活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

EX MACHINA エクスマキナ

2007年10月31日 23時30分00秒 | あ 行 (2007)

Ex_machina  <なんばパークスシネマ>

 長い長いと思いながら、その思いも書きながら、支離滅裂な長い文章を書いてしまっている。「ヘアスプレー」の時ような、あんなに長い文章は、なかなか読んでいただけないことは、自分でもわかる。読んでいただいている方も少なくないようだけれど、中身が薄っぺらなのに、だらだらと長いのはいけない。だらだら書くのは私の癖のようなものだけれど、だらだら短い方がいいんじゃないかしらん?と、あらためて思った。反省。というわけで、今日からやっぱり、だらだらと端的に(どんな言い回し・・・)書くことにしよう。

 アニメ、CGアニメをこよなく愛する人が多いけれど、私は基本的に「映画」として観ていて、区別も差別もしていないつもりである。実写では不可能である、アニメだからこそ楽しいという分け方をしているけれど、それは観終えた後のことで、映画として楽しませてくれれば、それでいいのだ。

 私は「アップルシード」を大絶賛した。ありがちな、近未来を舞台にした戦闘ものだけれど、静と動の使い分けがとてもうまかった。それは静の中の動で、ここはどういう世界なのか、仕組みはどうなっているかを対話形式で進める場面は、長いけれども居心地のよいものだった。近未来を舞台にしていながら、CGアニメでありながら、戦いというそこにある危機があるのだが、画像の美しさにみとれ、物語に浸った。はじめて観る、これまでにないCGとアニメの合成ということもあったのだろう。

 本作は、動のシーンがほとんどを占めている。大絶賛したから観にきたけれど、先日観た「ベクシル」と同じような印象しかもたなかった。私が好きだと思った静の場面・・・恋も、恋をしている仕草も、やきもちも、大袈裟な動きと台詞で、ゲンナリする。実権を握る女性の立つ姿、振り向く姿、そして動作と同時に発する台詞も大袈裟で、むかしむかしの対戦モノを思い出した。チラシの裏も読まず、何の知識もなく、絶対に面白いと鑑賞に挑んだからか、どれもこれも、私には物足りなかった。スクリーンの中では、派手なアクションを繰り広げ、大爆発を繰り返すけれど、私の心の中は不発弾がそのまま残された。あの大絶賛した気持は難だったのだろう。今日は体調が悪いのか、私の頭が完全にイカレタか・・・それほど、何も伝わってこないCGアニメだった。DVDで「アップルシード」を今更ながら見直してみようか・・・。

 今日は、これで帰るかとエレベーター前に立ったが、踵をかえして、チケット売り場へ行った。観たばかりなのに、まだ映画を観ていない気がする不思議な気持が襲ってきたからだ。映画を観た後は、少しであっても、その作品を頭に浮かべながら帰りたい。  <40点>

★ランキング★  参加してまぁす


パンズ・ラビリンス

2007年10月31日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo  <なんばパークスシネマ>

 とても話題になっている作品である。ポスターからは想像しがたい、PG-12の年齢制限がある。梅田のミニシアターのみだと思っていたけれど、シネコンでも上映している。先週は1回のみだったのに、今週に入って2回の上映に変わった。チケット売り場の掲示板を見上げると、混雑していますの△が点灯している。レイトショーで、23時前に終映となる時間なのに、人が入っている。この時間で△が点灯する映画は珍しい。水曜日のレディースデイだが、それは関係ないだろう。

 この映画をどう語るか・・・私は2日、仕事の合間につらつらと考えたけれど、言葉が出てこなかった。戦時下の残酷な舞台と少女の魂の広がりが同居し、時に合体する。ファンタジー残酷物語・・・生きる為に、この先、幸せだと思える日がくることを信じて、少女は試練に立ち向かう。その試練は、戦争の真っ只中のそれと交差していて、同じと言いきってもいいかもしれない。大人の現実と子供の空想。大人が子供は別と考えているけれど、実は直面に立たされている。実の母、義理の父との距離。絶対に踏み入れてはならない距離。少女は、一人で生きていくしかないのか。

 この少女の原風景が、この森の中にあり、だからこそ、空想は、とても狭い空間で展開される。しかし、そこに現れる意思をもった生き物は、感受性の強い少女のゼロから生まれている。彼女の話す相手は大人ではない。大人はわかってくれない。わかってくれないから登場した妖精たちなのに、少女はそれでも独りだった。まわりのすべてが酷で、温かい手は差しのべられない。・・・いろいろ思いつきで書いているけれど、はっきりと整理して書くことができない、人に喋ってあげられない物語だ。現実は厳しく、幻想も厳しく、空想も自分に迫る。それをファンタジーの要素を取りいれて作り上げた戦争の悲劇というべきか。そのものズバリをみせるより、少女の感受性を映像化することによって、人間、大人の愚かさを教えてくれているのか・・・人入りはいいけれど、本作も、凡百の中にどっぷり浸かった私には魅力あるもののようには思えなかった。

 ジクジクした気持で劇場を後にする。今日まで、よく身体がもった。明日は休む。早く帰って寝るべきなのだろうが、映画をハシゴする方を選んでしまった。映画を観る前は、身体が沈むようにつらかったけれど、観ている最中はそれを忘れていた。23時を過ぎ、地下鉄に乗った瞬間から、どっと眠気が襲ってきた。今夜は、寝たいだけ寝よう。  <60点>

