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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

リミット

2011年01月29日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo <シネプレックス小倉>

 -記事前文削除- 前文は、削除しました。

 

 つい先日、実話をもとに作られたアカデミー賞監督の話題作「127時間」を観たけれど、孤独感は似ていても、こちらのほうが映画としてはずっと上回っている。一切遮断された部屋の中、孤独を客観的に娯楽化した最高の映画であった。映画館のほうがいいけれど、どうぞDVDでもブルーレイでも。なんならVHSでもベータでも。モノはテレビに映り、きっと手に汗握る90分のはずだ。観なくちゃ、もったいない。

 真っ暗な中から映画ははじまる。息遣いだけが長い。クローズしたままのように思える。ジッポーがどぴゅっと点火し、ようやく明るくなったと思ったら、狭い木棺の中の中に生きたまま入れられた男。木棺は土の中に埋められているらしい・・・映画をたくさんご覧になる方は、ありがちと思われるかもしれないが、この物語の他と違う面白いところは、外部となんとか接触できるところにある。その小道具が、バッテリーがどんどんなくなっていく携帯電話だ。電話は、埋めた謎の男(テロリスト、金目的らしい)からかかってくる。こちらもかけられる。アメリカ国防省へ、妻の電話へ、報道へ。この会話によって、木棺の中の男のこと、過去、妻や友達関係などが知らされる。また、電波が届くから浅いところに埋められていることもわかる。そして、携帯だから、モニターも明るいので、もうひとつの小道具となる。助けようとしているのか、テロに屈しないアメリカなのか、外部では芝居をしているのか・・・まったく謎のままである。

 多くの人と話をし、自分の状態をわかってらうけれど、この男は最初から最後まで孤独である。誰もいない。事実は、たった一人、木棺の中で生きようと戦っている姿。テロリストの用意したものは携帯だけではなく、足元にいくつかの生きるための道具を残している。すべて必要で、必要でなかった蛇の乱入まで道具で追い払う。うまく作ってある。こんな密室劇ははじめてだし、ゾクゾクワクワクが半端なく、止まることがない。ずーっと90分間、スクリーンには、埋められた男が映し出されるのみ。ラスト5分で、ようやくみつけられたようだが・・・さあ、掘り出してくれるか?青い空が?・・・映画をそんなに観ない方でも、これを面白くないという人はいないだろう。目をそむける間がない。大拍手のB級映画だ。

 さあ、もうすぐ10月。そろそろ2011年分を書きはじめますかぁ!遅いかしら?ならば、一か月一本だけで、あとは削って。書きたい映画と、書きたい旅と、書きたい心を書いていきます。幸いなことに、プライベートで、このブログを知っている人はとても少なくて、知っていても読んでない。トホホ・・・ありがたい、じゃあ、好きに書くさぁ。  <95点> 


アフター・ウェディング

2007年12月28日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo  <梅田ガーデンシネマ>

 多くは、今日が仕事納めらしい。暮れから新年まで、うまい具合に曜日が決まり、12月29日から1月6日までの9連休となっている。お盆や黄金週間より、私はこの冬の、新年を迎える休みが好きである。1月1日から、もう一度、一歩からやり直そう。だが、私は12月31日の大晦日まで、仕事場に行く予定にしている。今日は早めに切り上げ、歯痛で果たせなかった「2007年最後の3本ハシゴ・パート2」をやる。歯痛で苦しんだあの日は、全国絨毯爆撃映画だったが、趣向をまったく変えて、ミニシアターの3本ハシゴである。今日の朝早くに、今年最後の歯科医に行き、痛みはウソのように消えている。次の予約は来年の1月7日だ。大阪から故郷に帰ることを告げる。

 12月31日で、仕事場からはサヨナラするけれど、このままでは私しかわからないビデオテープや素材が恐ろしい数で、それらはン百時間に及び、これらを整理するために、また、故郷でも続きの仕事ができるようにと、1月半ばまで大阪に滞在することにした。業務用テープから、DVDにダビングする作業も時間がかかりそうだ。実家に帰っても編集機がないので、すべてをDVDにする。

 15時を過ぎ、仕事場から退散。15時40分に梅田新シティに着いた。年末の16時10分の回に人が入るわけがない。観客は私を含め、5人だった。

 2007年のアカデミー外国映画賞にノミネートされたデンマークの映画である。監督は女性。同じ監督の「しあわせな孤独」「ある愛の風景」は、ハリウッドのリメイクが決まっている。それに、次回作は、ドリームワークス制作で、この女性監督、ハリウッドデビューするという。日本映画も、この頃はいい女性監督がでてきた。「アフター・ウェディング」という、なーんとなく物語が想像できそうな、甘ったるそうな映画かな?と、思われるだろうが、私は予告篇から、まったく違ったイメージをもった。『愛は死なない』などという、つまらないコピーが邪魔だ。それで、客入りが悪いのかと思う。タイトルとキャッチコピーの負で、ちょっと作品がかわいそうな気がするけれど、本作は、素晴らしい構成、脚本、演出、演技を堪能できる秀作である。

 物語はインドからはじまる。孤児たちの資金援助のために、デンマークの実業家のもとへ行く主人公。インドの孤児たちなどどうでもいいようで、快諾はできないという実業家の言葉と態度に、まず、観客は完全に騙されてしまうだろう。この前フリが見事で、途中、莫大な資金援助へと変わるのだが、予想がつきそうで、しかし、それを裏切る見事な展開が待ち受けている。この観客への裏切りは、想像もつかない展開をさせたいというだけで、ガクッとくる場合が多いのだけれど、意外な新しい事実、ある人物の仕掛けに驚かされるばかりだ。それに、彼ら、彼女らの感情、行動、台詞も意外である。人というものを描ききっている。

 テーマを言えば「真実の愛」「生と死をみつめること」「誰にもわからない孤独」「富と貧困」・・・そんな単純な言葉が思いつく。しかし、これらを単純な流れにまかせることなく、サスペンス的な仕掛けをプラスすることによって、どんなジャンルであろうかというほどの新しい世界の映像がスクリーンに広がる。構成は単純ではないが、それらは構成、脚本化の苦労のおかげで、とてもわかりやすい物語に仕上がっていた。迷うところはワンカットもない。演出もいいし、俳優の感情移入ぶりに震えがおこる。すべてにおいて成功している、見事としか言いようがない一皿を、映画ファンでなくとも、ぜひ、召し上がれ。

 本作は、物語をすべて書こうと思っていたけれど、やめた。やはり、映画館で、この感触を堪能していただきたい。スセンネ・ビア監督。しっかり、名前を覚えておこう。  <95点>

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この道は母へとつづく

2007年11月19日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_2 2 <梅田ガーデンシネマ>

 中途半端な寒さがいけない。寒くなるのなら、耳が痛いくらいの方がいい。鼻がズルズルいっていた方がいい。寒いけれども、昼間、ちょっと日差しが暖かかったりするこの季節が苦手である。昼間もやや寒い。ダウンジャケットが暖かくしてくれるけれど、梅田駅から遠い新梅田シティまで歩くと汗が出てくる。脱ぐと急に寒い。雪がふるほどに寒くならないかしらん?と、旧貨物車両場に向かって歩く。まあ、秋から冬になるのは、一生のうちでン十回しか体験できないわけだから、いいところを探そうと思う。けれども、毎年、苦手だ。みんなが好む、冬から春に向かう季節よりはマシであるけれど。

 起きたのは昼前で、とろとろと動いてでてきたので、まもなく日暮れ。なんという生活ぶりPhoto_4か。自由と 身勝手が混ざり合っている。故郷にもどって、まともな生活になるには、どのくらいかかるかと思う。新梅田シティ、西へ向かっているが、西日がさしてきて暖かい。そろそろサラリーマンやOLが退社する時間だけれど、これから私は2本の映画をハシゴする。ロシア映画の「この道は母へとつづく」と「めがね」である。「めがね」は、封切からすでに2ヶ月。観にやってくる機会がなかった。なんばパークスシネマのシネコンでも上映してくれたけれど、すぐに終わっPhoto_5た。機会を失った。いや、機会はあったけれども、新梅田シティが遠くて敬遠していた。自宅玄関前から 1時間もかからないのに、けしからん映画ファンではあるが・・・。さらに、前作Photo_6 の「かもめ食堂」よりも上をいく作品が、一年やそこらで封切 られることに疑問も感じていた。だが、2ヶ月もロングランし、12月に入ってもまだやるのだみたいなスケジュールを見てしまうと、ムズムズしてきた。「めがね」を観ていない。他のレビューは一切読んでいないので、いいのかどうPhoto_7かもわからないけれど、一人、取り残されているような気がしてきた。というわけで、今日は絶対にガラガラの梅田ガーデンシネマへ行く。

1  新梅田シティの一階は、クリスマスを前に賑わっている。毎年、うろうろするけれど、もうあれから一年も経ったのか。大きなクリスマスツリー、木造の2_3 メリーゴーランド、たくさんの出店・・・毎年同じだが、映画を2本観る前にのぞいてみる。まだ明るいので、電飾はない。電 飾のないクリスマスツリーはどこか寒い。玄関の入口も装飾が3施してある。もう2時間もすれば、キラキラと輝くのだろう。去年に続いて、今年も一人ぼっちのクリスマスだけれど、一人ぼっちのクリスマスもいい。雑踏は嫌いだが、華やぐ街の電飾、コートにくるまれて歩くカップルや家族の姿を見ていると気持が温かくなる。一人ぼっちには一人ぼっちの楽しみもある。映画を観終えて出てくるころは、暗闇にきれいな電飾が輝いていることだろう。

