<TOHOシネマズなんば>
どこでどんな災害が起きているのか、事故が起きているのか、殺人が起きているのか・・・いやなニュースばかりなので、こういう書き方になるけれど、日本で、世界で、地球で、何が起こっているのか、この一週間、私は世間のことを何も知らない。帰って寝て、起きて出かけて、帰って寝る。これを繰り返している。仕事に専念して、次々とこなしているというのは良いことではあると思う。世間で何が起こっているかなんて、ニュースなどを見なくても十分に生きていけることをあらためて知る。遠くを見て・・・何の情報もなく一週間も過ごしたことは・・・本当に久しぶりだと瞼をパチパチさせた。感傷に浸っているわけではなく、目が疲れているだけであるけれど。けれども、映画を観る、観たい者にとって、ちょっと酷な日々が続いている。しかし一方、観たいと思うことそのものだけで、実は幸せ者なのかもしれないとも思う。
支離滅裂で矛盾したことを承知で書くけれど、人間に生まれたからには、いつかは死ぬわけで、死するときまで映画というものが続くならば、年中、映画を観たいと思っている者には、別の意味で残酷なことだ。映画館で予告篇は、いつまで流れるのだろうか。人類の歴史に、最後の映画が公開されることはあるだろうけれど、世界を狭くして、私個人が最後に観る映画はなんだろうかと漠然と思う。最後に観たい作品をと言われれば答えられるかもしれないが、実際に最後に観る映画が1本、未来にある。予告篇くらいならばいいけれど、もっと先の情報が耳に入ってきたら、指をくわえて待ち望んでいるしかない。待ち望み、やっとスクリーンで観られる時は、自分もそれだけ歳をとっている。やっと観ることができると、映画館の椅子に座ったその日は、情報を知った時より死に近づいているということになる。
以前にも書いたおぼえがあるけれど、私たちや私たちのまわりは、待つことばかりで、待つことは即ち死へと向かっているのだから、死に急ぐことを神は人に与えたのか。インディアナ・ジョーンズ4の制作を聞いたのはもう10年以上前で、ずっとそれを待っていた。いよいよ来年の公開だが、三十代前半だった私は、四十代半ばになってしまった。その間、待ち望んでいた人たちは、どのくらいの人数で亡くなったろうか。映画大好きで、私たちに映画の素晴らしさを教えてくれた淀川長治氏は、亡くなる瞬間、観たい映画をいくつも考えただろうか。
いろんな映画情報が乱れ飛び、それを楽しみにしていたけれど、いくつも公開が先延ばしになったり、途中で消えていったりした。29歳の時、パニック障害で発作が出て、今まさに死ぬのではないかという体験をし、あの頃から、私は映画の情報誌を読まなくなった。正確には、読みたくなくなった。それから、ほとんど読んでいない。映画の知識は、あの時点で止まっている。チラシもほとんど読まない。自殺なんてつまんないことを思ったこともあるけれど、突発的に死と直面すると、生きたいと切に願った。元気で生きていることだけで人間は幸せなのだ、これ以上の望みはあるものかと真面目に思った日もある。それでも私は勝手なもので、元気だとか平凡だとかいうものより別の世界を手に入れようとする。本来ならば、元気で生きていることが幸せであり、その上、映画を観ることができているのは過分なことなのに、それに感謝していない。
だが、少しだけ変わった。映画を観たいと思い、しかし観れぬ日が続いているけれど、観られないと嘆きながら身体を酷使してでも仕事ができている自分は、その時点で幸せ者なのだ。そんなことを最近、思うようになった。そうすると、観る作品の一本一本がとても大切で、自分の時間も大切になり、あまり文句も言ってられないことに気づく。1年前は、ボロクソに映画作品を批判したこともあったが、ここ数ヶ月、あまり辛辣なことは書いていないつもりだ。辛辣だと思われる方もいらっしゃるけれど、まだまだ序の口で、昨年だったら、私はもっと酷い評を書いただろうと思う。これは、人間に丸みができたのではなく、力量をこえた仕事をこなしていくうち、映画を観たくても観られない状態に立ち、映画に対して、もっと愛着が湧いてきたのだと感じる。だから、つまり、私の感想や点数は甘い。どの映画を観ようか迷っている方は、参考にならないかもしれない。どの作品が好きか以前に、映画が好きで、お勧めならば、すべてお勧めと、今の私は答えるかもしれない。それでも、人生で最後の1本はある。映画の好きな人は、こういうことを思ったことがあるだろうか。すべての人に最後の1本はあるけれど、映画を生活の中に溶け込ませている人は、また思いが違うだろう。