★ランキング★  参加してまぁす


ヘアスプレー

2007年10月24日 23時30分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズなんば>

 どこでどんな災害が起きているのか、事故が起きているのか、殺人が起きているのか・・・いやなニュースばかりなので、こういう書き方になるけれど、日本で、世界で、地球で、何が起こっているのか、この一週間、私は世間のことを何も知らない。帰って寝て、起きて出かけて、帰って寝る。これを繰り返している。仕事に専念して、次々とこなしているというのは良いことではあると思う。世間で何が起こっているかなんて、ニュースなどを見なくても十分に生きていけることをあらためて知る。遠くを見て・・・何の情報もなく一週間も過ごしたことは・・・本当に久しぶりだと瞼をパチパチさせた。感傷に浸っているわけではなく、目が疲れているだけであるけれど。けれども、映画を観る、観たい者にとって、ちょっと酷な日々が続いている。しかし一方、観たいと思うことそのものだけで、実は幸せ者なのかもしれないとも思う。

 支離滅裂で矛盾したことを承知で書くけれど、人間に生まれたからには、いつかは死ぬわけで、死するときまで映画というものが続くならば、年中、映画を観たいと思っている者には、別の意味で残酷なことだ。映画館で予告篇は、いつまで流れるのだろうか。人類の歴史に、最後の映画が公開されることはあるだろうけれど、世界を狭くして、私個人が最後に観る映画はなんだろうかと漠然と思う。最後に観たい作品をと言われれば答えられるかもしれないが、実際に最後に観る映画が1本、未来にある。予告篇くらいならばいいけれど、もっと先の情報が耳に入ってきたら、指をくわえて待ち望んでいるしかない。待ち望み、やっとスクリーンで観られる時は、自分もそれだけ歳をとっている。やっと観ることができると、映画館の椅子に座ったその日は、情報を知った時より死に近づいているということになる。

 以前にも書いたおぼえがあるけれど、私たちや私たちのまわりは、待つことばかりで、待つことは即ち死へと向かっているのだから、死に急ぐことを神は人に与えたのか。インディアナ・ジョーンズ4の制作を聞いたのはもう10年以上前で、ずっとそれを待っていた。いよいよ来年の公開だが、三十代前半だった私は、四十代半ばになってしまった。その間、待ち望んでいた人たちは、どのくらいの人数で亡くなったろうか。映画大好きで、私たちに映画の素晴らしさを教えてくれた淀川長治氏は、亡くなる瞬間、観たい映画をいくつも考えただろうか。

 いろんな映画情報が乱れ飛び、それを楽しみにしていたけれど、いくつも公開が先延ばしになったり、途中で消えていったりした。29歳の時、パニック障害で発作が出て、今まさに死ぬのではないかという体験をし、あの頃から、私は映画の情報誌を読まなくなった。正確には、読みたくなくなった。それから、ほとんど読んでいない。映画の知識は、あの時点で止まっている。チラシもほとんど読まない。自殺なんてつまんないことを思ったこともあるけれど、突発的に死と直面すると、生きたいと切に願った。元気で生きていることだけで人間は幸せなのだ、これ以上の望みはあるものかと真面目に思った日もある。それでも私は勝手なもので、元気だとか平凡だとかいうものより別の世界を手に入れようとする。本来ならば、元気で生きていることが幸せであり、その上、映画を観ることができているのは過分なことなのに、それに感謝していない。

 だが、少しだけ変わった。映画を観たいと思い、しかし観れぬ日が続いているけれど、観られないと嘆きながら身体を酷使してでも仕事ができている自分は、その時点で幸せ者なのだ。そんなことを最近、思うようになった。そうすると、観る作品の一本一本がとても大切で、自分の時間も大切になり、あまり文句も言ってられないことに気づく。1年前は、ボロクソに映画作品を批判したこともあったが、ここ数ヶ月、あまり辛辣なことは書いていないつもりだ。辛辣だと思われる方もいらっしゃるけれど、まだまだ序の口で、昨年だったら、私はもっと酷い評を書いただろうと思う。これは、人間に丸みができたのではなく、力量をこえた仕事をこなしていくうち、映画を観たくても観られない状態に立ち、映画に対して、もっと愛着が湧いてきたのだと感じる。だから、つまり、私の感想や点数は甘い。どの映画を観ようか迷っている方は、参考にならないかもしれない。どの作品が好きか以前に、映画が好きで、お勧めならば、すべてお勧めと、今の私は答えるかもしれない。それでも、人生で最後の1本はある。映画の好きな人は、こういうことを思ったことがあるだろうか。すべての人に最後の1本はあるけれど、映画を生活の中に溶け込ませている人は、また思いが違うだろう。

 映画が舞台になって、映画でリメイクだという。この頃、リメイクが流行る。日本を含め、アジアの作品をハリウッドとしてリメイクするのも流行る。ネタが本当にないのだろう。嘆いているわけではなく、私としては、それもありである。そういう時期かもしれない。以前は批判していたが、ちょっと考えが変わったようだ。

 リメイクでも何でもいい。人生最後の1本が必ず存在するのならば、こういう映画を最後に飾りたいものだ。観終えた私はそう思った。ミュージカル映画はそれほど好きではないとしながら、昨年の「プロデューサーズ」は手放しで楽しんだ。過去を振り返ると、高校生の頃、「ブルース・ブラザース」は、観終えた後、サントラ盤を買って帰った。生まれてはじめて買ったサントラ盤だった。大学生の頃、「ウェストサイド物語」のリバイバルを観た帰りにもサントラ盤を買った。ステレオは故郷にあり、ラジカセしか持ってなかった私は、カセットテープを買い求めた。これは、擦り切れて、テープがグチャグチャになるまで聞いた。ミュージカル映画を嫌いだと言っているわりに、行動が伴わない。嫌いだと言っている一方、ミュージカルは、第七芸術の中で、最も最高にあるとも思っている。映画プラス歌って躍るのだから、これほどのエンターテイメントはない。ある意味、卑怯だなと思うので、本質的に好きだと言えないのかもしれない。ひねくれている。

