萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露籠act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-08-11 23:51:28 | 陽はまた昇るside story
空満つ水の彼方に隠して、



第52話 露籠act.3―side story「陽はまた昇る」

モノトーンの空は、雲が厚い。
頬撫でていく風も湿度を孕み、遠い雨の香を運んでくる。
どこか冷気をふくんだ風は上空を強く吹いていく、グレーの雲は速く流れ吹き寄せる。

もう、雨が近い。

「うん、雨が直に降るね?洗濯モンとか大丈夫?」

吹く風に目を細めて光一が、歩きながら訊いてくれる。
いつもながらパートナーの気遣いに微笑んで、英二は頷いた。

「大丈夫。周太が今朝、乾燥機使ってくれたから、」
「なに?おまえ、周太に洗濯させてんの?」

すこしだけテノールが怪訝になって問いかける。
この誤解に英二は軽く首振って微笑んだ。

「いつもじゃないよ?今朝はついでに一緒に洗ってくれて、」
「ふうん、なら良いけどさ、」

底抜けに明るい目を細めて、光一は首を傾げこむ。
なにか物言いたげな眼差しに見つめられて、英二は訊いてみた。

「光一、なんかあるのか?」
「うん?…まあね、」

駐車場に降りて、見慣れたナンバーのミニパトカーに凭れかかる。
無人の駐車場は放課後の喧騒が聞えてる、どこか賑やかな静けさに光一は口を開いた。

「今日の周太、ちょっと疲れてるみたいだけど?おまえ、朝からヤったよね?」
「うん、ごめん。朝からしたよ?」

さらり謝って英二は情事を認めた。
認めた記憶につい、幸せな気分になって微笑んでしまう。そんな顔を呆れ半分に眺めて光一は、率直に言ってくれた。

「あのさ?おまえ、あんま解ってないと思うんだけどね?ヤられる方の負担って結構キツイんだよ、腰とかマジくるらしいね?
だからエロい俺でも、コンナ躊躇してるんだろが。それをさ、平日の朝っぱらからって、無理させてんじゃない?大丈夫なワケ?」

それは解かってはいる、けれど指摘されたら心に刺さる。
やはり自分は身勝手かもしれない、気付かされた周太と自分の違いに英二は微笑んだ。

「だよな?やっぱり周太、無理してさせてくれてるんだよな、」
「当たり前だろ?おまえって賢いくせに、マジ馬鹿なときあんよね?おまえに言われて、周太が断れるワケないだろ、」

言いながらテノールがすこし溜息を吐く。
困ったよう上品な貌を顰めて光一は、真直ぐ英二を見つめた。

「おまえ、忘れたなんて言わせないよ?1月のコトがあるだろが、断ってこじれちゃったって例だよね?で、この間の逮捕の件もだよ。
あのとき藤岡が怪我したろ?あれって周太、おまえのコトを余計に心配したと思うね?だから今、おまえを幸せで充たしたいんだよ。
いまの周太は覚悟を固めている時なんだ、この研修が終わったら異動が2度来て、独りでオヤジさんの場所に行く。そう決めてるから、」

ふっと肩から吐息をついて、透明な目が英二を見つめてくれる。
どこか花のような香を風に交らせて、テノールの声が明確に告げた。

「残酷なコト言うよ?周太は今が最期かもしれない、そう覚悟してる。だから今、おまえに幸せな記憶を1つでも遺したいんだ。
そんな周太がさ、おまえが強請ったら断れるワケないよね?周太にとっても今、おまえとの記憶が1つでも多くほしい時なんだから、」

最期かもしれない、そう覚悟して。
そんなこと解っている、だから自分は尚更に今、離れられない。その想い正直に英二は口を開いた。

「ごめん、本当にそうだな。でも本音を言うと俺は、周太が具合悪いと嬉しいんだ。看病して独り占め出来るから嬉しい。
正直に言うと、周太が体を壊して諦めたら良い、それで警察官を辞めたら良いってすら思ってる。ほんと身勝手だって解ってるけどな」

本当は、周太の体を壊してでも引留めたい。そんな欲望がある。

もし周太が体を壊したら、あの部署への異動は無くなるだろう。あの部署は頭脳と体が完璧な人間だけが選抜されるから。
もちろん周太が体を悪くすることは哀しい、そんなの周太本人が辛いから。けれど引き離されるよりずっと良い。
なんとしてでも引留めてしまいたい、離したくない、離れずに済むなら何でも良い。そんな本音が深くに蟠る。
こんな自分は本当に身勝手で惨酷で、けれど正直な気持ちは変えられない。

「こんなに俺、自分勝手な男なんだよ。いつも真面目なことやってるけどさ、それも周太に好かれたいって下心が一番の動機だよ?
周太がいなかったら俺、生きている意味だって解らない。周太がいなきゃ俺はボロボロになる、昔みたいに人形になるかもしれない。
だからさ、周太が傍にいてくれる為なら、幾らでも俺は強くなれる。形振りなんか構わない、なんでもする。そんな勝手な男なんだ、」

恋の奴隷、それが自分。
こんなに誰かを求めて泣いて、残酷になって、罪すら平気で犯せる自分。
こんな自分の不純な本性に比べたら、光一の本性「白魔」は純粋で眩く美しい。
そんな自分を正直に唯ひとり『血の契』へと告げてしまう、その今に英二は微笑んだ。

「ごめんな、光一。こんな俺と『血の契』させて、こんな本性を見せたりして。この間も雲取山で話したばかりなのにな、」
「いや、構わないね、」

さらっと言って、光一は微笑んだ。
笑んだ透明な目は大らかに温かで、優しい眼差し見つめてくれる。
その目にどこか安らぐまま微笑んだ英二に、透明なテノールが笑ってくれた。

「おまえのソウいう本性、知ってるのは俺だけだね?俺だけが『血の契』で繋がれて、おまえの本性を全部知ってる。だろ?」
「うん。俺、光一には何も隠していない、周太に言えない事も話すし、見せてる。お前は俺の、アンザイレンパートナーだから、」

素直に答えて英二は、唯一のアンザイレンパートナーに笑いかけた。
笑いかけた先で唯ひとりの相手は綺麗な笑顔になって、率直に微笑んだ。

「なら、それでいい。おまえの全てを知っているのが俺だけなら、それで幸せだね。で、身勝手なトコも俺は好きだよ、正直でいい、」

告げる秀麗な貌は、美しい笑顔をモノトーンの空にほころばす。
この笑顔の無垢な想いが切ない、それほどに惹かれる自分がここにいる。それでも唯ひとりの恋人を想いながら英二は笑った。

「ありがと、光一。恋はあげられないけどな、ほんと愛してるよ?」
「ふん、憎たらしいね、おまえって?でも惚れてるよ、いつでも俺に甘えて、溜め込んだ無理をゲロしなね?周太の為にもさ、」

からり笑って答えてくれる、その目が底抜けに明るい。
今日もまた光一の明るさに助けられている、その感謝に微笑んで英二は肩を寄せた。

「うん、また吐き出させてもらうな?みっともないとこ見せるけど、頼むな、」
「仕方ないね、幾らでも面倒みてやるよ?一生ずっとね…英二、」

すこし躊躇うよう呼んでくれる名前が、温かい。
いま触れている肩も2枚の制服越しに温かで、ほっと心ほぐれてくれる。
ほぐれた心のまま笑いかけて、英二は低い声でパートナーに尋ねた。

「このあいだ雲取山で、光一、言ってたよな?…曾おじいさんについて調べたって、」
「…ああ、調べたよ。今、ちょっと聴きたい?」

テノールの声も低めて、すこし笑って答えてくれる。
そっと振向いた先で吉村医師と周太の姿は、まだ見えない。この無人の駐車場でふたり並んで、英二は頷いた。

「うん、このあいだ聴きたかったけど、時間無かったから。今、聴いておきたい、」
「だね、」

そっと笑って透明な目が英二を見つめてくれる。
そして静かに薄紅の唇を開いて、光一は教えてくれた。

「あの小説とWEBで調べたコトから話すとね?あの家は、砲術方ってヤツの世襲をする家だね、」

『砲術方』

前に見た時代劇で、そんな役職を見た記憶がある。
その記憶のまま英二はザイルパートナーに尋ねた。

「砲術方、ってさ?幕藩体制の頃に、大砲や銃の指南役をしてたやつだろ?」
「そ、ようするにさ、代々ずっと銃や大砲の研究をして、使っていた家ってコト。銃火器使いの血筋って意味だよ、納得だろ?」

銃火器使いの血筋。

それが、あの家の「連鎖」の正体だとういのだろうか?
それは、晉の、馨の、そして周太の能力から納得できてしまう、
その連鎖は始まってから、どれくらい長い年月を経たのだろう?そんな疑問と見つめる先でテノールの声は続けてくれた。

「そういうわけでさ、曾じいさん自身も銃の名手だったワケ。で、日露戦争ではソッチ担当をしてる。戦争だから人も殺したろうね?
その戦後に上京して赤門に入ったんだよ、元が砲術方の家だから工学部で兵器研究をしたんだ。それで川崎に出来た重工に就職した。
その辺のコトがね、あの小説のエピローグと、あとがきから汲みとれたよ。それをWEBで調べた結果が、今、話した内容の通りだよ」

小さく溜息を吐いた口許から、ふっと花の香がこぼれだす。
その香を見つめながら英二は、今、考えた可能性に口を開いた。

「曾おじいさんが川崎に来たのは、銃や大砲の研究開発が目的って事だよな?それって、上からの命令があったからってことかな?」
「だね。警察も軍部も薩長閥だろ?出身から考えたら可能性は高いよね、じいさんが大学で射撃部だったことも、同じ理由っぽいしさ、」

答えて、光一は寂しげに微笑んだ。
この微笑の意味がもう解ってしまう、そして周太に絡まる「連鎖」の正体が朧に姿を見せていく。
この正体を示す言葉へと、静かに英二は声を喉から起こし上げた。

「あの『Fantome』は世襲制で続いて、藩閥政治でも利用されて、民主主義っていう今も続けられている。そういうことか?」

世襲とは「選択権の与奪」を意味する。
この世襲によって続く職務は、この民主主義の現代でも沢山ある。
瀬尾の家も世襲で事業を続けている、けれど周太に背負わされる『Fantome』は意味が違い過ぎる。

「なあ?民主主義ってさ、職業選択の自由があるはずだよな?…生命の保障もあるよな?なのに、なぜだよ?」

あの家に世襲される『Fantome』には、何の自由と保障があるのだろう?
ただ選択の権利すら奪われている、そんな現実が今、この民主主義という現代にある?

「あの職務は殺人者になるってことだ、自分も死ぬかもしれない。それを選択する権利まで奪われるのは、おかしいだろ?
あの家が砲術方だった、能力が高い、それだけの理由で…曾おじいさんも、おじいさんも、お父さんも、任務に就かされたのか?
本当は望んでいなくても狙撃手に就いたのは、全て仕組まれていたのか?能力がある家の人間だからって、いろんな形で追い込まれて、」

こんな現実が許されるのか?
こんな現実が民主主義国家を支えている?
こんな現実に絡み取られる人々に法治国家が支えられている?

「こんなの人柱じゃないか?治安の為だと言って、法律の元で犠牲が赦されているのか?人柱が、周太の現実ってことなのか?」

どうして?

ただ一言に凝縮されて、疑問と哀しみが脳と心を廻る。
このメビウスリンクを見つめるよう透明な目が英二を見、光一は言った。

「そういうことだね、」

ただ一言で、透明なテノールが現実を宣告した。

「…そっか、」

ぽつんと言葉こぼして、英二は空を見上げた。

モノトーンの空は雲の厚みを増していく。
もう風も冷気に水をふくんで、雨の香が濃くなっている。
もうじき集中的な雨がふる、そう読みとった天穹に深く呼吸した。

「ありがとな、光一、」

深呼吸した吐息に、英二は微笑んだ。
空から視線を隣へ降ろし、並んだザイルパートナーを見つめる。
見つめた先で底抜けに明るい目は温かに笑んでくれる、その温もりへと英二は笑いかけた。

「このこと、数日は光一に独りで背負わせたな?ごめんな、重かったろ?今からは、俺に背負わせてくれな?」
「どういたしましてだね、これからも一緒に背負うよ、」

透明なテノールが笑って答えてくれる、その声が心に優しく響く。
もし光一が居なかったら、これらの事実を知ることが自分だけで出来たのか解からない。

『 La chronique de la maison 』

周太の祖父、湯原晉博士がフランス語で書き遺した「記録」小説。
これは特別出版だったから部数も少なく、貴重本扱いで閲覧が難しい。
けれど仏文科に在籍した光一の父・明広が遺した蔵書から見つけられた、そして光一が翻訳してくれた。
これが無かったら50年前の事件も、晉と馨を廻る事情も、曾祖父・敦の背景も調べることは困難だったろう。
そして光一も英二の存在無しでは難しかった。再び周太が奥多摩に訪れた切欠も、馨の日記を見つけたのも英二だから。

そうした互いの扶助は「山」では尚更に濃い。
きっとお互いが無かったら山岳救助のパートナーが居ない、最高峰へも昇れない。
こんなふうに自分達ふたりは、互いの存在なしでは何も出来ないのかもしれない。
こんな自分たちは縁が深いのだろう、生涯のアンザイレンパートナーで『血の契』そんな二重の絆に繋ぎあう自分たちは。
この絆に温もり微笑んで、英二は大切な唯一のパートナーを見つめて綺麗に笑いかけた。

「光一、おまえが居るから俺、色んな可能性が掴めてるな?ありがとう、」
「うん?急に何さ?」

からり、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
なんだかよく解からないよ?そう目で言いながら、けれど透明なテノールは応えてくれた。

「ま、確かにね?俺たち2人でなら、大概の可能性は手に入れられるね。だから一緒にいてよ…英二、」

ほら、また遠慮がちに名前を呼ぶんだ?
こういうとこ意外なほど初心で、いつも大胆な言動からは予想外だ?
けれどギャップが何だか良いなと想える、想い素直に英二は笑って、大切な唯ひとりに応えた。

「うん、一緒にいたい。そのためにも俺、早まったことしないから。周太のことで泣いても、踏み止まるよ、」

ここ最近、ずっと自分は周太との時間を止めたくて。
その為に挙動不審になっている自分を解っている、それを光一なら不安に想うだろう。
この為にも光一は今日ここに来てくれた、ファイルの謝罪と英二の精神的な不安を支えるために。
その想いへの感謝に微笑んだ英二に、透明な目は綺麗に笑ってくれた。

「そうしてね、ア・ダ・ム?可愛いイヴのコト、忘れないでよ?俺だって周太と…英二を護りたいんだ、だから、独りにしないでよね、」

独りにしないでよね?
そう笑って、けれど透明な目に寂しさの翳を隠すよう微笑んでくれる。
この寂しさの意味が心に撃ちこまれて、英二は素直に頭を下げた。

「ごめん、光一。本当にごめん、勝手に死のうとか考えて、ごめん、」

唯ひとりのアンザイレンパートナー、それなのに死んだら?
唯ひとりの『血の契』で、心ごと体を繋ぎたいと光一が願う相手は自分だけなのに?
それなのに光一を置き去りにして自分は周太と死のうとした、それがどんなに酷い裏切りだったのか?
漸く今になって気付かされて悔しい、悔しい想いと頭を上げると英二は言った。

「光一、俺のこと殴っていい。おまえとの約束を忘れて、勝手なことをしようとしたんだ。こんな俺は最低だ、だから、」
「いいよ、気付いたからね、」

さらっと遮ると光一は微笑んだ。
そして視線で英二の後ろを示しながら、綺麗なテノールで笑いかけてくれた。

「おまえの美しい顔を殴るなんて、金を積まれても嫌だね。おまえの美貌は、俺の大切な眼福資源なんだからさ、」

愉しげに底抜けに明るい目が笑ってくれる。
その視線示した先へ想いを向けながらも、英二は隣のパートナーに微笑んだ。

「そっか、ありがとな。でも光一の方が俺より、ずっと綺麗だよ、」
「だからね、そういうこというと俺、意識しちゃうだろ?これでも俺は、おまえに惚れてんだからね、」

可笑しそうに笑って光一は、パトカーに凭れた体を起こした。
ぽん、と英二の肩をひとつ叩くと綺麗な笑顔を向けてくれる、そして校舎の方へと踵を返した。

「先生、5分待って頂けますか?周太とも少し話したいんですけどね、」
「はい、どうぞ?私も宮田くんと話したいですし、」

穏やかな声とテノールの会話を聴きながら、ゆっくり身を起こすと英二は振向いた。
視線の先で光一が周太と植込みの方へ歩いていく、そして吉村医師が英二へと笑いかけてくれた。

「藤岡くん、とても経過が良いですね。宮田くんの処置が巧いって、藤岡くんも喜んでいましたよ、」
「ありがとうございます、先生が教えて下さったお蔭です、」

素直に礼を述べて英二は綺麗に笑った。
そんな英二に吉村医師は嬉しそうに笑って、ふと思い出したよう口を開いた。

「さっき湯原くんに訊かれましたよ、事例研究で『春琴抄』の案件を話したそうですね?」

鼓動が、ひとつ心を引っ叩く。

この『春琴抄』の案件は『Le Fantome de l'Opera』と重なって謎解く扉になりやすい。
この重複に周太は気づいた?もう「ページが欠けた本」の意味を知ったのだろうか?
その可能性への緊張を見つめながら、英二は医師に尋ねた。

「はい、死体見分の良い事例だと思ったので。周太、どんな質問をしたんですか?」
「ページを抜いた理由は何か?そう訊いてくれましたよ。なので警察医としての見解ですが、お話しさせて頂きました、」

