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藤原氏と海女

2009-11-24 | Japan 日常生活の冒険
志度寺に伝わる「龍宮玉取姫」伝説は、藤原不比等の権力奪回について物語っているような気がする。

669年の父・藤原鎌足の死後、672年に一説には不比等の実父とも言われる天智天皇が亡くなる。続いて同年には太子・大友皇子と皇弟・大海人皇子が後継者を争う壬申の乱が起こり、これに大海人皇子が勝利して天武天皇として即位する。遺された若き不比等は、天智天皇系に近い鎌足の築き上げた地位・権力を失い不遇をかこつわけであるが、不比等が「面向不背玉」を取り返すべく志度を訪れているのが、鎌足死後十年経った年だから、ちょうどこの時期になる。よって「龍王」に奪われた「面向不背玉」とは、藤原家が失った権力を表わしているように思える。

また天武の即位前の名、大海人皇子には「海人」の文字が含まれている。これは天武が幼少期に養育を受け後ろ盾になったのが「海人」の血筋の海部一族であったためで、権力の「玉」を奪った「龍王」は天武天皇にも重なるような気がする。

それならば、命を懸けて「玉」を奪い返した「海女」とは何者だろうか。海女も「海人」であるから、天武と繋がりのある海部一族に楯突いたことで命を失うことになったのかもしれない。「海女」の意味するところは、藤原不比等が失った権力を如何に奪回したのかを見直すと判るように思える。

不比等が長い不遇の時代を抜け出すのは、697年に文武天皇を擁立し、同時に長女の宮子を入内させたのがきっかけである。宮子は首皇子、後の聖武天皇を産む。不比等は続いて三女・光明子を聖武に嫁がせる。光明子は房前ら藤原四兄弟の力により初めての人臣皇后・光明皇后となる。このように外戚関係を築くことで時の権力者と関係を深め地位・権力を得るやり方は、その後も藤原氏の常套手段になる。権力の「玉」をたぐり寄せた「海女」とは、藤原家に生まれた女子を象徴しているように思われる。

藤原不比等と「海女」に纏わるもう一つの伝説が和歌山県川辺町の道成寺に残されている。長女・宮子の出自に関わる「宮子姫伝記」である。(つづく)

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