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活動写真放浪家人生

活動写真を観ながら全国放浪の旅ちう

スーパー!

2011年08月30日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_4 <小倉コロナシネマワールド>

 普通じゃない!普通じゃない人!って面白い。面白がっていればいいけれど、マジメくさって自分を主役にさせすぎて生きている現代の日本人、ムキになって怒ったりして、つまんない。きついジョークが通じなく、ちょっとしたことでも怒ったり沈んだりする。だから、映画もテレビも公平な路線になってしまう。日本映画、日本のテレビがつまらないのは、そういう人に合わせているからだろう。テレビ制作人が狂人すれすれの頃が、テレビは面白かった。見たきゃ見ろのような番組がたくさんあって、批難されるとなおさら楽しがって作り手は増長した。批難される番組ほど、面白いのだ。PTAがムキになるのを喜んだ。それは間違いなかった。番組だけではなく、人もそうである。普通に生きてても、普通じゃないことを考えて、言って、書いていたりする人の方が、接していて楽しい。毎日、違うことを伝えてくる。刺激が濃い。生活に関係なくても、やはり、奇想天外な毎日の方がワクワクする。なので、普通人に生きたかったとする私の一方の頭もあるけれど、普通では生きたくないという頭の方がでかい。

 そんなに特別なことではないと私は思っているが、今日もビジネスホテルに泊まって、これを書いている。「小倉西鉄ホテル」で、大浴場がある。北九州のビジネスホテルの大浴場で最も広く、清潔感がある。ここをビジネスホテルではなく、普通じゃなくて商人宿としたいところだが、じゃらんnetに商人宿はない。いくつかあたりをつけているので、次回、電話してみようと思っているが、LANケーブルをブラブラさせて、今のようにブログを書くなんてことはできないだろう。宿に日常のノートPCを持ってくるのもどうかと思うが・・・。

 私のブログは随分と変わった。たくさんの映画ブログを読ませてもらって、自分だけの映画ブログを書こうとしているうちに、ストーリーを省き、監督がどーした、俳優がどーしたと書かなくなって、評論でも感想でもなくなって、ついには映画ブログではなくなっていっている。少しは映画ブログらしく戻そうかと思っている。ということで、ここ数日、みんなの映画ブログをたくさん読ませてもらった。その中で、私だけのブログにするにはどうすればいいか・・・とりあえず面倒なストーリーは書かない。書きたいときだけにしよう。みんな冒頭に書いているし、上手くまとめたチラシの裏でいい。だが、読み集めていくと、その隙間というのが見つからない。二人で喋りながらなんていう独自の世界を展開している方もいらっしゃるので、私もと思うが、新しい手法は難しい。思い浮かばない。普通ではなく、ありたきりではなく、しかし、映画評となっているには?極端な話、いつも言っているけれど、投げ出してしまったらいいという意見もある。

 今日は、 『小倉昭和館』で、再上映の「ダンシング・チャップリン」を観るためにやってきたけれど、二本立ての「ブラック・スワン」の方がずっと楽しめた。実は2回目の映画館鑑賞である。1度目も面白い映画だなと記憶に残ったけれど、今回の方がもっと楽しめた。つい先ごろに書いた、2度目なのに・・・である。知っているほど楽しい。知らないであろう観客との心の共感、共有なのかもしれない。ただ、「八日目の蝉」と違って、「ブラック・スワン」は映画としての質がとても高い。これはきっと、何度観なおしてみても楽しめる作品のような気がする。主人公の肉体と精神のバランスの崩壊をこれほどスリリングに見事に描写した映画も少ないだろう。主人公が本当か、映し出されたソレが本当か、どれも信じていると観客はすっかり騙されてしまう。

 演出の冴えもさることながら、ナタリー・ポートマンの成長ぶり・・・いや、化けっぷりはどうだろう。「レオン」いや、「スターウォーズ」と見比べてみたらいい。ほとんど同じ顔だよ、スタイルも。でも、まったくの別人。ナタリー・ポートマンがそこにいるのはわかるけど、化けた化けた。女は化けるなあ・・・男優が化けることは少ないけれど、女優は化ける。化けるのいっぱい見てきた。現実の世界でも・・・。女は、物心ついたときから死ぬまでずっと女優をやっているのよ、女を演じているのよ・・・ある映画の女優の台詞である。にしても、ナタリー・ポートマンはすっごい女優に化けた。まだまだ若いけれど、そんじょそこらの女優陣を寄せつけない程だ。バレエダンサーの主役なんて役だけでもシコミ含めて大変だろうに、か弱い精神を抱えた堂々たる女優っぷり。

 あ、これは「スーパー!」のタイトルか。スピルバーグ製作の「SUPER8(スーパーエイト)」ではない。でも、今やさっぱりになったスピルバーグ監督のスピルバーグ製作「SUPER8」も悪くはなかった。前半部分は、若いころのスピルバーグ作品に似ている感じがして好き。自分が監督すればいいのにと思いながら観た。列車事故あたりまで、スピルバーグ作品を意識した演出になっているのかしらん?大人が寄ってたかって子供の言うことなど!としているトコなんて、じれったくていい。これ、後半部分は印象薄くて忘れてしまったけれど、もう一度観てみたい。燃え上がっていた時のスピルバーグの香りがプンプンした。あ、これは「スーパー!」のタイトルだわ(-_-;)

 R指定を受け、残酷な描写が多いのに、コメディで、進んでいくうちにセンチメンタル。脚本では理解できないとしてなかなかGOが出なかったらしい。というわけで、なんとか制作費250万ドル、日本円で今は1億8千万円くらい。制作費だけではアングラ並みである。全米公開とほぼ同時にオン・デマンドで流したらしく、興行収入はン千万円くらいになっている。映画館で儲けるつもりない映画だ。もしかしたら、日本での公開の方が稼いだかもしれない。なのに、リブ・タイラー、ケビン・ベーコンといった大物俳優を出している。大物俳優にこだわったらしいけれど、一人もギャラ払えないじゃないか・・・。一人ン億円級の俳優にどう支払う?このあたりの事情がわからない。

 レイン・ウィルソンが、不細工で超不器用に生き、ヒーローに憧れ、超現実的なヒーローとなる主人公を演じる。地味な俳優。45歳とは思えない、まだ若く見える。レイン・ウィルソンと結婚する女性が、美女のリブ・タイラー。とても釣り合いがとれない画としているところに映画の行く末がわかるようにしている。リブ・タイラーも34歳になったけれど、どんどん輝いている。45歳と34歳。日本では歳の差だと言われるけれど、アメリカではこれくらいの年齢差は、まったく歳の差に入らない。ブ男と美女に重きがあるのだ。ここで、連れ去るいけてる兄ちゃんがケビン・ベーコン53歳。えっ!53歳?とてもとても、日本では53歳で若い遊び人を演ずる俳優はいそうにない。ケビン・ベーコンは、俺に明日はない遊び人を楽しんでいる。レイン・ウィルソンの前に現れるかわいい女の子エレン・ペイジ24歳。レイン・ウィルソンからすれば親子ほど歳が離れているけれど、スーパーヒーローの相棒となる。また、中年男を本気でケロッと誘惑もしたりする。面白い役者を揃えて、とてもとても普通とは言えない、しかし真面目な映画を撮ったものだ。ジャンルとしては、ブラック・コメディらしいが、ヒューマン・コメディと言った方がいいかもしれない。私としては楽しめたが、つまらないと一蹴する人がいても気持ちはわからんでもない。

 人は誰でもコンプレックスを持っている。それが大きいか小さいか、多いか少ないかはそれぞれだが、なんとか頑張って人並みの暮らしを保っているのだろう。なにもない暮らしの中で、かけがえのない人をみつけ、夢が叶って、幸せの欠片をみつけたとき、それが消えたら・・・誰にでもある不安なトコロを衝いている。どうにでもなれ!という気持ちと、それを取り戻そうという気持ちが交差する。レイン・ウィルソンは、悪をやっつけるスーパーヒーローへと化けようとする。悪に妻を取られてしまったからだ。映画やテレビでは、ヒーローが美女を助け出すことになっている。空想と現実の交差。しかし、自分は善ではないとも思っていて、ここが単におとぎ話のような物語にしていない面白いところ。リアルに描いている。悪をやっつけて、失敗もするし、やりすぎてグチャグチャにもしてしまう。手加減もわからない。手加減してたら自分がやり返されるかもしれないのだ。

 暴力シーンは痛々しく描かれ、やられたら本当に痛い。小さな傷でも痛いものは痛いのが現実で、足なんて撃たれたら歩けないに決まっている。まだ歩けるのがドラマだけれど、この映画では歩けないのが本当だとしている。笑えそうな予告だったが、勇気湧きつつシュンとなる映画だった。エレン・ペイジの最期なんてあっけない。必要以上にキャピキャピして元気だったから、画面が寂しくなる。話しが進んでいくうちに、善対悪の構図が、どうも悪対悪のような感じがしてくる。人は歩くたびに、喋るたびに複雑な道に入り込む。気づいて引き返そうとしてももう過去は振り向かない。振り向くから、私たちは小説を読み、テレビを見て、映画も観るが、この映画は現実を知らせてくれる。残酷描写が多いけれど、全体を通しても今を生きる人には残酷な映画かもしれない。