吉村は切長い目を温かに笑ませて、楽しそうに微笑んだ。
そして穏やかなトーンで話してくれた。

「あの『春琴抄』は喉布からページが切り外されて、ご遺体は定型的縊死の状態だった。この2つの『喉と首』には符号を感じます。
この符号から私は、ご本人が殺されることを望んで、自殺幇助を加害者がするよう仕向けたと想えるのです。この事を話させて頂きました、」

―自殺幇助、

この単語に、また鼓動が心を引っ叩く。
この言葉は14年前の殉職事件に対しても、真実を言い当ててしまう?
この言葉の事に周太は気づいてしまったのだろうか?そんな想い佇んでいる英二に、吉村医師が教えてくれた。

「それからね、湯原くんは少し疲れが溜まっているようです。季節の変わり目だからと思いますが、気を付けてあげて下さい、」

さっき光一にも「ちょっと疲れてるみたいだけど?」と指摘された。
そして吉村医師にも言われたということは、本当に周太は今、体調を崩しかけているだろう。
本当に気を付けないといけない、そう心に決めながら英二は微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。早く寝かせるようにしますね、」
「ええ、そうして下さい。湯原くんは気管支系が少し弱いでしょう?だから熱も出しやすいのです、最近も熱を出したそうですが、」

心配そうに首傾げながら話してくれる、その視線がふと動いた。
その視線の先に英二も振向くと、光一と周太が戻ってきていた。

「周太、」

名前を呼んで笑いかけた先、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
その眼差しがすこし潤んで見えるのは、熱が幾らかあるのだろうか?
今日はトレーニングも短めの方が良いかな?考えながら英二は吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、また、」
「はい、おふたりとも体に気を付けて。またコーヒー淹れてくださいね?」

パトカーの助手席に乗りこみながら吉村が笑いかけてくれる。
それに笑って頷いた英二に、光一が愉しげに言ってくれた。

「コーヒー、俺にもよろしくね?じゃ、またね、」

からり笑って運転席に乗り込むと、慣れたハンドル捌きにミニパトカーは動き出した。
いつも一緒に乗る車体が自分を置いたまま遠ざかっていく、それが何だか不思議ですこし切ない。
あのパトカーに搭乗することが自分の「日常」になっている?そんな実感に微笑んで英二は、隣の婚約者に笑いかけた。

「周太、部屋に戻ってから、トレーニングルーム行く?」
「ん、行く。でも俺、忘れ物しちゃったんだ。すぐ追いかけるから、先に行っていて?」
「じゃあ俺も一緒に行くよ、周太」

何の忘れ物だろう?そう笑いかけた先で黒目がちの瞳が見上げてくれる。
瞳は微笑んで、けれど周太は小さく首を振って答えた。

「図書室で調べものしたいんだ、1人で集中すると早く終わるから、先にトレーニングに行ってて?ランニングマシーン使いたいな?」

ランニングマシーンを使いたいのなら、先に行って確保しておく方が良いだろう。
それに図書室ですこし時間を遣ってくれる方が、体調を崩しかけた周太には楽をさせられる。
そんな考えに微笑んで、英二は頷いた。

「解かった、先に走ってるな?鞄、持って帰っておくよ。その方が図書室で身軽だろ?」
「ん、ありがとう…じゃあ、」

鞄を受けとり別れると、周太は図書室の方へと歩き始めた。
廊下の角を曲がりしな振向くと、小柄な背中が逆方向へと曲がり消えていく。
その背中は姿勢が端正で、凛とした静謐が美しかった。

―…いまの周太は覚悟を固めている時なんだ…周太は今が最期かもしれない…だから今、おまえに幸せな記憶を1つでも遺したいんだ

さっき光一に言われた言葉が、端正な背中に蘇える。
あの背中を一年前の自分も見つめていた、いつしか憧れて恋をして、そして愛した。
ずっと抱きしめていたいと願って、生涯かけて護ることを決めて、そして今ここにいる。
けれど本当は、護られているのは、どちらの方なのだろう?

―周太、君だけに恋してるんだ…ずっと傍にいてよ?

寮の自室へと歩きながら、心に願いがこぼれていく。
遅い午後の廊下は薄暗くて、窓には灰色の空がすこしずつ密度を増していく。
もう間もなくに雨は降りだす、そんな予兆を見つめながら英二は、自室の鍵を開いた。

かちり、…ぱたん、

開錠音と扉閉まる音がして、白い部屋に独りきりになる。
どこか寂しく部屋が見えるのは、周太と離れている所為だろうか?
いま少し離れているだけで哀切が心を絞めだしていく、ここで毎日を周太の隣で過ごした時間が泣きそうになる。
これでは初任総合が終ったら、自分はどうなってしまうのだろう?卒配された頃のよう、また青梅署での日常に切なさを見る?

卒業式の別れは哀しくて、もう二度と逢えないかもしれないと覚悟して。
これが最後ならと「今」に懸けて告白をした、あの一夜に全てを懸けて心ごと体を繋いで、幸せな夢を見た。
そして離れて生きる日々が始まって、それでも心は繋がる「今」を幸せだと言い聞かせてきた。
けれど、再び毎日を隣で過ごしてしまえば、もう、離れて生きる日々が前よりも怖い。
この「今」が幸せな分だけ失うのが怖くて、幸せに貪欲になる自分がいる。

人は、幸せへの望みは尽きること無いほどに、強欲なのだろうか?

そして気がつかされてしまう、光一の強靭な美しさが見える。
光一の「今」あるものへ満足する無欲さは、どれだけ純粋で聡明なのか漸くに解かる。
けれど自分は、弱くて、愚かで、失うことに怯えてしまう。もう2度目なのに前以上に心震えて、また哀切に沈みこむ。
もう自分は、この先も同じ別離がある度に何度でも、この強欲な傷みを繰り返す?

「…なんども繰り返すなんて、俺、ばかだな?」

独り言が、ほろ苦い。
それでも自分で可笑しくて、笑いながら英二は2つの鞄をデスクに置いた。
もう薄暗い窓へ向かうとカーテンを開く、その空を見上げながら壁に背凭れた。

もう空は厚い雲に覆われて、太陽が白い。
グレーの雲に透けては隠れる白陽に、光は昏い。ぼんやり見上げる黒雲は風に流れていく。
太陽の白い翳は灰色の硲を照らして、明滅するよう輝いて隠れて、モノトーンは密度を濃くさせる。
そうして窓に雫が、ひとつ水の波紋を叩いた。

「…降り出したな、」

呟いた独り言に被せるよう、雨音が窓を覆いだす。
降りだした水の姿を見つめる向う、吉村医師と光一の懸念が重なってしまう。
こんな天候の変化が激しい日、すこし怠そうな周太は体調を崩すのではないだろうか?

「うん…迎えに行こう、」

独り言に決めて英二は、壁から背を離した。
携帯電話をポケットに入れて制服のまま部屋を出る、そして施錠すると廊下を歩き始めた。
もう廊下は薄暗い闇に沈みだす、窓は雨の波紋が次々と打って、もう外が見えない。
光一と吉村医師は今、どのあたりを走っているだろう?この豪雨では運転も大変だろう。
そんな心配をしながら歩いて、英二は図書室の扉を開いた。

ふっと頬撫でる、古い紙の香が懐かしい。
並ぶ書架を通りぬけて閲覧コーナーの机を見て回る。
けれど見つけたい姿は、どの机にも無い。

―書架の方かな、

背の高い書架の通路を、ひとつずつ見て回っていく。
そのどこにも小柄な姿は見当たらない、首傾げながら英二はカウンターへと踵を返した。
そしてカウンター内にいる図書当番の女性警官へと、英二は笑いかけた。

「すみません、」
「あ、宮田さん?」

すぐ名前を呼んで笑ってくれた顔は、見覚えがある。
たぶん華道部で一緒の初任科教養に在籍中の子だな?そんな記憶に微笑んで英二は尋ねた。

「いつも俺といる人、見ませんでした?小柄で、ちょっと童顔の、」
「湯原さんですか?今日はいらしていませんけど、」

笑顔で返された言葉に、心が凍った。

―来ていない?

確かに周太は「図書室で調べものしたい」と言っていた。
けれど現実には図書室に来ていない、ならば周太はどこに行った?
もう廻りだす不安を隠したままに微笑んで、英二は礼を言った。

「そっか、ありがとう、」

踵を返して廊下に出る。
静かに扉を閉めて、そして周太と別れた廊下へと歩き始めた。

―あの場所から図書室へ向かう、その間に寄れる場所は?

考え廻らし歩いていく廊下へと、雨音が窓を叩いて響きだす。
ガラスを隔てた空は昏い、モノトーンの翳が色濃く厚みを増していく。
もう太陽の白い翳も遠くになって、雨ふる雫に外は充たされ校舎を水音が支配する。

ざああああ…ざああ…

歩いていく革靴の、ソールの音が雨音に相槌を打つ。
自分の足音と水ふる音を聴きながら考え廻らして、英二は階段を昇り始めた。
昇っていく階段は薄闇に沈みこんで昏い。いつもなら明るい陽射しふる空間も今は、雨の音だけが降っている。
この先にある扉は屋上に通じている、そこに想ってしまう可能性が、怖い。

それだけは、絶対に無い。

そう心に断言する。
周太の強さを知っている、信じている、だから断言する。
けれど、ならばなぜ周太は「図書室で調べものしたい」と嘘を吐いた?

―きっと独りになりたかったんだ、周太、

なぜ独りになりたかったのか?
その答えはきっと『自殺幇助』この単語に見た真実だろう。
きっともう周太は吉村医師の言葉から、父の死の真実に気づいてしまった。

馨の死は、あの殉職の真実は「自殺」。

犯人に狙撃され死ぬことを選んだ、不作為の自殺幇助による自死だった。
このことは、馨が最後に綴った日記に見つめる心情で、裏付けることが出来てしまう。
殉職の前夜にラテン語で書かれた、最期のページから。

“この私が裁きを受ける瞬間は、誰かの尊厳を守るために射殺され、すこしでもこの罪の贖罪が叶うことを”

あの一文の通りに馨は被弾し、新宿のアスファルトに斃れた。
銃を構えても威嚇発砲せず、銃口を避けもせず、潔癖なままに撃たれた。
まるで自らを銃殺刑に裁くよう弾丸を受容れて、ラテン語に記した一文の通り贖罪へ死んだ。
そして遺した願いの通りに殺害犯は今、店の主人となって客を温かな食事と空気で受けとめている。

この馨の願いと選択は崇高と言えるだろう。
けれど遺された家族にとって、こんな哀しい苦しい選択は無い。
この哀しみに周太は気づいてしまった?だから独り屋上に行ってしまった?

でも今は、雨が降っているから屋上には出られない。
けれど屋上に続く階段なら独り静かになれる、そこに周太は座りこんでいる?
そう考えて最後の踊り場を曲がったけれど、階段は無人だった。

「…周太、」

探し求めるひとの名前を呼んで、革靴の跫が速くなる。
まさかこの豪雨のなか周太は屋上に出ている?いま熱があるだろうに?
不安に押されるまま階段を二段飛ばしに駆け上がる、雨音が見る間に近くなる。

がたん、

屋上への扉を開いて、風が雫を全身へと叩きつけた。
そのままコンクリートへ踏み出して、足元の水溜りに波紋が広がっていく。
ただモノトーンの昏い空ひろがる空間は無人で、雨の白い矢だけが音と冷気に降りそそぐ。

「周太!」

呼んだ名前に、応えは無い。
けれど英二は雨の冷気のなかへ駆け出した。

歩く革靴の周りに波紋が広がる、水の飛沫が制服の裾を染めていく。
冷たい雨が髪を肩を打ちつける、青い生地は肌に纏わりつき髪は額へ絡まりつく。
濡れた髪を掻きあげコンクリートの水を走って、死角になる影の方へと駆け寄っていく。
この1年前にも周太と佇んだ、翳になる鉄柵の場所。あの場所へと水を跳ねながら走っていく。

角を曲がる、隠れた場所に入っていく。
そして水を踏む涯に辿り着いた場所に、小柄な制服姿が倒れていた。

「…っ、周太!」

降りそそぐ冷たい雨のなか、コンクリートの水溜りに跪く。
けれど周太は動かない、横倒れた体は冷たい雨に打たれるまま動いてくれない。

「周太!どうしたんだ、周太!」

呼んだ名前にも応えないで、長い睫は伏せられている。
横向きになった貌は蒼白に近い、濡れた黒髪が額に頬に零れている。
全身を水に浸した制服は肌を透かすほど濡れきって、冷たい雨に打たせたまま動かない。

「周太っ!」

名前を叫んで抱き起す、その体が、冷たい。






(to be continued)

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one scene 或日、学校にてact.9 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-11 06:03:18 | 陽はまた昇るanother,side story
言われてしまうと、



one scene 或日、学校にてact.9 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

店の扉を開くと、ふわり水の香が頬をなでた。
驟雨の名残、やさしい晴朗な空気が嬉しい。なにより隣を歩く人がいる今が嬉しくて幸せになる。
けれど少し遠慮がちな想いに周太は、すこし困りながら微笑んだ。

「英二?いっぱい買ってもらって、ごめんね?ありがとう、」
「周太に夏服を買わないと、って思っていたんだ。今日、買いに来れて良かった、」

大きな紙袋を肩から提げて、綺麗な切長い目が幸せに笑ってくれる。
こんな顔されると買ってもらうのも良いことなのかな?と思えてしまう。
けれど甘えっぱなしなのも申し訳ない、英二と自分は同じ齢で同じ職業で、同じ男だから。

…なにかお返し、すこしでもしたいけど…あ、そうだ

お返しをする、良い方法がある。
思いついたことに嬉しくて周太は婚約者へと笑いかけた。

「英二、さっき言っていた本、買いに行こ?」
「うん、ありがとう。周太、お茶は何が良い?」
「ん…いつものとこ?」

話しながら歩いて行く道は、日曜だからカジュアルな姿が多い。
そんな中をスーツでふたり男が歩いているのは、どんなふうに見えるのだろう?
やっぱり変だと思われるだろうか?ふと疑問に少し悲しくなって、周太は素直な想いに尋ねた。

「…ね、英二?英二は、俺と歩いているの、嫌じゃないの?…休日にスーツだし、」
「うん?嬉しいよ、周太と一緒なら俺は楽しいから、」

さらり綺麗な低い声が答えてくれる。
答える顔も幸せに笑って、本当に楽しそうに見つめてくれる。

…きっと、この答えも笑顔もね、してくれるって解ってたよね…

解かっているから、訊いてみたかった?
そんなワガママな気持にすこし困りながら、けれど嬉しくて周太は微笑んだ。

「ん、良かった…俺もね、英二といっしょならたのしいよ?」

また言葉の終わりが、変になってしまう。
つい気恥ずかしさに言葉もひっくり返る、こんな赤面症で照れやすいのは余計に恥ずかしい。
すこし困って俯きかけたとき、そっと掌を繋がれて道の端へと曳かれた。

「周太、」

綺麗な笑顔で名前を呼んで、見上げた顔へ白皙がアップになる。
ふわり唇キスふれて、ほろ苦く甘い温もりにが一瞬を重なった。

「周太のキスは、甘いね?」

綺麗な低い声が笑って、楽しそうに切長い目が覗きこんでくれる。
けれどきっと、もう額まで自分は真赤になっているだろう?
こんな道の端で恥ずかしい困ってしまう、周太は口を開いた。

「こ、こんなとこでだめでしょ?ちゃんとがまんしてください、」
「ダメだよ、周太。えっちで変態だから俺、我慢なんて無理だよね?」

楽しげに笑って、繋いだ掌を曳いてくれる。
手を繋いでくれるのは嬉しい、けれどスーツ姿だとさすがに恥ずかしい?
それに、さっき言ったばかりの言葉を逆手に取られて、なんて答えていいのかも解からない。
それでも言い返したくて、周太は思うままを言ってみた。

「我慢するときは、ちゃんとして?あいしてるならいうこときいて、命令聴けないの?」

切長い目がすこし大きくなって、こちらを見てくれる。
そして綺麗な笑顔が幸せほころんで、嬉しそうに英二は応えてくれた。

「愛してるから、言うこと聴くよ?でも周太も言った通り、えっちで変態だからさ。暴走したらごめんな?」
「めいれいきいてくれないなら、しらない、」

だって「恋の奴隷」って言ったのは、英二なのに?
そんなワガママな想いに素っ気なく言って、周太は繋いだ手を離すと知らんふりした。
そのまま書店の入口を潜ってエスカレーターに乗る、その後ろにきちんと英二は着いて来てくれる。

「周太、怒らないで?機嫌なおしてよ、」
「嫌、言うこと訊いてくれないなら、しらない、」
「ごめんね?でも俺、ほんとに暴走するからさ、出来ない約束は難しいよ?」

ほら、こんなことまで正直に言ったりして?
こういう所が可愛いなんて、つい想ってしまうのに。
それも解かって言っているのかな?やっぱり英二はモテるだけあって、こんなところも巧いのかな?
そんなこと考えながら、午前中にも来たばかりのコーナーへと周太は立った。

…確か、もう1冊あったと思うのだけど…あった、

すぐ見つけて、嬉しい気持ちで手に取ると、そのままレジに向かう。
その後ろから紙袋を提げた長身が着いて来てくれる、そんな様子がなんだか本当に家来か何かみたいで面映ゆい。
並んだレジで後ろを振り仰ぐと、端正な笑顔が嬉しそうに笑いかけてくれた。
その笑顔が綺麗で魅力的で、周太は首を傾げこんだ。

…王子さまみたいなのに…どうしてこんなに、俺が良いのかな?