 テケツに行ったのは、上映時間の15分前だったが、「この道は母へとつづく」は整理番号がPhoto 8。「めがね」は1だった。この映画館は、水曜レディースディと土曜日曜に観客が集中し、立ち見までやってくれるのだが、平日はガランとしている。混雑しているかガラガラか、中間があまりないように思う。私は招待券を持参していて、申し訳ない気持で、整理番号を受け取った。上映が1回1日になったとはいえ、「めがね」の整理番号1にはびっくりした。もしかしたら私一人だったりして、と思う。外は中途半端な寒さでも、劇場内はムッとした暑さで、冷たいコーヒーを買う。ダウンジャケットを脱いでも暑い。こういう環境が、私を風邪に導く。

 あまり行きたくもないけれど、トイレで用を済ませる。映画を観る前は行きたくなくても行くよPhoto_2 うにしている。したくないけれど、いざ便座を前にすると、どこで溜め込んだのか、どこから出てくるのか、少しでも出る。病院で尿検査をするとき、自宅でしてきたのに、なぜかいつも出る。病院で、モヨオスのを私は待ったことがない。不思議だ。さて・・・ここのトイレには、以前から・・・少なくとも3年以上前から・・・「市民ケーン」のポスターが額入りで飾ってある。貴重なものだと思うけれど、額に入れて、立てかけてあるだけで、盗もうと思えば片手で持ち上げられる。客の質がよいのだろうと思う。盗まれることはないのだと映画館は思っているのかもしれない。みんな、立ったまま用をたしながら、目の前のポスターを読んでいる。

 ここまで書いて、どう読んでも意味のないことをダラダラと書きなぐっているなと反省。読んでいただく方には申し訳ないけれど、こういう前置きが私のひとつのスタイルになってしまった。しっかりとした薀蓄もたまーにあるので、見捨てないでね・・・そういうわけで、私はあまりストーリーを書かずに注意して書いているけれど、本作については、かなりストーリーと並行して書いていくので、観ていない方はご注意を・・・。

 ロシア映画「この道は母へとつづく」は、最近、ミニシアター系を観ていないということもあるけれど、今年に観た外国語映画の中でも、ベスト3に入るのではないかと思うほど、私としては素晴らしい出来ばえだった。実話を基にした物語だという。基にしているので、ノンフィクションではなく、フィクションだが、映画の世界としては別段、なんでもない物語ながら私は引き込まれた。孤児院で育つ少年達、孤児院で働く大人たち、ワルの仲間からやっつけられる弱い存在。それでも、本当の母に会いたいと抜け出して旅に出る少年・・・そう書くとありきたりだけれど、日本的でもなく、アメリカ的でもなく、西洋的でもない映像世界が広がる。そこはロシアの名もない町。川も凍る極寒の中、大人のずるさを知りつつ、自分の本当の母は、そうではないと信じて、養子が決まったことを知ることをきっかけに、脱走し、旅立つ。わかってくれない大人たちを助ける仲間も現れる。自分が咎められても、仲間を助ける友もいる。大人たちは、養子にする新しい両親からもらうお金のために、少年を追う。自分を捨てて、孤児院に入れた母と、お金持ちの新しい両親とどちらがいいか。ベッドで毎夜、考えるが、邪心はこれつぽっちもなく、産んでくれた本当の母を求めて、遠い知らぬ町へと走る。

 親の愛を受けずに育ち、大人のずるさばかりを見てきたけれど、少年はそれでも大人に頼るしかない場面に出くわす。バスに乗りたいと迷い、そこで出逢う優しい大人たち。はじめて、敵ではない大人と接する少年。でも、まだわからない。頼るのは大人でも、信じるのは自分だけ。6歳のあどけない表情が気持を温かくする。違う町でも少年はカツアゲされ、人間そのものも信じられなくなるけれど、生きる為に、母に会う為に、毅然と人と接する。

 どうか、この子を母のもとへ!そんな叫びをあげたくなる。幼い頃に居た孤児院の院長の子供に対する愛情が半端ではなく、私はぐっときた。大金を提示されたにもかかわらず、それには一縷の興味もなく、少年を優しく出迎える。お金なんかよりももっと大切なものがあるということを身に沁みてわかっている。それは、院長の服装でもわかる。逃げ出した孤児院とは対照的だ。それでも少年は、目をぬすみ、自分だけを信じ、母がいると信じて、もたされた住所の地へ向かう。途中まで追いかけてきた妻に頭のあがらない男。妻の言いなりに動く男・・・この男が、少年のある行動で、自分を責めるように、少年をかばうことになる。ここでも、ぐっとくる。いつかはそうなると予想できたけれど、頑固な男が、180度、心を反転する瞬間の自分に対する哀れな顔はなんと言い表せばよいだろう。ここまで追ってきながら、男は、少年を抱きしめる。そして、少年を自由にすることによって、自分も自由になったことを知る。自由になることは、すべてのモノを失くすことだとわかっているけれど、男はそれを選んだ。少年の夢を叶えてあげる為に。人生はお金もうけではないと、男ははじめて少年に知らされる。大人たちはわかってくれないけれど、わかってくれる人もいて、わかろうとする人もいる。このことを少年はまだ知らないけれど、ラストのカットから何年か後・・・いつか心から知る日がくるだろうと思う。

 ラストカットがいい。あの煌めくような輝くような、それでいて不安のある表情。幼い俳優に、これほどの心の模様が顔に表現できるとは・・・。少年のこれからはどうでもいい。きっと逞しく生きていくはずだ。あのラストカットは、オッサンの私の心までもきれいに洗ってくれたような気がした。目にはみえないけれど、とても美しく輝くものをみせてくれた。   <90点>

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めがね

2007年11月19日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

2_2 Photo_3   <梅田ガーデンシネマ>

 じっくり重い心持ちで外の空気を吸いに行く。もうあたり は真っ暗で、空には月が出ている。半月だ。中途半端に寒いが、新梅田シティのクリスマスの電飾をながめていると気持が 温かくなる。ツリーの真下から見上げると、空中庭園の吹き抜けが遠くにあり、カメラと腕がよければ、なかなかの写真になりそうだ。

 見上げながら、煙草を一服するが、もうそろそろやめようと思っている。今年の3月、ある事1情で、長年喫っていた煙草をやめた。1日32箱も喫っていたヘビースモーカーだったのに、一日でやめた。ところが、あることがきっかけで、6月の最終日にまた喫いはじめ、7月の頭にまたやめた。そしてまた、あることがきっかけで、8月12日から喫いはじめた。しかしもう、煙草が自分の体にも、周りの人にも悪いとは、喫いはじめる前からわかっているので、やめる。喫煙に関する本を読むと、ずーっと喫っているよりも、こういうふうに喫ったりやめたりを繰り返すことは特に体に悪いらしい。それもあり、体はなおさら、疲れやすくなっているのかもしれない。

 だが、あまりにも世間は、煙草を毛嫌いしすぎる傾向にある。300円の煙草の価格のうち、税金は190円らしい。税金がかかってなかったら、もとの値段は110円だ。税金を喫っていると、嫌煙家は馬鹿にするけれど、もし、煙草を喫う人が誰もいなくなったら、即座に消費税を10%にしなければならない。それくらいの税金が、煙草税として活きていて、帳尻があう。煙草も反対、消費税も反対というわけにはいかない。煙草を喫う人は、消費税を5%のままに抑えておける貴重な存在なのだ。いっそのこと、消費税を10%にして、日本を嫌煙国にしてしまえばいいが、そうなると、ヤクザが出てきて、資金源になる。裏の売買は、約3年くらいは大丈夫だろう。警察も目を瞑るはずだ。違法なものでも、歴史からみて、3年間は黙っている。そして、3年経ったあたりに、見せしめ逮捕をする。その3年間、ヤクザは強大になる。さて、その後、どうなるか・・・どうでもいい。私は煙草と縁を切ることにした。理屈、屁理屈は抜きにして、体に悪いからやめる。

 と、またまたつまらぬ事を考えて、ガーデンシネマに戻ってきた。整理番号は1だけれど、ぎりぎりに入る。観客は10人もいない。私以外、すべて女性だった。前年の「かもめ食堂」を私は誉めまくった。優れていると思ったからであるけれど、それほど評価していなかった監督だったから、腕の上がりっぷりに驚いたし、次回作を撮るのは大変だろうと思っていた。しばらく時間をかけて練るとふんでいたのだが、今年、本作が公開された。めがねという題名・・・その予告篇・・・出演者陣をみていると、狙いすぎた映画だろうと考える。オープニングから10分くらい、あの前作が頭にあるから、気張ってるなと斜めに観る。だが、その斜めの姿勢が徐々にまっすぐになり、素直な自分があらわれた。

 彼ら、彼女らはいったい何者なのか・・・なぜ、集まってくるのか・・・いったいここはどこなのか・・・その説明すらないけれど、黄昏の場所だという。台詞は多くないが、台詞の少なさで観るというところを尊重している。観てわからなければならないシーンはない。語る必要がないのだ。そして、特筆すべきは、ほとんどのすべてのカットの構図である。4人、または5人を狭いヴィスタサイズにおさめ、それが見事な写真、絵の一枚となっている。右左、上下に無駄な空間がなく、きれいな立体的構図としている。監督のカメラマンのこだわりだろうが、とても美しい。対人の切り返しカットでも、人物の顔とあわせて、同じ幅の空間を作り、中途半端のようだけれども、数枚重ねるときれいな画になっている。数枚で一枚と考えると、カットしているのだが、流れの立体的構図である。

