐっとおさえている。ほんどがロケで、ゲリラ撮りではないかと思われるカットもあって驚く。作りたい映画と、配給したい映画はまったく違うのだろう。プログラムピクチャーの時代が懐かしい。どうしても一本立で上映しなければならない劇場では嫌われる種類の作品だ。持ってきたとしても、二週間もかけられたら幸運な方である。脚本はうまくできていると感ずるが、あまり演出に冴えが感じられない。長まわしのカットが活きていない。座敷から玄関へ移動するカメラワークなんぞは、間が抜けた感じでタイミングの計算ができていない。春に存在感がない。これらはすべて演出のせいである。演出のせいであるが、仲代達矢もオーバー演技ぎみだなと、気にかかる。そんな傾いた目で観ているものだから、作品にのっていくことができなかった。この映画は評判いいし、多くの方がほめておられるので、私にはどうも観るおかしなクセがついてしまったようだ。  <60点>

 「牛の鈴音」 牛の鈴音も評判高く、楽しみにしていたけれど、こういう類の映画は過去にいくらでもあった気がする。はじめて観たとは思えない気持ちだった。まだ、韓国や中国映画がほとんど上映されない頃、みつけては観ていた10年も20年も前に記憶が戻された。可もなく不可もなく、ただただ2時間が過ぎていった。一昔前の私であれば、感情移入できたかもしれないと思う。今は、これくらいで心は動かない。  <50点>

 新しい映画に魅力を感じなくなった。この頃は、午前十時の映画祭を楽しみにしている。私の生まれるずっと前の映画だが、スクリーンから力強いパンチを受けるものが多い。どんどんよくなっていくはずなのに、悪くなっていく意味がわからない。これは、芸術すべてに言えるのだけれど・・・。


悪人

2010年09月12日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_11  <小倉コロナシネマワールド>

 約一ヶ月の上映期間中に2度観に行く映画が、たまにある。一年に1本か2本。最近では「それでもボクはやってない」「誰も知らない」「フラガール」「第九地区」あたりだが、本作も上映中に2度、観に行った。本作は「フラガール」の監督である。2度、観にこさせる力があるのか。入れ替え制のシネコン時代、お金を払ってすぐにまた入って観たくなる映画を作る。

 本篇上映中1時間経ったあたりで、シナリオを読みたいなと思いながら観ていた。観終えて劇場の売店にいくと、文庫本のシナリオが置いてあった。「それでもボクはやってない」のときも読みたいと思いながら観ていて、シナリオ販売していたので、このあたりのことは・・・観客が読みたくなるのを制作サイドは十分知っているのかもしれないと思う。悪人のシナリオを下さいと告げると、ちょっと奥を探してから、ガラスケースの見本しかないと言う。見本でもカラではないから、それでもよいと買い求めた。売れてしまったのか、売れるはずもないけど形として見本を置いているのか・・・。帰ってから、一気に読んだ。シナリオはすぐに読める。続けてもう一度読みなおした。2度読んでも3時間も経っていない。このシナリオから、あの映画が出来上るなんて、シナリオだけでは想像もつかない。シナリオとしては、素晴らしいとは言いがたいものだったが、それは、すでに監督の頭にあるものは、書き込んでいないからか。シナリオだけで、感心することもあるが、これは違った。編集の力を借り、シナリオの行間を映像化していた。実は・・・行間に、映画のカットが詰まっていた。

 1度目に観終えたとき、これは映画賞総なめだわ・・・と、感じた。好き好きはあるのだが、他の全国公開日本映画と比べ物にならないほど、映画的であり、優れた撮りであり、編集であり、演出であり、助演、主演である。助演は樹木希林、主演は妻夫木聡ではなく深津絵理だ。主演じゃない!と言われそうだが、ラストまで観ると、主演だと感じる。この主演女優、映画がはじまって30分以上も経って登場する。どこかの国で映画賞を獲ったらしいが、アメリカナイズされた物語でも、とても日本人的な感情で埋め尽くされているので、わかってんのかなあと思う。日本人にしかわからない感情をキャストはよく演じている。コテコテの北九州弁だけでも大変なのに、そこに腹から根付いたような気持ちを据え、湧き出させていた。

 2度目の鑑賞後、売店で原作の上下巻を買い求めた。もっと知りたいと思った。知りたいのは、映画のことである。映画をもっと知りたくて、シナリオを読み、原作を読むのである。原作者が、スタッフが伝えたいことは、トンカチを手にした柄本明が喋ってしまう。読むと原作もシナリオも30秒かからない台詞で、サラッと通り過ぎる。が、映画はそうはしない。この短い短い数行を、5分近くに広げる。シナリオには書かれていないカットがどんどん入ってくる。深津絵里が交番から逃げて灯台へ向かうシーン、今か今かと待つ妻夫木聡のカットをこの台詞と交差させている。観客に噛み締めさせたいのだけれど、じっくりと台詞をのばすわけではない。スピード感ある中で短い台詞は語られる。ここが、監督の力である。

 長い原作をうまく削ってシナリオ化している。必要かもしれない登場人物をバサッと落としているが、そうでもなければ、上映時間が長くなりすぎてしまうだろう。シナリオは、実際の映画では、足すより切り、監督の気持ちをも加えている。樹木希林にかかってくる催促の電話は、シーンを丸ごとカットしている。ここはカットして正解だろう。観客は耐えられなくなるかもしれない。バスの運転手の台詞は、マイクではなく、下車したところに変更されていた。その方が優しい。原作もいいし、シナリオもなかなかいいが、映画はそれを大きく超えていると私は思った。まあ、やりすぎのカットもあるけれど・・・呼子のイカは、そんなに見透かしたように妻夫木聡を見ることはない。フィックスで十分だ。

 岡田将生の弱さを隠すために大きな態度で生きる実は孤独な青年、満島ひかりの表と裏を不器用に使い分けながら寂しさを紛らわせて生きるOLなど、若いながらも実にうまい芝居を見せてくれる。ロケの中で角度が多いので、何度もテイクを重ねているから、芝居のテンションをそのまま保つのは、若い俳優は苦労だったろう。若い俳優が脇を固めて、しっかりしたシーンになるというのは、最近の映画には少ない。

