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志度寺「龍宮玉取姫」伝説

2009-11-22 | Japan 日常生活の冒険
讃岐国志度寺に伝わる「龍宮玉取姫」伝説とは:-

今を去る1300余年前(正しくは669年)、大職冠・藤原鎌足が亡くなり、唐の三代皇帝である高宗に嫁いだ 鎌足の娘・光伯女はこの知らせを聞いて嘆き悲しんで、唐の宮廷所蔵の宝物「花原磬」「洫浜石」「面向不背玉」三つを亡き父への供物とすべく船に積み日本に送った。ところが、船が讃岐国志度浦にさしかかったとき、海底から姿を現した龍神に「面向不背玉(どの方向から見ても中に仏の正面像を拝むことができる玉)」を奪われてしまう。

それから10年後、鎌足の子(鎌足没時は11歳だった)藤原不比等は、奪われた玉を取り返すため、身分を隠して「淡海」と名乗って志度を訪れた。不比等はここで純情可憐な美しい海女「玉藻」と出会い恋仲となり(681年に)一子・房前を儲ける。淡海・不比等は数年後に自らの素性と目的を明かして、海女・玉藻に宝玉の奪還に手を貸してほしいと頼み込む。我が子房前の将来を夫に託して、玉藻は腰に巻いた命綱を頼りに瀬戸の海に潜り竜宮に潜入する。海女は宝玉を取り返すため龍神たちと激しく闘い、最後には自らを犠牲にして、短刀で乳房の下を十文字に切り裂き玉を隠した上で、綱を引き上げるように合図を送る。不比等が綱を手繰り玉藻を引き上げるが、海女は既に瀕死の状態で、夫に玉を渡して息を引き取る。
 
後年、大臣に出世した藤原房前は僧の行基とともに志度を訪れ、千基の石塔を建てて母の冥福を祈ったという。能楽「海人」は房前が妙法蓮華経の読誦で母を追善供養したところ、龍女に姿を変えた母が現れて房前に感謝して成仏するという仏教思想が加えられた結びとなっている。


伝説にケチをつけると:-

まず、鎌足の娘が唐の三代皇帝・高宗に嫁いだというような史実はない。高宗は629年に生まれ、649年~683年が在位期間なので、鎌足没時669年には40歳でいちおう辻褄は合わせられてはいるが、当時、唐に渡ることは航海技術上容易ではなく、遣唐使にしても命懸けの時代である。因みに第一回の遣唐使派遣は630年、二代皇帝・太宗の時代で、第二回が653年と高宗の治世の初期になるから、鎌足の娘がこの船に乗っていれば、高宗の妃になれたかもしれない。因みに第一回の遣唐使派遣では二艘の船が使われているが、うち一艘は唐に向かう途上で遭難している。

なお第一回と第二回の遣唐使派遣の間で、645年に中大兄皇子と中臣鎌足によって大化改新が断行されたが、中大兄皇子は一貫して百済と結んで新羅を攻める政策を押し進めている。一方、新羅は唐と結び、660年に唐・新羅連合軍により百済を攻め滅ぼす。その後、日本(倭国)と滅亡した百済の残党の連合軍が、白村江で唐・新羅連合軍と戦い一敗地にまみれるのが663年。当時は、鎌足が娘を唐に嫁がせるような国際情勢ではない。

それから仏教の扱いについても違和感を抱いた。藤原鎌足の出自は言うまでもなく中臣氏であるが、そもそも中臣氏は天児屋命を祖として、忌部氏とともに神事・祭祀を司る役割を世襲している。鎌足が当事者の大化改新以前、中臣氏は物部氏とともに廃仏派として蘇我氏と対立している。果たして創成間もない、興福寺さえ作られていない時期、藤原氏の当主が大和から海を隔てた讃岐にまで出向いて仏教による祭祀を行ったりするのだろうか。仏の姿が映る「面向不背玉」を海底に探しに行くほど有難がったりしたのだろうか。(唐を建国した李淵・高祖は仏教を弾圧したが、三代皇帝・高宗は保護している。亡母を供養するために都・長安に大雁塔・慈恩寺を建てているくらいだから、仏宝を朝貢国に授けるようなことはあり得るかもしれない) (つづく)

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