 台詞の少ない、構図を大切にする、誰だかわからない、なんとも不思議な空気感、世界観ものは、これまでにたくさん観てきたはずだが、本作は、これまた別のもので、従来のそれらとは新しく、まったく一線を画している。スクリーンに漂う空気感はただものではない。タイミングと間も実にいい。黙っている時と台詞との微妙な時間。これは、秒単位にかかわる。ずっと空気感を変えない。シーンの転換で、俳優はそのままタイミングと間をそのまま受け継ぐことをとても求められただろう。意外なカメラ移動はないので、俳優は、タイミングと間を頭にいれておくだけでいいけれど、年季の入った、現場経験の長い俳優でないと、難しい。何気なく演じているようにみえて、監督は厳しい演出を求めているはずだ。俳優陣を言うならば、もたいまさこが、この作品の中心を担い、そのまわりに2人の男、2人の女がいるほどのカリスマ的存在感になっている。主演ではないけれど、物語の扱いとしては主演だと言ってもいい。もたいまさこがいないと、何も先に進むことができない。もたいまさこ・・・上手いなぁ、この女優。なにをやらせても上手い。ジャンル関係なく、実にいろんな映画に出ているけれど、監督がつかってみたい女優の一人なのだろう。

 空気感がただものではないのは、観客にすべてを打ち明けていないからでもある。バラバラの5人の男女が集まっただけで、過去も知らされない。なぜ、この自然溢れる場所に集まったか、明確ではない。なぜ、もたいまさこが春になると現れるかもわからない。その間、なにをして生きているか、どういう人かもわからない。だが、もたいまさこは、この場所の中で、すべての人にとってもっとも憧れの人物であることがわかる。もたいまさこの自転車の荷台に乗ったことに異常な反応をして、それに嫉妬する人たちが面白い。十分な説明がなされていないのにクスッと笑えてしまうのは、自分でも不思議な感覚だった。

 さて・・・「かもめ食堂」の次に撮る作品は大変だろうと思って、遅ればせながら観にやってきた私だったが、「めがね」は、「かもめ食堂」よりも完成度が高かった。誰の評論も読んでいないし、チラシの裏側すら読んでいず、まったく無知識のまま観ることができてよかった。姿勢は、何がはじまるのかわからないまま、椅子にもぐりこんで観ていたけれど、途中から背筋をのばした。ふと右前を見ると、若い女性が一人、身を乗り出して観ているのに気づいた。身を乗り出すと頭がスクリーンに重なり、いけない行為だが、ガラガラの今日は大丈夫だ。身を乗り出して観る気持、よくわかる。「かもめ食堂」「めがね」ときて、次は何を撮るか・・・すでにいくつかためこんでいるとしたら、次回作も期待できる。女性の映画監督で、なかなか名をのこす人は現れないけれど、この監督は、歴史に名を刻むだろう。  <95点>

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ソウ4

2007年11月18日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

4  <TOHOシネマズなんば>

 昨日から、大阪の街も、ブレザーだけでは寒くなってきた。クリスマスツリーがあちらこちらに立ち、秋も過ぎていったのだろう。今年も終わろうとしているなと思う。2007年は喜びも悲しみも多くあったが、総じて今年という年を見ると、人生の転換期なのかもしれないと思う。これでよかったのだ、だからよかったのだと、負の部分もありだよと自分に教える。

 部屋に居ても寒い。ダウンジャケットを引っ張り出し、着込んででかける。大阪とはサヨナラだけど、大阪市長選挙に寄って、地下鉄に乗る。何を観ようかと思うが、作るごとに観客人数を増やす「SAW」をやっばり選びたい。梅田のシネコンでは2スクリーンで、なんばのシネコンでは3スクリーンで上映している。東映、松竹系も共同で配給している。第一作は、梅田の一番小さいスクリーンで上映していたのに、この客入りはどうしたことだろう。

 先日、DVDで1から3までを見なおしたところで、覚えているうちに観たい。封切前日の金曜日の夕方から「SAW一気観!」という、最新作まで4本を連続で鑑賞するというイベントがあり、観なおすならば、格好の機会だけれど、仕事で無理だった。DVDで見たばかりとはいえ、どんなに大きなプラズマテレビで見たとしても、劇場とはまったく違う。行きたくてムズムズした。スプラッターには偏見のある人が少なくなく、敬遠されがちだが、このシリーズは、脚本が素晴らしい。その上、撮り方が凝りに凝っている。ただならぬスプラッター映画である。

 先日、Keiさんと、映画館で観る映画と、DVDで見る映画について話し、とても盛り上がったが、Keiさんは、実際に風景を眺めるのと、絵葉書で見るほどの差があると仰った。これには、私は深く頷いた。喩えがうまい。映画館で映画を観るのと、DVDでハイビジョンプラズマテレビで見るのと、どう違うかは、いろいろ賛否あるだろうけれど、もっとも違うのは、知らぬもの同士が集まり、同じ空間、時間の中で、同じものを観て、それを共有するところだと思う。観終えたあとの思いは様々だけれど。

 映画館のスクリーンをリモコンでフリーズするわけにもいかず、好き勝手な時間にはじまってもくれず、少々のトイレは我慢しなければならず、お喋りもできず、携帯電話もオフにせねばならず、それらを考えると面倒だけれども、その自由のなさが、映画だけに集中させる気をもたせる。映画を観ながら他のことを考えてもいいけれど、束縛された環境、それもみんなが束縛された環境である居心地のよさというものがあるのだ。説明不足だが、あらためて考えなきゃならないし、長くなるので、この辺で。そういう意味で、私は映画館で観た映画と、DVDで見た映画を同じブログ内に並べたくない。同じ次元で語ることができないし、それを混ぜて書く能力が私にはない。映画は映画館で観なければならない。映画撮影現場では、誰もDVDで見てほしいなんて思って撮ってはいない。

 「SAW4」なんてなくていいじゃない?3で終わればよかったのに・・・そんなレビューをたまたま読ませてもらったので、やはり、4までいくとダメかと思いつつ指定席に腰を据えたけれど、私としては、3と匹敵するくらいによくできていると思った。時間軸がどうなっているのか混乱するし、多くの意見にあるように、1の前に飛ぶのはちょっと無理があるのかもしれないが、本作は、さらに多くの人を配していながら、これまでの人物も出してきて、謎解きでありながら、そんな考える余裕を与えない構成、脚本、編集技術だった。1、2、3をここまで混ぜ込んでしまっているのだから、ちょっと無理があるのはまあ、いいんじゃないの?と、寛大な気持ちになる。殺しの罠も、毎回、惨酷性を増すけれど、前作より、前作よりと望む観客へのサービス精神だ。サービス精神なくして、こんなスプラッターサスペンスなんて作っていられない。一応、テーマはあるけれど、しかし、それを考えさせられる以前に、楽しませようとする制作者たちの気持の熱さが伝わってくる。惨酷であればあるほど、観客の血は高ぶるだろう。その辺がよくわかっている。

 ジグソウは確かに死んでいた。私は、脳だけが生きてんじゃないの?なんて単純な発想だったが、観客がそのくらいのことは思うだろうとしたのか、まったく予期できない展開になる。この脚本家は、数学者か?と思う。観るべきは物語であるけれど、その物語のスピーディなみせかたに驚く。あちらこちらに散らばった人物のシーンを途絶えなく次へ次へと移すため、不思議なワイプ処理をしている。だからこそ、物語は止まらない。このあたり、うまい。ほっと一息つく間を与えようとはしてくれないのだ。4作品が溶け込んで進む箇所がいくつかあり、あれ?これどういう意味?と思うところもある。私は、必ず、もう一度、観によこようと、字幕ロールを観ながら思った。少しわからない箇所があるけれど、それでも高いレベルのパート4だ。まだ作るつもりなのか、解決させるつもりはないのか、中途半端なカットでエンディングになる。

 偏見をもたれてしまう、間違いなくエグいスプラッターだが、4作を通じて、こんなにうまく計算されたスプラッター映画は、他に思い浮かばない。第一作公開のとき、ミニシアターレベルで上映されていたけれど、何でも観る私は、ドキドキして、満足して帰った。いろんな人に、この映画の面白さを伝えた。今日のいま、映画館に「大絶賛上映中」とある。上映2日目で、大絶賛とは早すぎるし、ただ、客入りのことを伝えているのだろう。その前に、劇場ポスターに刷ってあるのだろう。なんでもかんでも大絶賛のポスターがあちこち見えるけれども、「SAWシリーズ」においては、大絶賛したい。ただし、これは完全に続き物なので、これだけを観てもわからない。DVDでもよいので、前3作品を見てから楽しんでもらいたい。本当に面白い。先日、ヘアスプレーを映し出し、心をときめかせてくれた同じスクリーンで、今度はドキドキゲロゲロさせてくれる。映画を観ずにはいられない。  <90点>

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スターダスト(字幕版)

2007年11月18日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズなんば>

 「SAW4」の興奮が冷めやらぬまま、15分の休憩をはさんで、本作を観る。朝から何も食べてないのに気づき、ホットドックとポテトを買って、指定された席に座った。本作は、いつからはじまったのか、そんなにロングランでもないはずだが、1日1回のレイトショーのみとなっている。

 「もののけ姫の実写版を観ているようだ!」「もののけ姫英語版脚本の!」・・・この宣伝文句、実につまらない。私は、数々の賞を獲り、みんなが絶賛した「もののけ姫」を好きではない。けれど、大ヒットしたわけで、海外でも絶賛されたわけで、これに便乗しようとしているのかと思うと溜息が出る。続けて「SAW4」を観たいとも思ったけれど、すでにチケットを購入してある。豪華なキャストで、予告も壮大なのに客入りが悪い。きっと2時間かけて駄作を観るのかと思う。そう思いながら、チケットを買う私も私だが・・・。