 明日はまた「午前十時の映画祭」である。毎週だと、毎週のビジネスホテルになってしまう。ではいかんので、しばし明後日以降は休憩。稼ぎに追いつく貧乏なしであるから、せいぜい頑張らねばなるまい。追いつくと言えば、9月から書きはじめた2011年も、10月半ばで追いついてきた。書きたいものだけ書いたからで、2011年までのようにすべてではないから、偉そうには言えないけれどネ。

 このブログは友達、知人に知られていないブログ。つまり、6年も続いているのは、会ったことも見たこともない人たちに支えられたおかげ。エンディングタイトルにはちと早いかもしれないが、special thanks なのであります。2011年12月31日にマイベスト10を記すことができそうです。  <80点>


さらば愛しの大統領

2010年11月12日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_6  <T・ジョイリバーウォーク北九州>

 お笑い芸人がメガホンをとり、このころ、次々と上映された。そのなかの柱の一本である。次々と上映されるお笑いモノは、すべて観たい気もしたけれど、観る以前からすべてハズレのような気もしていて、チラシとにらめっこしている間に、観逃した。観逃すのを待っていた、上映が終わるのを待っていたフシがある。終わって、内心、ほっとした。観たい気が80%あり、どーせ観てもつまんないだろうという気が80%ある・・・これは厄介で、どうも落ち着かない。たまーに、こういう映画に遭遇する。その度に、終わるのを待っている。ということは、自分があきらめるのを待っているのだ。それが、次々とやってきていた。

 多くは、本作のような邦画のゲテモノ扱いされるタイプのものである。常識ある大人が眉をしかめるようなくだらない映画が私は好きで、くだらねー!とほめ言葉で観たいけれど、消沈してくだらねーとなりそうだと感ずると、心だけスクリーンの前に座り、体は行かない。現実は、消沈してくだらねー・・・が、9割以上で、残り1割に望みをつなげている。残り1割ばかり観ればいいが、残り9割を知らなければ、残り1割もみつけられなかったろうし。どちらも残り・・・1割の方。

 この映画の登場人物は、宮川大輔と釈由美子の2人が際立っていて、この2人をどこかへやると、スッカラカンになる。天性の才能なのだろう宮川大輔の作られた自然な芝居はなかなかいい。最近の「漫才ギャング」を観ても特別、うまいと思う。クセがありすぎて、嫌いな人は大嫌い!と言われそうだが、こういうクセのある芝居をする若い俳優が少なくなった現在、活躍してほしい人だ。典型的な男好きのする顔、釈由美子の持っていきかたは、キャスティングからの計算だろう。特別にセクシーなカットはないが、じっと見てしまう形、仕草を要求している。観ていて、これは男のための映画かとも思う。オッサンが集まって、アホな笑いを詰め込んで、男くささの中に、入れるものを入れときました・・・作り方が昔風だ。

 とは言うものの、冒頭の「アホになって素直に笑ってください」というテロップほど、アホになっても笑えない。深夜のお笑いドラマのパイロット版くらいにしか思えなかった。あの冒頭のテロップは面倒で、ないほうがすっきりする。観る側がアホになっても笑えない。観る側は、さあ笑ってやるぞ!笑わせてみろ!の姿勢である。特に大阪ではそうだろう。なんば花月の客である。さあ、オレを笑わせろ!・・・アホを見て笑うのだから、アホになっていては笑えない・・・。「真剣に常識をもって観てください」と出た方が楽しい。

 にしても、世界のナベアツは、映画だと張り切ってクソ真面目に取り組まなかっただけマシである。たかが映画、監督やらせてもらえるならアホなドタバタ、お祭り騒ぎで一生に一回。素人監督が、クソ真面目に撮って、ちょっとした賞をもらって、タレントレベルを上げる日常は無視している。ワースト1を狙っているのかもしれない。超駄作では、ワーストは狙えない・・・ダメダメ映画でしょう?・・・胸をはって笑顔でインタビューに応えそうだ。映画を滅多に観ない人、映画料金がどーのこーのとうるさい人は決して観ないようにお願いしたい。映画を日常としている人の観る、きわめて特殊な作品である。  <35点>


ソウ ザ・ファイナル 3D

2010年10月30日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

3d  <シネプレックス小倉>

 映画ジャンルの中でも、スプラッターなどの残酷ものは差別されがちである。人がむごい殺され方をするというのは、実際に見てしまっては一生のトラウマになるほどの出来事だけれど、映画で観る場合はまったく違う。逆に楽しめたりするのだ。ウソゴトだとわかっているし、制作者が観客の目を覆いたくなるような工夫を施しているとわかっているからだ。どんなにひどいカットを用意したら観客はしかめっつらするだろうか・・・スタッフは楽しんでいる。その楽しんでいるのを感じ取れれば、『サンゲリア』なんかは秀作に思える。私の大好きな超B級スプラッターである。

 まあ、スプラッターを嫌う人の気持ちもわからなくないので、特に観ろ観ろと勧めたことはないけれど、食べず嫌いで観ていない人には、『ソウ1』あたりを挙げる。数ある密室スプラッター、ホラーの中では、かなりレベルが高い。スタイルが似ている『キューブ』もなかなかよい。どちらも、ギリギリに追い詰められた人の心理、吐く言葉、行動を練っている。普段はすましていても、偉そうに喋っていても、究極の場では、人はなにを言い出すか、やりはじめるかわからない。・・・スプラッターは、基本的に予算がない。予算がないから、無名の俳優が集められる。無名では集客が望めないし、スプラッターは敬遠されてしまうし、年齢制限もあって儲けは苦しい。というわけで、脚本に頑張る。この、脚本に頑張るというところが私のもっとも好きなところである。もちろん、大半のスプラッターは趣味で作っているのではないかと思しき稚拙なものだけれど、他のジャンルに比べたら、頑張り率が違うように感ずる。また、オッサンオバサンが集まって、ガキの頭になって遊んでいる空気が嬉しい。玩具遊びみたい。

 『ソウ』を観たのは、TOHOシネマズ梅田だった。200の椅子は、空席がなかった。満員だと、前の人や横の人や食べる音なんかが気になるものだが、私はそんなことどーでもいいくらいスクリーンに集中していた。睨みつけた、凝視していたのかもしれない。ただのゲテモノスプラッターだと思ったのに、まったく違った。はじめのシーンは何も知らされず、意味不明だが、その状況だけで、すでに興味を持つ。どんどん明らかになる事実に、はっ!とする。はっ!は、たくさん用意されている。ラストの5分間は、もっと延ばしてもいいのに、全速力で全容を明かす。潔く、気持ちいい走り方だ。90分間、まったく飽きさせないスプラッターも珍しい。この映画は完結している。続篇を作る気はない。

 世界で大ヒットして、シリーズ化された。駄作だろうと観に行ったが、パート2、パート3も楽しめる。パート1の伏線がパート2にあり、パート2の伏線がパート3にあったり、3作品は実は同時刻に行われていたことであり・・・と、脚本に凝っている。パート3を観た後、私は1と2を観なおした。パート3に1と2のあちらこちらのシーンが短く出てくるので、確認したいという気持ちだった。観終えた後、うまいなあと、うなるしかなかった。だが、あまりに複雑にしてしまったので、パート4からは難しい。絡みがスッと少なくなった。シリーズは5、6と続くけれど、作品の落ち方がひどい。興行収入もどんどん減って、ならば脚本を練ればいいのにだが、毎年やらねばならない様子で、4からは、そんじょそこらにあるスプラッターになっている。

 パート5は北九州で上映された。パート6は上映しなかった。なのに、本作は上映する・・・地方都市では、シリーズものをすべてスクリーンで観ることはできない。パート6はビデオに頼った。まあ、物語の面白さはどこかへ置き忘れて、残酷な殺し方に終始している。本作を観たのは、ファイナルとしているからには、おそらくパート1に戻っていくのだろう、きっとパート1のファーストカットにつなげてしまうに違いないと・・・ちょっと・・・楽しみにしていたのだった。その前に、すべて観ているのもあったけれど。3Dは、もう飽きて興味ない。

 パート1のアタマに戻す・・・というのは、このシリーズを観ている方は誰もが思ったろう。で、その通りになる。その通りになってくれて面白い映画も多い。だけれど・・・まあ、びっくりするようなエンディングではない。パート7まですべて脚本を書いて、そこから映画化としたかったろう。ファイナルは、ただ終わらせているだけだ。次の映画、次の映画と脚本を書いているから、中途半端に消えていった人物もいるようだ。パート7まで、あまりにも登場人物が多すぎる。誰が誰やらわからなくなってしまう。殺し方もネタがつきている。おっ!が、まったくなかった。観客も少なかった。少ない観客のハンバーガーを包む紙のクシャクシャ音が気になった。

 続く・・・のような終わり方でもあるが、続くという意味では、パート3のエンディングは抜群だ。どう収拾するのだ!どれから手をつけるのだ!と、観客を煽って煽って、ラストカットにさらに大問題をひとつ投げ込む。・・・あれでファイナルでもよかったと思うので、もしゲテモノ、怖いもの見たさでご覧になるならば、パート3までで止めていただきたい。どんどんお金をかけていっているだけで、中身はカラカラなので。パート3のエンディングで、「これで終わりです。後はみなさんのご想像にお任せします。」だったら、歴史に残るスプラッターになったろう。  <30点>

 