 オープニングからエンディングまで、ほとんどのシーンがミュージカル仕上げになっている。もう、はじまって1分も経たないうちに、度肝を抜くような渾身のシーンが待っている。この一発だけで、私はノックアウトだった。疲れや辛さを瞬時に吹っ飛ばしてくれる。自分が何者かもわからなくさせてくれる一曲だ。セットからロケへとカット割りをするとき、ミュージカルというものは、どうやって呼吸を考えて撮影進行しているのだろうか。音楽を流しながら歌うMTVとは違い、カットカットのバランスが求められるわけだから、その計算は大変なものなのだろう。数学に強いものでなければ、カット割りが困難だ。私は、カラオケビデオの撮りでも頭をひねるので、こんなシーンにはただただ驚くばかりだ。スタジオのみの撮りならばわかるけれど、出たり入ったりは、スクリプターも頭を悩ませるだろう。扉を開ける閉めるタイミングの中で音楽が流れている・・・カットのはじまりと終わりの何フレームかも大切だ。それがくるってしまうと、編集できない。

 1980年代のリメイクだけど、人種問題の打破、差別撤廃にまつわる場面、曲が多い。60年代を舞台にしているからだろうが、人の考え、意識が変わりつつある転換期の60年代をどうしてもセッティングしたかったのだろう。60年代を舞台にすることによって、現代よりも若者を活き活きと動かすことができるのかもしれない。アメリカでも、夢を大きく抱いていた、抱くことができた時代だ。悪役が多くなったミッシェル・ファイファーも歌い踊る。クリストファー・ウォーケンも歌い踊る。それだけでも映画ファンは楽しい。ジョン・トラボルタが重いメイキャップで重く踊る。その設定も好感がもてる。主役の女の子も、あんなにダイナミックに踊って、どうして体型が?と思いながら、途中からとんでもない可愛い女性にみえてくる。わくわく心弾ませて、何もかも忘れさせてくれる映画だった。ひとときでもこんな時間がもてたこと。映画を観続けていてよかった。人生最後の1本でもいいような気がした。とはいえ、まだまだ観たいのだが・・・。

 観終えたら夜の11時を過ぎていたが、もっともっと映画を観たいと、私は1年以上ぶりにレンタルビデオ店で映画を借りた。すでに観ていたが、続編を観る前にと「ソウ」「ソウ2」「ソウ3」を借りる。『ヘアスプレー』とは何の関係もない、ある意味、真逆のタイプの作品だが、スプラッターもここまで練れば、純粋に面白い。帰宅して1と2を観たら、夜があけてきた。何時間か寝て、バタバタとややこしい仕事が待っているけれど、身体は少々つらいけれど、『ヘアスプレー』の余韻は続き、苦しさが目の前にあることなど、ちっぽけなものののように思えた。大袈裟なのはわかっているけれど、『ヘアスプレー』なんて映画を観られたことだけで、それは人生の中で、幸せと呼べるもののような気が、今はしている。  <95点>

★ランキング★  参加してまぁす


幸せのレシピ

2007年10月14日 23時30分00秒 | さ 行 (2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズなんば>

 というわけで、昨夜に決めた映画を3作品ハシゴする。事情があって、体も精神も疲れていて、いつにも増して、言葉の引き出しは狭く、なかなか浮かんでこないので・・・今日の3作品は、映画の感想に徹する。ハシゴは3本だけど、1本の場合はハシゴとは言わない。2本からハシゴで、つまり、3本のハシゴは2段じゃなかろうかと思う。3段ではない。とはいえ、ハシゴというのは、たとえであるわけだけど・・・。

 今日は日曜日なのに、東宝シネマズは1,000円の日になっている。TOHOシネマズ10周年記念として、毎月14日は1,000円らしい。10と4でトーフォー、東宝。どんどん映画料金を下げていく。映画人口は平行線のままなのに。

 本作は、試写の招待状をいただいていたが、その日はロケーションで行くことができなかった。キャサリン=ゼダ・ジョーンズはとんでもない美人で、どんどんのし上がってきた女優である。はじめは、端役で、マイケル・ダグラスについていっているだけの流行のセレブだけだと思っていたが、いまや、ハリウッドで主役を張れる女優と化けた。キレイキレイだけの女優ではなくなった。これまではまだまだで、この先、熟していきそうだと思う。

 いいタイトルだし、本題をそのままで公開してもいいだろうと思うが、女性客狙いか、このうよなタイトルにしている。日本の映画宣伝部は、いつまでも女性客を意識する。こんなことで騙されてはならないけれども・・・ポンッポンツポンッと乗りのいい場面転換と台詞と音楽に酔わされた。そうなるのだろうと思っていたら、ラストでそうなるが、予想があたって、良い意味でほっとする。

 しかし、何故だかはわからないけれど、こういうまとまり方は、今の私の心にグッと刺すものがあった。ここがエンディングだとわかるので書くけれど、少女が、料理を運び、看板をひっくり返すラストカットが終わって、ロールスーパーが上がりはじめたとき、流すことはなかったが、なぜか目に涙が溜まった。なぜだかはわからない。どうしようもない孤独感に襲われた。誰も私の存在など知らないような・・・ハッピーエンドで、そんな感情を抱いたのははじめてだった。これから2本のチケットは買ってあるけれど、このまま帰ろうかとしばらく思う。目標を失いかけているのかもしれない。そんなことはないけれど、時々、思う。成就する画を観ると、不安になるのだろうか。わからない。