 要するに、宣伝が下手だったのだろう。私は最初から最後まで、楽しくて楽しくてたまらなかった。ロード・オブ・ザ・リング的な楽しさに、クスッと笑える要素を盛り込んでいる。善と悪の戦いは、映画の歴史はじまってから100年、現在に至っているけれど、飽きない。悪だと思っていた者が実は善だったり、善になったと思った者がやっぱり悪だったりするのも仕掛けがうまいので、楽しめる。「もののけ姫」とは関係ない。あの絶賛されたアニメより、数段も上をいく、冒険ファンタジーの世界だ。こういう種類の映画には、お決まりの魔法、変身、恋愛、ロード、裏切りがあるけれど、もちろん本作にも全部ある。それらがごちゃまぜにならず展開するため、流れがとてもわかりやすい。ひとつの柱に、3つの物語が同時進行するけれど、わかりやすく編集されている。CG、映像、音響も半端ではない。すさまじーっ!日本語吹替え版が上映されていたようだが、子供も楽しめる。目をむいて楽しむだろう。頭は子供でも、ナリはオッサンの私も子供のようにはしゃいで喜んだ。人が少ないので、聞こえないように、足をばたつかせて楽しんだ。

 ミッシェル・ファイファー、とんでもないメイクで登場するけれど、いつまでも美しい。この人、昔、思っていたゴールディ・ホーンのように、歳をとらないのじゃないかしらん?と思う。最近になって、積極的に悪役中心でスクリーンでお目にかかる。ロバート・デ・ニーロも、らしい役ででありながら、あのはじけっぷりは笑顔になる。あんなことやらせていいのかしら?だけれども、とても楽しく演じているのが伝わってくる。不思議不思議のファンタジーの世界で、みんなが面白がって作ったんだろう。撮りとしては、実写とCGの境目がまったくわからず、どうなっているのかさっぱりだけれど、俳優は、スタジオ内でロケーションと同じテンションで演じるので大変だ。最後のロールスーパーに、グリーンバックという職人の名前があるけれど、俳優を実写とCGに合成する為だ。この合成するクロマキーという手法は、デジタル合成の時代になっても活きつづけている。

 どうしてこんなに面白い映画を観に来ないの?日曜日のレイトショーとはいえ、観客は10人足らず。先週のレイトショーの「恋空」のン百人とはまったく違う。ジャンルからなにからすべて違うけれど、どう贔屓目にみても、本作の方が上をいくぞ。3時間でも鑑賞時間に耐えられる映画だと思われるが、上映時間は2時間8分。詰めに詰めて、面白いところをぎゅっと絞って、濃縮した感じだ。濃縮して無駄が無い。美味しいところをいただきました。「SAW4」の連続観をしなくてよかった。

 今日は、2作品とも満足した。まったく違うタイプの映画だったが、楽しかった。大満足でシネコンを後にする。すでに時計は0時をまわっていて、大阪一の繁華街でも、日曜日の夜は人も少ない。このまま、針中野に出て、タナベキネマで朝まで映画を観るつもりだったけれど、早めに帰って、今日という日を書いてしまおう。  <90点>

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ヘアスプレー

2007年10月24日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズなんば>

 どこでどんな災害が起きているのか、事故が起きているのか、殺人が起きているのか・・・いやなニュースばかりなので、こういう書き方になるけれど、日本で、世界で、地球で、何が起こっているのか、この一週間、私は世間のことを何も知らない。帰って寝て、起きて出かけて、帰って寝る。これを繰り返している。仕事に専念して、次々とこなしているというのは良いことではあると思う。世間で何が起こっているかなんて、ニュースなどを見なくても十分に生きていけることをあらためて知る。遠くを見て・・・何の情報もなく一週間も過ごしたことは・・・本当に久しぶりだと瞼をパチパチさせた。感傷に浸っているわけではなく、目が疲れているだけであるけれど。けれども、映画を観る、観たい者にとって、ちょっと酷な日々が続いている。しかし一方、観たいと思うことそのものだけで、実は幸せ者なのかもしれないとも思う。

 支離滅裂で矛盾したことを承知で書くけれど、人間に生まれたからには、いつかは死ぬわけで、死するときまで映画というものが続くならば、年中、映画を観たいと思っている者には、別の意味で残酷なことだ。映画館で予告篇は、いつまで流れるのだろうか。人類の歴史に、最後の映画が公開されることはあるだろうけれど、世界を狭くして、私個人が最後に観る映画はなんだろうかと漠然と思う。最後に観たい作品をと言われれば答えられるかもしれないが、実際に最後に観る映画が1本、未来にある。予告篇くらいならばいいけれど、もっと先の情報が耳に入ってきたら、指をくわえて待ち望んでいるしかない。待ち望み、やっとスクリーンで観られる時は、自分もそれだけ歳をとっている。やっと観ることができると、映画館の椅子に座ったその日は、情報を知った時より死に近づいているということになる。

 以前にも書いたおぼえがあるけれど、私たちや私たちのまわりは、待つことばかりで、待つことは即ち死へと向かっているのだから、死に急ぐことを神は人に与えたのか。インディアナ・ジョーンズ4の制作を聞いたのはもう10年以上前で、ずっとそれを待っていた。いよいよ来年の公開だが、三十代前半だった私は、四十代半ばになってしまった。その間、待ち望んでいた人たちは、どのくらいの人数で亡くなったろうか。映画大好きで、私たちに映画の素晴らしさを教えてくれた淀川長治氏は、亡くなる瞬間、観たい映画をいくつも考えただろうか。

 いろんな映画情報が乱れ飛び、それを楽しみにしていたけれど、いくつも公開が先延ばしになったり、途中で消えていったりした。29歳の時、パニック障害で発作が出て、今まさに死ぬのではないかという体験をし、あの頃から、私は映画の情報誌を読まなくなった。正確には、読みたくなくなった。それから、ほとんど読んでいない。映画の知識は、あの時点で止まっている。チラシもほとんど読まない。自殺なんてつまんないことを思ったこともあるけれど、突発的に死と直面すると、生きたいと切に願った。元気で生きていることだけで人間は幸せなのだ、これ以上の望みはあるものかと真面目に思った日もある。それでも私は勝手なもので、元気だとか平凡だとかいうものより別の世界を手に入れようとする。本来ならば、元気で生きていることが幸せであり、その上、映画を観ることができているのは過分なことなのに、それに感謝していない。

 だが、少しだけ変わった。映画を観たいと思い、しかし観れぬ日が続いているけれど、観られないと嘆きながら身体を酷使してでも仕事ができている自分は、その時点で幸せ者なのだ。そんなことを最近、思うようになった。そうすると、観る作品の一本一本がとても大切で、自分の時間も大切になり、あまり文句も言ってられないことに気づく。1年前は、ボロクソに映画作品を批判したこともあったが、ここ数ヶ月、あまり辛辣なことは書いていないつもりだ。辛辣だと思われる方もいらっしゃるけれど、まだまだ序の口で、昨年だったら、私はもっと酷い評を書いただろうと思う。これは、人間に丸みができたのではなく、力量をこえた仕事をこなしていくうち、映画を観たくても観られない状態に立ち、映画に対して、もっと愛着が湧いてきたのだと感じる。だから、つまり、私の感想や点数は甘い。どの映画を観ようか迷っている方は、参考にならないかもしれない。どの作品が好きか以前に、映画が好きで、お勧めならば、すべてお勧めと、今の私は答えるかもしれない。それでも、人生で最後の1本はある。映画の好きな人は、こういうことを思ったことがあるだろうか。すべての人に最後の1本はあるけれど、映画を生活の中に溶け込ませている人は、また思いが違うだろう。

 映画が舞台になって、映画でリメイクだという。この頃、リメイクが流行る。日本を含め、アジアの作品をハリウッドとしてリメイクするのも流行る。ネタが本当にないのだろう。嘆いているわけではなく、私としては、それもありである。そういう時期かもしれない。以前は批判していたが、ちょっと考えが変わったようだ。

 リメイクでも何でもいい。人生最後の1本が必ず存在するのならば、こういう映画を最後に飾りたいものだ。観終えた私はそう思った。ミュージカル映画はそれほど好きではないとしながら、昨年の「プロデューサーズ」は手放しで楽しんだ。過去を振り返ると、高校生の頃、「ブルース・ブラザース」は、観終えた後、サントラ盤を買って帰った。生まれてはじめて買ったサントラ盤だった。大学生の頃、「ウェストサイド物語」のリバイバルを観た帰りにもサントラ盤を買った。ステレオは故郷にあり、ラジカセしか持ってなかった私は、カセットテープを買い求めた。これは、擦り切れて、テープがグチャグチャになるまで聞いた。ミュージカル映画を嫌いだと言っているわりに、行動が伴わない。嫌いだと言っている一方、ミュージカルは、第七芸術の中で、最も最高にあるとも思っている。映画プラス歌って躍るのだから、これほどのエンターテイメントはない。ある意味、卑怯だなと思うので、本質的に好きだと言えないのかもしれない。ひねくれている。

 オープニングからエンディングまで、ほとんどのシーンがミュージカル仕上げになっている。もう、はじまって1分も経たないうちに、度肝を抜くような渾身のシーンが待っている。この一発だけで、私はノックアウトだった。疲れや辛さを瞬時に吹っ飛ばしてくれる。自分が何者かもわからなくさせてくれる一曲だ。セットからロケへとカット割りをするとき、ミュージカルというものは、どうやって呼吸を考えて撮影進行しているのだろうか。音楽を流しながら歌うMTVとは違い、カットカットのバランスが求められるわけだから、その計算は大変なものなのだろう。数学に強いものでなければ、カット割りが困難だ。私は、カラオケビデオの撮りでも頭をひねるので、こんなシーンにはただただ驚くばかりだ。スタジオのみの撮りならばわかるけれど、出たり入ったりは、スクリプターも頭を悩ませるだろう。扉を開ける閉めるタイミングの中で音楽が流れている・・・カットのはじまりと終わりの何フレームかも大切だ。それがくるってしまうと、編集できない。