 現代の若者はなにを考えているのか・・・私は大人になりきれていない上に、孤独を楽しみ孤独から開放されたい、通じ合う人が恋しい日々なので、彼ら、彼女の気持ちが幾分かでもわかる。こんなことになったなら・・・行動、言葉は、私にとってはありえること満載である。そういうものも含めて、今年最高の映画となった。3度目!と、映画館へ行ったけれど、地方都市のシネコンは次々とやってくるフィルムを少ないスクリーンでこなさねばならない。早々と引き揚げたようだった。  <95点>


オカンの嫁入り

2010年09月06日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_10  <シネプレックス小倉>

 トラウマではなかったが、電車に乗れない、遠くへ行けないという経験を私はしたことがある。これは、身をもって知らねば、さっぱりわからないことだろうと思う。わからないから、まわりは気を遣ってくれるけれど、どうしていいかわからない。ただ、そっとしておくか、自由にさせるかと考えてくれる。考えてくれるだけであるが、それで正解である。なにかの瞬間、ふっと縛りから解き放たれる。その時を待つしかない。

 ひとつのエピソードとして流れていくだけのように思えるが、この映画の柱は、宮崎あおい扮する娘のトラウマからの脱却ではないだろうか。これを中心に考えると、母親、大家さん、母親の恋人の行動、台詞がよく理解できるからだ。心にウソ偽りはないけれど、2割、3割くらいは、娘のために芝居をうっているように思えた。なにもできない、なにもしないほうがいいのだろうが、時が経つしかないのだろうが、娘を思う気持ちが芝居をさせた。台本もない、みんなと打ち合わせもしない芝居である。それがいいのか悪いのかはわからない。だが、心の奥の奥からやわらかく突出する愛情が、娘をプラスの方向へ歩ませていく。

 物語は、大阪の京阪沿線沿いである。布施から東大阪の手前まで・・・あの辺りの電車軌道は、生駒山に向かって左側、フェンスの外は、大きく長い人道になっていて、ロケもよく行われる。本作も、電車と自転車が並走するカットが何度も出てくる。風土的には、中途半端である。梅田より北の品のよい大阪ではない。難波より南のベタベタの大阪でもない。他とちょっと違うのは、高度経済成長以前の風景が残っているところで、私はあの辺りを好きで、よく歩いた。現代風の瀟洒なマンションが建ち並び、どうやって食っているのか首を傾げる商店街が店を開け、巨大な一流企業の工場があり、文化住宅といわれる安アパートがズラズラ並ぶ・・・キタとミナミが混在して、取り残された街という感じがお気に入りだった。取り残されたところというのは、取り忘れたものを思い出させる。ほとんど高架になっているが、複々線なのに、高架されていないあたりの商店街は、昭和のカラー写真を見ているようでもある。あのようなコの字型の家、借家がありそうなトコロだ。

 何十回も書いたけれど、日本映画の予告の下手なこと・・・母親がどうなるか、アレを言うなよと。だから、私はチラシの裏も見ないで観に行くのだけど、あんな予告では、はじまったところから、観客はソコを目指すではないかと。嫁入りを目指させよ。別のものを目指させてはいかんのである。そこから、どんでんで、どうだぁ!となるタイプの映画でもないし。予告がとにかく下手。もう、こうなったら、フィルムをハリウッドに送って、予告を作ってもらうしかない・・・その前にお金がない?そうかそうか、ならば、宣伝部と予告篇担当者全部入れ替え。いい映画なのに、俗な私なんぞは、予告を頭にいれていったから、映画の面白さが半減してしまった。

 昔から思ってるけれど、絵沢萠子って女優、いいですねー。ヨゴレ役もできる希少な女優、少なくなってきた。『マルサの女』の、「ここは捜さなくていいのか!女はここに隠すんだ!」なんてのは、絵沢萠子くらいしかできないんじゃないかしら?  <80点>


インセプション

2010年08月11日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_3  <小倉コロナシネマワールド>

 頭の悪い私には、どーもわからない。こんなにつまんない映画が、とても評判がよろしい。どこか誉めようかと考えていたら、一時間経って、なにも浮かばない。しいて言えば、CGを含めた映像がきれいでした。渡辺謙を一人前に扱ってくれて嬉しい。発想が面白い・・・くらいか?

 私は寝る度に夢を見る。見ない夜がない。記憶している夢は朝かもしれないが、夜中に起きてもすでに夢を見ている。寝なおすと、すんなり続きを見ることもある。その夢は支離滅裂、精神分裂症ではないかと思うほどの景色、台詞、展開で、これごときの夢の世界を目の当たりにしても、ぴくっとも感じない。自宅が屋久島で、しかし陸の孤島で、古い洋館で、川で釣りをしているとゆで卵が釣れて、割ると赤ちゃんが生まれて、一緒に遊園地に行って、珍しいからとトナカイ料理を注文して、出てきたザルソバを食っている・・・。無茶苦茶な世界を平然と生きている夢である。この猫、かわいい犬でしょう?と手乗り象を見せられて、これは蛸ではないかと反論したこともある。夢の中ではそれはすべて自然なこと。映画が好きだから、映画館の夢も多く見るが、ほとんどは野外劇場で、明治時代。動くチンチン電車に乗りながら、外のスクリーンを見づらいなと頑張って見ていたこともある。平然としている。夢から覚めると、なにがなんだか・・・。

 そんなありもしない夢の世界がスクリーンに展開して、現実では絶対にありえない出来事が起きまくるのでは?と期待していた。街が折れ曲がるくらいではピクリともしない。CGの技術に驚くだけ。そこらの通行人だって、夢だけで生かされているのだから、普通では面白くない。出たり消えたり、子供なのに振り向いたら老婆、でもそれが普通・・・くらいのことは・・・そんなことしたら、物語が進まないか。でも、そこまでいかずとも、夢の中の時間は軸を無視して進みたいものだ。それでこそ夢。観客に、夢と現実の境目がはっきりしすぎるから困るだろうが、夢の見せ方は安易だと思う。夢とわかって勝手な行動しようとしても、どういうわけか、勝手にはさせてくれないものだし・・・。