このことは生涯の謎かもしれない?
そんなことを思ううちレジの順番が来て、周太は本を差し出しながら店員にお願いした。

「あの、プレゼント用に包んでもらえますか?」
「はい、少々お待ちください、」

愛想よく笑って店員は、すぐ後ろの担当へと渡してくれる。
そして会計を済ませる間にラッピングが終わって、綺麗な包装の本を渡してくれた。

「ありがとうございます、」

お礼と微笑んで会計を出ると、首傾げながら英二が着いてくる。
それに振向くと周太は、今、受けとったばかりの本を差し出した。

「はい、英二、」
「周太?これ、俺にくれるの?」

嬉しそうに微笑んで受け取ってくれる。
こんな笑顔が嬉しくて、けれど少し驚いた様子なのが不思議で周太は訊いてみた。

「ん、英二のだよ。さっき、どうして意外そうな顔したの?」
「だってさ、ラッピングしてもらっただろ?だから美代さんにあげるのかな、って思って、」

そういう解釈もあるのかな?
確かに美代も好きそうな本だから、半分くらい納得して周太は微笑んだ。

「さっき、この本を欲しいって言っていたの、英二でしょう?だからプレゼントしたかったんだ…服、たくさん買ってくれたし、」

この本なら山のことだから、この先も英二は読んでくれるかもしれない。
幾度も読んでいく度に、いつも贈った周太のことを想い出してくれたら良いな?
そんな期待に贈った本を、英二は嬉しそうに鞄へと仕舞ってくれた。

「ありがとう、周太。この本、宝物にするな?ずっと大事に読むよ、周太からのプレゼントだから、」

ほら、想ったとおりに言ってくれる。
こんなふうに言われてしまうと、それだけで嬉しくて。




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第52話 露花act.3―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-10 23:25:51 | 陽はまた昇るanother,side story
空ふる雫よ、どうか教えて



第52話 露花act.3―another,side story「陽はまた昇る」

「先生、本のページをわざと抜きとるのは、どういう気持ちだと思いますか?」

周太の問いかけに、足音が2つ重なって歩いていく。
足音が廊下に響く向こう、放課後の喧騒が聞えてくる。
どこか遠いざわめきと灰色の空映る窓を背景に、吉村医師は穏やかに微笑んだ。

「本のページをわざと抜きとる、それはどういった事例ですか?」
「英二が事例研究の授業で話してくれました、青梅署管轄の扼殺事件です。先生が検案を担当されたと伺いました、」

率直に尋ねて周太は医師へと笑いかけた。
受けとめる切長い目も静かに笑んで、落着いた声が答えてくれた。

「はい、私が担当しました。あの本について、私は医師の立場でしか見解を申し上げられませんが、それでも宜しいですか?」
「もちろんです、先生のお考えを聴かせてください、」

話してくれるだろうか?
そう見た先で吉村医師は記憶をたどるよう目を細め、まず遺体の検分を述べた。

「人間は脳への血流が止まると3秒以内に意識がなくなります、これが自死で成功した場合に定型的縊死と呼ばれる状態になります。
この定型的縊死では、頸の4本の動脈が一瞬で絞められる事で脳への血流が即時停止され、意識もすぐに消えて表情も安らかです。
ですが扼殺の場合は、睡眠薬などで意識を失っているケースで無ければ被害者が抵抗するために、この動脈を絞める圧力がずれます。
このために意識が一瞬では消えず、苦悶の表情が残ります。けれど、あのご遺体はとても安らかなお顔で、抵抗の痕跡が無かったのです」

このことは英二が事例研究の時に話してくれた。
あのときの記憶と一緒に頷いた周太に、吉村医師はすこし微笑んで続けてくれた。

「まるで定型的縊死に見える扼殺遺体、このケースと似ているのは自殺幇助のご遺体です。ご本人が死を望むから当然抵抗もしない、
だから自死のように見えるのです。こうした状態だと行政見分では自死と判定されることも多いのです、遺書も自殺だと書きますから」

ほっと息を吐いて医師は周太に微笑んでくれる、その笑顔は温かで眼差しが深く優しい。
この眼差しは多くの生と死を見つめてきたのだろうな、そんな想いの真中で吉村医師は口を開いた。

「あの本は『春琴抄』という恋愛小説でした。男性が女性に尽くして、最期は自分の視力まで捧げてしまう。そんなストーリーです。
ページの抜き方は丁寧でね、本の中身と表紙を取り付けてある喉布から、背に糊付けされている『のど』を綺麗に切り外してありました。
残されたページは冒頭とラストの部分だけ、これが本の状態でした。そして死因は頸部を絞める扼殺です、それも自死と間違うような、」

喉首を絞め上げる扼殺と「のど」を落とされた小説。
この言葉の連想に周太の鼓動が一拍、心を敲いて余韻を残す。
この連想から医師は何を推測したのだろう?想いと見つめる先で吉村医師は寂しげに微笑んだ。

「不思議でしょう?『のど』を切り落とされた本と、自死のように扼殺されたご遺体。喉と首、これでは符号のようですよね?
ですから私には、ご本人が殺されることを望んだと想えてしまいました。加害者が自殺幇助をするよう仕向けたのではないかとね、」

『加害者に自殺幇助をするよう仕向けた』

ごとん、心に何かが墜ちた。
墜ちた衝撃に、2つの言葉が記憶から目を覚ます。

“あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった”
“あの本ってページがごっそり抜けていただろ?…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした”

秋に聴いた、14年前の事件への証言。父を殺害したラーメン屋の主人が語った、父が撃たれる瞬間の光景。
そして先月に聴いたばかりの、「ページが欠けた本」に対する藤岡の見解。
この2つが指し示していること、そして吉村医師の見解。

この3つが示すことは何だろう?
書斎に遺された『Le Fantome de l'Opera』の欠落、そこに示される父の想いは、何?

父は、なぜ、撃たれた?



曇空の駐車場では光一と英二が先に待っていた。
あわい陽射しのなかミニパトカーに凭れた長身は、同じような背格好で長い影を落としている。
黒髪とダークブラウン、雪白と白皙の肌、それぞれに端正な顔立をした個性の異なる好一対。
ふたり楽しげに話している横顔は寛いでいる、そんな様子が嬉しくて周太は微笑んだ。

…良かった、仲直り出来たんだね、

ふたりとも直情的な面がある、そのままに思うことを言い合えたのだろう。
これで大丈夫だろうな?そう安堵すると同時に「遠い」と想う心が透けていく。
この遠さは今、抱いてしまった父の想いへの推測。この傷みが2人からの距離を生んでしまう。
そんな想い見つめて歩み寄っていく先、底抜けに明るい目が笑って、光一は吉村医師に提案してくれた。

「先生、5分待って頂けますか?周太とも少し話したいんですけどね、」
「はい、どうぞ?私も宮田くんと話したいですし、」

気さくに頷いて吉村医師は、英二に笑いかけてくれる。
ふたり話し始めたところを背にすると、光一は周太の許に来てくれた。

「周太、あの木蔭のトコ行こう?」

誘われるまま少し離れた植込の翳に立つと、梢の向こうは雲が張り出していく。
風は湿り気を含んで冷ややかに吹く、やはり今夜も雨が降るのだろうか?
そう見上げた隣から、透明なテノールが微笑んだ。

「あいつにファイルのこと謝れたよ、それから、あいつを泣かせてきた、」
「ん、ちゃんと話せたなら良かったね…英二を泣かせたの?」

光一が英二を泣かせた、その意味に周太は首を傾げた。
どういう理由で泣いたのかな?そう見つめた周太に細い目は温かに笑んだ。

「ちょっと涙が溜まっちゃってるんだよね、あいつ。理由は、周太も解かってるだろ?」
「ん…」

頷いて周太はちいさく微笑んだ。
やっぱり光一には英二の今が解かるだろう、だからこそ光一に傍にいてほしいと願っている。
どうか今日の様に英二の涙を受けとめていてほしい、この願いに見上げた先で光一は訊いてくれた。

「周太、君は怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?…あいつと離れることになるよね、嫌じゃないの?」

例の部署、離れること、怖い

この単語を並べられたら、もう確信してしまう。そして「遠い」とまた心が呟いてしまう。
けれど想いを瞳深くに沈めこみ微笑んで、周太は正直に答えた。

「ん、ほんとは怖いし、嫌だよ?でも決めたんだ、逃げていたら終わらないから、」

逃げても何も終わらない。
それは父への贖罪、あの日の自分への後悔、それから春の夜に見た父の冷たいデスマスクと手錠の感触。
あの瞬間たちは今も心の映像になって、ともすれば廻りだす。このリンクは目を逸らせても終わらない。

「だね、終わらない。君の言う通りだよね、周太、」

透明な目が周太を見つめて、ゆっくり頷くよう瞬いた。
哀しげで、けれど勁い眼差しが山っ子の目をきらめかす。ほら、そんな目をするなら解ってしまうのに?
もう知っているのだと、自分より先に「父の真実」を光一は気づいたのだと解ってしまう。
そして想う、どれだけ自分はこの美しい幼馴染の心を、哀しませてきたのだろう?
きっと光一は気づかれないよう周太を護って、ずっと英二を支えて来てくれた。

…光一?いつも、知らないうちに支えてくれるね?俺のこと、護ってくれてるね

再会の約束を信じて14年の時を待ち続けてくれた光一。
その間も周太の無事を祈ってくれていた、そして再会した今は気付けば護られている。
この、大らかに優しく強い幼馴染にどうやって報いたら良い?どうしたら少しでも幸せに出来る?
この願いに微笑んで、周太は大好きな初恋相手に笑いかけた。

「でもね、光一?俺は頑固でワガママだからね、決めたことは必ず終わらせるんだ、だから心配しないで?」
「…周太?」

名前呼んで、透明な目がゆらぐ。
光一には周太の「変化」を読み取られただろうか?
この今に起きていく「変化」を悟られた、そんな雰囲気が透明な目に見える。けれど明るく笑って周太は促した。

「光一、先生が待ってるよ?今度は7月のお盆の時に、家に来てくれるんだよね?」

言葉に透明な目がひとつ瞬いて、温かに笑んでくれる。
そして透明なテノールが優しいトーンで言ってくれた。

「うん、行かせて貰うよ。おふくろさんに、よろしく伝えてね、」
「ん、伝えておくね?…日曜は少し、会えるよね?」
「だね、夕方には戻んなきゃないけどさ、周太の顔を見てから帰りたいね、」

話しながらミニパトカーの方へ一緒に歩いていく。
隣から笑ってくれる笑顔は無垢のまま明るくて、子供の頃と変わらずに温かい。
けれど、あの頃と今とでは、なんて笑顔の距離が遠く感ずるのだろう?

…でも、後悔しない。お父さんの真実を知ってどうなっても、後悔なんてしない

きっと、父の死の真実を、自分は知りかけている。
この真実が今、隣歩く人との距離を隔て始めていく、そして歩く先に待つ人の笑顔とも。

「周太、」

綺麗な低い声が名前を呼んで、笑いかけてくれる。
笑いかける綺麗な笑顔は変わらずに美しくて、けれど遠い。
たった今、気付き始めた1つの真実が、ほら、こんなにも大きな距離になっていく。

「吉村先生、また、」
「はい、おふたりとも体に気を付けて。またコーヒー淹れてくださいね?」
「コーヒー、俺にもよろしくね?じゃ、またね、」

ほら、3人の会話は目の前のこと。
それなのに遠い世界のよう聴こえてしまう、それでも自分は微笑んでいる。
ほら微笑んで見送って、手を振って、いつもの通りに振る舞えている。
こんなふうに今も、体と心の水面は凪いでいる。

「周太、部屋に戻ってから、トレーニングルーム行く?」

綺麗な笑顔で笑いかけて、この後も一緒にいようと提案してくれる。
こんなふう言ってくれるのは嬉しい、けれど周太は婚約者に小さな嘘を吐いた。

「ん、行く。でも俺、忘れ物しちゃったんだ。すぐ追いかけるから、先に行っていて?」
「じゃあ俺も一緒に行くよ、周太」

やっぱり英二は、一緒に来ようとしてくれる。
きっとそうだと想っていた、それでも周太は小さく首を振って微笑んだ。

「図書室で調べものしたいんだ、1人で集中すると早く終わるから、先にトレーニングに行ってて?ランニングマシーン使いたいな?」

おねだりをしたら、きっと英二は断れない。
そう見上げて笑いかけた先で婚約者は、優しい笑顔で頷いてくれた。

「解かった、先に走ってるな?鞄、持って帰っておくよ。その方が図書室で身軽だろ?」
「ん、ありがとう…じゃあ、」

素直に鞄を渡して笑い合って別れると、周太は図書室の方へと歩き始めた。
廊下の角を曲がりしな振向くと、ひろやかな背中が逆方向へと曲がり消えていく。

…ごめんね、英二。うそついて…

そっと微笑んで、周太は屋上への階段を昇り始めた。
ゆっくり昇って行く階段は、薄い陽射しが窓から天使の梯子をかけている。
晴れていたら明るい筈の空間は今、すこし薄暗いのはガラズ窓透かす曇天の所為だろう。
静かに昇り終えた頂上で扉を押し開く、ふっと湿った風が頬撫でて、額かかる髪を吹き払った。

「…ん、雨の匂いがするね?」

ひとりごと微笑んで出た屋上は、誰もいない。
ただモノトーンの空がひろやかに腕を広げるよう、そこに周太を迎えてくれる。
歩いていく革靴のソールがコンクリート響く音も、吹きぬけていく風に攫われて、喧噪も遠い。

ほら、世界はもう、どこか自分と隔てるよう遠い。
ついさっき気がつき始めた真実が、もう、自分を孤独へと惹きこみ始めた。

いつか、こんな瞬間が訪れることを、ずっと覚悟していた。
だから、この瞬間の傷を減らすために、誰も近づけないように孤独の壁を作った13年だった。
誰かの隣の温もりを知ったなら、本当に孤独になった瞬間が尚更辛いから、そして隣の誰かも苦しめるから。
だから孤独の壁を作ったのに、それなのに自分は孤独を崩して英二も、光一までも、隣に置いてしまった。
そして、やっぱり今、ふたりを苦しめ始めている。

「…ごめんね、」

言葉と一緒に、涙、ひとつ零れ落ちる。
コンクリートに雫こぼれて、涙の跡が記される。
歩くごと涙こぼれてコンクリートに墜ちて、涙の軌跡が屋上へと描かれていく。
そうして涙の軌跡の涯に隠れた場所へと辿り着いて、鉄柵に腕組むと凭れこんだ。

「…ごめんね…えいじ、…こういち、」

呼んだ名前に涙がこぼれてしまう。
滲んでいく視界はグレーの雲が、ゆっくり流れて形を変えていく。
止まらない雲の流れ、それと一緒に透明なテノールが、ゆっくりとリフレインする。

―…ちょっと涙が溜まっちゃってるんだよね、あいつ。理由は、周太も解かってるだろ?
  君は怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?あいつと離れることになる

本当は怖い、死ぬかもしれないから。
この死は肉体的なものだけでも怖い、それ以上に精神的な死が本当は怖い。
たった今、気がついてしまったかもしれない「父の死の真実」が、自分自身の現実になる可能性が怖い。
そして、この可能性をきっと英二も光一も知っている、だから英二は「涙が溜まっている」程に哀しんでいる。

この「知っている」可能性は、英二の事例研究での態度から解ってしまう。
英二は扼殺事件の物証『春琴抄』のことを「ページが抜け落ちた」本であるとは言わなかった。
その理由は『Le Fantome de l'Opera』の「ページが抜け落ちた」理由を周太が知ることを怖がっているから。
父の死と『Le Fantome de l'Opera』の落丁は関わりがあるから、だから怖がって周太に言わない。
そして別離の恐怖に怯えて、今、英二は周太との心中を望む瞬間がある。

…英二は涙が溜まっちゃってるって、言ったね、光一?…聴いたんだね、英二が俺を殺そうとしたことも

そんなにも英二が怯え、哀しみに沈む理由がもう今なら解る。
どうして英二が「別離」を、周太の異動を恐れているのか解ってしまう。
もう英二は「父は、なぜ、撃たれた?」のかを知っている、だから周太も同じに結末を迎える可能性を恐れて、泣いている。

『怖くないの?このまま進んだら例の部署に行くんだろ?あいつと離れることになる』

光一が言った「離れる」は可能性の1つの道だと今は解る。
父は強く優しい男だった、それでも「撃たれた」という結果がある、そして家族と離れていった。
あの父ですら「離れる」道を選んでしまった、だから弱虫の自分がその選択をしない自信なんて無い。

…きっと英二も光一も、前から知ってるね?…お父さんが「撃たれた」理由と、意味を

ふたりはいつから、知っているのだろう?どうやって知ったのだろう?
なぜ息子の自分でも辿り着いていない「父が撃たれた」その真実を先に知ったのだろう?
あの紺青色のページが欠けた本だけで、ふたりは先に真実に辿り着いたと言うのだろうか?

“あの警察官はね、本当は俺を先に撃てたんです、けれど撃たなかった…怯えていた俺は、そのまま撃ってしまった”
“あの本ってページがごっそり抜けていただろ?…脱け出したくて切り落としたのか”
“ご本人が殺されることを望んだと想えてしまいました。加害者が自殺幇助をするよう仕向けたのではないかと”

加害者は言った「父は撃たなかった、けれど撃ってしまった」と。
警察官は言った「ページを抜いたのは、ページに記された世界から脱出したくて切り落としたのだ」と。
警察医は言った「本人は死を望み、加害者が自殺幇助するよう仕向けた」と。

この3つの証言から、父の死の真実は、どんな答えが導き出せる?

