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勝新太郎&若山富三郎特集

2011年09月21日 23時00分00秒 | 映画に関する話

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 「上から読んでも下から読んでも同じってのあるよね。竹藪焼けたなんて、みんな知ってる。こういうの、あんだけどね。談志が死んだ。上から読んでも下から読んでも。談志が死んだ。オレ、死んだら出るかね、見出しに。」

 映画関係者が多く亡くなった年であった。震災ですさまじい数の方が亡くなったけれど、彼らも運命共同体だったかもしれぬと思う。あの阪神大震災の年も、年末までに多くの芸能人が亡くなっている。宇宙に無数に存在するすべての星が、決められた道を回っているならば、その中のひとつの地球も同じで、地球上に生きる人間も運命を持ってるのだろう。偶然なんてない。偶然とは奇跡ではないか・・・たまたまも奇跡だ。奇跡の集合体が自分を動かしている。

 誰でも知る大きな映画俳優、監督、脚本家が亡くなった。私は昔から、映画関係者が亡くなっても、さほど驚いたり悲しんだりしない。あの俳優がいなかったら・・・と思う渥美清が亡くなったときも、これほどではなかった。これほどでも・・・談志が死んだ。のである。私の一番好きな落語家は枝雀だが、人生に影響を受けたのは談志であった。落語以前に、生き方であり、考え方であった。立川談志も大の映画ファンで、あの忙しさの中、実に多くの映画を観ていて、また、よく覚えていた。監督名、主演、脇役の名まで並べあげた。談志は、いい映画を観てエンドロールになったとき、拍手するくらいの映画ファンであった。談志の映画に対する愛情にも、私は影響を受けた。2011年、久しぶりに有名人が亡くなったことにガックリきた。会って話をすると大嫌いになりそうな人だけれど、見たり、聞いたり、読んだりしていると、これほど魅力的な人物はなかなかいない。江戸の落語は、これで一幕を閉じた。二人目がいないので、当分、幕は上がらないだろう。

 小倉昭和館で、勝新太郎&若山富三郎特集をやった。これをすべて観た。上映作品は二本立てで毎週替わり。『続・座頭市物語』『座頭市と用心棒』/『悪名』『兵隊やくざ』/『人斬り』『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』の6作品であった。私はすべて観ていたが、もう一度、スクリーンで観たかった。スクリーンで観られるのは、これが最後なのだろう。

 勝新太郎と若山富三郎は兄弟で・・・おそらく、ここから説明せねばならぬだろうが、面倒なのでやめる。もう、座頭市はビートたけしが最初と思っている二十代も多いし・・・。ただ、勝新太郎と若山富三郎を並べれば、スタァは弟の勝新太郎であったろう。あたり役も「座頭市」「悪名」「兵隊やくざ」と恵まれ、すべてシリーズ化され、映画界で大活躍している。私が生まれたころの話で、リアルではしらないが、映画史を読むと、スタァの何ものでもない。破天荒で常識ないところもスタァとしてよろしい。パンツに隠した大麻なんてガキのような言い訳もスタァらしいではないか。若山富三郎も破天荒なエピソードがいっぱいあるけれど、勝新太郎には勝てない。若山富三郎がぐっと良くなったのは、勝新太郎が萎んできたあたりだ。NHKの『事件』シリーズなんて、一度しか見てないのに記憶にはっきり残っている。『衝動殺人 息子よ』の若山富三郎の演技力は胸にズシンとくる。あれほどの芝居は勝新太郎はできない。

 若山富三郎の方がいい!という方も多い。よくわかるが、人間はムチャクチャでも、私は勝新太郎の方がでかかったと思うし、面白い。『座頭市と用心棒』は、監督が岡本喜八というのもあってか、これでもかーーー!というくらいドキドキハラハラの活劇に仕上がっている。黒澤明監督、東宝の用心棒をそのまま大映にもってきて、座頭市と共演させた・・・今の方が考えられるハズなのに、あの時代にやっている。ただのコラボでしょう?に終わらず、2時間走りっぱなしの休みなしで物語は進み、ラストのうまいこと!観た後、また観たくなる映画だ。いま封切ったら、今年のベスト1になりそうだ。

 しかしなぜ?『続・座頭市物語』を単体でかけるのだろう。あれ、単体ではわからない続篇なのに・・・私は正を覚えているから観ていられるけれど、単体では意味不明なところがいっぱいある。借りようにも、このあたりに正を並べているレンタル店はないぞ。ディスカスあたりにあるのかもしれないが、そこまでして観るほどの正ではない。

 「フランキーなんてのは、渥美が、勝新はねー」と、立川談志はハリウッドのミュージカルばかりでなく、日本映画もたくさん観て、語り、書いている。積極的ではなく、頼まれて映画にも出ていた。企画されていた「談志の生意気シリーズ」は乗り気だったが、最後は蹴った。映画人が亡くなるよりも、映画に興味を抱かせてくれた談志が亡くなったことにガックリした。落語にも興味を持ち、お笑いもたくさん見た。なによりも、考え方が、私は談志的になってしまっている。

 まわりに人は多かったし、近づいてきた人も多かったけれど、親友と呼べる人は毒蝮三太夫しかいなかった。談志は毒蝮三太夫が好きで仕方なかった。大喧嘩して三度別れたけれど、懸命に仲を戻そうとしたのはすべて談志側だった。大好きだったので、俳優だった毒蝮三太夫を談志は芸人にしてしまった。地方公演の行き帰りを共にしたかったのだ。講演もしたことのなかった毒蝮を、ピンで無理に行かせたりして、友達付き合いをしながら、芸人にしていった。最期は、親友の毒蝮三太夫にも無言で、この世を去った。

 「オレはいったい、どういう死に方するんだろうなあ?」と、若いころの談志が毒蝮につぶやいた。毒蝮は「どんな死に方するかは知らないけど、とにかく他殺だろう。」と答えた。他殺ではなかったが、喋りの天才は、声を切られた。声を失うなんて、他の落語家にはマネできないことだ。談志は普通では死ねなかった。

 戒名は-立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。「臭ってきそうな戒名だろう?なかなかいいじゃねーか。」談志が落語のまくらで何度も言っていたこの名前が、戒名になった。あの世で、勝新太郎と話すかもしれない。「勝新、良かったよ。たけしが最近、作ったみたいなんだけどね。いや、観ちゃいないよ、観る前からわかってらあな、ありゃ、あんたのもんだよ。」

 あーあ、談志が死んだ・・・。