 議論しすぎた真面目すぎる夢物語であって、それほど飛びつく映画でもない。しかし、ほとんどのブロガーが手ばなしで褒め称えているから・・・私は自信がなくなってきている。何層も夢の奥に入っていったら、もう黄泉の国に近くなりそうだ。理屈の多い、映画内で解説の多い映画は基本的に好きではないってのもあるけど・・・。理屈いっぱい映画は、批評家好みなので、アメリカの通の間では大絶賛らしい。ただ、予告は良かった。あの延長で楽しみたかった。観終えた後、面倒な映画だとため息ついただけ。長いし、その長さに我慢したし。なに?オバカには、この良さはわかるめい?そーかもしんない。・・・夢を発想にいろいろできそうだ。いつか完全痛快娯楽映画ができますよーに。  <40点>

 


踊る大捜査線 THE MOVIE 3 ヤツらを解放せよ!

2010年07月16日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

The_movie_3  <小倉コロナシネマワールド>

 話題話題に仕立て上げられていった大作一本。私はテレビシリーズはほとんど見ず、とっかかりは映画のパート1だった。近頃、テレビが映画化されると、テレビを知らなきゃついてけない観客をバカにしたものが多いが、まだ本作のパート1は何も知らずとも理解でき、楽しめる工夫があった。ワイワイと観に行くほどではないけれど、テレビの視聴率の高さから映画はヒットした。まだ、大晦日に映画館はオールナイトなんぞをやっていて、私は数人の観客と、本作のパート1を観ながら年を越した。映画館を出ると、元日で、そのまま電車に乗って初詣へでかけた。どちらの年に観たのかわからない。手帳には、その年の最後の鑑賞記録として書いている。

 私としては、テレビをそのまま引きずってこじんまりしたパート1よりも、映画のスクリーンを意識したパート2の方が好きだ。オープニングタイトルも冴えていて、はじまりからワクワクさせた。いつもの面倒なステディカムの多用も、時が駆け足なのでしっかりと意味をもたせる。話しは尻すぼみになっていくが、シナリオと演出とカメラワークが一体となり、最後まで興味を持続させてくれる映画だった。パート3はパート2の公開時から騒がれていたが、束ねる役のいかりや長介が亡くなってしまって、もう作らない!となっていた。作らなきゃ、このシリーズは人の心に残せたかもしれない。いや、すぐに作れば良かったのではないか。「交渉人・・・」「容疑者・・・」なんて頑張らずに、熱のあるうちに捻って、いかりや長介なしでパート3を早く作れば、これほどの駄作は生まれなかっただろう。甥っ子なんて出てきて、手帳を読み上げる・・・なんぞ、ナレーションのかわりのようだ。

 パート1、パート2、パート3と進んでいくから、どんどん話しをでかくしようというのは頭が悪い。お利口さんたちの集まりだろうから、打ち合わせで話しは膨らむのだろうが、膨らみすぎて収拾がまるでついてない。構成が下手で、物語もでかいばかりで面白みはなく、カット割がギクシャクしているのに凝ったカメラワーク・・・私は最後までどこを見ていいのかわからなかった。70億突破らしいけれど、次回も?とはならない気がする。パート2が予想外に面白かったから、その記憶で観にきた客は・・・もう戻らない。

 本作は、本作だけをご覧になっても理解できない箇所がいくつもある。前2作の内容は記憶しておくべきで、テレビシリーズ、テレビのスペシャル版も見ておいたほうがいい。私はパート2の後、ビデオで全シリーズを見た。いやいや、本作は観る必要なんぞないので、時間の無駄かもしれない。「踊る大走査線」は7年前に終わっていた。いかりや長介の存在は確かに大きいが、それが一番の問題ではなかろう。7年のくだらない構想劇がダメにしたのだろう。初案が最高の出来ということは多い。稿を重ねて重ねて、気がついてみると第一稿になってしまうことも珍しくない。テレビシリーズを含めて、一番つまんない出来だと思うが。

 ・・・「レギュラー全員集合!」と言いながら、水野美紀はハネたか。頭のいいテレビ局の連中が集合して、つまらぬ裏事情で観客をも巻き込む。  <25点>


イエロー・ハンカチーフ

2010年07月05日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <中洲大洋映画劇場>

 ブログ内の「幸福」は、すべて「しあわせ」と読みます。

 山田洋次監督作品を観て映画が好きになり、観続けたから、映画の勉強をした。私の人生をどーかこーかしてしまった監督である。ダメな人は大嫌いらしいが、『幸福の黄色いハンカチ』にも大きな影響を受けた。山田洋次らしい、日本映画らしい日本映画で、日本人にしかわからない気持ちを描いた作品を中学、高校とたくさん観させてもらったから、今でも外国映画より日本映画贔屓である。後に、私の生まれる前の日本映画も上映されるとなれば、できるだけ劇場に足を運んで観た。観れば観るほど日本映画が好きになった。いま、私が二十代、三十代だったら、映画を好きになっているかは自信がない。

 日本映画のいいところは、細かな部分までわかるということだろう。よく喩えられるが、英語で訛られてもよくわからないが、日本語ならきっちりわかる。それだけで、その土地を考え、人柄も思う。日本人だからこその行動、返しも日本人なのでよくわかる。共感も、外国映画ではそんなに感じないけれど、日本映画では大いにある。外国人のウケを狙った日本映画はいけない。外国で賞を獲るのも、外国人にみせようと意識した映画はほぼない。アメリカやフランス以外、同じことだろうと思う。最近の韓国映画は・・・ま、いいか。・・・映画が斜陽になって、松竹では山田洋次だけが残り、最後の松竹映画を撮り続けていた。松竹お得意の喜劇と人情を観ることができた。『幸福の黄色いハンカチ』は、その末期の作品かと思う。もう30年も前になるので知らない世代も多く、古典の部類に入るのだろうが、この人情喜劇は私の人生に大きくかかわってくれ、そのまま今に至っているといっても大げさではない。この映画がなかったら、私は映画ブログをひらくことすら思わなかったかもしれない。

