今日は歴史。本当は明治時代初期の華々しい時代の変化、の予定だったんですが、
ここで、ちょっとコーヒーブレイク

実は私の大好きなひすいこたろうさんの最新刊『明日が見えないとき キミに力をくれる言葉』(SB文庫)に
幕末の革命家・高杉晋作さんの話が載っていて、読むと、
前の記事で、彼についてあまりにさらり~~と(ほんの1行で)触れただけだったのがは申し訳なくなってきたので、
ここで、もうちょっと触れたいな~と思います。
時代が少しばかり逆行してしまいますが、そして、ちょっと長~いですが、よろしければ読んでみて下さい。m( _ _ )m
高杉晋作は、長州藩士の長男として生まれ、将来を約束されていたのに親に内緒で松下村塾に通い
江戸で昌平坂学問所でも学びます。
23歳の時、藩命で幕府使節随行員として中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情にショックを受け帰ってきます
長州藩でおこった尊攘攘夷運動に、桂小五郎(木戸孝允)らと加わり、外国船砲撃を行いますが、逆に米仏の報復に逢い惨敗(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、奇兵隊を作ります。
八月十八日の政変で長州藩が京都から追放され、長州藩はなにくそと京都に攻め上りますが禁門の変で敗北して朝敵となってしまいます。
四カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されると、脱藩やらなにやらで投獄されていた晋作は赦免されて和議交渉を任されます。時に高杉晋作、24歳
。若っ
この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきましたが、高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功します。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば、「彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」とのちに伊藤博文は語っています。
高杉晋作さん、あっぱれ
ありがとう
ヾ(´▽`)ノ ですね。
幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では上層部が攘夷派7人を処刑し幕府に従う方針に切り変わり、晋作、福岡へ逃れます。
平尾山荘で望東尼さんに匿われ(かくまわれ)、勇気をもらい、
今、動かなければ歯車が止まる!長州が止まれば日本が止まる!つぶされる!!
と、奮起
仲間に声を掛けます。しかし、相手保守派は2000人、背後の幕府軍は15万人・・・応えてくれません。
でも、12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊らが長州藩諸隊を率いて集まってくれ、功山寺で84人で挙兵。下関の奉行所を奪取。軍艦3隻も奪取に成功します
ヾ(´▽`)ノ
農民も味方してくれ、同士はどんどん増え、後に奇兵隊ら諸隊も加わり、幕府に従う保守派を排斥して藩の実権を握ります。
その後、下関開港を推し進めたことにより攘夷・保守両派に命を狙われたため、四国へ逃れ、日柳燕石を頼ります。
※ 日柳燕石の別宅は香川県琴平町旧榎井村にあり、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられました。燕石は長州藩の吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊介、土佐藩の中岡慎太郎や越後の長谷川正傑らと交友があり、志士達を匿うために呑象楼には忍者屋敷のような仕掛けを作っていました。
すごいですよ~。 v(*'-^*)bぶいっ♪
追っ手が2階に上がって来れないようにパタンと階段がしまえたり、掛け軸の裏に大きな穴が開いていて、地下に続く抜け道を通ると、向かいの神社境内に逃げられるようになっていたり・・・。(今は移転していて通れませんが。)私の記憶がある仕掛けはこの2つですが、他にもあるかもしれません。どんだけ彼等が命が狙われていたかが分かります。
その後、燕石、やっぱり彼等を匿った罪で5年間投獄され、それがもとで後に52歳で命を落とします。
でも、それを覚悟の上で、日本のために命をかけた人達がこの時代はいたということですよね。
高杉晋作や坂本竜馬ほか、表舞台で活躍した人達はもちろん、凄いですが、
新しい時代を生み出す彼等を命がけで助けた人達もいてこそ成し得たことだったんですね。
そういえば、高杉晋作を匿った望東尼さんも60歳の高齢でも島流しになり、10ヶ月後、救出されるまで過酷な牢屋生活を余儀なくされます。彼女の事は、ひすいさんの『キミを救う言葉』に詳しく出てきますので、よかったら読んでみて下さいね。(^_-)-☆
晋作は再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めます。ここで、長州に手をさしのべてくれたのが坂本竜馬
薩長同盟が結ばれ、薩摩藩も反幕府の態度を固めます。以降、倒幕・明治維新へと歯車は大きく回りだします。
第2次長州征討は幕府軍の不利に展開し、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌年武力討幕を決意した薩長両藩でしたが、坂本竜馬・後藤象二郎の勧めで政権の返還・大政奉還へと向かいます。
でも、高杉晋作は結核におかされ、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去ることになってしまいます。(享年29歳)
うう、わ、若い!
私は、欧米に植民地化された時代に、なんで日本だけが領土を守ってこられたのか、
なんとなくは知っていましたが、彼等の命がけの行動のお蔭だったんだと、改めて深く知ることができ、
その勇気ある行動に、感謝と尊敬の念でいっぱいになりました。
今の時代、人のために、国のために命を投げ出せる人はどれだけいるでしょう。
(私も無理ですが・・・。
)
私利私欲のための行動に、ちょっとがっかりすることが多い昨今だけに、
彼等の生き様がよけいまぶしく見えてしかたありません。
最後に・・・
コーヒーブレイクにしては、内容がちょっとヘビーだったでしょうか。(笑)
皆さんご存知のことばっかりで、歴史通の方には、今更何を~だったかもしれません。(〃'∇'〃)ゝエヘヘ
でも、歴史を浅くしか勉強して来なかった私にとっては、ちょっとした衝撃!
ウィキペディアでも、たくさん勉強させてもらいましたが、
ひすいさんの本は、書き方にリアリティがあって、その時代に引き込まれて行ったって感じです。
是非、皆さんもひすいさんの本を読んで感動してくださいね。(^_-)-☆
ひすいさんの本は、歴史から一歩踏み込んだ、生き方指南もしてくれますよ。
※ 参考文献:ひすいこたろう著『明日が見えないとき キミに力をくれる言葉』(SB文庫)
ウィキペディア 、詳説日本史
ここで、ちょっとコーヒーブレイク