「…お、とうさん…っ、」

愛する者の名がこぼれだす、涙あふれおちる。
その涙にひとつぶ天から雫が降って、雨音がグレーの雲から降り注いだ。

「おとうさんっ、どうし、て…っ、…自殺な、んて…したのっ!」


父の死は、自殺。


父の死は「殉職」という名の自殺だった。
犯人に狙撃され死ぬことを選んだ、不作為の自殺幇助による自死だった。

それが3つの証言から導かれる答え。
威嚇発砲もせず狙撃を避けなかった事実、ページが切り取られた本の遺品、そして自殺幇助の見解。
この2つの事実と1つの見解が、「殉職」に秘められた父の真実と想いを示して、心に刺さる。

「どうしてっ…しんじゃったの…ぉ!…っ、なんでしななくちゃいけなかったの?…っ」

雨音に、叫ぶ声が呑まれていく。
髪を肩を打つ雨に頬の涙も融けこんで、周太は泣いた。

「ど、して…おとうさんっ…避けなかったの?…どうして撃たなかったの、いかく、はっぽうだけでも…うってたら、」

たった一発の銃弾だった、それを威嚇でも撃っていたなら、きっと父は死ななかった。
たった一発の銃弾だったのに父は撃たれた、避けることもせずに、ただ被弾して死んだ。
どうして父は撃たずに、ただ撃たれて死んでしまったのだろう?

「どうして?…どうして、本のページを切ったの?ね…っ、ぅ…あの本になんの意味があるの?なぜ捨てなかったの?」

紺青色の『Le Fantome de l'Opera』の欠けたページに記されるのは『Fantome』が暗躍する姿。
もしも「ページに記された世界から脱出したくて切り落とした」のだとしたら、父が抜け出したい世界は『Fantome』のこと。
オペラ座に棲む『Fantome』の世界から脱出する、その意味は何なのだろう?
なぜ父は本を手離すのではなく、ページを切り取っても手許に置いたのだろう?

あの本と同じように「ページが欠けた本」を持って死んだ女性は「加害者が自殺幇助するよう仕向けた」と言う。
それなら父も「本人は死を望み、加害者が自殺幇助するよう仕向けた」のだろうか?

「おとうさんっ、おれたちのことおいていっちゃったの?…ねえ、そ、うなの?…どうしてっ、」

どうして父は、自分と母を置いて、逝ってしまったのだろう?

いつも家での父は穏やかに微笑んで、幸せで自分を包んでくれた。
いつも母を見つめる父は綺麗な笑顔で、嬉しそうに母の笑顔を見つめていた。
だから信じられる、父は家族を愛していたのだと、幸せな家だと想っていたと信じられる。

それなのに、なぜ、父は死んだのだろう?

「おとうさんっ、どうして!…どうして俺を、おかあさんを、選んでくれなかったのっ、どうして死ぬことを選んだの?…ぉ、っ」

叫ぶ声が、ふる雨を遡るようモノトーンの空へ吸いこまれる。
どうして?ただ父への疑問が心から叫びあげて、声になって、昏い雨雲へと呑まれていく。

「答えて!おとうさんっ、おとうさんっ…俺のこと、愛してるなら答えてよっ…さいごになまえよんだ、っ…んなら…っ、」

父の最期の言葉は「周太」だった。
だから信じられる、父は最期の一瞬まで自分を愛してくれていた、想ってくれていた。
それなのに、なぜ、父は死を選んでしまったのだろう?なぜ父は愛している者との永遠の別離を選んだ?

愛する者との幸せを選ばずに、父が選んだものは何なのだろう?

「おとうさんっ、おとうさんが死んだ理由は、なんなのっ…俺とお母さんより選んだ、りゆうを教えてよ…答えてよっ…」

この声をどうしたら、父に届けられるのだろう?
この想いをどうしたら父に、解ってもらえるの?

「…ぅっ、と、うさ、ん…ぅあ…あああああっ、」

嗚咽が慟哭になって喉を突き上げる。
ただ泣き叫ぶ声だけになって、屋上から仰ぐモノトーンの空から雨が顔にふる。
ふる雫は瞳から涙を拭って頬伝い、顎から首から滴りおちてコンクリートを打ちつける。
もう、コンクリート流れる雨に涙の軌跡も消されてしまった、慟哭の聲も雨に抱きとめられて誰にも聴こえない。

「…あああっ…ぅあっ…ぅっ…あああああっ……」

泣いて、泣いて、雨に打たれて体ごと冷えていく。
冷たい雨に打たれる心には、涙の熱と一緒に冷静な思考が廻りだす。
そして気づいても蓋をしていた事実が、ゆっくりと目を覚まして自分を見つめだす。
父が死を選んだ理由、父が「世界から脱出したくて切り落とした」その世界は、どんな真実なのか?

「…お、とうさん?狙撃手だったんでしょ…人を、殺したんだよね?…そう、でしょ…」

ずっと考えていた父の真実が、声になる。

父が警察組織で何をしていたのか?
その答えになる可能性を幾つか調べてきた、父の適性を考えながら。
その最有力候補になる部署へと配属を望んで、自分も努力を積み重ねてきた。

特殊急襲部隊 “Special Assault Team” 通称SAT

そこには狙撃班というチームがある。
そこに父は所属していただろう、だって父は射撃のオリンピック選手だった。
日本一の射撃の名手が警察に所属したのなら、狙撃手に指名されない筈がない。

けれど父が「狙撃」=「殺人」を犯したのかは、未確認だった。
たとえ狙撃班に所属していても、当番に当らなければ狙撃の任務には就かない。
そして現実には狙撃をする機会など多くは無いから、在任中に狙撃を行うとは限らない。

でも、父は自殺した。
だから解ってしまう、きっと父は「狙撃」を、人を殺してしまった。

父は情熱を穏やかな空気で包んだような人、正義感が強くて、そして優しさも大きい。
いつも目の前の人の幸せを祈る、そんな父だった、その想いと誇りに警察官としても生きていた。
そういう父だからこそ、自分を撃った犯人さえも救われてほしいと、最期の望みに託して死んだ。

そんな父が、任務であっても人を殺すことを、耐えられただろうか?

…耐えられるわけがない、だから死んだんだ、お父さんは…

SAT狙撃手は合法的殺人を任務とする。
それは裁かれることのない殺人罪を犯すと言うこと。
この「裁かれない罪」を、正義感の強い父が自身に赦すことなど出来る訳が無い。

「…おとうさん…自分のこと、自分で、死刑にした…そうでしょ?じぶんで、じぶんを、裁いたんでしょ…」

だから父は、自分と母を置いて、逝ってしまった。
だから想ってしまう、自分の育てられた意味と父の想いを考えてしまう。
もし父の行いが、任務が罪だったというのなら?この定義への2つの疑問が湧きあがる。

父の罪を糧に育てられた自分は、罪にならないのか?
死を以て裁くほど任務を忌んだ父、なのに何故、父はSATに所属していたのだろう?

この2つの疑問に、自分は孤独になっていく。
もし自分が罪に育てられたというのなら、あの美しい人の婚約者でいられるの?
いつも命の救助に駆けていく人には罪など似合わない、それなのに自分が婚約者でいいの?
もし父が望まぬ任務に就かされていたのなら、その理由を知ることは危険に過ぎる。だから自分以外に背負わせられない。
だから想う、あの美しい人に自分を背負わすことを、自分は肯うことが出来るというの?

…やっぱり、お父さんを知ることは孤独になる道、かもしれない…

それでも止めることは出来ない、父の真実を知りたい。
死で贖うほど嫌った任務に父を唯ひとり、孤独に死なせてしまった。それは息子の自分にとって罪だから。
だから自分の罪を償うために、父の孤独を抱きとめるために、父の真実を知りたい。

「なぜ?…なぜ、おとうさんは嫌なのに、そこにいたの…どうして?」

『Le Fantome de l'Opera』

欠けたページに記されるのは『Fantome』が暗躍する姿。
ページに記された世界から脱出したくて切り落としたのなら、父が抜け出したい世界は『Fantome』のこと。
そして父が自らの死によって脱け出した世界は“Special Assault Team”、合法殺人の狙撃手であること。

それなら『Fantome』の意味は、狙撃手?
それとも、もっと深い意味が隠されているのだろうか?

「…ね、おとうさん…『Fantome』って、なに…?」

疑問こぼれ落ちる、その唇が凍え始めている。
雨うたれる肩も腕も、冷えて雫の感触が消え始めていく。
背すじを伝う雫が冷たい、もう鉄柵を掴んだ掌も冷えて、頬ふれる髪も冷たく重い。

寒い、

腕が脚が震えて、ゆっくりと体が鉄柵から滑り落ちていく。
ずるり、背中を掴まれるよう沈んでいく体が、コンクリートへと崩れてしまう。
ふる雨に滑る鉄柵を掴んだままに掌も降りていく、掌に凭れるよう体は沈んで視界が霞んでいく。

…これって、低体温症、かな…

英二の贈ってくれた救急法のファイルが、懐かしい。
あのページに記されていた「低体温症」は、コアの体温が35度以下になると発症すると書いてあった。
これが32度になれば中枢神経の抑制が発症し、判断力の低下と意識障害、そして震えが止まる。
それから、コアが28度を下回ればもう、意識が消える。

…まだ、ふるえてるから…32度よりはあるね?

まだ動けるはず、けれど体はコンクリートの水たまりへと横倒れに崩れていく。
冷たい水のなかへ掌が墜ちて、飛沫と水音が頬ふれて零れて墜ちる。
そして倒れこんだままの全身に、空ふる雫が降りそそいだ。

「…おとうさん、」

微かな声に呼んで、小さく周太は微笑んだ。







(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.8 驟雨―side story「陽はまた昇る」

2012-08-10 04:35:07 | 陽はまた昇るside story
本音を言ったら、



one scene 某日、学校にてact.8 驟雨―side story「陽はまた昇る」

雨後の空気は、水の香が懐かしい。

清澄な風とゆれる街路樹は、梢に陽射しが翻る。
水たまり避けて歩いていく道、並んで歩く隣の髪にも陽光きらめいていく。
ふわり風に髪払われて聡明な額が露になる、眩しそうに睫伏せる翳が綺麗で。
こんなふうに「きれいだ」と並んで歩いた1年前は、切なかった。

きれいだと、隣を想う。
そのたびに触れられない切なさが痛くて、哀しくて。
あの瞬間の傷みを知っている、だから尚更に今も瞬間が愛しい。
この愛しさに微笑んで、英二は隣を歩く人に笑いかけた。

「周太、ちょっと寄り道していい?」
「ん、いいよ?」

黒目がちの瞳が見上げて笑ってくれる。
この笑顔をずっと見ていたい、そしてもっと笑ってほしい。
あのときと変わらない「笑顔を見たい」この願いに笑って英二は、いつもの店の扉を開いた。

「こんにちは、お久しぶりですね、」

馴染みの店員が迎えてくれる。
ラーメン屋でも久しぶりだと言われたけれど、確かに新宿を歩くことは暫くなかった。
このところ忙しかった時間を想いながら英二は微笑んだ。

「こんにちは、夏服もう入ってますよね、」
「はい。ごゆっくり、ご覧くださいね、」

笑顔で彼女はカウンターで服を畳みながら見送ってくれた。
いつも英二は自分で服を選ぶから、そのことを彼女は知って構わないでいてくれる。
これが英二としては嬉しい、彼女に感謝しながら英二は2階へと上がった。
明るいコーナーを見まわすと涼しげな服が並んでいる、その中から何点か目に着いたものを手早く英二は選んだ。

「ほら、周太。これどうかな?着てみて、」

試着室の壁に服を掛けながら振向くと、困ったよう黒目がちの瞳が見つめてくれる。
どうしたのかなと笑いかけた英二に、遠慮がちに周太は口を開いた。

「あの、英二、それ着てみるけど…でも、今日は俺、自分で買うね?」

よく英二は周太の服を買う、こんな服を着てほしいと思うから。
そのことを周太は申し訳ない様に思ってくれるけれど、何も遠慮してほしくない。
だから今も正直に英二は婚約者へ笑いかけた。

「ダメだよ、周太。周太の服は俺がプレゼントしたいんだ、言うこと聴いて?」
「…でも、いつも悪いから…」

困ったよう言って見つめてくれる貌が可愛い。
こんな貌するから余計に服を買いたくなる、笑って英二はすこし屈んで恋人を覗きこんだ。

「俺が選んで贈ったものを着て欲しいんだ。そうしたら周太、いつも俺のこと忘れられないだろ?そうやって独り占めしたいだけ」

独り占めしたい、これが本音。
だから言うこと聴いてほしいな?そう見つめた周太の頬がゆるやかに赤くなっていく。
あと一押しで言うこと聴いてくれるかな、英二はすこし悪戯な気持と一緒に笑いかけた。

「それに自分で贈った服を脱がすのって、俺、嬉しいんだけど?」

言葉に、さっと周太は額まで真赤になった。
この赤くなる所が可愛くて好きで、つい恥ずかしがらせたくなる。
嬉しくて見つめていると周太は少し唇噛んで、すぐ口を開くと素っ気ない言葉を英二に投げつけた。

「っ、えいじのばかえっちへんたいっどうしてすぐそういうこというの?」
「えっちで変態だからだろ?周太限定でね、」

即答して笑いかけると、黒目がちの瞳が大きくなった。
困ったよう眉がしかめられて、大きくなった瞳が睨むよう見上げてくる。
けれど、くるり踵返すと周太は試着室に入って、ざっと勢いよくカーテンを引いてしまった。

―怒らせちゃったかな?

やりすぎたかな?そんな反省と一緒に英二はソファに腰掛けた。
いま引かれたカーテン一枚に隔てられている、こういうシーンをどこかで読んだ?
そんな考え廻らして、記憶の抽斗から出た答えに英二は微笑んだ。

「…そっか、『天の岩戸』だな?」

太陽の女神が怒って洞窟に隠れてしまう、そんなシーンの話。
あのとき残された者たちは困って、女神が出てくるよう宴会をして気を惹いた。
太陽が現われなければ、万物は枯れてしまうから。そんなストーリーに想い重ねて英二は微笑んだ。

―俺にとったら、太陽の女神は周太だな?

周太が笑ってくれないと哀しい。
周太がいないと心が空っぽになって、虚しさが心覆ってしまう。
周太に出逢う前の自分は「生きている」ことにすら迷っていた、けれど今は夢までも抱いている。
そんな自分にとって「周太」は歓びで、自分の全てで、想うだけで明るく温かい。
こんな自分はもう「周太無し」だと枯れてしまう、太陽を浴びない花の様に。

だから失うことが怖くて。
周太にとっても自分を必要な存在にしたくて、すこしも自分を忘れてほしくない。
だから今も服を買いたい、着ているとき想い出してくれるように、そのたび「好き」だと想ってほしくて。
そして今みたいに困らせたくなる、構ってほしくて見つめてほしくて。

周太は今、怒ってる?
それとも困ってるだけかな、また俺に困らされてる?
俺に怒って困って、けれど俺が選んだ服に着替えながら、俺のことばかり考えてくれている?

こんなふう自分のことで頭を廻らせていて欲しい、他の誰かを考える暇がないくらいに。
そんな想いと見つめて待っているカーテンの向こう側、静かに気配が動いている。
そろそろ着替え終るかな?そんな期待と見つめたカーテンがゆっくり開いてくれた。

「…着たけど、」

ぼそっと言った顔が、恥ずかしげに頬赤い。
あわいブルーの半袖パーカーに明るいカーキのカーゴパンツ、その裾がすこし長い。
やっぱり着替えてくれたのが嬉しい、嬉しくて笑いかけながら英二は恋人の足元に膝まづいた。

「ちょっと裾、短めに折ると可愛いよ?」

言いながら足首が出るまで裾を折り上げる。
この辺と思うところへ折ると、立ち上がって眺めた。そのストレートな感想が勝手に口から微笑んだ。

「…かわいい、」

パンツの裾から出ている足首が、なんだかすごく可愛いんですけど?

こういう「裾が短い」格好は考えたら初めて見る、周太は足が綺麗だから出てると可愛いんだ?
今まで気付かなかった、つい見惚れてしまう、こんな予想外かなり嬉しいどうしよう?
やっぱり短パン買うべき?膝小僧とか可愛いだろな、でもそれだと露骨すぎる?
っていうか他のヤツに見せすぎるのも嫌だな、どうしよう?

「英二?どうしたの?」

声に我に返ると、黒目がちの瞳が不思議そうに見つめてくれる。
ほら、こんな貌も可愛いのに、こんな格好でされるとちょっと困りそう?
こんな自分に笑って英二は、クロップドパンツを選んで試着室に上がりこんだ。

「周太、こっちも履いてみて?」
「ん、…あの、英二?」

クロップドパンツを受けとりながら周太が首を傾げこんだ。
なんか問題があるのかな?そんなふう笑いかけて英二は一緒に首傾げてみせた。
そんな英二を見つめて周太は困ったよう訊いてくれた。

「どうして英二も試着室に入ってるの?」
「ダメ?」

ダメに決まってるんだけどね?
でも、もしかしたら目の前で着替えてくれるかな、なんて期待したんだけどね?
そんな内心と笑って英二は、素直に試着室から降りるとカーテンを閉めた。

―きっと周太、今、真赤だろうな?

いまの英二の行動に、きっと周太は困っている。
困らせる位は解かってやったことだし、困っている様子を見てみたかった。
本当はそのままカーテンの内側に居たい、こんな少しの時間すら離れていたくない、ずっと傍で見つめていたい。
こんな自分はワガママで駄々っ子みたいだ?けれど今は駄々っ子でも赦してほしい、だって今しかないかもしれない。
いつか離れる時間が訪れる、その向こう側に再び共に過ごせる時間があるとしても、別離の時間は怖い。
だから「今」一緒にいられる時間であるならば、少しでも一緒に過ごしていたい。

本当は「今」ちょっとの間も離れていたくない、少しでも多く君の時間を独り占めしたいから。
本当はずっと自分の体で君を抱きしめていたい、けれど出来ないから、代わりに自分が贈った服で君の素肌を包みたい。
そして許される時には服を脱がせて、自分の素肌で君を包んでしまいたい。

本当は自分の懐から君を出していたくない、誰の視線にすら触れさない、独り占めに体温を感じていたい。
こんなの酷いワガママ勝手で君の自由を奪うと知っている、それなのに閉じ込めて離したくない、それが本音。
これが今の本音、とてもワガママで自分勝手だけれど、本音だから仕方ない。
もしこの本音を言ったら君は、なんて答えてくれるだろう?