 日本人にしかわからないハズの日本映画をアメリカなんぞがリメイクするとは、絶対に駄作に違いないと思いつつ、気になって気になって仕方なかった。あがっているのに、いつまでも公開されない、公開が先に延ばされる・・・駄作に違いない・・・でも観たい。ようやく2010年6月公開となったが、ホームページを見てガックリした。札幌、東京、名古屋、大阪、福岡の日本5大都市のみなのである。日本全国で5館!?地方都市をバカにしやがって!地方の映画人口を考えると気持ちはわからんでもないが・・・ということは、まあ、駄作に違いない・・・この博多映画の旅は、実は本作を目的に計画したものである。本ブログを書いている時点では、5大都市の上映は終わり、夏から秋にかけて、他の8都市の上映が決まっている。

 一泊3,200円の朝食は一階の炉端焼店で。なかなか豪華なものであった。ほとんどが魚。毎日、長崎県五島列島の最北端、宇久島から新鮮な魚介を直送しているらしい。バイキングではなく一人ずつ供される。やや遅く起きたので私の他に一人旅風の若い女性しかおらず、炉端はシーンと静まりかえっている。パッと見た目では1,500円、2,000円と言われても納得しそうな朝食で、色鮮やかだし豪華だが、量が多い。私はこの2年で小食になった。大阪にいたころの半分くらいの量しか食べられない。食べる気で挑むが、気持ちだけで、実際の量はとても少ない。申し訳ないが残して席を立ち、そのまま10時ちょうどにチェックアウトする。

Sbsh0015  「中洲大洋」は歩いて5分のところにある。モギリでホームページから印刷した割引券とポップコーン引換券と1,600円を出す。カップに入ったキャラメルポップコーンを手渡してくれた。壁に「モギリのいる映画館!」と大書してある。「入れ替えなし!」とも書いている。当たり前だったことが宣伝になっている。古い映画館だが、よく手入れが行き届いていてきれいな感じ。ふと気づいて、鼻をクンクンする。今のシネコンにはない映画館独特の匂いが辺りに漂っている。懐かしい匂いだ。昔はどこの映画館でもこんな匂いがした。これはなんだろう。セルロイドのような?・・・以前、私だけかと、おそるおそるそのことを友達に話すと簡単に理解してくれ、「今でもその匂いはあるよ」と言った。「どこに?」と聞くと「今の大きなところじゃなく、昔ながらの街の小さなパチンコ屋」と答えた。ということは、あれは人の匂い、または人の気配の匂いなのだろうか。私個人としては、とても好きな匂いである。

 高倉健は、そのシーンの撮影のために絶食で臨んだのだという。網走刑務所から出て、食堂でビールを飲み、ラーメンをすする冒頭のシーンである。そこまでの勢いはないけれど、ウィリアム・ハートの同じシーンは、日溜りのほんわかした優しい雰囲気の中で撮られている。始まりの糸を結ぼうとする重要なシーンになっているが、SEだけで、ほとんど会話がない。外の若者は仕草で理解できるが、声は聞こえてこない。窓の外には、これから旅することになる二人の男女がメインになるが、それ以外の人の風景も写す。ウィリアム・ハートの目に映るものだ。こういう演出、撮り方はまったくそのまま、山田洋次を意識している。この手法、アメリカ映画としては珍しいかもしれない。リメイクというと、オリジナルをクソミソにしてしまうことが多々だけど、敬意を払っているようで嬉しくなる。ほんわかした時間の経過でなんとなく観続けてしまうシーンだが、『幸福の黄色いハンカチ』をじっくり観た方なら、これから先に広がる世界を安心するだろう。

 どういう映画なんだろう?楽しい映画なんだろうか?なんてまったく思っていなかった。とても偏見に満ち満ちた観かたで、『幸福の黄色いハンカチ』をどう崩して料理しなおしたか?だけを見たかった。山田洋次の世界をアメリカ人が理解することなんてできないだろうし、雰囲気もクソもあるまいと、観る前から刀のつばを親指でしっかり握っている私がいた。物語が進むにつれて、そんな刀など必要なくなり、私は「アメリカ版幸福の黄色いハンカチ」を楽しんでいた。オリジナルにはないエピソードは入れてない。アメリカ人に理解できないシーンなどは大きくカットしてあり、そういう意味で上映時間は短い。武田鉄矢だからこそできる前半の喜劇部分はマジメな台詞と化した。渥美清の味も渥美清ならではだから、それらしき人物は登場し、シーンはあってもとても短い。日本人としては、いい部分を切っていったなと思うが、それは仕方ないだろう。共に旅する若者の年齢をぐっと下げたのが爽やかさがプラスされて、これまたいい。一直線のロードムービーで、オリジナルを知らなかったら、もしかしたら救いようのない映画かもしれない。もしかすると、オリジナルを知っていて、よく憶えていて、その上で安心して観られる映画かもしれない。偏見で観たからどう評していいかわからなくなっているが、ここまでよくやったと誉めてあげたい。

 ラストカットは、オリジナルと同じく、ポスターやチラシになっている。エンディングがどうであるかを知らせた上で、この物語は進んでいく。タイトルも「幸福の~」だから、もう結末はわかっているのに、その風景に至るまでドキドキして待つ。ハッピーエンドと知らされて、ラストカットまで見せられて、観客はそのエンディングを待つ。幸福というものがそこにあるのを・・・私たちは待つのである。そして、その幸福はやってくる。わかっていても、実際に向かい合いたく・・・。・・・現実に幸福はあるのか?現実には叶わぬものだから、どこかにそれを求める。だから、映画では作り、存在させる。いま、観ているものだろう。後の出来事はどうだかしらない。しかし、観ているこのカットこそは、幸福という画であろう。人の幸福を見て、自分も幸福の一部をちょっともらうのも、なかなかいい。

 入れ替え制ではないので、もう一度観るかな?とロビーをうろうろするが、次の予定は中洲からバスで40分以上走ったシネコンで、上映は一日一回のみ。地味な映画だから、逃すと、一生、スクリーンで観られないかもしれない。後ろ髪をひかれつつ、劇場を後にする。12時をまわって、中洲はまだ静かだ。ビルが建ち並び、車は走っていても人がいない。ここは夜の街である。アルコールがダメな私には、中洲の街は、老舗の映画館くらいしか用事がない。  <85点>