 1980年代のリメイクだけど、人種問題の打破、差別撤廃にまつわる場面、曲が多い。60年代を舞台にしているからだろうが、人の考え、意識が変わりつつある転換期の60年代をどうしてもセッティングしたかったのだろう。60年代を舞台にすることによって、現代よりも若者を活き活きと動かすことができるのかもしれない。アメリカでも、夢を大きく抱いていた、抱くことができた時代だ。悪役が多くなったミッシェル・ファイファーも歌い踊る。クリストファー・ウォーケンも歌い踊る。それだけでも映画ファンは楽しい。ジョン・トラボルタが重いメイキャップで重く踊る。その設定も好感がもてる。主役の女の子も、あんなにダイナミックに踊って、どうして体型が?と思いながら、途中からとんでもない可愛い女性にみえてくる。わくわく心弾ませて、何もかも忘れさせてくれる映画だった。ひとときでもこんな時間がもてたこと。映画を観続けていてよかった。人生最後の1本でもいいような気がした。とはいえ、まだまだ観たいのだが・・・。

 観終えたら夜の11時を過ぎていたが、もっともっと映画を観たいと、私は1年以上ぶりにレンタルビデオ店で映画を借りた。すでに観ていたが、続編を観る前にと「ソウ」「ソウ2」「ソウ3」を借りる。『ヘアスプレー』とは何の関係もない、ある意味、真逆のタイプの作品だが、スプラッターもここまで練れば、純粋に面白い。帰宅して1と2を観たら、夜があけてきた。何時間か寝て、バタバタとややこしい仕事が待っているけれど、身体は少々つらいけれど、『ヘアスプレー』の余韻は続き、苦しさが目の前にあることなど、ちっぽけなものののように思えた。大袈裟なのはわかっているけれど、『ヘアスプレー』なんて映画を観られたことだけで、それは人生の中で、幸せと呼べるもののような気が、今はしている。  <95点>

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包帯クラブ

2007年10月02日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_8  <なんばパークスシネマ>

 上映前、先日のホクテンザのトラブルと同じようなことが起きた。巨大なシネコンでは珍しい。予告の途中で、映写が止まった。その瞬間、電気がついて、パッと明るくなった。どういう仕掛けかわからないけれど、何か機械的トラブルがあると、明るくなるのだろうか。30秒経った頃、若い男性が現れ、「ただいま、映写機のトラブルが発生しました。すぐに復旧しますので、しばらくお待ち下さい。」と言い、そのまま、客席を向いて直立で待っている。1分くらい経った。胸についているマイクでなにやらやり取りをしはじめた。映写室とつながっているのだろうか。「お待たせ致しました。上映を再開します。ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。」などと言って、そのまま立っている。場内が暗くなり、上映がはじまると、男性はゆっくりとソデに消えた。つい先日のホクテンザと、本日のなんばパークスシネマだったから、私はその違いを楽しんだ。どちらが丁寧だとか無作法だとかではなく、理屈ではなく楽しい。

 さて、ファンタスティックフォーをとても失礼な観かたをしてしまって、映画好きとしてはけしからんと自分でも思う。本作だけを目指して勢いよくやってきたので、けしからんことになった。勢いよく目指してやってきたのは、主演俳優と予告篇だけによる興味である。それだけで、こんなにわくわくするのは何故だろうか、自分でもわからない。柳楽優弥の出る作品を面白くないと思ったことがないからで、その上、日本映画にしては、予告もよくできていた。惹かれるものがある。石原さとみも、街中ではあまりみない清楚な顔立ちで好きである。

 私は堤幸彦監督の映画を好まないタイプの人間である。「溺れる魚」「ケイゾク」「トリック」など、ヒットはするけれど、どれもこれもテレビを大きくして観ているような気がしてならない。映画だから映画として観るけれど、観終わったら忘れているような軽さ。良い軽さもあるけれど、これらは悪い軽さだ。「溺れる魚」も「ケイゾク」もパート2は、どうしたのだろうか・・・。深夜のテレビは見ていて、とても楽しんだが、それをそのまま映画に持ち込んだのでは、わざわざ出かけさせる人を馬鹿にしていると感じた。大ファンが多い一流の監督なので、あまり書くと批難を浴びるかもしれないが、そう思っている。

 ところが、2本だけ、これは・・・と思う作品がある。「恋愛寫眞 ollage of Our Life」と「明日の記憶」である。同じ監督とは思えないような丁寧な撮り方で、テレビの2時間ドラマではなく、しっかりした映画の2時間だった。凡作と秀作を撮り、真ん中がないような監督だと思った。脚本によって違うのか、俳優によって違うのか、プロデューサーによるのか・・・いろいろ探って考えてみたが、よくわからない。別人とも思える2つの作品だった。堤監督は映画の世界で成功し、どんどん上向きに変わるのだろうと思ったが、「大帝の剣」は、私は書くことをしなかった。一文字も浮かばなかった。

 堤幸彦監督作品のこれまでの映画作品での最高傑作が誕生した。原作の良さもあるだろうけれど、映画だけの評価をする。抜群に楽しく寂しい少年少女の揺れ動く心を丁寧に狙って描ききっていると思う。人生は黙っていても辛いものかもしれない。敢えて、若い頃に苦労をする必要はないけれど、それを素通りしそうならば、この映画の少年少女の心の中をのぞいてみてほしい。ストーリーも台詞もいちいち深いけれど、シネマスコープの異様なひらきのあるサイズだけで、彼らの純朴で残酷な優しい世界を知ることが出来る。この撮り方は、恋愛寫眞にも通じるところがある。

 物語、俳優もいいし、カメラワーク、サイズも気持ちいいし、台詞もびんびんくるし、楽しそうで寂しいし、大人はなかなかわかってくれないし、東京が中心ではなくて地方から世界を動かすし・・・わけのわからないことを書いているのは承知しているけれど、映画としては、どこにもクレームをつけることができない。つけるところがあっても、つけたくない。世代は違っても、あの頃のことを思い出す。私も嬉しがりで、人に干渉して生きていた。干渉されたくないと言う人ほど人に干渉すると私は思っていて、自分もその口だが、中に入ったならば、彼ら彼女らと同じことをやって、傷つき、傷つけあい、相手の心を知り、ゆっくりと大人になっていくだろう。

 まだ、私は、彼ら彼女らの青春のそのままの中にいて、成長はしきれていない。思えば、大学に入ったところから27年間、やっていることが、学問から仕事に変わっただけで、他は変わっていない。そのままである。いつまでもそのままではいけないのだろうが、そのままだからこそ、この作品の登場人物たちに気持が入り込んでしまったのかもしれない。大きな事件や深く傷ついた心を観客は知ることになるけれど、私は、とても小さな、相手を思いやる言葉や仕草に涙が出そうになってはこらえた。彼ら彼女らの背景を描ききっていないが、描ききっていないのが良いとも思った。友達の家での行動、家族や親戚なんて、実際は詳しく知らないものである。なんとなくわかっていればいいのだ。だからこそ、私は、観ている間、包帯クラブの仲間になることができた。ああ、ホントに・・・なんて優しい映画なんだろう。  <95点>

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アーサーとミニモイの不思議な国(字幕版)

2007年09月25日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_334  <TOHOシネマズなんば>

 どれを観ようか悩んだが、21時30分のレイトショーとした。リュック・ベッソン監督というのもあるけれど、今日は普通料金でプレミアスクリーンであ1_24 る。広い座席、リクライニングシート・・・。プレミアスクリーン入り口は派手な花道まであって、とても贅沢な気分が味わえる。それでも、観客は私を含めて11人だった。はじまる前から、後ろ座席のカップルがやたらうるさい。二組もうるさいので、観る前に観る気が失せようとする。それでも、本編がはじまると、ミーハーカップルは、シーンとした。

 童心にかえる・・・なんて言葉があるが、かえったかどうかはわからないが、44才のオッサンは、映画館で小学生の夏休みの気分になっていた。3DCGもよくできているし、晴れ渡った美しい青空の下での実写との交差もよくできている。そのふたつのドッキングもうまい。それよりなにより、物語にすっかり浸かってしまった。なんてよく考えられたストーリーだろう。CGを意識して、カメラも無理難題なアングルで、まるであり得ない、出演者たちの乗ったジェットコースターに同乗させてもらっている感じがした。本作は、CGを必要としていながら、間違いなく実写部分も必要で、このふたつが交差しているからこそ、映画の魅力が倍増する。パターンとして、CGに力を入れるあまり、実写は疎かになるが、実写部分もCG以上に見ごたえがある。ほとんど俯瞰からクレーンアップ、クレーンダウンさせて、そのカメラアングルにあわせて、人物がきれいに動く。観ていて気持がいい。実写のカメラワークだけを言えば、「インディジョーンズ魔宮の伝説」のようだ。なんでもない走っていくだけのカットでも、わくわくさせてくれる。