 気持を入れかえようと、エレベーターで一階に下りる。爽やかな空気を吸いたかったが、難波の雑踏、繁華街の澱んだ空気を吸って、またエレベーターでシネコンへもどった。  <75点>

★ランキング★  参加してまぁす


パーフェクト・ストレンジャー

2007年10月14日 23時00分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_2  <TOHOシネマズなんば>

 ラストの何分かという宣伝文句だった。そんなことを言われると、意識してしまうではないか。観ながら、誰がどうしてどうなって、つまりはこうなる・・・そんなことばかり考えて観ている自分に気づいた。確かに、ラストの何分かはよくできている。その処理にカット割りも抜群の力でつないでいる。だが・・・ラストの何分か以外のすべてが、私にはつまらなかった。ラストの何分かを観るために、2時間近くも観るという映画である。本作を考案するにあたって、ラストを最初に思いつき、それに軸を挿し、枝葉をつけていった観がある。それでもいいけれど、その軸も枝葉も何のスリリングも感じない。同一色で目をみはるところが少ない。このラストにもっていく為の魅力がほとんどないのだ。極端に書くけれど、ブルース・ウィルスなんて、出る必要があるのだろうか。彼に近づく意味もあまりないように思うし、近づいた割には、主役は大胆なポカをやる。散漫な軽いドラマを観ているようだった。

 そう思うと、松本清張の好きな私は、東京駅で端のホームから向かいの端のホームが見えたということだけでヒントを得て書かれた「点と線」、島根県の一部の地方でズーズー弁を話すというヒントを得て書かれた「砂の器」は、図太い骨と鮮やかな枝葉をつけている。映画と小説の違いはあるけれど・・・。

 大きな問題を後回しにして、最後にドンデンだとばかりに驚かせるより、途中で教えてくれて、そこに至るまでの経路をみせてくれても十分楽しめるはずだ。ラストで、ええっ!と、驚かせる作品も多いけれど、これほど、そこに至るまでの流れに魅力がない物語は少ないのではないか。とにかく、2時間弱をぼーっと観て、ラストでスクリーンをみつめさせた。とは言うけれど、あの宣伝文句を何度も何度も聞かせられれば、意地悪に意識する。途中、この人の過去は?などと思ってしまうと、とりたててびっくりするものではなかった。

 洋画を続けて2本観た。次も洋画だ。20分おいて、3本目。いやいや観ているわけではないけれど、少々、疲れた。3本ハシゴするならば、ラストは邦画にしておきたい。21時前。ちょっと目がショボショボしている。  <40点>

★ランキング★  参加してまぁす


大統領暗殺

2007年10月14日 22時30分00秒 | た 行 (2006.2007)

Photo_3  <TOHOシネマズなんば>

 チラシを読み、予告編を観て、とても興味があった。米国のブッシュ大統領が暗殺された。さて、米国は、世界はどうなる。まったくの嘘話だけれど、これをドキュメンタリーの手法で一本の作品にしているという。こんなこと、日本では到底できないだろう思うだけで、観たいと思った。日曜日のセレクトスクリーンは、20人の観客だった。

 CNNなどのニュース映像を含め、証言(俳優のつくりもの-真実味のある素人芝居をみせる)を絡ませながらドキュメント映画としている。だが、待てよ・・・米国の大統領が暗殺されたところがピークで、後の対応の仕方、証言は本物を追及しただけではないか。しばらく証言者のインタビューをだらだら観ているうち、本当に米国の大統領の暗殺があって、そのニュース番組、特別番組を映画館で観ているような気分になった。本作は、パロデイではなく、シミュレーションだ。それも、かなり煮詰めたものである。だからだろうか、折角の素材なのに、暗殺の瞬間とその後の処置がとんがり帽子のようにでっかく、あとはちょろちょろとモヤシの根っこのようにまとわりついているだけだ。

 大統領の傍にいた人たちの証言は悪戯に長く、ここまでは不要だと感じる。あの時に私はここにいて、こういうふうに撃たれて・・・そんな証言に興味はない。あのときに、こうしておけばよかった・・・これにも興味はない。実際、大統領暗殺事件が起こると、本作に似たような特別番組が流されるだろうけれど、あまりにも忠実に想像していくと、実際はフィクションだから、観る側、つまり私は、途中から聞き耳を立てる気も起こらなかった。問題作!快作!と、大きく誉めている方も多くいらっしゃるけれど、私にはまったく面白さがわからない。頭が悪いのかもしれないけれど・・・。荒唐無稽なパロディをいっぱいつめこんだ方が、私にはあっている。

 こんな映画に対する扱いがあろうか・・・レイトショーだとはいえ、1時間経ったあたりで、2人の客が立って帰っていった。その何分後か、また1人の客が立って帰っていった。映画を観ている途中で帰るなんていう風景は、あまり見ない。いつだったか、「となりの山田くん」でもそういうことがあった。

 連日の仕事がきついので、日曜日の映画のハシゴは楽しみにしていたけれど、3本目はさすがに疲れた。帰ったら、すぐに寝たい。5分もかからず寝ることができるだろう。アルコールの飲めない私の足が千鳥足である。どんなに仕事が忙しかろうが、それでも、映画を観る時間は作ることができる。観たい一心だからだろう。  <40点>

★ランキング★  参加してまぁす


HERO

2007年10月13日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Hero1   <TOHOシネマズなんば>