スープ・オペラ

2010年10月10日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_16  <シネプレックス小倉>

 日本人は一度、私欲を洗い流す必要があると石原慎太郎は言った。被災地の方々を思うと、とてもきつい言葉だが、震災というタイミングでなければ、現在の日本を見ていて、言っておかねばならない気がする。私はよく言ってくれたと深く頷いた。私欲を洗い流す必要がある。私は賛成する。もう少しやわらかい言葉でもよかったのに、マスコミから叩かれるのは承知で言っている。批難を受けて撤回したけれど、最後にマスコミに文句を言った。前後を切って、あの言葉だけを繰り返すメディアはいやらしい。思ったことをズバッと言う傍若無人はいつものことだ。あげたらきりがない。大臣なら辞めなきゃならなくても、都知事はあの時期に、大差をつけてトップ当選した。石原慎太郎という人は、そういうことを言う人なのである。

 賛成はするけれど、時代の流れで私欲が高ぶっていっているかは疑問である。私欲は高度成長期よりもあがったか。モノがない、食べ物がないという理由で商品の値段をつり上げた企業、商店はない。隠す人もいない。震災で私欲を貪る人は少ない。逆に助け合って、分け合っている。まだまだ貧乏していた高度経済成長期よりおとなしい。だが、モノがあふれ、ステーキでもうなぎでも意外に簡単に食すことができ、どこでも行きたければ行けるという我慢しなくなった日本人は、もう頑張らなくなってしまった。頑張って生きる、頑張って会社で仕事する、頑張って国を良くしようとはしていない。頑張っただけの後の出来事が、頑張らなかった人と大差ない日本になってしまった。頭のみ精巧になり、楽してお年寄りをATMの前に立たせ、金をせしめようとするヤカラがいる国だ。私としては、空き巣や泥棒や銀行強盗の方が、まだマシな気がする。彼らは、空き巣や泥棒ほど、生活に困っている風には思えない。私腹を肥やしている。もう、ひとつのビジネスなのだろう。

 食いたきゃ食える、買いたきゃ買えるが、今の日本人の生活は、こうでありたいなと思わせる映画があった。ハムカツなんて西日本にはないが、ハムカツでいい。厚切りより薄切りがうまいのである。月給12万円で贅沢もできず、貧乏でもなく、普通に生きる。財産は両親ののこしてくれた古い家だけ。だけど、それがあればいい。それだけでいい。それだけでいいのだな、と私は思う。以上、なにを求めるか。人並みの暮らしができて、人と接し、喜怒哀楽を懐にしまい、時には発散し、そういう毎日を繰り返す。そして歳をとる。それでいいのだ。それがいいのだ。瀧本智行監督のしっかりした演出もあり、じっくりと穏やかな時間を味わうことができた。ノン子の次はルイである坂井真紀もぴったりのキャスティングである。

 阿川佐知子の頭の中には、こういう世界もあったのか・・・真の憧れというものがコレであるならば、私とそっくりかもしれない。頭がよくて、お金と名声をものにした経過は180度違うが、憧れは似ている。私のもっと若い頃はそうではなかった。ギラギラして、人より上をいってやろう、出し抜いてやろうという気が強かった。人と違う生き方がしたい。山田太一『早春スケッチブック』の「平凡な人生だったというのもある、偉大な人生だったというのもある、平凡な人生なんか歩くな!」が、いつも頭にあった。今でもあって、気持ちは騒ぐが、憧れは別のところにあった。それがわかったのは40歳近くになってからだった。とても悔やむが、悔やむのもすべて悪いわけでもなく、面白い体験もいっぱいさせてもらった。普通に生きていたら会えない人に会い、行けない場所へも入り、見られないものも見た。

 気持ちを穏やかにさせてくれる一本。今の日本人の暮らしは、こうでありたいと思う。・・・最後の坂井真紀を真正面にとらえたフィックスのワンカットに、涙腺がゆるんだ。いいカット、いい終わり方だと思う。  <85点>


十三人の刺客 (2010)

2010年10月07日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_15  <小倉コロナシネマワールド>

 「古事記」「日本書紀」の武烈天皇の記述は狂気に満ち、飛びぬけて鮮烈である。ぼーっと読んでいても、ここにくると、歴史にまったく興味ない人でも、オヨッ?と腰を上げる。本来なら隠すべき悪行を、短いながら、淡々と記述している。中国の史記に似たような物語があるらしく、実際にこういう天皇だったかどうかはわからない。実際の武烈には実子がなく、血筋が絶え、さらに新しい豪族が天皇の座についたのかも?と思わせる。誰かが変わって天皇の座についた、だから武烈のことなどどーでもいいのだ・・・しかし、あそこまで書くことはない。恥を承知で書いている。残酷極まる悪行の数々を読んだだけでゾッとするが、これを映像化したならば吐き気をもよおすのではないだろうか。

 稲垣吾郎演ずる殿様の様は、この武烈天皇に似ている。木に登る人を弓矢で撃ち落ちてくるのを笑った・・・まわりも狂乱していないと、同席は無理だろう。すべてが狂っていたときがあったとしたら。もう、まともな人間はいないだろう。これを悪とする一人、二人いて、それが数人になり、集団となった。現在のギリギリの描写かもしれないが、両手両足を切断され、舌を抜かれた女の姿に、十三人の刺客側に一気に観客をもっていく。最後はわかっているが、わかっているからこそ、手に汗握る。憎い奴らを皆殺しにしてくれー!

 登場人物は実名で、歴史に名のある人たちだ。この殿が、悪行三昧だったという書はどこにもない。言い伝わってもない。人物、場所、似たような事件からヒントを得た工藤オリジナルである。なので、この物語をよく思わない人も多い。

 オリジナルとは違い、チャンバラシーンの演出はダイナミックかつ緻密。相手の数が多すぎるけれど、これは一気にやっける方法を用意してある。そして長い長いチャンバラ。オリジナルのように、半分演出、半分俳優任せにはしてない。任せちゃったオリジナルも、それは楽しいのだけれど・・・。稲垣を斬るチャンスはいっぱいあるが、斬った瞬間にチャンバラは終わらなければならないので、頑張って斬らない・・・半分リアルに観てしまうので、なんでやねん!いま斬れるやんか!と、うなる。いやいや、ちゃんと一人になって、ゆっくり始末せねばならない。・・・最後の最後まで悪人を演じた稲垣吾郎に助演男優賞をと思ったが、どこにもひっかからなかったようだ。

 時代劇はあっても、チャンバラがない。時代劇の中でもチャンバラこそが娯楽映画。イヤなことを忘れてスクリーンに集中できる映画に飢えている。私としては、大喜びとはいかなかったが、久しぶりのチャンバラを楽しませてくれたので、点は甘い。  <80点>


ザ・ホード 死霊の大群

2010年09月02日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_8  <小倉コロナシネマワールド>

 軽蔑はされても尊敬はされない。「フランス制作のゾンビ映画なんだってさ。めっちゃ観たいなあ。」・・・下を向いて、へえそうなの?と、つぶやいた後、私の顔をチラリと見る。名作も秀作も快作も傑作も問題作もいいけれど、お堅い人から軽蔑されてしまうB級ホラー、スプラッターも私は大好きだ。映画の世界では、高い位置に上がりようもないけれど、這いつくばって、観客に楽しむことだけを与えるのみ。しかめっ面をしてしまう人は、作品側も観てほしくない。偉そうだが、そういうタイプの映画だ。だから、儲かるはずもない。よく輸入した、輸入できた、公開できた・・・それだけで嬉しいく、バカバカしい。

 なにがどーなったのか、この世の末期、市街地は廃墟。今こそとワルに走るものがいる。こんな展開だと、シリアスなドラマになりそうだけれど、ゾンビが出てきては、ワルもヨロシイもごちゃまぜ。善も悪もへったくれもなくなるのが、ゾンビ映画の面白いところ。切羽詰った、絶体絶命から逃げんとするギリギリの精神が描かれる。善対悪なんて言ってられない。善悪共同でゾンビをやっつけ、逃げ回る。何十回も見たパータンだけど、肉体と神経のギリギリの状態って、ゾンビ映画は意外にしっかりと描いている。我先に、かばって、諦めて・・・生きてきた様をすべて、最後の瞬間としている。背景のドラマはないが、死の瞬間、彼らの生き様が垣間見られ、そのときがとても面白い。最後の行動は、自分でも思いもよらぬものなのだろう。

 フランスもののゾンビと聞いて、楽しみにしていた反面、ちょっとバカにしていたところもあった。予算もないくせに、観客動員も望めないのに、どこまでできるのかしらん?・・・ところが、ちょいちょいやってくる、ハリウッドのゾンビ真似事スプラッターよりも質はぐんと上。ゾンビがワイワイやってくる場所は、こじんまりさせたから、物語がバラついていない。意外とCGをふんだんに使って、迫力ある映像を創造している。グロテスクなカットも特殊メイクが頑張っていて、アホらしく楽しめる。

 オジサン、オバサン、大人が寄ってたかって、一生懸命に遊んだ映画・・・大好きである。どう考えても、スタッフたちが喜んで遊んだ映画。この映画館はいま、遊園地のおばけやしきだ。ありえない世界だからこそ、グロテスクでも楽しめる。ありえる世界になっていきそうだと・・・成人映画指定にされてしまう。いつまでもありえない世界でいて、ありえない世界を楽しませてほしい。これを観たから、人を殺したくなった?フムフム・・・彼らは成人ではなく、異星人なので・・・。  <70点>