 実写で伏線をはったものが、CGで活きる。こんな物語を考え出し、映像とし、ひとつの作品に仕上げるなんて、リュック・ベッソンは、もう天才。ジャンル無視して、なんでも見事にやりやがる。一時期のスピルバーグのようだ。でも本作はリュック・ベッソンの作品で、CGの出演者の顔かたち、髪の毛が、これまでどおりで、監督の好きな形なのだろうか。ラストの舞台挨拶のような出演者紹介で、実写にしか出なかった者も、CGで出てくる。リュック・ベッソンまで登場する・・・この辺りで、私はあまりにも見事で完成された作品をあわせて、目が潤んでしまった。童心にかえったのか。だったら、目は潤まなかったろう。本作を観て、44才にもなってしまった自分を思ったからだ。あの頃に戻りたい。私の幼少の頃の思い出は、それなりに悩みもあったろうけれど、悪いものではなかった。少なくとも、今の私は人間として最低である。そんな難しく面倒な私の心を開くリュック・ベッソンは、やはり天才で、素晴らしい。脚本、製作もいいけれど、たくさん監督作品をのこしてほしい。

 子供の観る映画のようなポスター、チラシだけれども、オッサン、オバサンになってしまった大人の為のCG映画である。有り余るエネルギー、発散しきれないエネルギーのあった頃を思い、この素晴らしい映画から力をもらってほしい。まだまだ、よしやれるぞ!と、感じられるはずだ。エンドロールが上がっている間、私は何度も潤む涙を手で拭っていた。  <90点>

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アヒルと鴨のコインロッカー

2007年08月26日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_321  <梅田ガーデンシネマ>

 昨日は、はじめてのシネコンで、ロハで新作を3本も観るという贅沢をさせてもらったのだから、今日はじっとしておこうと思っていた。ちょっと早いが、年内に引っ越さねばならないし、片付けや連絡にこの日を使おう。だらだらと片づけをしながら、スーパーへ買い物に出かけようと財布を取り出し、いくら入っているかな?と中をのぞいて、お金よりも、招待券が目に入った。梅田ガーデンシネマの招待券が2枚ある。やっていることがわけわからないが、ネットから梅田ガーデンシネマのタイムテーブルを開いてみる。まだ、「アヒルと鴨のコインロッカー」をやっている。先週まで、レイトショーの1回のみとなっていたが、今週から2回に増えて上映している。気にはなっていた映画だが、すぐに終わると思っていたので、縁がないなとあきらめていた。時計を見ると15時30分。映画の上映は17時30分と19時45分の2回。もしかしたら、縁があるのじゃないか・・・いや、この偶然は観ろといっているのではないか・・・いや、とりあえず梅田へ行こう。自由気ままだが、叱るものはいない。片づけを放りだして、財布をジーンズのポケットに入れ、地下鉄に乗った。

 上映の1時間前に着き、招待券を出して、整理券と引き換える。1時間も前なのに、番号は49だった。結構、入っている方だと思う。ここは角川映画直営で、映画好きの、知る人ぞ知る映画館で、映画好きの、知る人ぞ知る映画をかけている。総じて、質の高い作品をかけてくれる。マニアックな作品も多いが、知らぬ世界に足を踏み入れて、けっこう楽しいものだなと発見することもある。1時間前で49番目だから、17時30分の回は100人を超えるだろう。受けている。

 原作があり、その原作が素晴らしく、賞まで獲得していると、その映画化には気合がいる。原作を読んだ99%の方が、映画より原作がよかったと言う。日本映画に限らず、世界中、どの映画でもそうである。私もその一人で、原作を読んでしまうと、自分で舞台を頭に設定し、風景をつくり、人物の顔かたちまでつくり、声までつくる。一般的には評価の低い原作であっても、自分の想像の設定がよければ、良作となり得る。だから、原作を読んで映画を観てはいけない。映画を観てから原作を読むのが順序である。だが、これは原作と映画をどちらも楽しむ場合であって、映画を観ない人は関係ない。本の方が、映画よりも早く書店に並ぶ。自分で作り上げた最高の世界があるわけだから、他人が作ったものにゲンナリするのは当然だろう。私は「ダ・ヴィンチ・コード」で、大失敗した。映画を観ている気がしなかった。原作を早足でなぞっているだけのような気がした。感想もなにもあったものではなく、書くことができないで、いつもの点数もつけなかった。本作は、「吉川英治文学新人賞」に輝いた同名小説の映画化である。もちろん、読んでいない。というより、この10年以上、ドキュメンタリーばかり読んでいて、小説をほとんど読まなくなった。私は、原作を無視して、映画だけで語る。原作と比較すると、とても書けない。原作を読み、映画を観て、その上で評論なり感想なりを書ける人が羨ましい。私は、そこまでの才能は持ち合わせていない。オリジナルではなく、原作のある映画が増えているので、映画を抱っこして生きている私としては、ますます、小説とは縁がなくなりそうである。

 (照明のあたり具合から)セットをワンカットも使ってないと思われる、このオールロケの映画、とてもいい映画です。原作があるので、ストーリーは沿っているのだろうけれど、それを知らない私としては、意外性の連続に驚かされる。短い時間の中で、実にめまぐるしくいろんなことが巻き起こる。その行動範囲は狭いので、とてもめまぐるしい。じっくり構えるところと急ぐところとメリハリもはっきりしていて、観る者の体をふっと震わせ、奮わせてくれる。そういう意味でも面白い。一人二役、いや、一人一役・・・その変わりようが、やや急ぎすぎの嫌いもあり、流れに無理っぽいところもあるが、それを差し引いても、よくできている。筋を知らなければ、この映画の前半に完全に騙されてしまうだろう。この騙しは、過去の出来事をモノクロ反転を使用することによって、さらに活かされていた。

 この作品の完成度の高さは、すでにシナリオにあるのだろう。シーンの切りかえ、過去と現在の切りかえがわかりやすく、そして上手い。脚本家の頭が現場スタッフによく伝わり、現場スタッフの作り手の勢いがあり、それを押しつけることなく、観客の心理がわかっている。何度も同じシーンが出てくるが、これもくどくなく、もっと先を知りたくなる。観ながら、もっと先を知りたいなんて言葉が頭に浮かぶことはあまりないような気がする。だが、エンディングが切なく、ちょっと不満がある。それも、もっと先を知りたい気持が起こさせるものだろうと、私はよい方へと解釈した。ただ、何を差し引いても、秀作と言える。私はとても満足感に包まれて、劇場を出た。  <90点>

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呪怨 パンデミック(字幕版)

2007年08月18日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_302  <TOHOシネマズなんば>

 予告がはじまっているが、はじまったばかりの様子。場内は満席で、私は一番後ろの一番隅におさまる。座席前は広いので、足を上げてもらわなくてもいい。シネコンは好きではないが、贅沢な作りで、予告がはじまって入るというイヤな奴でも、あまり気にならない。そのイヤな奴が今の私である。5分の予告がはじまり、本篇となる。東宝の日本映画はシネマスコープだったが、ハリウッドのホラーはヴィスタサイズだ。いつもの調子と逆。この頃、東宝はお金持ちになってしまって、シネマスコープ作品が多い。

 ビデオ版「呪怨1」「呪怨2」、劇場版「呪怨1」「呪怨2」、ハリウッド版「呪怨」そして、本作のハリウッド版「呪怨2」・・・同じ監督で、どこまで作り続けるのだろうか。私は安物のホラー映画が大好きで、ビデオを借りて見た。その後、劇場版が低予算で制作され、ミニシアターでロードショー公開され、私は電車で1時間半かけて小さな劇場に観に出かけた。劇場版といっても、ビデオとの差は予算的にも内容的にもそれほど違いはなく、それでも、新しいスタイルの幽霊の出し方、日本的なおどろおどろしい雰囲気はそのままで、この映画を楽しんだ。1作目は、小さな劇場であるにもかかわらず、ガラガラだったが、劇場版の2作目となると、結構、人が入っていた。低予算は低予算で、すべて、ロケだと思われた。実際、そうだったらしい。

 これがサム・ライミの目にとまり、ハリウッドでリメイクというニュースを聞いたとき、そんな馬鹿なと私は思った。あの和の独特のおどろおどろしさは、アメリカ人にはわからないだろうし、舞台はアメリカだろうから、やめてくれよとだけ呟いて、それを忘れていた。だが、ニュースが耳に入るうち、私はそんなぁ、そんなぁと疑った。監督はそのままで、舞台を日本にするという。作り直す必要なんてないじゃないか。サム・ライミは好きだが、嫌いになってしまうのではないか。そんな気持で、ハリウッド版を観た。主役は、かわいこちゃん女優のサラ・ミッシェル・ゲラーで、スタイルは変えているが、話しはまったく同じものだ。ロケで使った家をそのままセットで仕上げ、お金をかけている。家の外観を変えず、そのまま作ってくれたのは、嬉しい。洋と和の合体で、ハリウッドにはみられないおどろおどろしさを残してあった。このおどろおどろしさが、アメリカ人にわかるのか・・・これが大ヒットをしたらしい。和のおどろおどろしさがわかるか?思えば、溝口健二の世界が受け入れられた時代があったのだから・・・。関係ないか・・・。いつまで「呪怨」をやればいいのだと、清水監督もこれで終わりだと言っていたが、パート2がやってきた。ハリウド版は、日本で作った4作品の総まとめとも言えるもので、これ以上の話しは無い。新しく考えたのだろうか。今回は、完全なオリジナルストーリーで展開する。