実は私の大好きなひすいこたろうさんの最新刊『明日が見えないとき キミに力をくれる言葉』(SB文庫)に
幕末の革命家・高杉晋作さんの話が載っていて、読むと、
前の記事で、彼についてあまりにさらり~~と(ほんの1行で)触れただけだったのがは申し訳なくなってきたので、
ここで、もうちょっと触れたいな~と思います。
時代が少しばかり逆行してしまいますが、そして、ちょっと長~いですが、よろしければ読んでみて下さい。m( _ _ )m
高杉晋作は、長州藩士の長男として生まれ、将来を約束されていたのに親に内緒で松下村塾に通い
江戸で昌平坂学問所でも学びます。
23歳の時、藩命で幕府使節随行員として中国の上海へ渡航、清が欧米の植民地となりつつある実情にショックを受け帰ってきます

長州藩でおこった尊攘攘夷運動に、桂小五郎(木戸孝允)らと加わり、外国船砲撃を行いますが、逆に米仏の報復に逢い惨敗(下関戦争)。高杉は下関の防衛を任せられ、奇兵隊を作ります。
八月十八日の政変で長州藩が京都から追放され、長州藩はなにくそと京都に攻め上りますが禁門の変で敗北して朝敵となってしまいます。
四カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠されると、脱藩やらなにやらで投獄されていた晋作は赦免されて和議交渉を任されます。時に高杉晋作、24歳


この講和会議において、連合国は数多の条件とともに「彦島の租借」を要求してきましたが、高杉はほぼ全ての提示条件を受け入れましたが、この「領土の租借」についてのみ頑として受け入れようとせず、結局は取り下げさせることに成功します。これは清国の見聞を経た高杉が「領土の期限付租借」の意味するところ(植民地化)を深く見抜いていたからで、もしこの要求を受け入れていれば、「彦島は香港になり、下関は九龍半島になっていただろう」とのちに伊藤博文は語っています。
高杉晋作さん、あっぱれ


幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩では上層部が攘夷派7人を処刑し幕府に従う方針に切り変わり、晋作、福岡へ逃れます。
平尾山荘で望東尼さんに匿われ(かくまわれ)、勇気をもらい、
今、動かなければ歯車が止まる!長州が止まれば日本が止まる!つぶされる!!
と、奮起