Hero2_2   この頃、毎日のように、最終電車に乗り、帰ったらお風呂にも入らず、そのままぐたっと寝てしまっている。食事もしないこともある。朝起きて、お風呂に入り、仕事にいく。その繰り返しだ。頭がパニックになりそうな仕事の山が目の前に積み上げられている。今日はなんとか21時までに無理矢理、オフライン2を仕上げ、レイトショーの21時30分の本作に間に合った。23時50分に終わる。帰る頃には次の日だ。どれを観たいからとかではなく、21時30分という時間から上映している作品は、これしかなかったのだった。テレビを映画化したものだし、そういう類の作品だから人入りはいいと聞いていたし、シネコンの中では、500人以上の最も大きな劇場で上映しているので、レイトショーでも少なくないだろうと入ってみると、30人ばかりの観客に向けて、予告を上映している。朝から何も食べていないので、ホットドックとポテトを買い込んで、指定された最も後ろの隅の座席に腰掛けた。

 自分の離婚裁判を自分が担当するわけにはいかないだろう・・・はじめから、とても軽くはじまってくれる。予告を観て、複雑で奇想天外だと想像していたストーリーはいたって単純だったが、その単純さがあって、2時間10分がするすると流れに任せ、映画に身をゆだねることができた。重みも軽さもほどよく、豪華なキャストに「東宝は毎回、勝負をかけるなあ。」と思う。それが、宣伝の力によって、ほとんど成功しているから驚く。松竹、東映もマネをすればいいのにと思う。東宝の直営館は、邦画の方があたっているのではないか・・・。この頃は、テレビ局がプロデュースの役割を担っている映画が多く、監督もテレビ界から映画界へ転進していく。昔は、映画界からテレビ界だった。逆転だ。テレビの力はすごい。はじめの頃は、テレビ局の税金逃れかと思っていたが、儲かっている。ますます、テレビが映画に流れていく気がする。なだれ込んでくるかもしれない。

 舞台の主となる狭いセットは、シネマスコープによって、広く撮られている。狭いけれど、カメラは自由自在に切り替わる。その辺りがテレビ演出だが、それでも四方がきちっと装飾されているので、空間のとり方が大変だったろう。クレーンアップダウン、ドリー、レールショットも多いけれど、フィックスの中で動きを求める演出が多い。決められたカットの中で、俳優の動きを頼りに、まるでカメラが動いているようにみせるのが、シネマスコープでは俳優は大胆な動きをしなければならず、かといって、大きく動きすぎると不自然になる。映画のカットを考える時、最も頭を悩ます演出で、俳優の技量も必要だ。しかし、これを多用することで、軽さ重さ以上に、画に厚みを増すことができる。3次元に思えて、スクリーンは2次元だ。その2次元を3次元にする力をもたせることができるのである。2次元を3次元みせる錯覚で、私は好きだ。そこにこだわったのは、思ったより弁護士の崩壊が早いという結末が待っているからだろうと思う。木村拓哉と松たか子の二人物語を割いた分、裁判シーンに魅力がない。封切日が決まっている映画は、その辺りがつらい。現場で脚本を変えようとしたら、中断せねばならないだろう。

 傍聴席の仕出しが、とても気になった。傍聴しにやってきたというより、連れてこられたみたいなきょとんとした顔をしている。こういう日本のエキストラを見ていると、ハリウッドが羨ましい。アメリカ映画は、バックに写っているエキストラも、しっかり芝居をしていて、そこにいるべくしている。衣裳に着替えましたという感じもない。「それでもボクはやってない」の傍聴席のエキストラはとても自然で、私は流れるストーリーに吸い込まれたが、同じ東宝映画の裁判シーンでも、こんなに違うのかと思った。ただただその場にいるエキストラならば、いない方がいい。私のように、斜めから観ているような野郎は、エキストラの視線なども気になって、それなりにそこにいろよ!と、怒りたくなる。

 23時55分に終わり、地下鉄のホームに立ったのが0時。帰って、お風呂に入って、ブログを書いて、寝る頃は、いつものように朝の4時か5時になるだろう。さて、明日は休みである。疲れてはいるけれど、久しぶりに3本のハシゴをしようと思っている。すべて全国封切モノだ。大阪でしか観られないような、ミニシアター系に行きたいけれど、それらは、もう少し、もうちょっとだけ、仕事が一段落したら、駆け足でまわろう。今の私は、観たい観たいと思っていたミニシアター系の映画が、どんどん終わっていくのを指をくわえて見ている。  <70点>

 

★ランキング★  参加してまぁす


さらば、ベルリン

2007年10月10日 23時30分00秒 | さ 行 (2006.2007)

Photo  <TOHOシネマズなんば>

 親の親の世代で、私はもちろん、あの頃のフィルム、音声の質をリアルタイムでは観ていない。リバイバルされて観に行ったり、ビデオを借りて観たずっと後の世代である。おやっ?と思ったのは、白黒フィルムが白黒フィルムそのままの発色だったことだ。カラーフィルムを白黒にすると、ほのかに全体的にブルーが重なる。同じ白黒に見えて、昔の白黒フィルムとつなげると、はっきりとわる。それが、本作では60年以上前の実際のフィルムと発色が同じだ。これは、本当に白黒フィルムを使ったのだろうか。デジタル処理か?スティーブン・ソダーバーグ監督はこだわりの人なので、もしかしたら、デジタルを使わず、白黒フィルムを集めさせて、撮影に挑んだのではないかと思う。そうなると、前準備の仕事が大変だ。音声もチリチリとさりげなくアナログを思わせる作業をしている。後の仕事も大変だ。あの時代を徹底して再現しているのは、全編を通してわかるけれど、フェードやカメラワークでつなぐのではなく、ワイプがやたら出てきたり、暗がりの照明にこだわっているなんて・・・ものすごい愛着をもっているのだろうか。暗い場所での照明は、コントラストが強い。観ていて、なんだか、映画の勉強をしている感じがした。「フィルム・ノワール」という言葉が大学時代にかえらせてくれて懐かしい。けれど、これは私の映画の勉強の範囲で、まったく楽しむことをさせてくれない。この衣裳、カット割、照明などを観ていて、カメラの後ろばかりが気になって、ほとんど物語りに集中させてくれなかった。なんたること・・・。