 よく、あの続編を考え、ここまで仕上げたと思う。物語もとても面白く、広がりをもたせて、そして、オリジナルから外れていない。あの低予算のビデオから、ここまできたか。しっかり、うまく進化している。このシリーズは、幽霊の出し方が、これまでのホラーものとは違って、うまい。スクリーンの隅にふっと何気なく写るときもあり、大胆にどーんと出るときもある。ふっと写っても、それがなかったかのように話が進む。見えた・・・というより、はっきり見える。いきなり驚かす古典的な手法も交えながらもある。新作では、これまでになく、ほっとする瞬間を一切排除している。90分、突っ走りの和のホラー映画だ。出るぞ、出るぞという長ったらしさはカットして、出るぞ!出た!で、次のシーンへいく。幽霊版のゾンビ映画のように、スピードがはやい。そして、日本のあの家で起こることと、アメリカで起こることを同時進行させている。同じ恐怖が起きているのだが、これを交差させることによって、ちょっとでも気を抜かせる隙間を捨てていた。

 なぜ、このような呪いが生まれて、繁殖していくのかを解説するが、それも無理矢理ではない。私などは、なぜそうであるかは、どうでもいいのだが、パート2ともなれば、そこを説明しないと、納得しない観客も多いことに配慮したのだろう。なぜ、こうなったかは、もっと丁寧にみせてくれてもいいけれど、わかった?じゃ、次のこわいところ、行くよ!そんな勢いで進む。清水監督は、もう6本の「呪怨」を制作しているが、私としては、最高の出来だと思う。もしかしたら、手馴れてきたのではないだろうかとも感じる。高得点をつけると、期待して行かれる方もいるかもしれないが、できたら、前作の5本をすべて観てから、ご覧になるといい。私はその上で、ハリウッド版パート2を最高だと思えた。これまでに観たことのない、極上のお化け屋敷に入ることが出来る。

 全米3,000館以上で公開したという本作。物語は増殖し、途中で終わる。明るくなって、みんな口々に「次はどうなるのかな。」などと言っている。次があるの?まだ?・・・儲かったら、パート3までは作るのがあたりまえのハリウッド。清水監督をはなさないだろう。同じものに縛られすぎて、数あるアイデアを出さずに消えてほしくない。映画監督の活きのいいとき、才能には期限がある。もっともっと、たくさんの作品を撮ってほしい監督だ。観終えた後、ふうーと、緊張感をとかねばならないいい時間を味わえる。          <90点>

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キサラギ

2007年07月08日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_280  <シネ・リーブル梅田>

 原作者と脚本家が同じで、原作を読んでみたら面白いのだろう。原作はどうあれ、脚本を読んでみたいなと思わせる。5人の俳優は、出演交渉の際、台本を読んで、楽しかったろうなと思った。与えてもらった自分の役がどうなっていくのか、自分は何者なのか、ドキドキしただろう。それだけ、意外な展開で、二転三転していって、それを、きれいに辻褄を合わせている。展開もうまいが、台詞もうまい。たった一言が、立場を逆転させたり、その場の空気を一瞬に変える。文学的というより、理数系の頭がなければ、こんな物語はできないと思う。両方がしっかりと揃っているとすれば、大した脚本家である。

 室内劇の中でも、これはもう舞台劇だ。だが、映画にするにあたって、監督は、様々な工夫をしている。「時間が進むにつれて変わっていく5人の表情のアップ」「過去を特殊な編集技術で映像化していく」「コレクションの細かな写真や手紙群」「手に持つ物のアップと手の細かな動き」など、舞台では難しいものを映画でクリアさせていた。小さな空間で、カメラはどこにでも動き、高く低くもなる。細かな表情、仕草を伝える為である。また、その空間の空気が変化すると、照明もそれにあわせて徐々に変化する。これは舞台でもできるが、彼らの距離が遠くなり、フレームに邪魔な天井部分が入ったりする。映画ならではの工夫だ。密室劇の中でも、かなり上をいく質の高い作品だと思う。

 すべての壁が取り外せるようになっているのだろう。カメラが実に自由自在に動く。何台ものカメラを一緒に回しただけでは撮れないカットで、3回も4回も同じ芝居をさせて、カメラ位置を変えたのだと思う。だから、短いカットも多い。台詞の途中で、何度もカットが変わる。カメラ台数では処理できないので、何度もテイクを繰り返している。密室劇は、舞台にした方が簡単で、映画にすると面倒な作業が山積みだ。テンションを持続したまま、どんでんの時間を待たなければならない俳優達は、相当に疲れる。緊張の持続力には限界があって、待たされれば待たされるほど精神をすり減らす。

 あれこれどうでもいいことを書いたが、そんなことよりなにより、この映画、実に面白い。楽しい。最初の5人の出会いから楽しめるが、どんどん謎解きをしていくごとに、観る者のテンションをあげる。謎解きの答えに意外性があり、冗談のような結果を用意してある。とても楽しませてもらったが・・・ラストに、アイドルの素顔が出てくるのはどうだろうか。あれだけ見せないように引っ張ったのだから、ラストまで顔を隠していてほしかったなと残念だった。そこを差し引いても、ロールスーパー途中のフリーズから、一年後の集まりのシーンに入るのが、またいい。新たな展開があるのかないのか、観客に想像を任せます・・・狭い空間で、地味な作品だが、実に広がりのある展開を楽しませる。これは、観ておいて損はない。誰でも楽しめる逸品だった。  <90点>

 

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アポカリプト

2007年07月05日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_279  <敷島シネポップ>

 以前から客入りの悪かった敷島シネポップが、TOHOシネマズなんばの誕生で、ますます人が少なくなった。今の私に、そんなことを思ったり、考えていたりする余裕などはないが、4階のチケット売り場にはアルバイトの店員しかいない。この映画館では、二人、三人は何度もあり、一人っきりも体験していて、今日もそうかな?と、思う。

 上映ぎりぎりに入ると、10人ばかりの観客だった。まだ、平日にしては、いる方だが、毎日やっていたレイトショーが少なくなって、来週からは、レイトショーがゼロだ。大阪の、それも繁華街のど真ん中で、こんな状態なんだなと、寂しい。スクリーンの数が増え、客足は横ばいらしいが、本当に横ばいなのだろうか。どんどん観客が少なくなっている気がする。シネコン乱立になって、土曜と日曜しか満員を見ない。それも話題作ばかりだ。映画鑑賞が、特別なものになりつつある気配までする。

 また、人間の肉体的、精神的極限状態を生々しく描いていた。メル・ギブソンの作品は凄まじい勢いをもって、観客を惹きつける。先日観た、「それでも生きる子供たちへ」の大人バージョンのようだ。今の大人は、こんな根性など持っていないのではないか。すぐに諦めて、絶命するだろう。私も弱い神経で、これほどの極限状態は耐えられない。真っ先にやられるだろう。理屈ではない。生への凄まじい執着があれば、何でもできる。その執着心とは、誰かの為でもあるが、だからこそ、自分の為でもある。運もあるが、死ぬまいとする気が、道を拓く。人は死を恐れる。ゼロになるからだろうか、その前の痛みを思うからだろうか。

 恐れなければ、生贄となった自分を解放する手段はない。恐ろしいからこそ、助かる命がある。その上に、守らねばならぬ者、見とどけなければならない者を確かめなければならないという気持ちもあるだろう。恐ろしさから、絶望に向いた者は、真っ先に死ぬことになる。今、まさに殺される瞬間、何者かが手を差しのべるように日蝕が起きるのも、偶然以上の極限状態の願いが叶ったようにもとれる。すべてが偶然で、奇跡のように思うが、生への執着が成した技だ。追う者には、生への執着はない。必ず、生きて帰ることができると思っているからだ。それが、生死を分かつ。

 マヤ文明後期の中央アメリカ・・・らしいが、設定よりも、追う者と追われる者の生きる力を知らされた。追う者も強いが、追われる者の魂の方が上回っている。だからこそ、この凄惨なカットの連続に観る者も力がこもる。おびただしい、腐った死体の山を走る。どこを走っているのか、位置関係はわからないが、わずか一夜のことで、遠い距離ではないことがわかる。全力で走りきれる距離の中、実に多くの仕掛けがある。そのすべてが、精神の極限状態に導く仕掛けだ。緊張感の異常なる瀬戸際の限界。その限界の線が、まるで無いように延々と続く。生への狂おしいほどの執念は、何者にも妨げられないのだろう。井戸で待つ母親も、極限状態の中から、生を生み出す。人間の逞しさと脆さを鮮明にフィルムに焼き付けていた。  <90点>

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それでも生きる子供たちへ

2007年07月03日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_277  <梅田ガーデンシネマ>

 「ブリッジ」で長々と書いたが、そんな私の異常な精神状態ではなく、毎日を頑張って生きておられる方には、「ブリッジ」と「それでも生きる子供たちへ」を抱き合わせで観ることをお勧めしたい。私のような異常な精神状態に陥ってしまったときは、「それでも生きる子供たちへ」の一作品をお勧めしたい。私は奇しくも、ズタズタな精神状態で観にきた。これもまた、何かが私を導いてくれたのかもしれない。「ブリッジ」は私のような者が次々と出てきて、観ていて苦しくなったが、7つの物語からなる本作は、生きる欲を与えてくれた。生きなければならないと、力がついた。

 生き甲斐を失い、心には大きな焼けた穴があいたが、その絶望に涙はなかった。涙が出るのを飛び越えたのだろう。涙が出るうちは、まだ生きようとする希望かあるような気がしている。それを飛び越えたのだから、もはや、生きる屍のような精神であったし、面相もそうであったろう。仕事も放棄し、眠ることや食べることや喋ることはままならぬでも、映画を観にいくという力は残っている。そんな力が残っていたのも不思議だが、こういう作品であったのも不思議だ。死ぬということは?生きるということは?生きていくということは?を教えてくれる作品である。自業自得で、私が蒔いた種で、口のふさがらぬほどの身勝手な男だが、傷が埋まらない。