ソルト

2010年07月31日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo_2  <小倉コロナシネマワールド>

 アンジー、アンジーって・・・誰やねん、いったい。いつの間に、隣の身近なアイドル女優になっちまったのだろう。私としては、アンジェリーナ・ジョリーのままである。ジョン・ボイトの娘、映画スター、遥か雲の上の人。ヤカンでも持って、カップヌードルのCMにでも出てくれれば別だが・・・。

 考えさせずに楽しい、バカバカしい、スカッとするタイプの映画が一番好きだ。娯楽よ、娯楽。だから、映画を崇高な芸術とさせることはないし、してほしくない。あってもいいし、あるべきだが、ほとんどは楽しむだけの為にあってほしい。楽しみたいので、楽しませてくれるだけだろう?という映画の予告を観ると、ワクワクする。歳とともにワクワクも減ってきたし、おっかなびっくりもしなくなってきたけれど、本作のような予告は「予告の作り方が、また上手い?」と騙されていることを承知しつつ、観たい気を起こさせる。アクションは、どんなことをしても無傷で、服も汚れにくく、曲芸みたいのだろう?観る前から思う。それはそれで、アリ。そういう映画だもの。ゴタクならべてたら、30分も観てられないだろう。

 楽しみにしてたが、楽しめる映画ではない。無茶苦茶する割にはアクションに新鮮味がない。何度も観てきた技みたい。シコミが大変だったろう・・・なんて思わせるくらいだから、観ている側に余裕を与えいてる。この監督って、そんなにアクションシーンが上手いわけではないのは知っているが、本篇を極端に短くした予告アクションは見ごたえがあった。アクションとしては、予告がすべて。物語に石を投げるロシアのスパイの取調べも、予告あれば十分で、後はダラダラと突っ走るだけだった。ヒネリもない。観客の興味はどんどん鈍足にさせるのに、スクリーンは突っ走っている。トム・クルーズ用の脚本をアンジェリーナ・ジョリーが演じたというが、まあ、誰でもいいや。脚本が大したことないようなので、ベテラン脇役か、新人にでもやらせてみたら新鮮味が出ていいかも?それではB級扱いになって儲からないか・・・。3Dにして、物語をボカしてしまったらよかったのに・・・言い過ぎでもなかろう。  <40点>


サバイバル・オブ・ザ・デッド

2010年07月04日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13>

 歌舞伎や大スターのコンサートならまだしも、下関からわざわざ泊りがけで映画を観に行く物好きも少ないだろう。物好きの乗った博多天神行きの高速バスは、下関駅を定刻の16:00に発車した。目的地の中洲には17:45の到着予定。乗客は20人くらいでゆったりしている。片道1,500円。バスの高速代は高く、これでは儲からないだろう。

 電車と違って高速を走るバスは景色が見えず、見えても単純だから旅のはじめ方としては好みではないが、バス内で携帯から今夜の宿の予約、博多の街の地図の確認、食事の場所を考えたりといろいろ用事がある。下関でも小倉でも上映されない映画を観る小さな旅がはじまった。大阪から西、博多のみかかる作品というのはいっぱいあって、これまで上映スケジュールを見ては、いいなぁというクヤシイ思いだけをしてきたが、いよいよ実行に移すことになる。観るのは4作品。東京や大阪では普通に上映しているけれど、この辺りでは予告も知らず、CMもなく、いきなりDVDとなる小品たちである。

Sbsh0003  中洲で下車したのは私一人であった。この辺りは歓楽街で、私以外のマトモなSbsh0004 乗客は終点の天神バスセンターまで乗る。博多の街をウ ロウロするのははじめてで、方向がわからない。車内で頭に叩き込んだ地図を縦横にしながら「中州大洋劇場」を探す。アタマなくても、Sbsh0006どういうわけか昔から地図には強く、目的の映画館はすぐにみつかった。なかなか風格ある建物だ。どこもシネコンばかりになってしまって、映画館というより映画部屋だが、私がいま見ているのはまさに映画館である。一階はパチンコ店に貸しているようで見た目がちょっと残念だけれど、生きていくためには仕方ないのだろう。こうやって残った映画館は今では重宝がられる。全国の駅前や繁華街には必ずといっていいほどあった風景だった。なくなると人は遠くからでも見に来る。映画よりも映画館を。で、重要文化財のごとき扱いを受けたりする。映画に泣かされ映画に助けられ・・・老舗の映画館の支配人の言葉を思い出す。随分と時間がたってならわかるが、まだ10年ちょっと昔のこと。映画も映画館もすっかり変わってしまった。あっという間に、昔ながらの映画館はSL扱いになった。それで、もっと乗ってくれればいいのだけれど・・・。今日は外観を見るだけで、明日の朝もう一度、ここへくる。目的の映画が朝だけの上映となっている。

Sbsh0009  バスの中から予約したホテルは、一番賑やかな天神から歩いて5、6分のところにあった。「じゃらん」予約で朝食付きシングルが3,500円。じゃらんポインSbsh0010 トを300使い、3,200円をフロントに支払った。キーをもらって狭い階段を上がり、暗い廊下を突きあたりまで歩き、鍵をあけると、気持ちが寂しくなるようなクタビレタ部屋。カーテンをあけると、2階なので遠くにビルがあるだけで、景色もなにもない。空調設備だけが大きく目の前にある。椅子にシュンと佇んでいると、小雨が降ってきた。暗くて寂しい部屋だれど、一泊朝食付き3,200円とは異常に安い。ここ数年、ビジネスホテルの安売り、投売りにはびっくりさせられる。一度落ちた金額を上げるのは難しい。元に戻すのは値上げである。この先、どーするのだろうか。乱立する東京、大阪、札幌などは大きなホテル、老舗ホテルでも営業をやめるところが多くなってきているという。一流ホテルの二泊目からは朝食付き5,000円なんてやられたら、私の泊まっているこのようなホテルは大変である。生きるために・・・朝食の充実ぶりで人気があるらしいが・・・。佇んでいてもシュンがシュンを呼んでしまうので、キーをホテルに預けて街へいこう。表へ出ると、今まで降っていた雨がウソのようにピタッとやんだ。

 はじめての中洲を歩く。飲み屋と風俗がひしめいていて、会社帰りのサラリーマン相手の怪しげな客引きも多い。さすがその道のプロで、見ただけでお金を持ってないとわかるのか、私などは客引きにあまり相手にされない。名物の屋台が並んでいて、いい匂いがして、どの客も美味そうに食べている。寄ってみたいが、大阪のナンバではどーってことないのに、初めての地では気がひける。常連面して入る必要などないのだけど・・・。

Sbsh0013 目的の「キャナルシティ」は、郊外にあるサティの空母のように大きいので、遠くからでも場所はわかった。ここは郊外ではなく街のど真ん中で、よくまあこれほどの土地があったものだと建物を見上げる。空母の中には13のスクリーンをもつシネコンがある。全国に展開するユナイテッドシネマで、13もあるし、近くにはミニシアターもあるから、マニアックな作品もかけている。今夜の目的はジョージ・A・ロメロのいつものゾンビ映画である。長くゾンビを作り続けているが、とうとうR-18指定を受けた。もう成人映画、ポルノ映画扱いで、18歳未満の入場を見込めないのは映画館としてもかけにくいだろうと思う。前例ができたので、この類の映画はこれからR-18になる。ますます、くだらないB級ホラー、スプラッターは輸入されなくなる。

 ラーメンスタジアムでコテコテの豚骨ラーメンを食し、21:40の1,000円のレイトショー。大阪の「ブルク7」「TOHOシネマズなんば」のように、長々とエスカーレターに乗せられる。狭い空間に細長く13のスクリーンという設計だ。目的のくだらない類の映画は勿論、小さなスクリーンでの上映だが、遅い開始時間にもかかわらず、観客は多い。そのほとんどがカップルで、女性はみんな、マニアックな彼氏に無理に連れてこられた感じ。こういう映画にはコーラが似合うが、今日は買わない。あの豚骨ラーメンのせいだ。歳をくったせいか、あまりコテコテしたものはいつまでも腹に居つくようになった。少ない量なのに満腹で、しばらく何も食べたくなく、飲みたくもない。気だけ若いから、つい食えると思ってしまう。いつまでもステーキ食いたいと思っていたいのだが。

 『サバイバル・オブ・ザ・デッド』は、前作の『メモリー・オブ・ザ・デッド』の続篇である。物語の重要性もないので、前作を観なければならないことはない。ゾンビものはたくさん映画化されているが、映画のゾンビの形を作ったのはジョージ・A・ロメロである。形なんてあるのか?と思われる方もいらっしゃるだろうが、はっきりある。「動作はのろい-大群で襲ってきても振り払って走れば逃げ切れる」「人を食うという欲しか残っていず、思考能力はゼロ」「脳を破壊する(銃で撃つなど)しか倒す手はない」「ちょっとでも噛まれたらその人は死に、ゾンビになる」・・・これはジョージ・A・ロメロの考え出したスタイルである。考えるゾンビ、走るゾンビ、喋るゾンビなど、後々の監督が真似て撮ったけれど、やはりオリジナルのゾンビがよろしく、であるからこそ、この動く死体は魅力がある。ただ、ジョージ・A・ロメロのゾンビは、いきなりゾンビ世界が広がる前説の少ない作品がほとんどで、そこだけちょっとした工夫がほしいと思うけれど。いきなりでは、観客が入り込むのに時間が足りない。『サンゲリア』なんて、短い説明ながら、ブードゥ教とからませてよく考えていた。