アイアンマン2

2010年06月26日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <シネプレックス小倉>

 一度落ちていってしまい、しばらくして、また這い上がってきた人物にアメリカ人は弱いようだ。俳優の世界もそうらしく、ジョン・トラボルタなんていい例だが、本作には2人、這い上がって戻ってきた俳優がいる。それも、スクリーンで対決させている。ロバート・ダウニーJrとミッキー・ロークがA級SFアクション映画で暴れまわった。日本人は、こういう俳優に冷たい。

 ミッキー・ロークは若い頃の華々しい二枚目スター、ヤサオトコよりも、今の方が人生の厚みを感じさせてなかなかよろしい。あのB級映画が発端となったのか、この先、まだまだ公開作が控えている。面相も声質も迫力もまったくあの頃とは違う。第二の俳優生活を歩みはじめたのだろう。超個性派でいける。俳優を続ければ、まだ化けそうだし、なかなか嬉しい。けれど、単なる二枚目だったとはいえ、一度はのぼりつめた俳優だったのだから、敬意を払って、クレジットはwithではなくて、andにしてほしかった。andは、サミュエル・L・ジャクソンになっていた。サミュエル・L・ジャクソンごときにandなんて・・・今のミッキー・ロークはwithでもandでも、並び順なんて文句の言えない立場であろうし、そんなことは意に介してない、いま歩き続けようとする俳優だとは思うけれど。

 コミックのパート2は、はっきりした悪人がでてきて、街を壊しまくって闘うというのがだいたいの筋であるらしい。本作もそうで、これは予告篇からわかっていたことだけど、つまりは、ミッキー・ロークがいかなる方法で打ち砕かれるかを観客は期待するに終始しているのだ。前作と違い、興味はそこにある。だから、アイアンマンの心の葛藤だとか、ヤンチャぶりだとか、恋人とのコメディの水準にも満たないやり取りなんぞは、長すぎて観ててダレる。合間のちょっとしたサービスだけならいいが、意味なく長い。出なきゃなんないのだろうが、ヴィネス・パルトロウの小さな存在を大きく見せようとするから、流れてきたものが途切れてしまう。スカーレット・ヨハンナンはいるかしら?サービスカットがほしいだけじゃないのだろうか。コミック一色ではない第一作を楽しめた人には不満だろうと思う。大した物語、運びではないし、CGごってり、誰もが予想できる展開、続かせようとするエンドカット。ちょっぴり楽しめたが、それは度肝を抜くアクションだけで、内容としては、とてもとても前作には遠く及ばない。抜くことはないと言われているが、私としてはそうは思わず、パート2が前作の水準を保つ映画もある。「エイリアン2」「ターミネーター2」最近の日本映画では「踊る大捜査線2」はとても好きだ。本作は落ちたと思う。落ちたが、続ける。

 続けたい予想通り、200億円の製作費で、800億から900億の興行収入が期待されている。まだまだ世界公開中だから、ウハウハである。とにかく豪華に・・・というわけで、予算のかけようがなくて、ギャラの高い俳優を配しているのか?CGで目をびっくりさせる絵コンテに力を入れているのか?その前に、脚本に最大の力を入れてほしいもの。あれでは、頭のいいはずのミッキー・ロークが、途中からはあまりにもバカすぎ。お粗末に扱われすぎてムカムカしてくる。儲かってるし、次回も儲かるだろうし、パート3で儲けたらさっさと手を引きそうだし、つまりは観客をあまく見ていて、ただCGチームが苦労するだけの・・・まあ、その程度。

 ・・・最近の私は、3部作のパート2まで観て、3を無視するようになった。パート2に裏切られたら、パート3まで情熱が続かない。頑張って観るか?頑張ることはない。映画は娯楽。観る前から楽しみたい。  <60点>


運命のボタン

2010年05月08日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネプレックス小倉>

 キャメロン・ディアス主演で製作費が30億円とは安い。「チャーリーズ・エンジェル フロスロットル」のときのようにゴネなかったのかしら?それとも脚本に惹かれて出演を承諾したのかしら?としたら、きっと面白い娯楽作品に仕上がっているに違いない・・・『ボタン』だけでいいと思う。日本語タイトルはダサいけど、予告に惹かれてやってきた。

 この映画、ボタンを届けた男がやってくるまでが面白く、あとはさっぱりダラけてしまう。リアルなんぞは必要としないけど、『このボタンを押したら100万ドル手に入る。しかし誰かがどこかで死んでしまう』なんて説明を簡単に信じすぎるのはどーだろうか。持ってきた男の顔半分が陥没していたから?自分も障害をもってて通じるところがあったから?時間の都合で手っ取り早く・・・のようで、そんなに簡単に信用してしまうような純粋無垢ではなかろう。旦那も旦那で、二人ともオカルトに興味があって、洗脳されやすいのだろうか。ボタンを持ってきた男の言っていることがウソではないような決定的な何かを映画は教えてくれない。教えてくれないまま、二人は懸命にボタンを押すか押さないかを迷って、ついには隠してしまったりする。なにしとんねん、この夫婦。現実にこういうことがあったら、そんな馬鹿なとせせら笑うはずで、この映画が最初から非現実世界のごとくであっても、とばし過ぎてる。アニメでも納得いかないのではないだろうか。この時点で、脚本の甘さを知り、あとはダラ~としたまま観ているだけだった。

 どうせ押すくせに、ボタンを押すところまで異常に間をもたせる。まあ押すよね。おかしな話を馬鹿にして、旦那が帰ってきてすぐに押して、男がやってきて100万ドル置いてしまうところからサスペンス・・・と思っていたのに、押すまでが長く寒く浅いサスペンスになっていた。冗談で押したのに、なぜか押したのを知られて、実際に100万ドル持ってくるところが一番びっくりするところだろう。・・・たとえ、誰か死ぬのかな?と脳裏をよぎったとしても、世界のどこかで何秒かに一人や二人は死んでいるし、このボタンのせいか?・・・よくわからん。『この写真の誰かがこういう死に方をする!』とまで言われれば気にするかもしれないけど・・・漠然としたことを言われても・・・持ってかえって下さい!変なこと言うと警察に電話しますよ!なんで私のトコなん?だいたい、あんた誰やねん?