映画が舞台になって、映画でリメイクだという。この頃、リメイクが流行る。日本を含め、アジアの作品をハリウッドとしてリメイクするのも流行る。ネタが本当にないのだろう。嘆いているわけではなく、私としては、それもありである。そういう時期かもしれない。以前は批判していたが、ちょっと考えが変わったようだ。
リメイクでも何でもいい。人生最後の1本が必ず存在するのならば、こういう映画を最後に飾りたいものだ。観終えた私はそう思った。ミュージカル映画はそれほど好きではないとしながら、昨年の「プロデューサーズ」は手放しで楽しんだ。過去を振り返ると、高校生の頃、「ブルース・ブラザース」は、観終えた後、サントラ盤を買って帰った。生まれてはじめて買ったサントラ盤だった。大学生の頃、「ウェストサイド物語」のリバイバルを観た帰りにもサントラ盤を買った。ステレオは故郷にあり、ラジカセしか持ってなかった私は、カセットテープを買い求めた。これは、擦り切れて、テープがグチャグチャになるまで聞いた。ミュージカル映画を嫌いだと言っているわりに、行動が伴わない。嫌いだと言っている一方、ミュージカルは、第七芸術の中で、最も最高にあるとも思っている。映画プラス歌って躍るのだから、これほどのエンターテイメントはない。ある意味、卑怯だなと思うので、本質的に好きだと言えないのかもしれない。ひねくれている。
オープニングからエンディングまで、ほとんどのシーンがミュージカル仕上げになっている。もう、はじまって1分も経たないうちに、度肝を抜くような渾身のシーンが待っている。この一発だけで、私はノックアウトだった。疲れや辛さを瞬時に吹っ飛ばしてくれる。自分が何者かもわからなくさせてくれる一曲だ。セットからロケへとカット割りをするとき、ミュージカルというものは、どうやって呼吸を考えて撮影進行しているのだろうか。音楽を流しながら歌うMTVとは違い、カットカットのバランスが求められるわけだから、その計算は大変なものなのだろう。数学に強いものでなければ、カット割りが困難だ。私は、カラオケビデオの撮りでも頭をひねるので、こんなシーンにはただただ驚くばかりだ。スタジオのみの撮りならばわかるけれど、出たり入ったりは、スクリプターも頭を悩ませるだろう。扉を開ける閉めるタイミングの中で音楽が流れている・・・カットのはじまりと終わりの何フレームかも大切だ。それがくるってしまうと、編集できない。
1980年代のリメイクだけど、人種問題の打破、差別撤廃にまつわる場面、曲が多い。60年代を舞台にしているからだろうが、人の考え、意識が変わりつつある転換期の60年代をどうしてもセッティングしたかったのだろう。60年代を舞台にすることによって、現代よりも若者を活き活きと動かすことができるのかもしれない。アメリカでも、夢を大きく抱いていた、抱くことができた時代だ。悪役が多くなったミッシェル・ファイファーも歌い踊る。クリストファー・ウォーケンも歌い踊る。それだけでも映画ファンは楽しい。ジョン・トラボルタが重いメイキャップで重く踊る。その設定も好感がもてる。主役の女の子も、あんなにダイナミックに踊って、どうして体型が?と思いながら、途中からとんでもない可愛い女性にみえてくる。わくわく心弾ませて、何もかも忘れさせてくれる映画だった。ひとときでもこんな時間がもてたこと。映画を観続けていてよかった。人生最後の1本でもいいような気がした。とはいえ、まだまだ観たいのだが・・・。
観終えたら夜の11時を過ぎていたが、もっともっと映画を観たいと、私は1年以上ぶりにレンタルビデオ店で映画を借りた。すでに観ていたが、続編を観る前にと「ソウ」「ソウ2」「ソウ3」を借りる。『ヘアスプレー』とは何の関係もない、ある意味、真逆のタイプの作品だが、スプラッターもここまで練れば、純粋に面白い。帰宅して1と2を観たら、夜があけてきた。何時間か寝て、バタバタとややこしい仕事が待っているけれど、身体は少々つらいけれど、『ヘアスプレー』の余韻は続き、苦しさが目の前にあることなど、ちっぽけなものののように思えた。大袈裟なのはわかっているけれど、『ヘアスプレー』なんて映画を観られたことだけで、それは人生の中で、幸せと呼べるもののような気が、今はしている。 <95点>
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