 前々作の『ランド・オブ・ザ・デッド』は、もう作るなよ!と熱い息をもらしてしまうほどの駄作だった。赤字が出るかもしれない、もう儲からないゾンビなのに作り続けているのだから、せめて楽しんで作ってほしいと憤慨した。スタッフの楽しさは観客に伝わる。まあ、こういう映画だし、伝わる人には伝わるといった方が正しいのかもしれないが・・・。アングラ映画のような、いやもっと酷く、学生映画のようなジョージ・A・ロメロで、私は、もう終わっているよと嘆いただけだった。しかし、最初のゾンビを引きずっている私としては、新作が輸入されたとなると気になるので、『メモリー・オブ・ザ・デッド』を・・・実は惰性で観た。と、これが急に若返ったか!のようなバイタリティあふれる演出だった。流行りのドキュメンタリー風に撮っていて、一台のカメラがただ撮り続けているだけだが、画に力が漲っている。物語の運びもテンポよく、ゾンビ映画本来の緊張感も取り戻していた。なぜカメラで撮り続けなければならないのかという理由も頑張って考えてあって、インターネット社会を十分に意識してたりする。究極の選択、絶体絶命時の行動など、人間の本性を見よ・・・なんてテーマもあるが、徹底した娯楽映画には違いない。私は大いに満足した。

 続篇だが、ドキュメンタリー風にはならず、フィックスを重視した丁寧な撮り方である。カメラを持っていたドキュメンタリーチームのビデオにちょっと写っていた別のチームのお話し。今度は、物語としてもよくできている。なぜゾンビという世界になったのか説明無用の続きだからだろう。丁寧に物語を作り上げたゾンビものはジョージ・A・ロメロとしては珍しい。だいたいが、ゾンビ対人間という単純な図式だけれど、ここでは他にいくつかの悪の考え、行動と共に進行する。この悪人たち、観ていてゾンビよりも怖くて憎たらしい。ゾンビを倒す前に、こいつらを倒さなければ前に進まない。観客の気分をよくさせてくれるのは、わかりやすい悪人たちが、わかりやすくゾンビたちにやられるところである。それはドラマの王道でもあるけれど、不条理な世界だから善人も食われる。にしても、高齢のジョージ・A・ロメロはいつまでゾンビ映画を撮り続けるのだろうか。第一作から半世紀以上。観客が限られすぎていて、赤字を出し続けているようなのだけれど・・・。あー、バカバカしい!楽しいひと時だった。

 23時30分終映、0時を過ぎてシュンとするビジネスホテルへ。早く寝るつもりが、久しぶりの小さな旅で興奮して眠れない。だが、この眠れないというのは日頃のものとは違う。いつもは眠れなくて苦しいが、今夜は眠れないのを楽しんでいる。肉体的には疲れても、精神的に疲れが飛んでいく。小さな窓から外を見る。ゴテゴテのネオンがとても明るい。博多は眠らない街のようであった。       <75点>


ザ・ウォーカー

2010年06月25日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <シネプレックス小倉>

 戦争がよくないのはわかっているし、最初からまったくないのがありがたいけれど、あの戦争があったからこその人類の利というのもある。その利もハナからなくていいのだが、あることで私たちはたくさんの恩恵を受けてきたし、受けているし、手放せなくもなっている。ブログだって、インターネットだから、戦争のおかげ、冷戦時代のおかげである。日本の、ものづくりからくる経済成長は、戦争から篩いだしたものだろう。大量生産の発想なんてそのままだ。大量生産でありながら質の高いものを・・・日本は戦争で学んだ。

 若い頃は、もし日本で戦火が広がったとしたら、山奥へ逃げよう、京都がよろしいなんて、友達同士で冗談のような本音をウダウダと語りあったものだが、ここまで餓死寸前の人々に目を瞑って感情なく平和ボケた中で生きていると、もし今、戦争が起きたならば、私は戦地へ赴いてもいいと思いはじめた。歳をくったせいもあるし、自分の命がそれほど惜しくないというフシもある。周りの人たちを悲しませるとてもいかん心がけだが、第二次世界大戦で日本が負け、今の繁栄があることを知らないシラケ世代を見ていると尚更そう思う。最前線に立つ年齢ではないし、つっこめー!なんて言っても、銃の重さに、その場で石ころに躓いてこけるだけがオチだから、テントをたてたり、銃を磨いたりなんて仕事はどうだろう・・・私は平和主義で、あぶない思想もないが、日本はあまり他国の戦火が見えていなく、その情報もほとんど入ってこない。日本が戦争と無縁になったようだけれど、そうでもない。第二次イラク戦争は、付き合わされたとはいえ、しっかりと戦争に参加している。その役割は、私の言うテントをたてたり、銃を磨いたりした程度の給油が主だったが、どーであれ、参戦である。日本人はそう思っていなくても、日本以外の国は日本は戦争に参加したと認識している。給油という技術を持った国なのだ。戦争のお手伝いなんて・・・そりゃもう、参戦。表だろうが裏だろうが、同じ舞台にいたのである。

 私も学習能力のない人間であるが、アメリカは国そのものに学習能力がない。アメリカの勝った戦争なんて日本くらいのもので、後は相手国を踏んだり蹴ったりして後片付けもソコソコに、引き揚げる。朝鮮もベトナムもイラクも、問題を山積みにしたまま、押し付けてしまう。日本のように全面降伏する国はその後、現れない。なぜ日本のようにならないかと腹立たしかろう。ただ、アメリカが正直だと思うのは、イラクの戦争をしっかりと敗戦だとしているところである。大量破壊兵器もみつからなかったし、アメリカはフセインの何十倍もの市民を殺してしまった。それは隠さずに、しっかりと受けとめている。日本はアメリカの背中に隠れて、あの戦争をウヤムヤにしてしまった。戦争には参加したつもりないし、給油はしたけど後は知らん・・・参加してないから、敗戦も終戦もないのだろう。今の日本はそんな国である。

 第9条がどーのこーの言っている間に、本作のように世界はなにもかも消え失せるかもしれない。どうも、本作では日本は蚊帳の外のようである。人類の終末を描いた映画は多いけれど、日本は滅びながらまだ議論をしている国なのではなかろうかと思う。蚊帳の外でかまわないけれど、小さな国でありながら滅びる原因を作った大国である。しかし、地球から人類が消える、なにもかもなくなる時に、経済大国だけの日本なんぞは邪魔なだけだろう。人が人を殺すことをよしとする戦争は恐ろしいもので、利口過ぎて野蛮の極みだが、一切を一瞬で無にする戦争が起こらないとは言えない。そこまで馬鹿だったか、あるいは利口過ぎたかという日がくるのは明日かもしれない。わずかに残った人類がこれから必要とするものはなにか。まずは安全な水と食糧だろう。この映画は、それもだいたい間に合って、次のものを求めようとする時代からはじまっている。

 アメリカ建国から200年ちょっと。振り出しに戻っても歴史は浅く、西部劇になるのだろうか。よくぞここまで再建されたらしい、西部劇の世界が広がる。人類滅亡後の未来の西部劇に頼るとは浅いけれどなかなか面白い。日本が舞台になれば、「火の鳥」の時代になる。チームで作った私たちの卒業制作の8ミリ映画は核兵器で滅んだ未来の地球の姿だった。基本的になにもない地。掘っ立て小屋くらいの建物しか出ない。大きなテーマを扱っているが、お金のかからない状況を作りたかったのだろう。恰好いいように言うと、マカロニウェスタンと黒澤時代劇をまぜこぜにした娯楽映画である。戻り方が中途半端だが、これは衣裳の都合による。25年経った今は、カットバックも下手で、全体的に稚拙でなかなか恥ずかしい。

 彼の持っている何かを求めて騒動は広がる。時代は西部劇でも、頭の中はもっと遡る。なるほどとニンマリしつつ、目の覚めるようなアクションと一緒になって楽しい。ゲイリー・オールドマンが『レオン』に戻ったように哀愁漂う悪を演じ、いい味を出していてますます嬉しい。そこらのバタバタ殺されるチンピラが本物じゃないか?と思うほど、クセのある奴らで、これまたいい。アメリカは俳優の多い国だ。ニューヨークは10人に1人は芸術家またはその卵らしいので、選び放題。日本はそこから敵わない。

 スピードがあってまったく気づかなかったけれど、ラストシーンを観ながら、これは主役の小さな行動をみつめなければならなかったと悔やんだ。光線がきついからみんなサングラスをしているのだけど・・・うまい。難しい演出、芝居だったろう。もう一度、注意して観てみたい。・・・戦争が起きて、行け!と言われれば素直に行く考えの私になってしまったが、戦争より戦後の方が楽しい。戦争なく、戦後にならぬかと思う。なにもないところから作り上げる喜びがある時は楽しい。モノがあふれ、今の日本人には少々の出来事では喜びがない。シラーとしている。いけないこと、いけないとはわかっているけれど、何もかもなくしてしまう時が私たちには必要なのかもしれない。  <75点>