 『ただし、押したらとんでもない地獄が待ってますよ』と、ボタンの男は言わなかった。『ひとつめ』『ふたつめ』ともったいぶって語ったのに、大事なこと言ってない。後の災いは、その人間の本質を知る、出す上で言えないので言わないのだろうが、『こんなことになるって言わなかった!』と抗議もしない。災いがいっぱい振りかぶることがわかってたように頑張る。面倒だったら言葉の説明でいいから、一言ほしい。

 私の頭が悪いのだろう、ラストに近づくにつれて、ボタンの男が哲学的なことを言いはじめて、もう何が何だか。そこまでしなくても、あのような力があれば他に大きなことができそうな気がするけれど。ちまちま、家ごとにボタンを届けて回収してなんて。そして、ラストのラスト・・・あのボタンを押したら、どこでも同じ死に方するのね、もう!・・・予告、うまかったなあ。  <20点>

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ウルフマン (2010)

2010年04月30日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <小倉コロナシネマワールド>

 20時05分に小倉昭和館の『不毛地帯』が終わり、その15分後、20時20分からはじまる小倉コロナシネマワールドの『ウルフマン』を観る。レイトショーのつもりではなかったが、昼間の渋滞で計画を変更した。映画館の距離は、早足でも40分はかかるだろうから、公共の電車やバスが好きな私でも、こういうときは便利でありがたいと思う。映画と映画の間は15分しかなかったが、上映5分前にテケツに着いた。

 ジョニー様、ディカプリオ様では観ない!なんて偉そうに書いたが、役者に惹きつけられる作品もないことはない。この人が出ているなら、つまんない映画ではないだろうと思ってしまうところがある。ちょい歳くってからのドナルド・サザーランド、マイケル・ケイン、ショーン・コネリーあたり・・・渋すぎるかもだけど。アンソニー・ホプキンスもその一人で、ベネチオ・デル・トロ主演の『ウルフマン』では食指は動かないし、監督名もどうでもいいが、アンソニー・ホプキンスの名に心動かされる。ただ、なにを今更、オオカミ男?だけど、ゴールデンウィークの上映作品をながめていたら、洋画では本作くらいしか気の合いそうな映画がない。

 日本円で150億以上も製作費がかかってるらしい。アメリカ国内の興行収入は140億ちよっと。ヒットしたのに、元かけすぎて、世界をまわらなければ赤字。アンソニー・ホプキンス、ベネチオ・デル・トロ、ヒューゴ・ウィーヴィング、エイミー・ブラント、チャップリンにそっくりのチャップリンの娘なんて、一枚看板で出さなきゃならない俳優を使いすぎて、製作費が膨らみすぎたのだろう。セットも道具も衣裳もエキストラもCGも、全篇に流れる緊迫感ある音楽も、すべてがゴージャスだが、100億とは言わないけれど、半分以上は俳優のギャランティじゃないかしら。ただ、殺しがリアルに描写してあり、アメリカでも年齢制限をしたろうから、140億の興行でも、かなり頑張っている。もちろん、現実とスクリーンの中の創造世界を区別できない、そんな単純なことを親や教師が教えきれない日本でも、15歳未満はご覧になれません。

 アンソニー・ホプキンスの存在感、いい顔してる。立っているだけで画になる。ウェスタンやらせたらハマるだろうと思うヒューゴ・ウィーヴィングの悪役顔、クセあるなあ。『プラダを着た悪魔』のときとは別人のよう、どの方向から狙っても端整な美しいエイミー・グラント。うまい配役・・・ただ、オオカミ男になるのがベネチオ・ベル・トロじゃなくてもいいんだが・・・スクリーンからニオイが漂ってくるほど肉食肉体系で、今時のイケメン新人ヤサ男よりはいいか。お馴染みの俳優が揃って出ずっぱりで割とハマっているし、物語の運びも単純で、とても楽しく、気持ちよく鑑賞できた。

 この映画、途中でしばらく観客をだます・・・あれ?今まで精神分裂になってしまったベネチオ・デル・トロの頭の中をみてきたの?このあたりの展開は、編集の腕がふるう。だましは一気に解除されるが、その場のカメラは、どこでどれだけ構えているのか?と頭が混乱しそうになった。狭いところ、身動き取れない状態で、四方八方から狙っている。カメラやスタッフが写ってしまうので、何十回も同じ芝居を要求されたろう。同じ動きで俳優の緊張状態を保ったままの画ということは、スタッフはその何倍も気を遣わねばならない。動く人数も半端じゃない。助監督の指示も大変だ。このシーンを観ていて、また別のことも思う。ハリウッドのエキストラはどこから集めてくるのだろう・・・うらやましい。日本のように、連れてこられました、着せられました、座らせられましたという素人っぽさがない。みんな、立派な俳優のように見える。

 ラストのヒューゴ・ウィーヴィングの眼前の出来事と自分に襲いかかった不幸と明日への不安を表す複雑な顔、印象に残る。なかなかいい。それを拾ってパート2なんて作られたら幻滅だけど、本作で終わりなら、あのドリーズームは最高のカットである。      <80点>

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アリス・イン・ワンダーランド (3D)

2010年04月21日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <シネプレックス小倉>

 偉そうに言うわけではないけれど、レオ様、ジョニー様と観にいったことは一度もない。何十億円のギャラをとるスターと一緒に仕事をしてしまうだけで、監督の名で観にいくのである。私のまわりだけだろうか、レオナルド・ディカプリオだから、ジョニー・デップだからと楽しみにしている人が多いようだ。私にはどうでもいいことなので、話もできないと口をつぐんでしまうが、動機はなんであれ、映画館で映画を観てくれることはありがたい。観たと同時に、その映画を作ったのは誰かを覚えて帰ってほしいけど・・・ジョニー・デップが一人で、レオナルド・ディカブリオが一人で作ったような頭でいるんじゃないか・・・そんな発言を耳にしたりする。お金あるから製作にからんでいることもあるけれど、基本的に映画は監督のものである。