でも、12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、石川小五郎率いる遊撃隊らが長州藩諸隊を率いて集まってくれ、功山寺で84人で挙兵。下関の奉行所を奪取。軍艦3隻も奪取に成功します

農民も味方してくれ、同士はどんどん増え、後に奇兵隊ら諸隊も加わり、幕府に従う保守派を排斥して藩の実権を握ります。
その後、下関開港を推し進めたことにより攘夷・保守両派に命を狙われたため、四国へ逃れ、日柳燕石を頼ります。
※ 日柳燕石の別宅は香川県琴平町旧榎井村にあり、その二階で酒を呑むと、盃に金毘羅宮がある象頭山がポッカリと浮かぶところから、「呑象楼(どんぞうろう)」と名づけられました。燕石は長州藩の吉田松陰、桂小五郎、高杉晋作、伊藤俊介、土佐藩の中岡慎太郎や越後の長谷川正傑らと交友があり、志士達を匿うために呑象楼には忍者屋敷のような仕掛けを作っていました。
すごいですよ~。 v(*'-^*)bぶいっ♪
追っ手が2階に上がって来れないようにパタンと階段がしまえたり、掛け軸の裏に大きな穴が開いていて、地下に続く抜け道を通ると、向かいの神社境内に逃げられるようになっていたり・・・。(今は移転していて通れませんが。)私の記憶がある仕掛けはこの2つですが、他にもあるかもしれません。どんだけ彼等が命が狙われていたかが分かります。
その後、燕石、やっぱり彼等を匿った罪で5年間投獄され、それがもとで後に52歳で命を落とします。
でも、それを覚悟の上で、日本のために命をかけた人達がこの時代はいたということですよね。
高杉晋作や坂本竜馬ほか、表舞台で活躍した人達はもちろん、凄いですが、
新しい時代を生み出す彼等を命がけで助けた人達もいてこそ成し得たことだったんですね。
そういえば、高杉晋作を匿った望東尼さんも60歳の高齢でも島流しになり、10ヶ月後、救出されるまで過酷な牢屋生活を余儀なくされます。彼女の事は、ひすいさんの『キミを救う言葉』に詳しく出てきますので、よかったら読んでみて下さいね。(^_-)-☆
晋作は再度の長州征討に備えて、防衛態勢の強化を進めます。ここで、長州に手をさしのべてくれたのが坂本竜馬

薩長同盟が結ばれ、薩摩藩も反幕府の態度を固めます。以降、倒幕・明治維新へと歯車は大きく回りだします。
第2次長州征討は幕府軍の不利に展開し、この敗北によって幕府の権威は大きく失墜し、翌年武力討幕を決意した薩長両藩でしたが、坂本竜馬・後藤象二郎の勧めで政権の返還・大政奉還へと向かいます。
でも、高杉晋作は結核におかされ、江戸幕府の終了を確信しながらも大政奉還を見ずしてこの世を去ることになってしまいます。(享年29歳)

私は、欧米に植民地化された時代に、なんで日本だけが領土を守ってこられたのか、
なんとなくは知っていましたが、彼等の命がけの行動のお蔭だったんだと、改めて深く知ることができ、
その勇気ある行動に、感謝と尊敬の念でいっぱいになりました。
今の時代、人のために、国のために命を投げ出せる人はどれだけいるでしょう。
(私も無理ですが・・・。

私利私欲のための行動に、ちょっとがっかりすることが多い昨今だけに、
彼等の生き様がよけいまぶしく見えてしかたありません。
最後に・・・
コーヒーブレイクにしては、内容がちょっとヘビーだったでしょうか。(笑)
皆さんご存知のことばっかりで、歴史通の方には、今更何を~だったかもしれません。(〃'∇'〃)ゝエヘヘ
でも、歴史を浅くしか勉強して来なかった私にとっては、ちょっとした衝撃!
ウィキペディアでも、たくさん勉強させてもらいましたが、
ひすいさんの本は、書き方にリアリティがあって、その時代に引き込まれて行ったって感じです。
是非、皆さんもひすいさんの本を読んで感動してくださいね。(^_-)-☆
ひすいさんの本は、歴史から一歩踏み込んだ、生き方指南もしてくれますよ。
※ 参考文献:ひすいこたろう著『明日が見えないとき キミに力をくれる言葉』(SB文庫)
ウィキペディア 、詳説日本史