シーサイドモーテル

2010年06月09日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 ブログをはじめて4年半を越えた。トップページから入っていただいたカウントが10万4千になっている。単純計算では、1年に2万アクセスしていただいたことになるけれど、実は最初の3年間ですでに10万近くのカウントになっていた。この1年半はほとんどカウントが上がらない。今年に入ってからは4千もない。それぞれの記事のカウントは別になっていて、それをプラスすれば25万アクセスくらいになるのだけれど、いよいよ、稚拙な中身のない映画論をダラダラ書いているただのオッサンということがばれてしまったようだ。はじめた頃は映画のブログも今ほど多くはなかったし、ちょっと珍しがられたところもあった。あれから次々に映画ブログが立ち上がり、文章で食えるのではないかと思う人もみかける。もちろん、映画評どころか感想にもなってないガキのようなシロモノも多いけれど、評論家顔負けの見事な文才を持つ人も多い。これでは私など赤子同様で、とても敵わない。せめて、当たり前でない構成とし、スタッフ目線を持ち出したり、その映画から思い浮かぶ世俗のあれこれを柱にしてみたりしているが、たかが知れてるなと思い続けてきた。何度もやめようと思ったこともあった。思い直して、読んでいただく方が最後の一人になるまで!死ぬまで書くぞ!なんて息巻いていた時期もあったけれど、読んでいただけないブログであれば、自分だけのノートにつらつらと書き綴っていればいい。誤字脱字も気になることなんてない。ブログができる前に戻ればいい。いろいろ苦労はあったけど、ガツガツ生きていた大阪ではない今の私の状況もあり、遠くない将来、ブログを閉じようと思っている。拙すぎる文章をあれこれひねり回しても、拙いに変わりはない。私は、読んだり観たりする方が合っているのだろう。

 そんなウジウジ、ムシャクシャついでに言うと、本作ごときがコメディとは聞いてあきれる。舞台も、どーだとばかりに想像され、狙ったモノ。たいして面白い設定でもない。ひねりのきいた台詞かあるわけではなく、はっとするような展開もなにもない。狙っているものはあるが・・・この狙っているものが気に食わない。観客を笑わせるのは大いに結構だけど、そんなに笑うべきところでもないのにどーだ面白いだろう?のような狙いがつまんなくさせる。この程度の映画では満足どころか、不満しか残らない。よくまあ、企画が通ったものだという感心はあるけれど。

 コメディのなんたるかを知っているのは、本作では古田新太くらいで、あとはクソマジメな俳優たちである。その笑いのツボを心得ている古田新太と他を絡ませないのは、バカじゃないかしら?俳優陣は豪華だから、使いようによっては「有頂天ホテル」くらいのレベルの映画になれそうだが、撮り方が真面目すぎてお行儀がいいので、ここは笑う場面ですと出されても、どーも素直にはなれなかった。この50近いオッサンをクスリッくらい笑わせなければ。芸術を意識して、構図や色を重視して、なにやってんだろう。そんな面倒でこだわりのあるモノは、自分たちで楽しむだけとし、観客に意識させるものではない。青を基調とした画づくりなんぞ、どーでもよろしい。そういうタイプの映画ではないだろう。・・・いや、そういうタイプかしら?自分たちだけが楽しんで撮っているだけ・・・これは笑うコメディ映画でない!素人にわかるか!と言われてしまいそう・・・。  <25点>


セックス・アンド・ザ・シティ2

2010年06月05日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

2  <TOHOシネマズ大分わさだ>

 鉄道を使って一人旅をするのが好きで、少しばかりのお金と時間をみつけては、地方のローカル線を乗り回していた。ある日、「サンダーバードで日本海へ出て、新潟から坂町、米沢、山形と乗って、仙台へ抜ける途中で山寺に寄りたい。」と旅の予定を友人に話すと、「米坂線だな。スケジュールをうまく組まないと効率が悪いかもなあ。」とコースを評された。私も鉄道が好きだが、この友人はその上手をゆく。坂町から米沢の線を米坂線と知っているのも普通ではないが、その区間の本数が少ないというのも頭に入っている。しっかり時刻表と相談しなければ、新潟で待たされるだろうと心配しているのである。私は大きく頷いて感心した。ただ私は、鉄道に乗る一人旅を楽しむのであって、効率を楽しむものではないと、やや憤慨もした。新潟で3時間くらい待たされてもいいし、山寺に登りたいけれど、夕刻になれば、どこかで泊まって翌日とする。鉄道に乗る為の一人旅ではないのだ。

 だが、ふとこれを自分の映画計画に置き換えてみると、友人の言ったことに納得する。一日に映画を3本もハシゴするのは常人ではないし、どこか頭がどーのこーのだろうけど、映画のハシゴが大好きな、ちょいオカシイ私などは、この「効率」を考える。映画と映画の間が2時間もあいてしまうと、体がダレてしまう。逆に5分となると、前の映画の余韻に浸っている時間がなく、頭の切りかえが難しい。2本目は20分ばかりの間、3本目は食事を入れて1時間が抜群だ。抜群の抜群をいくならば、1本目は小難しい洋画、2本目はアクション大作、3本目は気が楽になる邦画がよろしい。

 まずないけれど、友人が、「この3本をハシゴするんだ。」と私に話したならば、きっと「この映画と映画の間は長すぎるし、食事の予定もないので、テレコにしてみてはどうか。テレコの方が作品的にも重くなりすぎず・・・」などと、わけのわからぬ事を言って評するかもしれない。その道にこだわるというのは、めんどくさいけれど、どっぷり浸かってしまうと変なところでも楽しめる。友人は、鉄道で旅をする「効率」をも楽しんでいるのである。私には、そこまでの楽しみ方はできないだけであった。旅が好きだ、鉄道が好きだ。鉄道で一人旅が好きだなんて言っているけれど、私などはまだまだである。

 今日は朝から夜まで3本の映画を観る予定で、今から2本目。一人では十分だけど、一緒に観る人がいれば、間が20分では短く慌しい。1時間あけて、「セックス・アンド・ザ・シティ2」となった。が、私はパート1を観ていない。元になったテレビドラマも見ていない。パート1は観ようか観まいか迷ったが、テレビドラマも知らないし、また、迷いすぎたのでやめた。迷いすぎた映画はほとんどつまらないという過去の統計がある。天気予報の統計と似た感覚で、そのバーセントはアテにはならないが、一応は自分の勘を信じることにしている。・・・映画は柳の下にどじょうが三匹・・・パート1が面白かったのかもわからないけれど、今日は観る予定に組まれている。どの映画を観るか、自分ひとりなら勝手に決めてしまうけれど、一緒に行く者がいる場合は、昔から、相手にすべてゆだねることにしている。テレビも知らず、パート1を観ずに、パート2を観るなんて・・・はじめてかもしれない?

 世界人口の半分は飢えていて、その半分は餓死しそうだというのに、こういう映画を楽しむのは気がひけるけれど、観ていて楽しめる自分はしっかりいる。映画はよろしい。夢をもらおう。・・・セレブリティというのは、庶民に知られている現代の話題の人物、著名な人、名士であって、金持ちでなくてもいいはずだけど、映画の世界ではお金を持った、贅沢な・・・という意味も含むらしい。その方が豪華で、目の保養になるし、ジャンルとしてわかりやすいからだろう。セットも車も衣裳も小道具もすべて借り物だけど、誰が観ても文句を言われないようにしっかり揃えてあるのだろう。歴史モノは作るが、現代モノは借りねばならない。とても苦労が多かろう・・・なんて、観てしまう。

 パート1のカットが少しだけ出てきて、この4人のオバサンたちがどのように変貌を遂げたかがチラッとわかるようになっている。このチラッのカットの使い方、編集はセンスよく、パート1を知らずともスクリーンに身をまかせられるようになっている。おそらく、テレビも知らないでいいのだろう。だが、流れや台詞がいかにもアメリカ的、アメリカ人そのもので、私のようなどっぷり日本人にはなかなかピンッとこない。基本的にコメディだけど、粋なアメリカンジョークだとはわかっても、それが実際の笑いにつながらない。アメリカの劇場では、音声が聞きづらいほど大爆笑なのだろう。日本の劇場では、クスクスッくらいが聞こえてくる。大げさな笑いは、日本人にはなかなかドンッとこない。まだ、ナンセンスなほうがいい。それよりなにより・・・この4人のオバサンに魅力あるかなあ?一日で撮影が終わったろうペネロペ・クルスがちょっと出るけど、たったあれだけで印象は濃く、つまり、この4人を食ってるし。タイプは違うかもしれないが、似たような雰囲気で、『プラダを着た悪魔』なんて、端役も光ってて、それでいて主役を食わない。強く残る、あれは見事な作品だった。

 この映画、2時間半近くもあるのね。エピソードを集めに集めて、長すぎる。観終えた後、なーんにも残らない。1時間40分の添え物程度の映画だけど、ただ、お金はかかってます。柳の下に・・・前作より興行収入はかなり落ち込んでいるけれど、まあ儲かってます。パート3作るより、テレビドラマのシーズン5で頑張ってほしい。もうテレビドラマには戻れないか・・・。  <40点>


処刑人Ⅱ

2010年05月26日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 水曜日17時40分の回、観客一人。朝から3回目の上映だと思うが、今日のはじめての客が私じゃないかしらん?・・・一人とは寂しいが、東京や大阪ならまだしも、この映画を小倉で上映なんて・・・客入りが悪いのは予想できる類の作品である。だいたい、パート1を知っている人がどのくらいいるだろう?その前に、この地でパート1を上映したのだろうか?もう10年も前の映画である。私も忘れかけている。コロナワールドというシネコンは、近くのシネプレックスやTジョイのように、安全、健全、優等生、儲かるハズ作品ばかりかけないのが嬉しい。