 本作は、随分と前から街のあちこちにポスターが飾られていて、普段は映画を観ない人も「これ観たいね」なんて言ってるのを聞いた。大ヒット間違いなしで、とても儲かることがわかっている映画には眉間にシワをよせるけれど、ジョニー・デップはどうでもいいとして、監督名で観たい。あの『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』を生み出したティム・バートン(監督作ではない)である。『アリス』の世界を描くというのは、『ナイトメアー~』に通ずるところもあるではないか・・・。そういう気持ちで観にきた。3Dと2D、料金は高いが、どうせ観るならお祭り気分で3Dである。今は目に新しいので、立体的に見えるだけでウキウキする。はじまると・・・予告も3Dものを集めている。本篇に入る前の3Dメガネのテストだろうか。

 『チャーリーとチョコレート工場』はなかなかだったが、ティム・バートンは、それほど記憶に残る秀作を撮っていないと思う。ジョニー・デップをハリウッドで一番のスターにした監督で、それ以来、ずっと一緒に仕事をしているから、作る映画はおおかたヒットする。映画のタイトルは残るが、内容はそれほど残らない。奇想天外一歩手前の発想で作り続けている・・・そのような印象をもっている。ただ私としては、『ナイトメアー・ビフォア・クリスマス』の天才ぶりを引きずっているだけである。

 さて本作は・・・私としては、とりたてて驚きのない、新しさを感じさせない凡百のひとつだった。創造される人物、生きものはたかがしれてるし、物語の運びも思ったよりタラタラで、なんとか幻想世界の中に引きずってくれるものの、ドキドキわくわくと胸躍らせてくれない。私が歳をくったからだろうし、子供はびっくり仰天するかもしれないけれど、こういう映画は、長く生きてきてビックリどっきりしなくなったオッサンどもをドキドキさせてくれなきゃなんないんじゃないかしら。正直、本作を誰にも勧められない。またもや、『ナイトメア~』の(『チャーリーと~』もお勧め)ティム・バートンで止まってしまった。これに賞賛の声が集まってしまったら・・・どんどんハリウッドはCGだけ高度になり、映画そのものの質は低下するだろう。

 『アリス』は何度もアニメ、実写映画化されていて、今更、大監督にならなければ映画会社も製作OKを出さないだろう。よく映画になったということだけ誉めたい・・・。私としては、1988年にチェコで製作されたヤン・シュヴァンクマイエル監督の「アリス」を特にお勧めしたい。とても大胆に脚色されている。実は、アリスの創造した世界は、とても陰湿でグロテスクなものだった・・・異色の『アリス』だけれど、ぐいぐいとスクリーンに引き付けられ、心動かされる。ドキドキしつつ、ムカムカもする。他人の頭の中を覗くと気持ち悪いものかもしれない。子供が観るような映画ではなく、大人のための『アリス』であろう。ティム・バートンのように大金はかけていないが、監督のもつグロさをスタッフはしっかり受け止め、見事に映像化していた。「アリスをどうするんだ!」と思う方もいらっしゃるだろうが、ヒントにした映画というだけで、映画全体は監督のオリジナルである。

 普段は映画を観ない人も行く作品。そういう大ヒットする映画があれば、同時期公開の作品にも人は入るのだという。ヒットの望めなかった作品が意外に健闘するらしい。久しぶりに映画館で映画を観て「映画って面白いもんだなあ」「映画館で観るっていいもんだなあ」と感じたオツリみたいなものなのだろう。ついでに観た映画がすべて良ければ続くのだが、「やっぱり、アレだけなのね」で、客足は平常に戻る。これは何度も繰り返されてきた。「ジョニー・デップよ、製作者として、主演スターとして、映画界のために、いっぱい映画を観たくなるような映画を・・・」と言いたい。特に、日本人は本も読まなくなって、映画も観なくなった。また、アメリカ人のように、映画館に気軽にフラッと入る国民ではないから・・・たくさんのオツリを生み出す作品を・・・。  <40点>

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板尾創路の脱獄王

2010年01月18日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネプレックス小倉>

 板尾創路が映画を監督する日がこようとは・・・花月の舞台を観ていた頃から思うと、とびっきり化けたなという感慨がある。漫才から吉本新喜劇へ。東京へ場所を移し、ダウンタウンと一緒に伝説のコントを演じたコメディアン、板尾創路である。松本人志は、板尾創路には抜群の(コントの)構成力、脚本力、演出力があると言った。実際、「ごっつええ感じ」のコントを多く書いていた。番組終了後は、相方のホンコンと一緒に仕事をすることはなくなり、俳優業に専念する。

 思い出すのは端役だが「ジョゼと虎と魚たち」「愛のむきだし」、小泉今日子の旦那を演じた「空中庭園」など、これらは私好みの作品たちであるが、「デスノート」「着信あり」といった大ヒット映画にも顔を見せる。よく出ている俳優であるが、元々は漫才師でコメディアン、文才もある笑いの達人である。その笑いはナンセンスで狂気に満ち満ちている。だいたい板尾創路という人物、目だけ見ていると恐い。今にもとびかかってきそうな、叫びだしそうな目だ。番組内で笑顔のときも、目だけ笑っていない。

 狂気過ぎてわからなくなるコントもあって、凡人の私などはついていけないこともあった。それはおそらく、板尾創路の笑いに、時代が遅れているからだろうと思っている。多くの著名人に認められているのに、その才能を発揮できる場所があまり与えられていないのは、そのせいだろう。NHKの夜中にやっている「ケータイ大喜利」に引っ張り出されて、ちょっとかわいそうな気がする。心底、笑っている顔を見たことがない。