こんなワガママでも赦してくれる?





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one scene 或日、学校にてact.8 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-09 04:30:54 | 陽はまた昇るanother,side story
言ってもらえたから、今



one scene 或日、学校にてact.8 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

ふりそそぐ木洩陽、いつもより優しい。

ベンチの木蔭はいつものよう涼やかに風が吹く。
どこか今日はいつもより明るくて、すこし鼓動が速くて、けれど安らぎが穏やかにふれる。
こんなふうに「いつものように」がすこし特別なのは、隣に座っている人の所為だろう。

「周太、その本は何?」

綺麗な低い声に訊かれて周太は隣を見た。
その視界の真中に綺麗な笑顔が咲いている、この笑顔が嬉しくて周太は笑いかけた。

「これはね、山の植物について書いてあるんだ…標高や緯度、地質の差が影響するって…あと風向きとかも、」
「山の植物学、って感じなんだ?」

興味を持った、そんな貌で訊いてくれる。やっぱり山ヤの英二は「山」のことなら何でも興味があるだろう。
ふたり共通に興味を持てる本かもしれない?嬉しい期待に微笑んで周太は頷いた。

「ん、そう。『山の自然学』っていう題名なんだ…見て?穂高岳の写真も載ってるよ、」
「お、夏の穂高だな?涸沢カールだろ、これ、」
「そうなの?…あ、ほんとだ、ここに書いてあるよ?崖錐の出来方とかも、」

話しながら一緒にページを繰ってみる。
記されている内容は植生がメインだけれど、その現場になる山自体の成立ちもコンパクトにまとめられている。
思ったとおり、山の勉強も出来そうだな?そう思った隣から英二が楽しげに笑ってくれた。

「周太、これ良い本だな?俺も買おうかな、後でまた本屋に行っても良い?」

同じ本に興味を持って「買いたい」と言ってくれた。
こういう事は初めてだ、偶然に同じ本を読んでいたことはあるけれど「周太の本を見て買う」は今までにない。

…本のお揃いだね?

心つぶやいた言葉に、首筋へと熱が昇ってしまう。
こういうのは嬉しい、自分の好きだと思った本を見せて好きになってくれるのは、認めて貰えたと思える。
いつも本当は自信が無い自分だから、こういう「認めてくれる」は嬉しくなる、嬉しい想いに周太は頷いた。

「ん、本屋行こうね?でね…北岳のことも載ってるよ?」

北岳、この山についても書かれているのは買う時の決定にも大きい。
きっと英二も同じだろうな?そう見た先で切長い目が嬉しそうに華やいだ。

「お、北岳も載ってるんだ?」

ほら、『北岳』に興味を持ってくれた。

この山は「哲人」の異称を持つ本邦第2峰、高潔な山容が美しい。
この山の雰囲気はどこか英二に似て、英二自身も特別な山と思っている感じがする。
だから尚更、この本を読んでみたくなった。やっぱり好きな人の「特別」は知りたいから。
そして出来るなら行ってみたい、この願いを周太は大好きな婚約者へと素直にねだった。

「読んでいると、行ってみたくなるね。夏の花が咲くとき、行ってみたいな、」
「それなら周太、一緒に登りに行こう?夏の休暇とか、どこかで時間作るから、」

ほら、約束を言ってくれる。

英二の特別な山に行く約束が嬉しい。
出来るなら今夏に行きたい、今夏ならまだ自由だから。
この自由の時に出来るだけ幸せな約束を叶えたい、この願いに周太は笑いかけた。

「ほんと?…英二が連れて行ってくれるの?」
「うん、俺が連れて行くよ?光一と練習で登りに行くから、その後ならコースもちゃんと解かるしさ、」
「うれしいな…楽しみにしてるね、」

楽しみな気持と見つめた先、幸せな笑顔が綺麗に咲いてくれる。
その大好きな笑顔の向こうで、急に紗がひかれるよう色彩が変わった。

「…ん、雨?」

呟いて周太は梢の向こうを見た。
そして視界に白い紗をひくよう雨音が降り始めた。

…さああ、さあああっ、…

やわらかで絶え間ない水の音が、白く視界を染めていく。
白い雨音に包まれて木蔭が隠される、水ふるだけの静謐が優しくて周太は微笑んだ。

「…夕立だね?驟雨、っても言うけど…すぐに止むと思う、」

こんな景色を見たことがある。

ふりそそぐ雨けぶる公園の深い森。
あわい水煙に緑が滲んで、幻の世界に変わっていく。
空気も水を含んで涼やかな風が頬撫でる、雨と樹木の香を燻らさす。この温度も香も懐かしい。

…ん、懐かしい…初めての外泊日もこうだったね、

あのとき恋に墜ちた、そう英二は教えてくれた。
もし今の瞬間が、あの時に戻ったら英二は何て言ってくれるのだろう?
そんな想いに隣を見ると、端正な横顔は目を瞑っていた。

…また眠っちゃったのかな?

ここに座るとき、ときおり英二は瞳を閉じて眠りこむ。
とくに今は眠たいかもしれない、一昨日は夜間捜索で睡眠時間が短かった筈だから。
それでも昨夜は割と早く眠っただろうと思うな?考えながら周太は声をかけた。

「英二?…こんな所で寝たら、風邪ひくよ、」

声に、濃い睫がゆらいで瞳が披く。
真直ぐに澄んだ瞳は見つめ返してくれる、その深い色は一年前より美しい。
あのときと変わらない驟雨のベンチ、けれど前よりずっと幸せに英二は綺麗な笑顔ほころばせた。

「寝てないよ、」
「ん、よかった、」

…あ、これって同じだね?

ひとりごと心こぼれて周太は微笑んだ。
あのときも英二は眠っているよう見えて、自分は声をかけた。
なんだか時間が戻ったみたい?そんな想いにさっき感じた事がふれた時、綺麗な低い声が名前を呼んだ。

「周太、」
「ん?」

呼ばれて振向いた先、綺麗な笑顔が幸せに咲いてくれる。
この笑顔が見られると嬉しくなってしまう、嬉しくて微笑んだ周太を英二は抱き寄せてくれた。

「周太、君が好きだ。君に恋して愛してる、だから、俺のことだけ見つめて?…」

…これ、あのときの告白?

そんな想いごと唇が重ねられて、ほろ苦く甘い香が熱ふれる。
この今の瞬間は、あのとき叶わなかったキスと、叶わなかった告白?
あのときと今と重なって想いを伝えてくれる、交わしあう温もり抱きしめたまま、そっと唇を離す。
見つめられて気恥ずかしくて、ここが公園なことも恥ずかしくて首筋に熱が昇ってしまう。

…恥ずかしい、でも…うれしい、

気恥ずかしさに伏せた目を覗きこまれて、そっとキスふれてくれる。
このキスは告白の答えを求めてくれる?やわらかな温もり微笑んで、周太は婚約者に答えた。

「英二が好き…ずっと見ていたいよ?英二の笑顔は、俺の宝物だから、」

あのとき言ってもらえなかった大切な言葉へ、今、応えられた。






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第52話 露花act.2―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-08 22:48:52 | 陽はまた昇るanother,side story
ふる雨に色を変えても、花は



第52話 露花act.2―another,side story「陽はまた昇る」

ふっと襟元から香が昇って、心裡に顔が赤くなる。
深い森のような甘く深い苦みの香、この香の記憶と想いが熱を生む。
この香を生み出す肌の記憶が静かに目を覚ます、ほっとため息吐いて周太は微笑んだ。

…やっぱり香、残ってるね

暁宸、英二の肌に抱かれた。
夜明けの雨に濡れて服を脱いだ英二に、そのままベッドの時に惹きこまれて。
まだ眠りの時間にある寮の一室、ふたり肌を重ねて深い契に繋ぎ籠められた。
その悦びと熱が今も体の芯に燻って、どこか気怠い。

…今日、座学だけで良かった

もしも拳銃操法があったら、標的への集中にも疲れ切っただろう。
それは剣道でも逮捕術でも同じ、きっと辛かったに違いない。本当のことを言うと、朝の駆け足訓練も少し苦しかったから。
やっぱり朝に抱かれると体の負担が大きいかもしれない、そう解っているのに求められたら嬉しくて拒めなかった。

…ほんとうにきれいだった、英二…嫌なんて想えないし、言えないよね?

そんな正直な心の声に、首筋へと熱が昇りだす。
ほら、濡れたシャツ絡む肌が心にうかんでしまう、こんなの綺麗で困るのに?
どうしよう、また困った想像ヴィジョンが始まってしまう、何か別のことを考えて追い払わないと?

…だめです、今はだめ、これから授業なんだから…あっ、えいじいまはでてきちゃだめっ、

心のなか美しい幻との葛藤が廻ってしまう。
けれど現実の自分は生真面目に教場で座って、救急法と鑑識のテキストを見比べている。
きっと今、誰も周太がこんな想像をしてるなんて思わないだろう。

…やっぱり俺、「むっつりすけべ」っていうやつなのかな?

きっとそうだろう、こんな自分はすごくえっちで恥ずかしい。
こんなにえっちだと英二は嫌だろうか?はしたないのではないかな?
そんな心配廻らしていると、遠野教官と白石助教が教場に入ってきた。

…頭、切替えないと、

ひとつ呼吸して、周太は前を見た。
場長の松岡の号令で礼をし、着席をする。そして遠野教官が口を開いた。

「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」

言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせ僅かに微笑んだ。
この視線と言葉が示す講師が誰なのか?その嬉しい予想に周太は扉を見た。
見つめた扉は静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が微笑んでくれた。

「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」

穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
大好きな人の思いがけない登場に、周太は微笑んだ。

…吉村先生の授業を受けられるなんて、嬉しい

嬉しく見つめる教壇で穏やかな笑顔が佇んでいる。
こんな予想外があると思っていなかった、この間も吉村医師は何も言っていなかったけれど、内緒にしていたのかな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話を続けた。

「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」

そう説明しながら吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。

「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」

…光一?

ブルーの夏制服を着た光一が、教場で飄々と笑っている。
まさか光一まで登場するなんて?こんなの想定外で驚いてしまう。
けれど考えてみれば、英二が研修中なら光一が吉村医師の補佐をするのは当然かもしれない。
そんな納得と見つめる先で光一は資料を配布していく。

…こうしていると、先輩だなって感じるな?

授業を受ける側と、授業をサポートする側。
そして制服に付けられた階級章も、自分達と光一は違う。
年齢は同じでも光一は高卒任官だから4期上になる、けれど差を意識したことは今までに無かった。
いつも光一は山岳救助隊服姿か私服で、拳銃射撃大会も光一は隊服で出場したから制服姿をあまり見たことが無い。
だから初めて今、光一の階級章に気が付いて周太は驚いた。

…光一、警部補だったんだ?なにで特進したのかな、

普通、高卒任官なら23歳になる今はストレートに昇進しても巡査部長だろう。
それに新人の教育係は巡査部長が務めることが多いから、光一もそうなのだと思っていた。
けれど昇進には特別昇進のケースもある、機動隊や特殊部隊に所属する者は任務の特殊性から特進も多いと聞く。
山岳救助隊も特殊部隊に含まれ人命救助という任務は責任性が高い、だから特別昇進の措置もあるだろう。
どんな特進理由だったのかな?そう考えながら見る先で英二と光一が短い言葉に笑い合っている。

…仲良しだよね、ちゃんと、

ほっとして周太は小さく微笑んだ、ふたりの事が気掛りだったから。
あの連続強盗犯の逮捕時から、光一と英二は小さな擦違いを起こしかけている。
あのとき犯人確保で見せた光一の側面に英二は途惑い、それを感じ取った光一は不安に墜ちこんだ。
そのことを其々から聴いているけれど、きっと大丈夫だと自分は想っている。

…もしかしたら光一、このためにも今日は来たのかな?

光一は英二にファイルの事を告白する為にも来たのかもしれない?
そんな推察と見つめる向うから、光一は資料を配りながら此方に歩いてくる。
その貌は落着いた微笑が穏やかで、すこしだけ緊張をしていた。そこからの確信に周太は微笑んだ。

…やっぱり英二に謝りたくて来たんだね、光一?

光一は滅多に緊張しない。
基本的に物事に動じない性格だから、講師補佐くらいでは緊張はしない。
もし緊張するとしたら最大の支えで、且つ唯一の弱点とも言える「英二」のことだろう。
そう考えるうち白い手が資料を差し出して、テノールが周太に微笑んだ。

「はい、湯原くん、」

この呼び方は久しぶりだな?
懐かしい想いに微笑んで、周太は資料を受けとった。

「ありがとうございます、」

素直に答えて微笑むと、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
すこし不安げだけれど明るい眼差しは「また後でね?」と笑んで、すっきりとした背中は歩いて行った。



授業が終わるとすぐ、英二と光一は救急法の教材器具を片づけに行った。
それを見送って吉村医師は、教場の机を借りて藤岡の怪我を診てくれた。
もう傷みも殆どないらしい腕は、出血斑もほとんど消えている。
手際よい診察と処置にコツを見つけながら、周太は吉村の動きを記憶した。

…英二も上手だけれど、やっぱり先生はプロ中のプロだな、

授業でも吉村医師は包帯法の実技指導をしてくれた。
その時も英二の手並みは際立っていたけれど、やはり吉村は最高のER医師と言われるだけはある。
こうして優れた技能を見ていると、いつも好意でカウンセリングしてくれる事が改めて恐縮してしまう。
やっぱり凄い先生なんだな?そう見ているうち吉村は処置を終えて微笑んだ。

「宮田くん、きれいに処置してくれています。いつも包帯、ずれにくいでしょう?経過も良いですね、」

藤岡の処置は英二が毎晩、風呂の後にしている。
それを褒められて嬉しいな?そう心で微笑んだ向こうで藤岡も言ってくれた。

「ありがとうございます。ほんとに宮田、巧いし早いんですよね、」

からり笑って答えながら藤岡は肩脱ぎした左袖を戻している。
その隣から、処置の様子を一緒に見ていた内山が感心したよう吉村医師に尋ねた。

「吉村先生、いつも宮田は先生のお手伝いをしていると伺いましたが、宮田は優秀なんですね?」
「はい、彼は優秀です。なにより努力家で優しい、適性も高いでしょうね、」

嬉しそうな笑顔で答えてくれる。
包帯類を仕舞いながら吉村医師は、すこし得意げに話してくれた。

「さっき宮田くんと一緒に出て行った彼は、宮田くんの救助隊でのパートナーなんです。あの彼が教えてくれるのですが、
いつも宮田くんは現場でも、救助する方を細やかに気遣うそうです。容体によっては飴をあげて気持ちをほぐしたりしてね。
だから消防のレスキューに引継ぐ時は、皆さん落着かれているそうです。引継書も彼は工夫していますよ、消防にも好評です」

話してくれる笑顔は嬉しげで、英二を大切に可愛がってくれていることが解かる。
そんなふうに想ってくれることが英二の為に嬉しい、嬉しい気持ちで聴いていると吉村医師は言葉を続けた。

「そしてね、亡くなった方にも彼は手当するんです。その方が恥ずかしくないようにと気遣って、いつも丁寧に整えてくれます。
もちろん、ご遺体は検案をしますから直ぐ包帯も外します。それでも宮田くんは、同行者の気持ちを安らげる為にも手当するんですよ。
そうやって彼は、亡くなった方の尊厳も護ろうとしてくれます。そんな彼にね、私は医師として警察医として、いつも嬉しく思います、」

亡くなった人の尊厳も護る。
それはレスキューとして大切な想いだろう、そして周太自身にとっても。
いつか父と同じ任務に就いた時、周太も「死」と向き合う可能性があるのだから。

…お父さん、俺も英二みたいに出来るように、支えてくれる?

この自分にも英二のよう出来るだろうか?
もし出来たなら、きっと父のいた部署でも希望を見つけることが出来る。
そう信じているから今はもう、異動になる瞬間を恐怖だけでは見つめない。そこで為すべき事があると信じているから。
こんなふうに英二はいつも、周太に希望を与えてくれる。そんなひとだから愛してしまう。
けれど今、英二の心には不安が起きる瞬間が増えてきた。
そのことが心配で、だから今朝のことも時間が経つにつれ心配になっている。

どうして今朝、英二は雨に打たれていたのか?
ずぶ濡れになって肌も冷えきるほど、雨に打たれて英二は何を求めたのか?

―…いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ…ずっと傍にいて…ずっと俺の隣で幸せに笑っていて?

いつも英二は朝と夜、冷たい水を被る。
そうやって心を引き締めるのだと以前に聴いた、それを今朝は雨に打たれて。
そうまでしなくては「心を引き締める」ことが出来なかったのは、きっと離れることが怖いから。

英二は離れる時を恐れている。
そのために先週、英二は周太の首に手を掛けようとした。
それくらい英二は今、別離の瞬間に追い詰められている。
これをどうしたらいいのだろう?