 クエンティン・タランティーノのように華々しくデビューしようとしていたトロイ・ダフィー監督は、いまだ無名のままである。まわりがアホに見えてしまう天才のようで、黙っていればいいものを暴言三昧で自分で自分の首を絞めてしまった。前作「処刑人」はミラマックス製作のはずが契約を切られ、自己資金をはたいて、完成に至っている。配給会社もつかなかったらしく、記録としては「製作費6億円、アメリカでの興行収入400万円、世界での興行収入2500万円」という惨憺たる結果に終わった。ところがこの映画、後にビデオとなり、DVD化されて大ヒットしたらしい。配給会社にソッポを向かれるというのは何と恐ろしいことなのだろう。その前に・・・これは自主制作映画ということになるので、世界公開までできたのも、かなりラッキーなこと。ミラマックスが捨てたとはいっても、そのままプロのスタッフは引継ぎ、有名な俳優も多数出ているから、素人っぽさはなく、一流の映画(B級だけど)になっている。

 タランティーノのように華々しくデビュー・・・これは、本作を観ていただければよくわかると思う。タランティーノっぽさがある映画だと感じるだろう。その上、タランティーノをまた更に粗削りしたような・・・あまりお金をかけて映画を撮っていないころの万人受けしないタランティーノの良さみたいな・・・。残酷さ、ナンセンス、コメディがごちゃまぜになった娯楽一色のバイオレンスだ。台詞も、他のお行儀の良い一流バイオレンス映画なんかよりずっと粋。その瞬間、死ぬか生きるか・・・半端じゃない緊迫感を作り出す。うまい演出をするなと思う。面白いだろう!楽しいだろう!とニヤニヤしている監督の顔が浮かぶ。

 本作はパート1から10年も経っているのに、完全なる続編である。前作を観ていない方でもわかるように工夫されているけれど、さっぱり意味不明な会話、人物の再会もあり、はじめから人間関係がわかっていた方がいい。わかっていれば、オープニングシーンから、ニヤニヤさせる。・・・パート2公開にあわせて前作がテレビで放映される。R指定作品なので深夜のオンエアになっているらしいが、ご覧になっていない方は是非。完結しているのでそれで終わってもいいが、まだ先があるのか?と、きっと、パート2を観たくなるだろう。パート2はパート1を裏切るような突拍子もない事実も出てくる。制作会社もなければ、配給してくれるところもない・・・パート2を作りたくても作れなかったのだろう。しかしその苦難の中で、同じキャストを集めている。歳をくって顔に味が出てきたピーター・フォンダが渋い役どころを演じる。座ったままなのは、意図したことなのか?歳食ったからか?気になる。

 アクションもかなりお金がかかったろうし、これだけ一流のキャストを配しておきながら、製作費は8億円である。アメリカでの興行収入は12億円。公開館数が少ない中、とても頑張って黒字になっている。10年かけて、ようやく2作目を監督した。さて、トロイ・ダフィーが映画界に再度招き入れられるのはいつの日か。大御所になって悪態をつけばよかったものの、デビュー前では痛かった。製作会社は、本心はこの監督をほしいと思っているに違いない。もっと大きくお金をかけて、たくさんの劇場でかけ、世界公開したらヒットする映画を作ることのできる監督だと知っているはずだ。華々しく扱われるのは、そんなに遠い日ではなかろう。『処刑人Ⅱ』がDVDでまた大儲けした後の話である。

 往年の映画ファンは古いタイプのアクションだと思われるだろう。これも意図したことで、監督は、70年代のアクション映画を作ったのである。こういうとこがまた、タランティーノっぽい。とはいえ、タランティーノ(ごとき)を意識している監督ではない。  <85点>

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書道ガールズ!! わたしたちの甲子園

2010年05月24日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 本当にあったお話しの「マリと子犬の物語」・・・子供と動物ものには、どんなドラマでもかなわないと言われるものをドッキングさせちゃったんだもの。置いてかなきゃならない子犬が、ヘリコプターに乗った女の子を必死に追いかけるシーンは、なかなか涙が出ない私でも、そりゃ泣く。演出だ!カメラが写ってないから二度撮影したハズ、犬目線で見上げたカットだから人しかいない!なんて頭で考えているのに、それを断ち切って、ボロボロと涙が流れた。単純で卑怯な手を使いやがって!でも・・・好き!自分のまわりのゴタゴタを忘れるうれしい瞬間だった。その猪股隆一監督の、またまた本当にあったお話し。実話の映画化なら、この人に任せようということだろうか。たまたまだったんじゃないの?どーかな?と思っていたが、なかなかこの監督、センスがよく、観客の心理を突いてくる。

 観ていて、どーなっているのだろう?説明がほしいと思う箇所はいくつかある。・・・10メートルくらいの紙。あれだけの量を毎日のように練習に使っていたら、とてもたくさんの経費がかかるだろう。実際の甲子園候補チームではなし、製紙工場日本一の街だっていっても部費だけではとても足りなさそう。どこから出ているのか、その苦労はないのか?・・・書道甲子園を開催するっつうても、はじめたのは数人の高校生たち。ポスターから口コミから宣伝はどうやって作られたのか。書道甲子園はどのようなシステムであるかを説明する場所などはどうしたのか。テレビが取り上げてくれたラッキーな経緯がわからない。あれよあれよと開催にこぎ着けてしまう。・・・細かいが、広島に転校していく友達の乗る電車(ディーゼルカー)が観音寺行きなのは変。それでは遠のいてしまう。逆の松山行きに乗って、高速船に乗るのが安くてはやい。海を背にしているのだから、ロケに際してはどちら向きでもかまわないと思うので、できれば西に向いてほしかった。・・・和紙は売れなくなった。観光地では高く売れるが、製紙工場の街では埋もれてしまう。ヤケになってしまう老人のエピソードは本当なのだろう。だが、数年前の話なのだから、手伝っている孫よ、困っている祖父をネットを利用して助けられなかったか?若者が知恵を出す事だってある。それでもダメだったみたいなプラス要素がほしい。老人は簡単にあきらめてしまった印象を持つ。そこに至った苦しみが単純な店員とのやりとりだけで済まされている。・・・あんなに頑固な成海璃子の気持ちを解いたものは?ある程度の頑固ならわかるが、縦のものを横にもしない頑固中の頑固みたいな頭の持ち主なのに。とまあ、いろいろ思うところはあるが・・・。

 スポーツではないけれど、観ていてとても気持ちのいいスポ根ドラマだった。家族や友達をからめた喜怒哀楽をイヤミなく重くみせてくれ、大会では手に汗握る。もうスポーツそのもの。緊迫した場を作り上げる演出もうまい。ただごとでは済まないのがドラマであるから、最も盛り上がったところでハッ!とさせてくれる。このカット割りも見事で、肩に力が入る。・・・実は、それぞれのエピソードは、ベタなお話しである。ちょっと大げさすぎる、ちょっと準備がよすぎる、ちょっとタイミングがよすぎるのである。出演者も初々しいけれど、上手とは言いがたい。それなのに、スラッと観てしまうのは、カメラを通した優しい目であろうと思う。監督の目であり、スタッフの目である。その裏方の優しい目は、観客にも向けられている気がする。向けるべき映画と無視する映画がある。この監督は、いつも観客にも目をやっている。

 脚本の出来はよいとは思わない。なのに、すんなりと私のようなオッサンも気持ちよく観ることができた・・・ベタな映画だけど。思えば、前作の「マリと子犬の物語」もベタベタなシーンがいっぱいあった。昔からこういうスタイルの映画はたくさん作られてきたはずだが、日本人の心がそのままあり続けているかぎり、こういう映画もそのままでよいのだろう。日本人の心がどういうモノで揺れ動くか、この監督、なかなかしたたかでもある。

 体育館での大会の書は、一発本番だったろう。『本番!よーい、スタート!』の声がかかるまで、彼女、彼らは相当に頑張ったに違いない。頑張りはスクリーンからみせるものではないが、こういうシーンは匂わせて正解なのだ。だからこそ、手に汗握る。生身の人間が、加工もなしに集中して立ち向かっている様は、CGてんこもりのスピードアクションなどの興奮とは比較にならない。息もつかせぬ迫力で、ゴクリと生唾を呑むほどだ。ここの彼女たち、彼らの輝きは、演技だけで撮れるものではない。ドラマだが、ドキュメンタリーのように映る。みんな、鍛えられたろう。成海璃子も上手くなってきた。眉間にしわを寄せるほどのにくったらしい女子高生が、最後にはとても可愛らしく思える。

 監督本数は少ないが、猪股隆一は日本人の心を手玉にとって、次々と展開めまぐるしく、ジンッとさせたり、キュンとさせたり、イライラさせたり、ワクワクさせたりさせる。前作に続き、今回もこの監督にはめられたー!ありがとー!  <80点>

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シェルター

2010年05月16日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo  <小倉コロナシネマワールド>

 3月末全国公開となっているが、東京、大阪圏だけだったのだろうか、地方都市はこれから。地味な作品の大都市と地方都市の公開日のズレはかなりひどい。小倉のどのシネコンも同じ作品、ウケるだろう作品ばかりかけられて、劇場の色なんてない。シネコンの中ではまだ、小倉コロナはよくここまできたなーのような作品をかけてくれる。本作の地方都市公開は5月が主。上映館数は少ない。気持ちをうまくくすぐってくれる予告なんだけど・・・。