 2作品続けては体力、思考能力に無理があり、一息ついて、私は同じ映画館に戻ってきた。このままではいけない。早く時間が経たなければ心の解決はしてくれないが、時間が経つうちに歳も食う。十代の頃は、なにをやっても楽しかった。朝、起きて、見えないあらゆる可能性にときめいていた。何でもできると信じていた。いつから、それが消えてしまったのか、思い出そうとしても思い出せない。生きているだけで楽しかった日が、間違いなくあった。

 7つの世界(ひとつだけ、大人が回想する物語がある)。まだ、広い世間を知らぬ子供たちが、大人よりも逞しく行動する。それが間違っているのか、正しいのかは、まだわからない。ありあまるエネルギーをいっぱいに、懸命に生きている。だが、本当の心のよりどころは、愛にある。観ていると心が痛む。子供たちは裕福ではない。貧困のどん底にある物語が多い。だからか、世界の監督を集めた作品なのに、日本の子供は出てこない。貧困の中、迫害を受けながら、宿命を受けながら、子供たちは、それでも愛をつかもうと、懸命に生きようとする。死ぬより生きる方がつらい。それを私たちはさらに知る。大人になってしまった私は、まったく次元の違う世界で生きていることを知る。くよくよ小さなことで悩むな。難しく考えるのではない。苦しくとも、生を受けたからには、その生を全うするまで、極限状態であっても、生きる力だけは残しておくべきだ。私はそれを知らされた。

 子供の生きる実直さが、大人と化したものによって、曲げられてしまう。大人たちは矛盾した世界に生きている。「恵まれないかわいそうな子供たち」という感想で終わってしまってはいけないと思う。彼ら、彼女らの生き様は、大人の学ぶべきことである。たった一人であっても、愛はなくとも、無一文でも、生き甲斐を見出して生きていく力を持っていた。

 「愛」と「お金」と「生き甲斐」と、それがすべて無くなると、人もなくなると聞いたことがある。その時は、なるほどなと思って、人に話したこともあるが、私は少し変わった。ここに描かれた子供たちは、すべて無い。日本人と比較する物語は難しいが、もっともわかりやすいのは、第七話の「桑桑(ソンソン)と子猫(シャオマオ)」だ。裕福な家庭で育ち、すべてを持っている女の子と、不遇にも捨てられ、老人に拾われて貧困の中で生きていく女の子の様を同時進行させていく物語である。貧困な中で生きてきた女の子は、老人の交通事故によって、天涯孤独になる。誰もその子の存在を知らない。だが、消えてしまった愛、究極の貧困の中、明日の生き甲斐もない中、泥だらけの顔で、汚い服を着て、しかし、彼女は輝くような目をして、街で花を売り歩く。大人に蹴散らされながら、誰も自分を知らない世界で、生を力いっぱい出そうと懸命である。まさに、これが「生きていること」「生きていくこと」だ。生きていることによって、生きていく何かをつかもうとしている。自分は貧乏で親もいなく、同じ年代の女の子は裕福で自家用車に乗っていることも知っている。自分のつらい境遇も承知で、しかし、いつか愛をつかもうとしているのだろう。まだ、目に見えぬ愛である

 子供の物語だが、大人が学ぶべきことが多い。PG-12で、小学生以下は親と同伴でなければ鑑賞できない。でも、子供が観るよりも、子供を見下している大人が観るべき作品である。個々人で、恵まれないと思っている日本人に観てもらいたい。ここまで、究極の世界に生きている子供たちがいるのである。現在、日本で生きる大人の日本人が、どんなに苦しかろうが、悩んでいようが、死と直面していようが、向かい撃つ方法、回避する方法があるのだ。何もないと思っても、どこかに何かがある。すべてから逃げてもいい。それが自分を救うならば、そうしてもいい。絶体絶命だと自分に言う前に、夜はいつかは明けるのだということを知るべきだ。生きているだけで最高の宝と思い、ちょっとだけでも、それ以上の出来事があれば、素晴らしい生き甲斐をつかむことになる。その生き甲斐が消えたとしても、また新しい生き甲斐を掴めばいいのである。平常にもどっただけだ。

 「それでも生きる子供たちへ」は、恵まれた先進国の大人に問いかける映画で、子供へは訴えていない。子供たちに学ぶべきところはいっぱいある。「それでも生きる大人たちへ」という傲慢な映画はできようもない。生きる、生きていくということは、子供に学ぶものである。理屈はいらない。子供たちから、生を知る。

 もっともっと何もない子供たちは、間違いなく、それでも生きていた。見事なタイミングで、素晴らしい映画を観させてもらった。何か見えない力で、私を映画館にひっぱってきてくれたような気がした。いま、どうしても観なさい、観ておきなさいと。私は、生きようとする力をいっぱいもらって、映画館を出た。  <90点>

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ダイ・ハード4.0(字幕版)

2007年06月23日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

40  <TOHOシネマズなんば>

 R-15とはいったい何なのかとあらためて思う。どんどん人を撃ち殺し、傷だらけになり、大爆破させる。拳銃やマシンガンや爆弾は、人が死ぬという実感がないのか、本作は一般映画だ。R指定するなら、本作もそうだろうと思う。どれだけ死ぬか。

 こうなったら、人が意味なく殺される映画やヘアーが写っている映画をすべて成人映画にしてしまえばいいと、イヤミのように思う。頭のかたいお偉い方たちの考えは、私にはまったくわからないが、Rと規制しても、100年、200年経ったら、当時の貴重な映像資料として扱いを受けるのだろう。美術館では、肉感的な全裸の婦人の油絵が重宝に飾られている。小学生でも舐めるように鑑賞できる。ヤバイものは観せなきゃいい、伏せてしまえばいい、目を隠してしまえばいいというやり方が大嫌いで、これに脚本家や監督は抗議をしてきたが、今はもうみんな諦めているようだ。今の日本は、映画の世界と現実の世界がわからない連中が街を歩いているのだから、この犯罪は、この映画のせいだ!と言われてしまえば、作り手も黙ってしまうのかもしれない。少年の殺人や性犯罪の元凶は、映画にあり!と声高に言われては、相手が権力者だから、はいわかりましたと自主規制するしかないのかもしれない。

 私が中学生、高校生の頃は、今よりもエロいグロい描写が多かったにもかかわらず、規制などなかったが、真似て犯罪に走る者などいなかった。今もそれほどいないと私は思っているが、ターゲットにされた。テレビじゃない。映画なのだから禁止用語も禁止映像もない。だからターゲットになる。いい迷惑で、R指定は、愚の骨頂だ。元凶ではない。議論の余地もない。アホらしさ極まって、そのマークを見るたびに、私の目は死んだようになる。観ちゃいけません!は、ポルノの類の成人映画だけで十分だろう。ポルノをあえて多感期に観ることはない。人がまなんだことは、人から人に伝えるのであって、目隠しさせて済まそうという安直なやり方が大人のやり方か。頭が良すぎて、何でも議論の対象にするのは好きではない。私がテレビより映画が好きなのは、映画には規制がないというところにもある。自由に娯楽芸術を創造する場所であるはずが、言葉や映像の表現が悪いと言う。差別的だとも言う。だからどうしたと思う。そこを敢えて表現するからこそ、人は考え、学ぶはずなのだ。そして、人間的な成長も期待できる。

 とはいえ・・・もっとも簡単な方法がRだから、簡単に済ませているのだろう。世の中、いろいろな規制が増え、はびこってきて、とても生きにくいが、それが現代なのかもしれない。年齢でわけても、精神年齢は別もので、人によってはR-20やR-40もいるだろうが、そうなると差別が生じるので、自主規制として、年齢だけでわけてみた・・・お偉方は、これならいいだろうと納得してくれる。ありがとうございます。では、これで封切させてもらいます。皮肉たっぷりで、自分が自分でイヤになるが、Rとは、恥じる文化マークだと私は思う。本作が、R指定でないのは不公平だと思うが、R指定でなくてよかった。

 お金儲けだけの為に作ったのだと思う。ブルース・ウィリスのヒット作が最近ないので作ったのだと思う。それはそれで納得するが、そんな裏側の考えを吹っ飛ばしてくれるほどの快作だった。アクションシーンは、何台、カメラをまわしているのかわからないくらいで、とても短いカットを編集者は楽しんでいるようにつなげる。ほぼ、全編に流れるシーン、カットとリンクした音楽も迫力満点で、それだけでも聞いていたい気分になる。しかし、やはり、耳より目が先で、2時間、目はスクリーンの虜となる。ストーリーは壮大で単純で、アクションを存分に楽しむにはちょうどいい。アクション以外の場面でもスピーディさは衰えない。カメラ台数もあるだろうが、位置を変えて何度も撮ったのではないだろうか。

 主演はブルース・ウィリスでなくてもいいし、敢えてダイ・ハードでなくてもいいが、その方がヒットにつながりやすいからだろう。構想に随分と時間のかかったことだろう。脚本といえるのかどうか、どんな書き方をすれば、いいのか。文字だけで映像が浮かぶだろうか。すべてが画コンテで、そこに台詞が書かれてあるようにイメージをする。緊張するアクション、想像を超えるアクション、飛びぬけた展開ぶり。もう、形容のしようがないほど楽しい超娯楽大作だ。あそこがいい、ここがいい・・・という理屈ではなく、頭から最後まで、十分に楽しませてくれる。

 1も2も3も観ていない人でもいい。これは別作品としてはじまり、完結するから。とにかく、びっくりして、興奮して、ハラハラして・・・映画館ならではの迫力を楽しんでもらいたい。誰にでもおすすめできるエンターテイメントアクション大作である。私は、映画を観終わって、自分がミーハーになっていることがとても楽しくてならなかった。  <90点>

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