 いろんな映画のある部分を取っているのだろうが、私はラストシーンだけしかわからなかった。一本の裏方映画として観ていた。私だからだろうか、だからどうってことはない作品だと思う。あの時代の名作を今に忠実に再現したからといって、芸術性を褒め称えるわけにもいかない。そういう気も起こらないのだ。ドイツ降伏後の時代が変革を起こすところへサスペンス性をもってきて、ドキドキしそうだけれど、不発弾をばらまかれたように、何もかもが尻すぼみのように思えた。ケイト・ブランシェットが、とんでもない思いの中、とんでもない生活をしているのに、とんでもなく美しい。貴婦人だ。どういう状況になったら、そんな容姿のままいられるのだろうか。主役らしいジョージ・クルーニーが主役らしからぬほど薄い。ロシア出身のラビル・イシアノフの苦渋に満ちた冷酷な顔の方が印象に残った。などと、ボロクソに書いているが、私は特殊で、この世界がわからぬ種類の人間なのかもしれない。身も厚く、深みのありそうな見かけだったが、食べてみると薄っぺらな味がした。

 観たきっかけは、普通料金(レイショーで1.200円)で、プレミアスクリーンだったことだ。21時30分、水曜日のシネコンから、どっと女性がエレベーターになだれこんできた。「HERO」が終わったのである。「さらば、ベルリン」のレイトショーは、プレミアスクリーンであるにもかかわらず、観客は私を含めてわずか5人だった。  <45点>

★ランキング★  参加してまぁす


インベージョン

2007年10月09日 23時30分00秒 | あ 行 (2007)

Photo  <試写>

  私の父は郷土作家で、毎晩、新聞連載やタウン誌や書き下ろしの原稿の執筆に追われている。その上、パーティや会議や打ち合わせが毎日何度もあり、家から出たり入ったりで、平均睡眠時間が3時間らしく、少々、疲れている。のんびりできる休日なんてない。新しい原稿依頼が多いが、最近はあまり無理せずに、書きたい気持ちを抑えて、断っているらしい。私の母も個人的に仕事を持っていて、朝から晩まであちこちから電話がかかり、家事もしっかりやっているので、バタバタと忙しい。時間がなくなって、レイトショーに間に合わないと嘆いている私などは、まだまだである。「仕事は楽しく、遊びは一生懸命に」と、母は言った。

 そんな両親の住む実家。二泊三日で下関に帰省した。大阪のマンションを引き払うのも残り3ヶ月を切って、故郷での暮らしをどうするかで帰ったつもりだが、お墓参りと一人暮らしの部屋を見るだけで、あとは別の所用に時間を使った。今年は3度も帰省している。3年も4年も帰らないこともあったけれど、何かの運命の糸が引っ張っているのかもしれない。故郷へ帰る前準備として、今回、帰省した意味はあるのかどうかわからないが、両親の顔を見ただけでも、よかったと思っている。二人とも、一日が24時間が短いとばかりに動くが、その合間をみつけて私の相手をしてくれる。

 私は、27年間も大阪にいるので、実家に帰っても、実は、どうもおちつかない。行きの新幹線では21 揚々としているが、帰りの新幹線ではほっして寝てしまう。二泊三日の帰省が疲れているのだ。小旅行の気分になっている。なにを緊張しているのかと思う。高校を卒業し、約10年間は故郷に帰るとほっとしたが、30代になってからは、故郷から大阪に戻る11 とほっとするような逆転をした。私は何年かに一回くらいの割合で帰るので、私の空間を必要としないため、実家には基本的に居場所がない。帰ると、それを感じる。どこに立ち、どこに座っても、お宅にお邪魔している心持ちになっている。おかしな具合になった。2008年には下関にいる身だが、どういう風になるのか、気になる。ブログは自宅で書くようにしているが、今、狭いマンションで一人で書いているのが気楽でいい。普通の人間のような顔をして、実はそうではなくなったようだ。帰り際、翌日の朝ごはんとして、母は、お弁当を私の鞄にいれてくれた。子供は中年になったが、永遠に父と母の子供である。

 夜中の0時過ぎに大阪の自宅に着く。疲れて、風呂も入らず、ぐったり寝た。朝、母の手作りのお弁当を食べてでかける。母の手作り弁当は十年以上、食べていないのではないかと思った。高校3年間は、毎日、お昼は母の作ったお弁当だったなと思う。高校を卒業して27年も経ったのか・・・人生を駆け足で急いでいる気がする。

 「ボディスナッチャー」のリメイクだという。これまで、オリジナルを含めて3本作られてきたので、3回目のリメイクということになる。3回目と書いたが、「ボディスナッチャーズ」は入るのだろうか。うーん、入るのだろう・・・か。あまりにも日常とかけ離れた荒唐無稽とも言えるSFだが、宇宙人や宇宙船などという大掛かりなものは出ない。有名俳優は出ているけれど、観たかぎりでは、すべてB級と言える。私は70年代にリメイクされた2本目が大好きで、あの異様な犬や得体の知れない創造物が鮮明に頭に残っている。中学生の頃だから、びっくり仰天だったのだろう。何年か前に観なおしたが、CGもない時代、クロマキー処理と合成で、よくあそこまで気持の悪い得体の知れない創造物を映像化したものだと今でも思う。CGではないから手作りの不自然な動きだが、そこがまた気持の悪さ、こわさを倍増させた。