…本当は先生に相談出来たら良いのに…このことは出来ないね、

このことだけは、話せない。
なぜ英二と離れる時が訪れるのか?その事を明かすことが出来ないから。
そこまで吉村医師に背負わせることは決してできない。
この理由は他言が赦されない、家族にすら言えない自分だけの秘密なのだから。
そんな重たい秘密の瞬間が近づく今の想いは、きっと父の想いをトレースしているだろう。

愛する人を残していく想いは、きっと父も同じだった。
この法治の秘匿によって隔てられる想いは、あの日々に父も見つめていた。
それがどんなに哀しい孤独だったのか、今この時に少しだけ解かったのではないだろうか?
そして母の哀しみも尚更に気づいてしまう、愛する人の孤独を気付きながら何も出来ない苦悩を、母は抱いていた。
それでも母は、いつも笑って息子の自分を育み夫の帰りを迎えていた。

…ん、お母さんってすごいな?

あらためて想う母の強靭な優しさが、温かい。
あの強靭さが英二には必要なのだろう、けれど英二は母よりも知り過ぎている分だけ傷みが重い。
この違いが今朝の雨に見た情景となって顕れた。
それでも英二は笑ってくれる、その撓やかな勁さにまた心惹かれてしまう。
こんなふうに英二への想いは深くなる、こうして時の経過に想いは濃く鮮やかになって、心深くを根で包む。

あのひとが好き、何があっても。
どんな瞬間が訪れても、その度に自分の想いは深まっていく。
けれど、願っていいのなら。訪れる瞬間は1つでも多くの幸せな笑顔を生むものであってほしい。
そのときは辛く哀しい瞬間だとしても、必ず喜びの時を育てる素に変えていきたい。

だから今も、英二が哀しみの葛藤にゆれるこの今の瞬間も、幸せな笑顔に変えられないだろうか?

そんな想い佇んで眺める先、吉村医師は片付け終えて立ち上がった。
そして穏やかな笑顔で周太を見ると、白衣を脱ぎながら医師は声をかけてくれた。

「湯原くん、すこし校内を案内してくれますか?久しぶりなので、1人だと迷子になりそうです、」
「はい、」

即答に周太は微笑んだ。
少しでも吉村医師と話す時間が出来るのは嬉しい、きっと吉村もそのつもりで提案してくれたのだろう。
嬉しい想いと一緒に廊下へ出ると、藤岡と内山が笑いかけてくれた。

「じゃあ俺たち、先に寮に戻ってるな、」
「ん、また後でね、」

すぐ後の再会に笑って別れると、ふたり並んで歩きだす。
いつも見慣れた白衣姿と違う、スーツ姿でいる吉村医師は目新しい。
それも警察学校を一緒に歩いていることが、有り得べき場面なのに不思議で周太は微笑んだ。

「先生、今日の講師の事は、前から決まっていたんですか?」
「はい、この授業はよく担当させて頂くんです。だから今回も5月には決まっていました、でも君たちには内緒にしてみたんです、」

言って切長い目を悪戯っ子に吉村は笑ませた。
やっぱり内緒にしていたんだな?この篤実な医師の一面が楽しくなって周太は笑った。

「俺、驚きました。それで嬉しかったです、先生の授業が受けられるなんて、」
「それは光栄です、私の授業は少しでもお役にたちそうですか?」
「はい、たくさん役に立ちます、」

笑い合いながら歩いていく廊下は、いつもと違って見える。
頼もしい豊かな懐を持つ大人が隣を歩いている、その安心感が温かい。
こんなふうに、ただ一緒に歩くだけでも相手を安らがせる懐を自分も持てたら良いのに?
こういう人が「大きな人」だろうか、この冬に吉村医師が話してくれたよう自分も「大きな人」になれたらいい。
そんな憧れに微笑んで、ふと周太は思い出した質問に口を開いた。

「先生、本のページをわざと抜きとるのは、どういう気持ちだと思いますか?」

先月の事例研究で英二が話してくれた「ページが欠けた本と扼殺事件」この検案を担当したのは吉村医師。
あのとき「ページが欠けた本」についても吉村は見解を医師と警察医の立場から述べたと聴いた。
それならば、吉村医師には解るかもしれない。

『Le Fantome de l'Opera』

家の書斎に納められた、紺青色の壊された本。
あの本の謎を解く鍵を、この医師の言葉から探し出せる?





(to be continued)

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one scene 或日、学校にてact.7 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-08 05:13:53 | 陽はまた昇るanother,side story
言えないメッセージに信じて、



one scene 或日、学校にてact.7 驟雨―another,side story「陽はまた昇る」

新宿駅の改札口を一緒に通りぬけて、周太は微笑んだ。
こんなふうに一緒にこの改札を通ること、どれくらいぶりだろう?
この改札を一緒に通る記憶たちは嬉しくて、切なくて、通るたび心ほどかれた安らぎが温かい。

「周太、まず本屋に行って良い?」
「ん、」

訊いてくれる笑顔が嬉しくて、頷いて見上げてしまう。
毎週末を一緒に改札口を通った日々、あの頃より見上げた貌は大人びて美しい。
このひとの隣に自分はずっと歩いてきた、そして願わくばこの先も、ずっと一緒に歩いていきたい。

…そのための手助けになる本を、今日は買えたら良いな?

昨日から考えていたことに微笑んで、いつもの書店の入口を潜る。
エスカレーターに乗って階を上がっていく、そんな景色も前と変わらない。
けれど、この隣を歩く人との距離も時間も、共有する記憶の想いも、大きく変わっている。
この変化は愛しくて誇らしくもあって、幸せが優しい。

「周太、見たい本とかある?」

綺麗な低い声に笑いかけられて、周太は隣を見あげた。
これから英二は登山図のコーナーを見に行く、その事を考え併せて周太は答えた。

「ん、山の記録とか書いてある本、ちょっと見てみたいな、」
「それなら近くのコーナーだな?」

嬉しそうに笑って英二が答えてくれる。
もう英二にとって「山」は職場であり夢の場所でもある、だから今も喜んでくれる。
そして、英二にとって大切なものだからこそ、自分も知りたいと思う。

…山のことで俺でも勉強できること、あったらいいな

そんな想いと見ていく書架の背表紙に、ふっと目が止められる。
新書サイズの背表紙は学術書の出版社名が記されて、題名から興味を惹きこんでしまう。
惹かれるまま周太は手に取ると、そっと目次を開いて見た。


『山の自然学』

ブナ林が貴重である理由・白神山地
ブナ林の異変・丹沢
川が作った森林・三頭山
崖錘の植物・穂高岳・槍ヶ岳
花畑が見事な理由・南アルプス・北岳


北岳、穂高岳、槍ヶ岳、それから奥多摩の三頭山、どれも英二が登った山でいる。
そして、どれもが興味のある内容が並んでいるから、中身がとても気になってしまう。
この本を読んだら、「山」を理解することと植物学の現場を学ぶことの2つが出来るかもしれない?

「…ん、買おう、」

決定に微笑んで周太はレジへと向かった。
ちょうど英二も藤岡の登山図を見つけて、一緒に並んでくれる。
そして一緒に会計を済ませると、街路樹の木洩陽ふる通りを歩いた。

「周太、今日は何を頼む?」
「ん、いつものだよ?」

訊かれたことに素直に答えて、周太は微笑んだ。
そんな周太に切長い目は優しく笑んで、可笑しそうに言ってくれた。

「周太って、自分で料理を作る時はレパートリーが多いのに、店だと同じものしか頼まないよな?」
「…ん?そう?…あ、そうかも?」

あまり考えたことは無かった、けれど言われたらその通りだな?
そう首傾げこんで歩いていくと、英二は一軒のラーメン屋で扉を開いた。
いつも馴染みの暖簾をくぐると、温かな湯気と美味しい匂いが頬を撫でていく。
週末の昼どき初めの時間は空いていた、英二とカウンターに歩みよると厨房から馴染みの笑顔が気づいてくれた。

「お、山の兄さんじゃないか?久しぶりだねえ、」
「こんにちは、ご無沙汰しています、」

綺麗に笑いかけると英二は、いつもの席に座ってくれる。
ここに並んで座るのは久しぶり、嬉しい気持ちと座った周太に、主人は水を渡しながら訊いてくれた。

「いつもの、かい?」

『いつもの』

そう主人は最近、注文を訊いてくれる。いつも周太は同じものばかり頼んでしまうから。
そんな癖をよく解かってくれている、そんな馴染みの空気が嬉しくて周太は微笑んだ。

「はい、お願いします、」
「よし、じゃあこの間よりも旨いよう、がんばって作りやしょうね、」

温かな笑顔で主人は頷いてくれる、この遣り取りも何度目だろう?
そして、この笑顔に会うたびに自分は信じることが出来る。

人間は、生き直せる。そう信じられる。

この主人は14年前、周太の父を殺害した。
けれど服役中、彼を担当した父の同期とのふれあいが彼を変えた。
その釈放後、このラーメン屋の先代に出会い、彼は運命と生き方を変えた。
そして生きることを再生させた彼の笑顔は、すこし寂しげでも温かで、希望が見える。
だから主人の笑顔に、信じることが出来る。

どんなに苦しくても超えたなら、きっと前よりも強く優しくなれる。
そうやって自分を変えながら、どんな瞬間も超えて行くのなら、きっと運命は変わる。

このことを主人の笑顔に教えて貰いたくて、いつもこの店に来てしまう。
そしていつも思う、この笑顔と向き合うチャンスをくれたのは英二、だから英二とも希望の明日があると信じられる。
そしていつも祈りに想う、この笑顔を遺してくれた父の想いと真実に、必ず正しく向合えることを。

…ね、お父さん?このひとの笑顔は、お父さんのメッセージだよね?

父が息子へ伝えたかった、メッセージ。
それがこの主人の笑顔に遺されている、そんな気がしてならない。
父が最期に言ったのは「周太」息子の名前だった、そして最期に願ったのは父自身を殺した男の幸福だった。
だから思う、最期の願いはきっと息子へのメッセージが込められている。

“たとえ罪を犯し苦しみに沈んでも、真直ぐに超えたのなら運命は変わる”






【引用出典:『山の自然学』小泉武栄】

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第52話 露花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

2012-08-07 22:51:17 | 陽はまた昇るanother,side story
※4/5あたり念のためR18(露骨な表現はありません)

空ふる慈雨、花よ咲いて



第52話 露花act.1―another,side story「陽はまた昇る」

これは、雨の香?

どこか懐かしい記憶の香が涼やかに頬ふれて、周太は目を覚ました。
ゆっくり披いた視界には、白いシーツと壁が前髪を透かして映りこむ。
そこに映るはずの笑顔が無い、ちいさく瞳を瞠って周太は辺りを見回した。

「…えいじ?」

名前を呼んで見回す部屋に、隣で眠っていた人はいない。
誰もいない部屋は微かな時計の音と、窓を敲く雨だけが響いていく。
けれど、カーテンが開かれている。ガラス窓も少し開かれて、そこから雨の香は吹きこんでいた。
そっと、透明に吹きこんでくる香へ惹かれるまま、周太は起きあがった。

…英二、ベランダにいるのかな?

心つぶやいて床に降りながら窓を周太は見つめた。
けれど、ガラス窓は水滴に濡らされ烟って、外が良く見えない。
それでもガラスの向こう側には、佇んでいる白い影が目に映りこんだ。

「…ん、いた、」

良かった、そう微笑んで周太は気がついた。
いま外は雨が降っている、それなのに英二はベランダに立っているのだろうか?
確かに雨に濡れるのは気持ちが良い、けれど本降りのなか英二はどの位の時間を立っているの?

「風邪ひいちゃう、」

ひとりごとに押されるようクロゼットからタオルを出す。
そしてベランダへの窓を開こうとして、周太は立ち止まってしまった。
綺麗だったから。

灰色の空を見上げる白皙の貌は、強い意志に凛とまばゆい。
ダークブラウンの髪は雨に煌めいて、掻き上げる白い指に雫をこぼす。
降りそそぐ雨を浴びた白いシャツは肌を透かして、しなやかな肢体に絡みつく。
シャツ透かして浮かびだす流線が見事で、逞しい体の美しさを風雨に惜しみなく晒して見せる。

…きれい、雨の花だね?

心こぼれる独り言に、3月の庭を想い出す。
春雨ふる庭で見た白澄椿の花、露ふくんで凛と空に咲く白い姿。
優雅なのに強靭な、美しい雪山にも似た姿が今、ベランダで夏の雨に咲いている。

高潔に咲く清雅の花ならば。
春弥生は白澄椿、今の風待月なら夏椿。

夏椿は沙羅とも呼ぶ、実家の庭では苔むす緑に白花をこぼし咲く。
この花は「沙羅双樹」の言葉でよく知られているだろう、有名な古典の冒頭文にも咲く花だから。

祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す

こんなふうに沙羅の花は「理」現す花に語られる。
夢幻のよう美しい、盛と衰を廻らす勁い花として描かれる。

沙羅の花は一日で落花する、その儚さは死に墜ちる命と似ている。
けれど蕾はまた披く、一日の時を花は精一杯に輝いて、見る人の心を微笑ます。
そして花は落ちて、樹の足元で眠りながら土へ還り、水に運ばれ幹を昇って梢をまた繁らせていく。
そうして花は一年の星霜を廻らし、また盛りの瞬間を迎えて空仰ぐよう咲き誇る。

優雅な清楚な花の姿は嫋やかで、ひと時の幻のよう一日で墜ちていく。
けれど、花の命めぐらす樹は細やかな姿に剛健を秘め、強靭な生の力あふれて逞しい。
幻と現を共に備えた高潔な花木、そんな姿は強靭に撓やかな背中を想わせる。

なめらかな肌に絡む白いシャツは、慈雨に愛でられる花びらのよう。
真直ぐに佇む広やかな背中、逞しい肩に腕、その強靭な立姿は美しく勁い樹幹のようで。
北西の空仰ぐ白皙の横顔は意思が輝いて、炎天にも微笑む花と似て美しい。

なんて綺麗なんだろう?
ほんとうに綺麗で見惚れてしまう、ずっと見つめていたい。
けれど大切な体が冷え切ってしまう事が心配で、そっと周太は窓を開いた。

…ほんとにずぶ濡れ、だね

窓を開いた先、静かな大雨に英二は微笑んでいる。
露こぼす髪は白皙の額に頬に絡みつく、シャツも含んだ水に素肌を透かしてしまう。
こんなに濡れるまで外に立っているなんて、どうしたのだろう?驚いて周太は声をかけた。

「えいじ?どうしたの、ずぶぬれだよ?」

声に振向いてくれる、その貌は清々しい微笑が綺麗だった。
濡れた髪を掻き上げる白く長い指に、ダークブラウンが艶やかに絡まる雫が綺麗で。
こんなにずぶ濡れで髪も服も濡れ切っている、それなのに英二は綺麗だった。

…ほんとに雨の花みたい…あ、気恥ずかしくなりそう?

だって、あんまり綺麗すぎてしまう。
濡れたシャツ透かす肌が艶めかしくて、寧ろ素肌よりも気恥ずかしい。
困りながら驚きながら見つめている周太に、英二は綺麗に笑いかけてくれた。

「おはよう、周太。いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ?」

“空のシャワー”

童話みたいな表現が、なんだか微笑ましくなってしまう。
こんなに綺麗な人なのに子供みたい?可笑しくて愛しくて周太は微笑だ。

「ん、雨に濡れるのも楽しいよね?…でも、風邪ひくといけないから、こっちに来て?拭いてあげるから、」
「周太が拭いてくれるの?嬉しいな、」

幸せそうに笑って英二は、部屋の中へと戻ってくれた。
静かに窓を閉めた長い指の手は、そのままカーテンもひいて外を遮ぎってしまう。
そして英二は水滴るシャツのボタンを外し始めた。

「周太、濡れた服だけど床に置いてもいい?」

綺麗な低い声が訊いて、長い指は次々ボタンを外していく。
その指を気にしながら周太は頷いた。

「洗濯かごに入れて?一緒に洗っちゃうから…」
「ありがとう、」

綺麗な微笑を見せて英二はシャツから肩を抜いた。
濡れた布が消えて肌が露になる、その白皙が艶やかに瑞々しい。

…きれい、

ほっと心裡ためいき零れて、見惚れてしまう。
雨に洗われた肌透かす血潮が、紅あわく咲くよう浮かびだす。
まるで薄紅の花ひらくような肌の、清らかな華やぎが視線ごと心惹いてしまう。
惹かれるまま見つめる想いの真中で、長い指はコットンパンツのボタンに指を掛けた。

「え、?」

したもぬいじゃうの?

意外な動きに意表つかれて、目が大きくなる。
けれど濡れている服は脱ぐのが当然だろう、そう考えても驚いた顔は直らない。
驚いた目のままで見つめる先、迷わずコットンパンツは降ろされて、長い脚は素肌を晒した。

「悪い、周太。タオル貸して?」

綺麗な低い声に言われて、周太は1つ瞬いた。
あらためた視界の真中で、しなやかな肢体が惜しみなく白皙の艶を晒す。
綺麗な艶に見惚れかけた時、ボクサーパンツだけの裸身がこちらを向いて、長い腕を伸ばすと周太の手からタオルを取った。

「周太?悪いんだけど、部屋から着替えを取って来てくれる?」

タオルを腰に巻きながら英二が笑いかけてくれる。
そんな仕草にも筋肉が動いていく様子が綺麗で、つい見惚れてしまう。
ただ見つめて立っている周太に、切長い目が瞳を覗きこんだ。

「どうした、周太?」
「…あ、はい、」

瞳に焦点を戻して、周太は返事をした。
そんな周太の手に部屋の鍵を渡しながら、英二は悪戯っ子のよう囁いた。

「パンツも持ってきて?びっしょりなんだ、あのときみたいに、」

あのときってなんのことですか?