 映画が大好きで(これはスクリーンからも伝わってくる)、子供の頃に「パピヨン」や「大脱走」に感銘を受けたらしいので、映画を撮れるとなったなら、もちろん、脱獄ものを撮りたかったのだろう。独自の笑いの世界を取り入れ、本気で撮り上げた秀作が生まれた。一生に一本しか撮れないかもしれない、これが最後かもしれないという気持ちだったのだろう、スクリーンから板尾創路の息を感じる。だがこれは、お笑い人の撮る映画である。唯一、声を出すカットでスポットを浴びて歌ったりする。オープニングと同カットなので、もしかしたらまたタイトルが?と思った瞬間、同じタイトルロゴが出てきたり、板尾ワールドが散りばめてある。狂気の笑いは、「ごっつええ感じ」の頃から変わってない。

 低予算のセットはチープだけれど、現場のスタッフは監督の姿勢に応えようとしている。お金のかからない撮影と照明にかなりこだわった画を作りだした。その場の空気、囚人の汗と泥と血なまぐささが生々しく伝わってくる。昔のハリウッドの脱獄劇をにおわせる。出演者も吉本のお笑い芸人を多く使って、ほとんどが友情出演みたいな扱いだけど、その中に配された國村準が抜群にいい味を出していた。多くの中の囚人の一人としか見ていなかった國村準が、板尾創路に徐々に興味をもちはじめ、流される自分の運命を変えてまでも見届けようとするに至る過程が、どういうわけか観ていて気持ちよくなる。なにも語らずに、話すことなしに、二人は目に見えぬ糸でつながれているようだ。終盤からは、魂の友情すら感じる。國村準の演技力もプラスして、素晴らしい心理描写だ。

 ラストでちょろっと榎木兵衛が顔を出す。板尾創路は私と同じ年代だから、榎木兵衛を東映映画でたくさん観ていたのだろう。貧乏で破天荒で刺青・・・こういう俳優をもってくるところなんて、本当に板尾創路は、映画が好きなのだろう。嬉しくなる配役だ。

 あそこまで全人生を賭けて、計画を練り上げて・・・狂気の笑いに生きてきた板尾創路らしいエンディングだった。オチが読めるかもしれないが、粋な笑いより、ベタな笑いの方が活きると思う。こういう質のいい映画を撮れれば、次回作もと話はくるだろう。・・・タイプはちょっと違うけれど、ある映画を思い出した。久しぶりに「黄金の七人」をもう一度、観たくなった。  <80点>

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アバター (3D・日本語吹替版)

2010年01月07日 23時00分00秒 | あ 行 (2008.2009.2010.2011)

2  <シネプレックス小倉>

 3D字幕、3D吹替、ノーマル字幕、ノーマル吹替と、4本もフィルムをもってきている。「カールじいさんの・・・」などもそうで、お正月のシネコンの上映本数はとても少なくなっている。この先、3Dや吹替が多くなるらしいので、ますます地方にやってくる作品の本数は減少するだろう。

 スーパインポーズの読めないアメリカ人ではないので、私は字幕版を好む。基本的に、吹替版は好きではない。好きではないけれど、重いメガネをかけて3Dとなれば、吹替版かなと迷う。3Dの字幕版は、字幕そのものはフィルムに2Dで入っているだけなので、意味なく飛び出す。意味なく飛びだす字幕は邪魔で仕方ない。シーンでもっとも飛び出しているなんてこともあって、目玉があちらこちらに動く。じゃあ、2Dで観ればいいじゃないかと思われるだろうが、3Dだよ!と謳って上映しているならば、映画以上にイベント気分で観たい。

 首が疲れるようなでっかい重いメガネで2時間観たけれど、30分の休憩後、これからまた3時間もかけることになる。3Dが日常になっていないからだろう、疲れはない。立体が楽しみである。その上、大好きな(タイタニックを除いちゃう)ジェームス・キャメロン、十数年ぶりの新作らしいので浮き足立つ。ただ、上映時間の長さが、またアカデミー狙いではないの?と気になるけれど、新作は一生観られないと思い込んでいたので、手放しで喜ぶ。「ターミネーター」「エイリアン2」「トゥルーライズ」を頭に浮かべる。あの頃のジェームス・キャメロンはいないだろうけど、たとえ憤慨するのがわかっていたとしても、どーしても観ておきたかった。

 結論から言えば、お金かけて丁寧すぎて遊びが見えない気に食わなさはあったけれど、「タイタニック」を撮る前のジェームス・キャメロンに近い映画で、とても楽しめた。キャメロンここにあり!と言わしめた「エイリアン2」「アビス」「ターミネーター」そのものではないかというシーンが出てきて、キャメロンファンにはたまらない逸品だろう。ラストなんて、「エイリアン2」そのままじゃないかと観るけれど、楽しくて仕方ない。キャメロンらしく、これでもかこれでかと、しつこいしつこい。「エイリアン2」「アビス」なんて、もう一昔も二昔も前の映画だろうから、ご覧になられていない方、ぜひ、観てほしい。

 これまで製作されたキャメロン作品は、誰かの影響を受けて作られたのだろうが、この『アバター』は、自分の監督作品に影響を受けて作ったのではないだろうか。キャメロン映画の集大成のような気持ちで観ていた。

 一見、難解な世界を展開していながら、すんなりと「キャメロンの妄想世界」に私たちを引きずる手腕は見事である。ただ、キャメロンの映画は複雑に見えて、ほとんどは、ひとつの流れに従っている。どうしようもない世界の中に希望を求め、希望が膨らみかけて絶望の底にたたき落とし、意外なところから救いの光が射し込んでくる・・・絶望の底に叩き落す様のしつこさが、キャメロンの天才的演出で、誰もが口をポカンとあけて、われも忘れて、手に汗握るという仕掛けになっている。観客は、絶望は必ずや回避され、希望の光へと変わるとわかっている。善と悪がはっきりしているし。しかし、そこらあたりのドキドキ映画ではなく、エンディングがどうあるかも忘れさせてしまう演出には脱帽する。これはスピード感ある映像展開だけではなく、おおよそ観客が想像できない仕掛けを散りばめるからだろう。

 ジェームス・キャメロンは帰ってきたのか、これで終わりか、また十数年後か・・・自分の今の映画を凌駕するアイデアを出したい監督らしいので、期待せずに待っておこう。  <85点>

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