 このB級素材をCGたっぷりで蘇えらせた。それもA級映画として。監督はハリウッドデビューとなるけれど、主役がニコール・キッドマンならば、すでにB級ではない。この辺り、分けにくいけれど、お金もたっぷりかけてあるから、一流映画なのだ。わざわざA級、B級と分けて観る必要なんかないじゃないかという声も聞こえてきそうだけれど、「B級の愛らしさ」を知ってしまうと、分けたくなる。有名な製作会社でもなく、お金もなく、有名な監督も俳優でもなく、娯楽性をまず一番に考えた作品たち。でありながら、面白いからと一流の配給会社が世界へ流す。サム・ライミの監督デビュー作「死霊のはらわた」は、自費で、わずか1億円で制作したが、ン百億円も稼ぎ出したという。今や、「スパイダーマン」を撮る監督になった。

 あのストーリーをそのままに、独自の解釈とオリジナルを満載して、迫力あるドキドキ興奮できる大きな映画にしてくれた。70年代の作品もお気に入りだけど、これはこれでとってもいい。あの荒唐無稽だと思っていたストーリーに真実味が生まれているのも驚かせてくれる。ちょっと笑みを浮かべながらは観ることはできず、手に汗握って私をスクリーンに喰らいつかせた。いつもの人が、いつもと違う・・・その辺りは同じ演出でも、同じ仲間にしようとする力が違う。とても強い。その意識が、まるでゾンビのように車にまとわりつくカーアクションで教えてくれるが、あのカーアクション、スタントマン、死んじゃったのではないかとゾッとする演出だ。

 我が子を助けたいという母親の執念が大きなテーマになっているけれど、それはストーリー展開から起きた必然ではないだろうか。そういう設定をつくることによって、エンディングまで一直線に進んでいき、複雑さを取り除いて、観ている側もはっきりする。テーマがどうのこうのなんてのは、作り終えて考えることもあるのが映画、ドラマで、制作者よりも評論家が勝手にみつけて、雑誌などに書いてしまうこともある。監督は一言もテーマを語っていないのに、いたるところにテーマが掲げられてしまう。私はディレクターの端くれだが、「○○がテーマなんですね。」と、考えもつかなかった言葉を聞くこともある。ぎょっとするが、「それもありますかね。」と、そうかなと心の中で首を傾げる。面白いものだ。

 リメイク2回目、もしくは3回目。これまでの作品を観てきたけれど、まったく違った新しい映画が誕生した。カメラも丁寧で丹念に狙っていて、しかしそれを意識させない。映画を観ると、裏側が気になる私だけれど、気にならない。上手いなと思う。映像革命を取り込んだ、21世紀の「ボディスナッチャー」だ。リメイクだけれど、いままでの作品を観て行く必要はない。本作を観た後、70年代のリメイク版をDVDかなにかで見てくれたら嬉しい。映像の進化を知ることができる。特撮の手作りの映画の良さも、映画の大好きな方には、わかってくれるかもしれない。  <80点>

★ランキング★  参加してまぁす


ファンタスティック・フォー 銀河の危機(字幕版)

2007年10月02日 23時30分00秒 | は 行 (2006.2007)

Photo_7  <なんばパークスシネマ>

 どうしても「包帯クラブ」を観たいと思っていて、まだまだ上映は続くと思っていて、タイムスケジュールを見てみて、9月5日で終わる!みたいな・・・。評判は聞かないけれど、良かろうが悪かろうが、観たい。早々に仕事を切り上げて、なんばパークスシネマにやってきた。早々に切り上げすぎて、2時間以上前に着く。「包帯クラブ」はすでにはじまっているから、食事でもしようと場内をうろつく。2時間以上の待ちなので、しばらくぼーっと、時間の表示された電光掲示板を見ていたら、ファンタスティック・フォーの続編の時間にちょうどいい。前作も観ている。これを観た後、包帯クラブの隙間が20分ある。2作品ハシゴの計画ではなかったが、つづく2作品のチケットを買い求めた。

 さすがアメリカのコミック、話も無茶苦茶で、どーでもいい世界で、無理からのヒーローが集まって、あまりにもあんまりな銀河の危機が起ころうとしている。すでに起こっているのかしら?実写に溶け込んでしまったCGは驚かないけれども、ラストに近づくにつれ、これまでになかったようなアングルで空中の戦いを楽しませる。早くから眠たい夜だったが、半分あたりから映像と音響で目が冴えてきた。こんな画コンテを描くスタッフもスタッフだが、それを現実の実写にしてしまうCGスタッフの力は凄い。この先、CGの映画はどうなっていくのだろうか。このあたりで、止めてもらった方が・・・そんなことを書くと、怒られてしまいそうだけど・・・。

 それにしても、この映画、壮大なように思わせておいて、小さな空間でチマチマしている。顔をあわせるみんなも同じで、いつも一緒だし、事態からして、軍隊は相当な規模で展開しているはずだが、とてもこじんまりと構えてみえる。4人もヒーローがいるから、普通の人間の出る幕は少ないのだろうけれど、こいつらが活躍している間、世の中、世界の人たちはどうしているのかが気になるほど、狭いところで大きな仕掛けをやっていた。てなことを気になりながら観ているのだから、素直には楽しめていないのだろう。ロールスーパーが上がるのを観ながら、ハシゴの「包帯クラブ」に気持はいっていた。とても気になっている。こんなに気になって、期待して、駄作だったらどうしようなんて考える。本作は、疲れた眠気をふっとばしてくれたことに感謝したい。  <70点>

 人生の転機で、ブログ名を「活動写真評論家人生」から「活動写真放浪家人生」として、相互リンクさせていただいている方々にメールを送った。『放浪家』などという日本語はないはずだが、この名前は意外と好評で、面白いタイトルだと次々と返信がきた。自分でも気に入っていて、この放浪家人生、これからどうなるやら、どうあがいても自分が主役になってしまうけれども、プライベートと映画レビューを交えて、書き綴っていこうと思う。さて、観たいと思い続けていた映画「包帯クラブ」がはじまる。