言われた言葉が理解できない、でも雰囲気なら解かる。
きっとそういう意味なの?そんな考えにキャパシティが超えてしまう。
いま何て言われたのかな、なんでそんなこと言うの?解からないまま周太は素直に頷いた。

「…ん、持ってきます…」
「よろしくな?クロゼットの抽斗にあるから、」

可笑しそうな笑顔に見送られて廊下へ出ると、周太は隣室の鍵を開いた。
クロゼットからジャージとTシャツを出して、言われた通りに抽斗を開ける。
そこから下着を出そうとした手を、思わず周太は引っ込めた。

「…なんかはずかしいね?」

英二の下着を触ることは、初めてではない。
川崎の家で英二が静養したとき、もちろん英二の洗濯もしているから。
けれど、こんなふうに「選ぶ」ことは初めてで、なんだか途惑ってしまう。

…でも、持って行かないと英二、困るよね?

よく解からないけれど周太は、一番手前のものを手にするとTシャツに重ねて隠しこんだ。
そして戸締りをするとまた自室に周太は戻った。

ぱたん、

扉を閉じて鍵を掛けると周太は部屋に振向いた。
振向いた視線の先、カーテンの隙間から外を眺める背中が綺麗で、ついまた見惚れてしまう。
ほっとため息吐いたとき、美しい背中はこちらに向き直って端正な貌が微笑んだ。

「お帰り、周太、」
「ん、ただいま…あの、ここに置くね?」

応えながらも気恥ずかしくて、英二を正視出来ない。
だって洗濯籠には、1つ洗濯物が増えている。

…えいじいま、たおるだけってことだよね

そう思うと恥ずかしくて見られない。
いつも浴室でも困っているけれど、それ以上に今もっと困ってしまう。
どうして部屋だと尚更に恥ずかしいのだろう?もう首筋まで熱くて俯いた周太に、長い腕が伸ばされた。
そっと肩を抱き寄せられるままベッドの傍らに立つと、その前に英二は腰掛けながら微笑んだ。

「周太、拭いてくれるんだろ?」
「あ、…はい、」

さっきの約束へ素直に頷くと、周太はクロゼットからタオルを出した。
手に広げたタオルを見て英二が幸せそうに微笑んでくれる、その笑顔が嬉しいまま周太は英二の髪を拭った。
艶やかなダークブラウンの髪は水気に冷んやりとして、けれど透かすよう熱も伝わってくる。
いま夜明け時の部屋にはタオルが髪を拭く音と、雨の音が静謐をやさしく奏でていく。
こういう静けさは好きだな?そう微笑んだ周太に綺麗な低い声が笑ってくれた。

「周太に拭いてもらうの、気持いいな、」
「そう?よかった…」

髪を拭き終えて、首筋に光る雫を拭いとる。
そのまま背中を拭こうとした時、長い指の手が周太の掌を握った。

「周太、」

名前を呼んで、掌が惹きこまれるまま白皙の胸に倒れ込む。
そして長い腕に抱きしめられて、唇に温かな唇が重ねられた。

…あ、

心こぼれる吐息が、ほろ苦く甘い。
ふれる熱が唇から忍びこんで絡みつく、甘くて熱くて心が奪われていく。
なんだか解からなくなりそうな意識に、抱きしめてくれる白皙の肌が熱潤んでシャツを透かす。

「…周太、好きだよ」

綺麗な低い声が囁いて、素肌の胸に抱きしめられる。
そのまま白皙の体はベッドへ倒れ込んで、シーツへと周太を埋めこんだ。

「…えいじ?」

名前を呼んで見上げた切長い目の、まなざしが熱い。
こんな目をするとき英二が求めるものは?そんな問いかけを見た周太に、綺麗な低い声が微笑んだ。

「まだ5時前だよ?みんな眠ってる、雨も降ってる…声は聞えないから、周太…」

告げながら白皙の体が周太を抱込めて、唇はキスに封じられていく。
シャツ1枚を隔てる肌がふれあって熱が伝わってしまう、いま何をされるのかが解かる。
その予想に周太は切長い目を見つめて、キスのはざま問いかけた。

「えいじ、あの…」
「嫌?」

短い問いかけに、切長い目が微笑む。
もう微笑むひとは全身の肌を晒して、周太のシャツに長い指を掛けている。
その指がボタンを外しだす、この感触に鼓動が響きだして周太は吐息をこぼした。

「…あ、」
「嫌じゃない、って言って?周太…気持ちよくして、って命令してよ?」

綺麗な低い声の微笑に、長い指はボタンを1つずつ外していく。
ひとつ、またひとつボタン外れるごと肌に空気がふれて、肌を隔てる衣が消えていく。

「周太、命令して、俺に…」

言葉と一緒にキスが唇に熱を移しこむ。
ほろ苦く甘い熱に唇ほどかれて、周太は命令を言葉にした。

「…声、なんとかしてくれるなら…きもちよくして、」

言いながら掌を白皙の頬に添える。
その掌に手を重ねて、そっとキスで触れると英二は綺麗に微笑んだ。

「命令の通りにするよ、周太…だからさせて、お願いだから…痛くないようにするから、」

告げながらキスは唇を封じ込む。
シャツの最後のボタン外れて、コットンパンツのボタンも外される。
長い指がウエストに掛けられる、下着ごと引き降ろされて素足に肌がふれあいだす。

「…周太、」

名前呼ばれる瞬間、シャツも絡み取られて肌が晒される。
そして隔てるもの消えた素肌は重ねられて、全身の熱が触れ合った。
雨に濡れたばかりの肌は瑞々しくて、ふれるごと吸いつくよう肌を融かす。
見つめる肩は火照りだす熱に、白皙を透かして咲くよう血潮の紅匂いたつ。

…ほんとうに、花みたい

心そっとつぶやく想いに微笑んで、花の体に抱きとられていく。
抱きしめてくれる胸は深い森のような香を燻らせ、穏やかに謎めくよう香たつ。
この香に今、抱かれてしまったなら今日は一日を香のなか過ごすことになる。
それはいつも気恥ずかしい、そして疼きだす自責が香と締めつける。

ほんとうは今、この警察学校の寮ではしてはいけない。
本当は今を恋人の時に過ごすことは、抱かれることは禁じられている。
それなのに今、この瞬間に心の深くから歓びは湧き上がる、幸せはほら、こんなに温かい。
なによりも今、この目の前に見せてくれる笑顔が嬉しくて、見つめていたくて拒めない。

あなたの笑顔が咲いてくれる、この瞬間が愛しくて。



ふる雨の音が、止んでいく。

素肌のまま抱きしめられて、微睡む温もりが愛おしい。
白いベッドは名残の乱れにシーツの波を見せる、その襞にうすくブルーの翳が鎮まり滲む。
優しい青と白に横たわる時を雨音が包んで、けれど音はすこしずつ融けるよう消えていく。

「雨、止みそうだな。また降りそうだけど、」

綺麗な低い声が微笑んで、そっと腕に力こめてくれる。
やさしい温もりのまま体添わせて、素肌の気恥ずかしさに周太は微笑んだ。

「ん…せんたく、かんそうき使うね?」
「あ、乾燥機?そうだな、ははっ、」

答えてくれながら抱きしめて、可笑しそうに英二は笑いだした。
どうしてそんなに笑うのかな?変なことを言ったのかな?
よく解からなくて周太は、素直に尋ねた。

「…あの、なんでそんなに笑うの?」
「だって周太、このタイミングなんだもんな?可愛くって困るよ、」

可笑しそうに幸せそうに笑って、温かな懐に抱きこんでくれる。
なにがそんなに「可愛くって困る」のだろう?そう不思議で見つめた先、綺麗な低い声は幸せに答えてくれた。

「いまセックスしたばかりなのに洗濯のこと気にするなんてさ、本当に奥さんみたいだね?周太、」

“したばかり、奥さん”

言われた言葉がぐるり廻って、熱が額まで駆け昇る。
すごく自分は恥ずかしいことを言ってしまった?はしたなかった?
そんな疑問に頭がぐるぐるしてしまう、ほらもう熱が出てしまいそう、きっと赤くなっている。
こんなの恥ずかしくて困ってしまう、困り果ててブランケットを掻きよせた周太に、英二は笑いかけてくれた。

「周太、照れてる?今、すごく可愛い貌してるよ、」

照れています、恥ずかしいです、当たり前です。

本当に恥ずかしくて困る、いつもこうだ。
もう、なんてことを英二は言うのだろう?どうして恥ずかしがらせるの?
あんまり恥ずかしくてもう拗ねてしまいたい、この気分に正直なまま周太は口を開いた。

「しらない、ばか。えいじのばかばか、いつもえっちなことばっかいってしらないばか」
「怒らないで、周太?でも、怒った顔も大好きだよ、」

すこし困ったよう、けれど幸せなまま綺麗な笑顔が笑いかけてくれる。
こんな貌されると拒めない、でも恥ずかしくてブランケットに顔埋めた周太を、優しい懐は抱きしめてくれた。

「全部好きだよ、周太。全部大切だよ、ずっと大切にするから、ずっと傍にいて?」

そんな台詞はちょっと反則です。

そんなふうに言われたら怒れなくなる、嬉しくて微笑んでしまう。
こんなのは少し悔しい、けれど嬉しくて、嬉しいまんま約束したくて周太はブランケットから顔を出した。

「…ほんと?ぜんぶすきなの?すねてもおこっても?」

きっと「Yes」って答えてくれる?
そんな期待と不安とを見つめた先で、切長い目は幸せに微笑んでくれた。

「うん、どんな時も全部好きだ、でも笑顔がいちばん好きだよ。だから周太、ずっと俺の隣で幸せに笑っていて?」

そう言ってくれる笑顔は幸せに綺麗で、雨ふれた後の花のよう輝いていた。





【引用出典:『平家物語』】


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one scene 某日、学校にてact.7 驟雨―side story「陽はまた昇る」

2012-08-07 04:30:34 | 陽はまた昇るside story
言っても良いのなら、



one scene 某日、学校にてact.7 驟雨―side story「陽はまた昇る」

久しぶりの公園は静かだった。

いつものベンチへ翳す緑陰は、変わらずに優しい。
スーツのジャケットを脱いでネクタイを緩める、その衿元に緑の風が涼を運ぶ。
この場所に座ることは久しぶり、ここは都心なのに奥多摩の森と似た深い緑が懐かしい。

「はい、英二、」

隣から周太が笑いかけて、渡してくれた缶コーヒーの水滴が掌に心地いい。
ここに座るとき周太はいつも、こんなふうに缶コーヒーを英二にくれる。
ここに最初に座った時も同じだった、それ以来ずっと続いている習慣に英二は微笑んだ。

「ありがとう、周太。冷たいのにしてくれたんだ?」
「ん、今日、ちょっと暑いかなって…良かった?」
「うん、喉渇いていたから嬉しいよ、」

話しながらプルリングを引くと口付けて、喉を冷たい芳香が降りていく。
ほろ苦く甘い香が空気に流れて、その香りに幾つかの記憶が蘇えってしまう。
このベンチでコーヒーを飲むのは、もう何度目になるのだろう?そんな疑問に英二は、並んで座る横顔に笑いかけた。

「周太、」
「ん?…」

短い返事に振向いてくれる黒目がちの瞳は、穏やかに澄んでいる。
このベンチに座って見つめる、この瞳の瞬間が懐かしく切ない記憶を呼び起こす。
あのとき自分は何を想ったのか?そんな記憶辿る道を見つめながら英二は微笑んだ。

「このベンチ、こうして一緒に座るのは何回目になるかな?」
「ん…もう二桁なのは確実だね?」

考え込むよう首傾げこむ、その微笑みは最初の時とは別人のよう美しくなった。
いま掌に包むのも周太はココアの缶、それも最初の時とは違っている。
この2つの変化とも幸せで愛おしい、嬉しいまま英二は笑いかけた。

「周太、その本は何?」
「これはね、山の植物について書いてあるんだ…標高や緯度、地質の差が影響するって…あと風向きとかも、」

嬉しそうに微笑んで、本の内容を話してくれる。
その内容が植物学なことが嬉しくさせられる、今、周太は大好きな植物の世界に夢を見始めているから。

―このまま好きな事だけを見つめて、笑っていてほしいのに?

そんな願望が心刺すよう傷んでしまう、それでも今を見つめていたい。
そんな想いと見つめる隣では、丁寧に本のページを繰って周太が説明してくれる。

「でね…北岳のことも、載ってるよ?読んでいると、行ってみたくなるね。夏の花が咲くとき、行ってみたいな、」

北岳、「哲人」の異称を持つ本邦第2峰。

あの山は英二にとっても心惹かれるものが強い。
あの山を、この愛しい婚約者にも見せることが出来たら、嬉しいだろうな?
そんな想い素直に笑って、英二は約束と恋人を見つめた。

「それなら周太、一緒に登りに行こう?夏の休暇とか、どこかで時間作るから、」
「ほんと?…英二が連れて行ってくれるの?」

嬉しそうに黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
やわらかな黒髪のした、幸せそうな笑顔が木洩陽に輝いて、きれいで見惚れてしまう。
こんな貌で笑って貰えるのなら、なんだって出来てしまう。そんな願いに英二は微笑んだ。

「うん、俺が連れて行くよ?光一と練習で登りに行くから、その後ならコースもちゃんと解かるしさ、」
「うれしいな…楽しみにしてるね、」

楽しそうな笑顔が綺麗で、ずっと見ていたくなる。
こんなふうに木蔭のベンチに座って、愛しい瞳を見つめている。こういう時の幸せは優しい。
そんな想いと見つめていた笑顔の向こう側が、急に紗がひかれるよう色彩が変わった。

「…ん、雨?」

穏やかな声が呟いて、木蔭の向こうを黒目がちの瞳が見つめる。
その視線の先で雫ひとつ地面を打って、瞬く間に雨音が世界を浸した。

…さああ、さあああっ、…

やわらかで絶え間ない水の音が、白く視界を染めていく。
天から降る紗に包まれていく、そして公園の世界からすらベンチは遠くなる。
優しい雨のベールに隠され籠められていく、そんな静謐に周太がそっと笑った。

「…夕立だね?驟雨、っても言うけど…すぐに止むと思う、」

雨音に融けるよう穏やかな声が、微笑んで教えてくれる。
その横顔はあわい緑陰と、やわらかな雨の靄に輪郭がけぶって、いつも以上に優しい。
どこか優美にすら想える空気のなか、隣の横顔は瑞々しいベールに包まれ、優しい空気が綺麗で。
この情景に心深くから、終った夏の記憶が目を覚ました。

―…今の方が、いいよ…宮田、前よりも良い顔してる

初めての外泊許可日、周太が言ってくれた言葉。
あのときも今日の様に本屋に行って、ラーメン屋に行って、服を買って。
それからこのベンチに座って、雨が降り出した。そして英二に周太は声をかけてくれた。
あのとき周太の隣が好きだと気がついて、そして、恋を初めて知った。

『隣の空気を俺は好きなんだ』

そんな言葉が心に墜ちて、もう、恋に墜ちていた。
無言でいても居心地の良い隣、それが得難い場所だと気付いて離れられなくて、立てなくなった。
あの瞬間が自分の初恋、あの初恋のまま自分は今、この隣に座っている。

―あのとき、言いたかったな?

ふっと心独り言に、英二は瞳を閉じた。
閉じられた視界の底に響くよう、やさしい驟雨の音が梢を地面を濡らしていく。
あのとき泣きたかった、けれど泣けない涙を呑みこんで耐えて、ひとつ覚悟を肚に落とした。
きっと、あの瞬間から自分は、この恋に殉じて生きることを決めていた。言えない言葉を心の底に見つめながら。

「英二?…こんな所で寝たら、風邪ひくよ、」

優しい声に、瞳が披く。
開かれた視界の真中で、黒目がちの瞳が顔を覗きこんでくれる。
あのときも、同じだった。懐かしくて英二は、あのときと同じよう答えた。

「寝てないよ、」
「ん、よかった、」

黒目がちの瞳が微笑んでくれる、その表情はあの瞬間より綺麗で明るい。
この瞳への恋しさも、愛しさも、あの瞬間よりずっと強く深く、熱い。
この熱の想いに、あのとき言えなかった言葉を告げたくなる。

もう、今なら言うことは赦される。

そんな想いと見つめた先、雨に淡く煙る樹林の緑は横顔の輪郭をやわらかく縁取る。
この横顔を振向かせて、今、想いを告げてしまいたい、あの日の願いを叶えたい。
あの瞬間と今の想いを重ねて、英二は恋しい名前を呼んだ。

「周太、」
「ん?」

ほら、今なら振向いて微笑んでくれる。
この今が嬉しくて、英二は腕を伸ばすと大切な婚約者を抱き寄せた。

「周太、君が好きだ。君に恋して愛してる、だから、俺のことだけ見つめて?…」

告げる想いのままに、唇を重ねてキスをする。
ふれるキスのはざまオレンジの香が甘くて、あの頃の想いが切ない。
あの頃も徹夜明けに見つめた寝顔は、いつも吐息がオレンジの香に甘くて、その甘さを知りたかった。
けれど警察学校の規則違反と同性愛の枷を負わせたくなくて、じっと耐えて、見つめるだけで幸せだと納得して。
それでも迫ってくる卒業式が、別離の時が切なくて、いつも本当は泣きたかった。

あの日に叶わなかったキス、叶わなかった告白。
知ることの赦されなかったオレンジの香、出来なかった約束。
その全てが今なら、叶えて、赦されて、約束ごと心も体も繋げることが出来る。
この今の瞬間が、愛おしい。

この愛しさを抱きしめたまま、そっと唇を離す。
そして見つめた首筋は紅潮昇らせて、黒目がちの瞳は羞んで長い睫を伏せてしまう。
淑やかな睫の象る翳がゆかしい艶になる、また惹きこまれるよう見つめて、そっとキスをする。
やわらかな温もり微笑んで、離れて、そして黒目がちの瞳は見上げて周太が応えてくれた。