 小倉コロナシネマワールドでは、テケツで座席表のパソコンのタッチパネルを見せてくれる。初日の一回目、上映5分前のテケツ。お好きな座席をお選び下さいと言われてソレを見ると、場内のど真ん中、たった一席のみが売れている。座席を選ぶもなにもどーでもいいけど、その客の後ろ側斜めをタッチした。精神分析、多重人格障害を扱ったサスペンスは私は好きだけれど、もう飽きられたジャンルなのだろうか。・・・予告のはじまった暗い場内、真ん中にデンッと座ったオッサンを横目に見て、指定席を無視して最後部に座った。2時間、観客は二人だけだった。こんな閑散とした場内になるような映画ではない。良作である。

 サスペンス?サイコサスペンス?サイコスリラー?ホラー?・・・いろんな顔を見せる作品で、ドキドキしながら楽しめる。顔は変わるが、物語は複雑化せず、わかりやすい質の良い娯楽ものだ。観客の心、鑑賞中の観客の心をもてあそんでいるようで、観る側を良くわかっているのだろう。筋の運びもいいし、情報が多いのに迷うことなく、また興味の糸を切らない。なかなか質がいいけど、公式ブログの予告を見ると「衝撃のシーン解禁!」なーんて、どミーハー相手みたいな長い動画をのせている。カットつなぎではなく、あるシーンが丸ごと。たいして衝撃じゃないから見てもかまわないし、本作を鑑賞するにあたって何の影響もないから大丈夫だが、ああいう誘い方、誘い文句はあまりにもアホくさい。長い動画のあの瞬間、彼はどーなっているのか・・・は、最初の私たちの憶測を裏切ることだろう(あれ、これ書いちゃいかんかしら?)。

 よく見ると、しっかり足を据えたカメラ、落ち着いているハンディカメラの2つの撮りを使い分けている。監督の遊び心だろう部分がうかがえる。カメラ側を意識して観ると純粋に楽しめないから無視してほしいが、もしこれをじっと見ていると、勘のいい人は先がわかるかも・・・となっているようだ。人物の心理状態などによってわざとハンディで構えたりするのは普通だが、先に起こる事柄によって今の構図を決めたり、カメラをいじることもある。

 エンドカット・・・映画をたくさん観ている人ははっきり読めるだろう。予想通りに終わるか、いや裏切るか、一瞬、ドキドキする。だが、あれで終わりでは頼りない。私としてはもっと多くの課題を残して終わってほしかった。ラスト20分で、波に乗って、スピードに乗って次々と真実が明らかにされ、私たちをハッとさせるのに、あれではちょい物足りなくはないか。・・・さてさてこれからどーなるのでしょう?というエンディングは鑑賞後が楽しいけれど。

 私も人のことは言えず、思ったり、書いてしまったりすることもあるが・・・「まだまだ続く!この先は観客の想像にお任せします!」という終わり方だと、すぐに「続篇ができるのか?」「パート2が作れるね」なんて話をよく聞くようになった。たまにはいいけど、あまりにもそういう言葉が多いのはつまんない。昔から、「終わっちゃいないが、後はご想像に」・・・は、いっぱいあって、観客は自分なりに先はどうなる、こうなるなんて話したりして、映画鑑賞後を楽しんだ。続篇、パート2はハナから思わなかった。映画界は、ヒットしたら柳の下にドジョウは3匹までいるから、続くものもあるけど、今の観客は「あの終わり方は、続篇か?」を気にしすぎる。「続きを知りたい」ではなく、「続きはこうなんじゃない?」という事後の楽しみをしていないように思う。すべて物語は完結しなきゃいけないわけではない。完結しないとモヤモヤするのだろうか。それとも、自分で想像する楽しみを持っていないのか。想像したくもないのだろうか?ハッピーエンドかな?苦難が待ち構えてるのかな?と曖昧な終わり方も私は好きだ。ヒットしたせいでパート2が作られてしまい、前作のエンディングをぶち壊しにしてしまうこともあるし・・・。  <80点>

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人間失格 / サヨナライツカ

2010年05月13日 23時00分00秒 | さ 行 (2008.2009.2010.2011)

Photo Photo_2

 <小倉昭和館>

「人間失格」「サヨナライツカ」2本立

 シネコンで上映が終わり、封切から2~3ヶ月後の映画が2本立で1,000円、会員ならばいつでも800円で鑑賞できる小倉昭和館にやってきた。有名人に媚びるようなちょっとミーハー気味のホームページを読んでいるとダラリとするけれど、森繁特集、山本薩夫特集という渋い映画通の企画が粋でいい。特集につられ、今年はお正月からよくお世話になっている。

 小倉昭和館には2つのスクリーンがあり、基本的に「昭和館1」は日本映画の2本立、「昭和館2」は外国語映画の2本立となっている。が、今はどちらのスクリーンも日本映画。私の観る『人間失格』と『サヨナライツカ』は「2」で上映されていて、「1」は『なくもんか』と『ゴールデンスランバー』となっている。DVDを借りて自宅のテレビで観るのではない。2本立で800円は安いし、気軽に映画館に足を運ばせる。が、私としての<落ちてきた2本立>の不都合なところは、どちらか1本は観ている場合が多いことである。『なくもんか』は封切時に観ようかどうか迷ったので、ここで上映するならとタイムテーブルを見ると、つい先日に観た『ゴールデンスランバー』と2本立である。1本で800円でも満足だが、できれば2本ともハジメマシテでありたい。ケチくさくてどーでもいいこととは承知しているけれど・・・。

 『人間失格』 芝居や音楽会では、しばし夢心地になるが、寝不足で疲れてひどく眠たいときも、映画を観ている時は寝ない、ということに私の体はなっているらしい。それでも、たまーに、ごくたまーに目を瞑ってスヤスヤなりかけることがある。その日がきた。画がいちいち美しく、整いすぎた(狙いすぎた)ゆっくりのカメラワークの連続で、観ながらウトウトとしてしまった。文学芸術は映画芸術へ。映画も芸術のひとつであるけれど、芸術にあまりにも傾きすぎているのは苦手だ。芸術映画だ!という気持ちで観はじめたのに、もう少しアソビがほしいと思う。この、どんより曇った世界に入り込むことはできなかった。映画なんだから、クソマジメな文学でも娯楽性をもたせないと・・・喋りも呟きが多いし、眠くなってきた。わずか数秒、何度も意識が遠のく。疲れてもいないし、眠くもないのに。・・・どうしようもないことだけど、顔かたちが変わってしまった現代人に、この時代の役をやらせるのは無理があるし、かわいそう。観ている観客も含めて。セットや小道具や衣裳は当時のものを忠実に再現していても、出ている俳優は今流行のツラであるから、どーも観ていて不自然に感じる。・・・・・「昭和館1」は音声がよく聞こえるが、ここ「昭和館2」は小さくてこもっている。これはいつも思う。音響設備がよくない。『人間失格』はボソボソと小さく喋るので、なにを言っているかわからない台詞も多い。字幕がほしくなる。外国語映画なら、少々音が悪くても観られるのだけど・・・。やはり、「2」では外国語映画をかけてほしい。  <35点>

 『サヨナライツカ』 メロメロの恋愛ドラマが目の前に展開する。メロドラマを嫌っている割には、ただの恋愛ドラマより、メロメロにした方が食い入るように観ている自分に気づく。・・・スクリーンから匂うものがある。監督が韓国人ということもあるだろうが、本作には韓流の空気がムンムンと漂っている。出ているのは日本人で、喋っているのも日本語だから、不思議な感覚に包まれる。この異様な空気感だけでもなかなか楽しめる。・・・メロドラマは日本では廃れてしまった。私たちには懐かしいのか新しいのか、韓流がいつまでもブームだ。定着したのでブームとは言わないのかもしれないが、30年以上前から現在まで、日本はグルメブームであり、温泉ブームらしいから、ここも「韓流ブーム」という言葉のままでいい。・・・韓流ブーム、実は、私はもう飽きてしまって、韓国映画がやってきても避けるようになっている。世界の観客を意識している現在よりも、韓国内の観客だけに気を取られていた最初の小品が好きだ。DVDにもなっていないし、もう二度と観られないだろうが、火がつきはじめた頃、週がわり2本立上映した『韓国映画特集』は、監督も主演も無名だったが、どれも面白かった。日本人にはとても創造できない何かがフィルムに焼き付けられていた。日本人の忘れた純粋さ、素朴さのようなものか・・・。『ライターをつけろ!』なんて、B級の中でも語り継がれていい作品だと思うが・・・。全国公開した作品の中では『ほえる犬は噛まない』が最高。これはDVDになっている。韓国映画のことばかり書いたが、本作は、懐かしくもあり、新しくもあり、もっと先を知りたくなる興味の糸を切らないなかなかの逸品だと思う。監督の特徴だが、広いカットから、そのつながりでアップのモノをつなげ、そのつながりでまた広い画に戻す手法は観ていて心地いい。このつなぎ、だいたいはカメラワークで処理しがちだけれど、フィックスでつなぎあわせる。落ち着いたカットを3つ撮っただけなのに、つなぐと、びっくりするほどのスピード感を持つ。・・・寝ているどころではなかった。この前に『人間失格』を観たのかどうかも忘れさせるいい映画だった。  <75点>

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