★ランキング★  参加してまぁす


包帯クラブ

2007年10月02日 23時00分00秒 | 90点以上(2006.2007)

Photo_8  <なんばパークスシネマ>

 上映前、先日のホクテンザのトラブルと同じようなことが起きた。巨大なシネコンでは珍しい。予告の途中で、映写が止まった。その瞬間、電気がついて、パッと明るくなった。どういう仕掛けかわからないけれど、何か機械的トラブルがあると、明るくなるのだろうか。30秒経った頃、若い男性が現れ、「ただいま、映写機のトラブルが発生しました。すぐに復旧しますので、しばらくお待ち下さい。」と言い、そのまま、客席を向いて直立で待っている。1分くらい経った。胸についているマイクでなにやらやり取りをしはじめた。映写室とつながっているのだろうか。「お待たせ致しました。上映を再開します。ご迷惑をおかけしたことをお詫びします。」などと言って、そのまま立っている。場内が暗くなり、上映がはじまると、男性はゆっくりとソデに消えた。つい先日のホクテンザと、本日のなんばパークスシネマだったから、私はその違いを楽しんだ。どちらが丁寧だとか無作法だとかではなく、理屈ではなく楽しい。

 さて、ファンタスティックフォーをとても失礼な観かたをしてしまって、映画好きとしてはけしからんと自分でも思う。本作だけを目指して勢いよくやってきたので、けしからんことになった。勢いよく目指してやってきたのは、主演俳優と予告篇だけによる興味である。それだけで、こんなにわくわくするのは何故だろうか、自分でもわからない。柳楽優弥の出る作品を面白くないと思ったことがないからで、その上、日本映画にしては、予告もよくできていた。惹かれるものがある。石原さとみも、街中ではあまりみない清楚な顔立ちで好きである。

 私は堤幸彦監督の映画を好まないタイプの人間である。「溺れる魚」「ケイゾク」「トリック」など、ヒットはするけれど、どれもこれもテレビを大きくして観ているような気がしてならない。映画だから映画として観るけれど、観終わったら忘れているような軽さ。良い軽さもあるけれど、これらは悪い軽さだ。「溺れる魚」も「ケイゾク」もパート2は、どうしたのだろうか・・・。深夜のテレビは見ていて、とても楽しんだが、それをそのまま映画に持ち込んだのでは、わざわざ出かけさせる人を馬鹿にしていると感じた。大ファンが多い一流の監督なので、あまり書くと批難を浴びるかもしれないが、そう思っている。

 ところが、2本だけ、これは・・・と思う作品がある。「恋愛寫眞 ollage of Our Life」と「明日の記憶」である。同じ監督とは思えないような丁寧な撮り方で、テレビの2時間ドラマではなく、しっかりした映画の2時間だった。凡作と秀作を撮り、真ん中がないような監督だと思った。脚本によって違うのか、俳優によって違うのか、プロデューサーによるのか・・・いろいろ探って考えてみたが、よくわからない。別人とも思える2つの作品だった。堤監督は映画の世界で成功し、どんどん上向きに変わるのだろうと思ったが、「大帝の剣」は、私は書くことをしなかった。一文字も浮かばなかった。

 堤幸彦監督作品のこれまでの映画作品での最高傑作が誕生した。原作の良さもあるだろうけれど、映画だけの評価をする。抜群に楽しく寂しい少年少女の揺れ動く心を丁寧に狙って描ききっていると思う。人生は黙っていても辛いものかもしれない。敢えて、若い頃に苦労をする必要はないけれど、それを素通りしそうならば、この映画の少年少女の心の中をのぞいてみてほしい。ストーリーも台詞もいちいち深いけれど、シネマスコープの異様なひらきのあるサイズだけで、彼らの純朴で残酷な優しい世界を知ることが出来る。この撮り方は、恋愛寫眞にも通じるところがある。

 物語、俳優もいいし、カメラワーク、サイズも気持ちいいし、台詞もびんびんくるし、楽しそうで寂しいし、大人はなかなかわかってくれないし、東京が中心ではなくて地方から世界を動かすし・・・わけのわからないことを書いているのは承知しているけれど、映画としては、どこにもクレームをつけることができない。つけるところがあっても、つけたくない。世代は違っても、あの頃のことを思い出す。私も嬉しがりで、人に干渉して生きていた。干渉されたくないと言う人ほど人に干渉すると私は思っていて、自分もその口だが、中に入ったならば、彼ら彼女らと同じことをやって、傷つき、傷つけあい、相手の心を知り、ゆっくりと大人になっていくだろう。

 まだ、私は、彼ら彼女らの青春のそのままの中にいて、成長はしきれていない。思えば、大学に入ったところから27年間、やっていることが、学問から仕事に変わっただけで、他は変わっていない。そのままである。いつまでもそのままではいけないのだろうが、そのままだからこそ、この作品の登場人物たちに気持が入り込んでしまったのかもしれない。大きな事件や深く傷ついた心を観客は知ることになるけれど、私は、とても小さな、相手を思いやる言葉や仕草に涙が出そうになってはこらえた。彼ら彼女らの背景を描ききっていないが、描ききっていないのが良いとも思った。友達の家での行動、家族や親戚なんて、実際は詳しく知らないものである。なんとなくわかっていればいいのだ。だからこそ、私は、観ている間、包帯クラブの仲間になることができた。ああ、ホントに・・・なんて優しい映画なんだろう。  <95点>

★ランキング★  参加してまぁす