「英二が好き…ずっと見ていたいよ?英二の笑顔は、俺の宝物だから、」

ほら、あの日の願いが今、叶った。






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第52話 露籠act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-08-06 22:31:22 | 陽はまた昇るside story
水鏡、もうひとりの



第52話 露籠act.2―side story「陽はまた昇る」

屋上の扉を開くと、湿った冷気が吹きこんだ。
開けた扉の向こう灰色の雲は垂れ籠めて、雨の気配を風に載せる。
吹き寄す風の彼方を見遣りながら、穏やかに英二は微笑んだ。

「もう奥多摩は、降っているかな、」
「たぶんね、」

からり笑って光一が答えてくれる。
底抜けに明るい目を風に細めながら、テノールの声は続けた。

「こっちも直き降るね、朝も降ったんだろ?」
「うん、静かな土砂降りだったよ、」
「土砂降りで静か、って変な表現じゃない?雨濯って言葉のが合うね、」
「うたく?初めて聴いたよ、俺」
「なにもかも押し流す位の雨、ってコト、」

話ながら歩いて、辺りを見渡せるポイントに並んで立つ。
濡れていない所を選んで手すりに凭れると、透明な目が英二を真直ぐ見つめた。

「ファイルのこと、ごめん、」

救急法と法医学をまとめた、あのファイルのことだろうか?
けれど、なぜ光一は謝るのだろう、どういう意味なのだろう?
不思議で見つめた先、軽く唇を噛んでから光一は口を開いた。

「もう解ってるよね?あの強盗犯の手首、狙ってやたってコト。アレが出来たのって、おまえのファイル読んだからなんだ。
あのファイル、おまえは人助けの為に作ったモンだろ?なのに俺、人間を傷つけるために、あのファイルのコト使ったんだよね」

告げて、ひとつ呼吸する。
そして英二を見つめたまま、光一は謝ってくれた。

「ごめん、おまえの誇りを俺、傷つけたよね?おまえのレスキューとしてのプライドが、あのファイルには詰まっている。
それなのに俺は真逆のコトに使った、おまえのプライドを傷つけたよね?だから謝りたかったんだ、それで今日は補佐に立候補した」

謝るために光一は英二に逢いたくて、吉村医師の補佐を務めてくれた。
本当は光一なら時間があれば山に登っていたいだろう、それでも英二の為に仕事を作って逢いに来た。
こういうのは素直に嬉しい、微笑んで英二は大切なパートナーに訊いた。

「俺に謝る為に光一、来てくれたんだ?」
「だよ?」

すこし困ったよう底抜けに明るい目が笑ってくれる。
そしてテノールの声が素直に謝ってくれた。

「あのファイルは、おまえの大切な時間が作ったんだ、睡眠時間も削ってさ。だから尊重したいんだよね、マジで。
おまえは俺のアンザイレンパートナーで唯ひとりの相手だ、それなのに、おまえの努力と誇りを裏切るようなコトして、ごめん、」

あのファイルは、卒業配置から今までの努力が作り上げた。
最高の山ヤの警察官になりたい、そんな男としての夢への想いと、もう1つの理由から自分は努力した。
この「もう1つの理由」に確かめたくて、英二は尋ねた。

「光一、正直に教えてほしい。あのファイルは、人間の体を破壊するのに有効?」

問いかけに、透明な目が大きくなる。
無垢の瞳は怯えたよう、見透かすよう英二の瞳を真直ぐ覗きこむ。
その目を受けとめ微笑んだ英二に、低くテノールは答えてくれた。

「有効だね。あのファイルは狙うポイントが解かりやすい、だから確実にヤれる…おまえも見た通りだよ、」

無垢のままに透明な目が、傷み隠しながら英二を見つめている。
この眼差しを裏切りたくない、真意を話す覚悟と英二は微笑んだ。

「良かった。それなら俺、あのファイルを作った甲斐があるよ、」

さあっ、

吹きつける湿った風が、額から髪を払った。
靡く前髪を透かした向う、透明な目が瞠られ射抜くよう見つめてくる。
グレーの空に雪白の額を晒しながら、テノールの声が英二に問いかけた。

「あのファイル…おまえ、周太の為に作ったね?」
「そうだよ、」

さらり答えて、英二は微笑んだ。

「いつか周太があの任務に就いた時、援けになる情報を集めて作ってある。そのためにも俺、山岳救助隊を志願したんだよ、」

これを誰かに言うのは初めてのこと、そして今が最後になるだろう。
このファイルの存在に唯一度だけ、英二は口を開いた。

「救助隊の現場は救命救急と死体見分が多いだろ?だから、人体について両方の面で学べるって考えたんだ。
人の生命を救う技術と、人間が死んでいく方法と原因。この2つを学んだら人間の体の弱点も解かる、そう思ってさ。
だから吉村先生と出会えたのは本当に幸運だった、俺が知りたい全てを先生はご存知で、しかも一番欲しいデータも採れたよ、」

この目的の為に自分は、山ヤの警察官になった。
こんな自分を山ヤとして光一は、どう判断するだろう?そう見つめた先でアンザイレンパートナーは口を開いた。

「弾道実験のコトだね?あのとき周太もテスト射手だった、おまえ…あのデータをコピーしたね?」
「したよ、」

短い返事に頷いて、英二は服務違反を認めた。
そんな英二に透明な目は深く問いかけに見つめて、テノールが訊いた。

「あのデータは警視庁の銃火器性能に関わっている、だから漏洩は厳禁だ。コピーなんて、ヤバいって解ってるよね?」
「ああ、解ってる、」

そんなことは最初から知っている、解っている。
それでも自分は「一番」を間違えてはいない、綺麗に笑って英二は口を開いた。

「実験データの処理をするとき、勝手に俺がコピーを作ったんだ。だから吉村先生は何も知らない、全ては俺の独断だよ。
あのデータが手に入って嬉しかった。射撃の癖と人体の構造を完全に把握できたら、正確な狙撃が出来るだろ?急所を外すこともね、」

正確な狙撃、急所を外す。

この言葉で光一は、ファイルの真意を理解するだろうな?
そう笑いかけた真中で光一は、すこし哀しげでも笑ってくれた。

「だね、きっと出来るね、周太なら…ほんとは、撃つこと自体を止められたらイイけどさ。あとは撃つポイントで、だね、」

本当は「撃つ」こと自体させたくない。
それが出来ないのなら撃つポイント、狙撃の位置を考えたら良い。この考えに英二は微笑んだ。

「あの任務、周太には無理だと思うんだ。だけど正確な位置で狙えたなら、殺害しないでも動きは封じられるだろ?
このあいだも光一は、犯人を殺さない代わりに体の自由を奪ったろ?あの任務でも同じように出来たら、目的は満たせる。
それで怪我をしても救急の技術があれば救けることも出来るだろ?それなら周太も相手も、命と心が救かる。そう思って作ったんだ」

周太が近い将来に就く任務、そこで負わされる責任と罪から周太を救いたい。
その救済策として自分はファイルを作りあげた、狙撃と応急処置と両方の面で活用できる知識と技術を周太に贈りたくて。
きっと周太なら知識さえあれば実戦に活用できる、そう信じて、周太に与えるべき知識を探してまとめた。
そんな想いと見つめた隣は、可笑しそうに透明な目を笑ませて言ってくれた。

「もしかしてさ?この間の逮捕で俺がヤったコト、おまえにとったら丁度いい現場実験みたいなモンってこと?」
「そうだな?光一が実践してくれたお蔭で、あのファイルが役に立つって良く解かったよ、」

ある意味で良い実験演習でもあったな?
そんな想いは少しほろ苦い、この苦み噛む微笑に光一は笑ってくれた。

「じゃあ俺、罪悪感を感じるのヤメていいよね?俺のこと、嫌っていないって想ってイイ?」
「嫌うわけないだろ?」

嫌うことなんか出来る訳が無いのに?
そう笑いかけた先で雪白の貌は微笑んで、落着いたテノールの声が教えてくれた。

「おまえが気にしていたヤツ、今のトコは白だって俺も思うよ?」
「それ、内山のこと?」

すぐに気付く見当に英二は訊き返した。
それに微笑んで頷くと、光一は言葉を続けた。

「ま、さっき授業中と終わった後に観察したダケなんだけどね?単に周太やおまえと話したいダケって感じする。
でも、あいつエリート志向だろ?そういうヤツって出世の為にヘタ扱く可能性がある、だから、この先どうなるかは何とも言えない、」

この先にどんな変化があるのか?
それは自分自身すら解からない、どんな状況に出会い影響されるか解らないから。
その哀しい可能性への覚悟も見つめて、英二は笑いかけた。

「うん、そうだな。でも俺、この先も今のままでいたいな、内山とも、」
「だね、」

底抜けに明るい目が微笑んで、白い指が伸ばされる。
こつん、指は額を小突いて、テノールの声は可笑しそうに笑った。

「ま、あいつはノンケっぽいけどさ?せいぜい周太のコト横恋慕されないよう、予防線がんばってね?俺のア・ダ・ム、」

そんな名前で呼んで、この場所でからかうんだ?
英二も可笑しくなって、自分の大切なパートナーへと笑いかけた。

「横恋慕されそうかな?そういうので気になるの、内山だけじゃないんだけどさ、」
「ふうん?大変だね、おまえもさ。ま、周太の癒しオーラって、ここじゃ余計に目立っちゃうからね、」

からり笑って答えて、透明な目は北西の空を見た。
同じ方を見遣りながら英二は、察しの良い相方に尋ねた。

「やっぱり周太、目立つ?」
「うん、相当ね。ま、周太は特別だからね、仕方ないよ、」

特別な人。
そんな言葉と笑って答えた雪白の笑顔は、どこか謎を含んで穏やかだった。
こんな貌する時の光一は「山の秘密」を想っている、だから訊いてはいけないだろう。
そして、こんな無垢の静穏を見せられたら懺悔の告白をしたくなる、その想い素直に英二は口を開いた。

「光一、ごめん。俺、今朝も危なかった。また周太のこと…殺したく、なりかけたよ、」

告げた言葉に無垢の瞳が、かすかに瞠られる。
すこしの驚きと、哀しみと、それから受けとめようとする想いが瞳に映りだす。
その瞳は英二の姿も映して真直ぐ見つめてくれる。

―鏡みたいだな、

美しい無垢の鏡、そんな想いが心に浮ぶ。
光一の洞察力が鋭いのは、無垢ゆえのフラットな視点が、真直ぐ事物の根幹を見抜くから。
この澄みきった瞳に鏡のよう自分を見つめて、ほろ苦い想いに英二は微笑んだ。

「朝、雨の音を聴きながら、ベッドで周太を抱きしめてた。静かで、雨の音と周太の寝息だけ聴こえてさ…想っていた。
もう雨は止まなくていい、この静かな世界にふたりきり眠っていたい。そんなふうに想って祈っていた、そして絶望したんだ。
ずっと離れないでいたい、でも、この願いは叶わない。もう夏が来れば、秋になれば、本当に引き離される時が来る。そう思って、絶望した」

今朝の、目覚めたばかりの優しいベッドの時間。
あの時間の幸福感が翻って、失う恐怖が絶望を呼びこんだ。あの瞬間の恐怖を英二は素直に口にした。

「俺、明日が怖い、」

この恐怖を自分は、今まで知らなかった。
この時の経過への想いを英二は、言葉に紡いだ。

「最近さ、周太の隣で幸せだって思うたびに、時間を止めたくなるんだ。失うことが怖くて、離れられなくなって、明日が怖い。
あと何回、明日が来たら引き離される瞬間が来るんだろう?そう考えてるんだよ、気がついたら、いつも。それで時間を止めたくて。
でも、なんとか我に返ってベランダに出たんだ。冷たい雨と風が吹いていて、ずぶ濡れになって、頭、冷やしたんだ。それで気付けた、」

今朝の雨と風にみた光景を、今のグレーの空に見る。
そして英二は穏やかに微笑んで、アンザイレンパートナーへと口を開いた。

「厚い雲が垂れ込めてる空だった、でも、太陽は雲の向こうにあるんだよな?今も空は曇ってるけど、最高峰の天辺は違う。
あの青と白の世界はここと違う時間が流れている、そう気づいたらさ。今は絶望しそうで苦しい時間でも、いつか終わるって思えた。
晴れない雲は無いし、止まない雨も無い。だから終わらない絶望も無い、太陽みたいに希望はいつもある。そんなふうに今朝は想えた、」

時の流れが運ぶのは、絶望の瞬間だけじゃない。
いつか、明日が積まれていく時の涯には、哀しみが終わる瞬間も必ず運ばれてくる。
そんなふうに見つけた希望に、光一は笑いかけてくれた。

「うん、そうだね?いつか終わるよ、人間は限りがある生きものだからね?おまえが諦めなければ、運命もひっくり返るね、」

『運命』

この言葉に記憶の傷みが強く抉られる。
この数日前、雲取山で聴いた言葉が『運命』に甦っていく。

“周太は道を間違えば殺される、この連鎖から逃れるのは難しい…銃で殺せば銃で殺される、それがアノ家のメビウスリンクだ”

それが周太の運命だと、山っ子は自分に告げた。

あの日は金曜日で、華道部の女性警官に告白される周太を見た。
華奢な彼女と周太は揃って白い花を持っていた、それがお似合いに見えて。それで自分は身を引いた方が良いのかと迷った。
そんな英二に光一は怒りを示して運命を告げた、その告げられた『運命』は、残酷で、けれど嬉しかった。

―…周太の立場は普通じゃない。もし周太が普通に女と恋愛して、結婚して、幸せになれるって、本気で思うワケ?
 本気で周太と連れ添うなら普通じゃ無理だ。同じ男で同じ警察官でなきゃ難しい、なにより本気で愛してなきゃ無理だね
 全部を投げ出しても自分自身を盾にしてでも護って、周太を愛そうってくらいでなきゃ無理だ…おまえしか周太のこと護れない

あのとき「おまえしか周太のこと護れない」と言われて、嬉しかった。
そして、言ってくれた光一の想いが哀しくて切なくて、どうにもならない傷みを心深く刻み込んだ。

―…はっきり言ってやる、おまえしか周太のこと護れないんだよ。
 だから俺は、おまえを周太から奪うことも、出来ないんじゃないか。おまえも周太も大切なんだ。だから邪魔したくないんだよ、
 だから俺、結局は独りになるって覚悟もしてんだ。結局、俺は本気で好きなヤツとは結ばれない、連れ添うことは出来ない
 だから俺は、おまえと『血の契』が出来たの、嬉しかったんだ

あれから考えて、ずっと見つめて、光一の痛みを自分に刻んでいる。
ずっと共に山へ登る約束をした、けれど傷みは終わらないまま今も痛んで、この痛みの分だけ光一が愛しくて。
あんなふうに言える光一こそ本当に「全部を投げ出してでも」想ってくれている、それが哀しいのに嬉しくて愛しい。
それなのに自分は今朝もまた、心折れそうになった。あの傷みを深く刻んだ自分、それなのにまだ迷ってしまう自分は、弱い。
こんな弱さが赦せない、そして無垢な『血の契』への懺悔に英二は口を開いた。

「ごめんな、光一。このあいだ言われたばっかりなのに、もう迷ってる俺は弱いよ。たぶん、この先も何度も迷うよ?
こんな自分の弱さが俺は赦せない、迷うほど光一も周太も苦しめるって解ってるのに、迷う自分が赦せないんだ…ごめん、こんな俺で、」

最後の「ごめん」に目の底から熱が零れ落ちた。
こんなふうに泣いてしまう自分は、かっこ悪くて子供で、情けない。けれど今の自分の限界は、素顔はこれなのだろう。
こんな仕方なさに微笑んだ英二の頬を、伸ばされた白い指はそっと涙拭ってくれた。

「おまえはよく耐えてるよ、大したモンだね。だから謝んないでよね?」

止まらない涙拭いながら、底抜けに明るい目が温かに笑んでくれる。
真直ぐ見つめて微笑んで、そして透明なテノールは言ってくれた。

「普通ならね、とっくに心が折れてるトコだよ?それくらい周太のコトは重たいよ、だから責められない。おまえ、良く頑張ってるね、」

やさしいテノールが心に沁みて、温かい。
大らかな温もりの懐を持つ光一、その一面は冷厳な苛烈であっても優しさは大きくて。
そんな姿は本当に「山」みたいだな?この想いに英二は涙と微笑んだ。

「ありがとう、光一。お前に言われると、なんか自信もてるよ、」
「そっか、良かったよ。でも涙、止まんないね?まあ、ちょっと今は仕方ないかな、」

温かに無垢の瞳が笑んで、白い手が頬から離れていく。
その白い手を伸ばすと英二の肩を包みこんで、そっと抱き寄せてくれた。

「ほら、泣いちゃいな?…英二、」

名前を呼んで、制服の肩に頭を抱き寄せてくれる。
ふわり花の香が頬撫でて心ほどかれる、ほっと息吐いた英二に透明なテノールが微笑んだ。

「今は存分に泣いてさ、その後は笑いなね?でさ、周太をいっぱい笑わせてやってよ、それが出来たら充分だ、」

こんなふうに本当は今、誰かに受けとめられて、泣きたかった。
この初任総合が始まって溜まり始めた不安と、絶望と、諦めたくない想いが涙にあふれだす。
静かにこぼれだす涙が青い制服を濃く染めていく、すこし青空に似た色彩を見つめながら英二は、綺麗に微笑んだ。

「うん、ありがと、光一。ちょっと泣かせてくれな…」

涙と微笑んだ声が、すこし嗚咽に掠れる。
腕を回して、長い指の掌を肩にかけて、縋るように抱きしめる。
そして英二は、唯ひとりのアンザイレンパートナーの肩に顔を埋めて、グレーの空の下に泣いた。
その空の向こうに希望が輝くことを祈りながら。




(to be continued)

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