天の水、ふりそそぐ想いは
第52話 露籠act.1―side story「陽はまた昇る」
ガラス敲く音が、旋律になる。
ゆるやかに音は間隔を狭め、空間を水音が占めていく。
カーテン透かす光は淡い、もう夜が明けても仄暗い底に部屋は沈みこむ。
どこか流れ止められた時間は澹に埋もれて、寂しげな安らぎが寄添ってくる。
はたた、はたた…
ガラス打つ雨音が、眠り醒めた耳朶を撫でていく。
その音の合間を慰めるように、やさしい寝息が脈打っている。
穏やかな吐息は英二の懐で、オレンジの香と温もりを燻らせながら深く眠りこむ。
その微笑んだ唇にキスふれる、ふれたキスが甘くて、幸せで英二は微笑んだ。
「…周太、」
そっと名前を呼んで、やさしい寝顔に笑いかける。
雨ふる音と翳に籠められたモノトーンの部屋、眠る頬の紅潮だけが鮮やかな息吹に見えて。
世界に唯ひとつ咲いた花を抱いている、そんな想いに尚更この瞬間が愛しくなる。
…はたた、はたん、はたた…
優しい雨ふる音、やわらかな寝息の声、あわいオレンジの香。
ただ眠っているだけの人、けれど長い睫も薄紅の頬も生きて、シャツ透かす体温は命の鼓動を響かせる。
この静謐に横たわり抱きしめて、恋愛の生命を腕に抱いている。この瞬間こそが自分の全て。
そんな想いに見上げた窓は、カーテン透かして水の軌跡が影映す。
まだ雨は止まない、恋しい人と自分を閉じ込めるように。
もう雨は止まなくていい、このモノトーンの静寂にふたりきり眠っていたい。
そんな願い抱きしめて、けれど英二は腕をほどいた。
「…危ないな、また、」
こぼれた吐息が、ほろ苦い。
こんなふうに、ふたりきりを願うことが今は怖い。
ずっと永遠のふたりきりを願う、そのたび心が泣きだしそうで、叶わぬ願いに絶望してしまいそうで、怖い。
こんなに自分が弱いだなんて、想わなかったのに?
「…頭、冷やして来るな?周太、」
眠る恋人へ微笑んでキスふれる、そして抱きしめた体から腕を静かに抜いた。
音たてないようベッドを降りて、そのままタオルを持つとベランダの窓に向かう。
そして長い指をカーテンに掛けて微かな音に引いた。
…しゃっ…
ちいさな布引く音に、濡れたガラスが現われる。
水が軌跡を描く窓の向こう、グレーの濃淡が雲を象り風に動いていく。
北西の方角も灰色の雲が充たしている、きっと奥多摩も雨だろう。
グレーの彼方に郷愁を見つめながら、長い指は窓の鍵を外した。
かたん、
鍵外された窓の把手に、長い指を掛ける。
静かに指先へ力籠めると、大きな窓はゆっくり音も無く開かれていく。
さああっ…
開かれた窓から、雨音が心ふれていく。
冷えた風が水を香らせ頬撫でる、そのまま微風の外へと英二は足をおろした。
さあっ、さあああ…
絶えない雨ふるベランダは、誰もいない。
生まれたはずの太陽も雲の向こう鎖されて、暁の光すら大地に届かない。
薄闇の支配する朝のなか、ふりそそぐ水の風へと英二は目を細めた。
―なんだか、心を曝されているみたいだな…
太陽は、今も空にあるだろう。
けれど隠された雨雲に見えない今が、どこか希望を隠される心と似ている。
この今もベッドで見つめてしまった「ふたりきり横たわっていたい」想いは、甘やかな絶望の願いだから。
もう6月になった、この雨は夏を呼ぶだろう。
そして呼ばれる夏に希望ごと遮られて、未来の幸せな瞬間を見つめることが出来ない。
そんな今の自分だから、甘い絶望に沈んでは自分勝手な欲望に奔りそうになる。
いま眠るひとの首に、この掌を掛けたなら?
そんなことをしても幸せにはなれない、そう解っている。
それなのに、別離の瞬間が怖くて怯えて、ともに眠れる今に時を止めたいと願ってしまう。
そんな自分は弱すぎる、こんな自分が悔しくて赦せない、それなのに衝動は消えない。
この掌には今、抱きしめていた体温がまだ温かい。
この耳に聴いた吐息は優しい音楽になって、幸せな記憶を残している。
ふれる吐息のオレンジの香も、黒髪ゆれる穏やかで爽やかな匂いも、自分は好きで。
温もり、声、香、それから瞳の表情、抱きついてくれる掌と腕の想い、何もかもが愛しくて堪らない。
この全てが「生きている」から輝くのだと知っている、それなのに何故、衝動が消えない?
―どうして…
自分で自分が解からない、ただ恋して愛していることしか解からない。
この想いだけが真実で、確かなもので、この想いの為に護りたいと願い努力を積んできた。
それなのに時の迫る今、共に死を願ってしまう。こんな弱さを後悔した自分なのに、今もまた心揺らいだ。
だから想う、もしかしたら人は自分自身が最大の敵なのかもしれない。
―必死なほど、自分が敵になるのかな…自分の弱さが壁になって、
ただ想い廻らしながら手すりに凭れ、雨空に身を晒す。
髪を透って雫こぼれて、頬に首筋に冷たく降りそそぐ。もうシャツが濡れて、絡むよう肌に纏わりつく。
濡れたシャツ透かして雨が肌を打つ、水うたれる感覚に意識が冷えて、落着いた思考が戻りだす。
見つめる空間は雨に、白い紗がおりて幻のよう目に映る。そんな情景に、どこか儚い涯を見た。
この世界の全ては幻かもしれない。
この今に自分が抱いている不安も哀しみも、儚い夢かもしれない。
それならば絶望にすら「涯」が、終わりがきっとあるだろう、だから信じて進んだなら希望に遭える?
この雨雲を抜けた向こうには、太陽が変わることなく輝いているように、自分が求める幸福の瞬間もあるだろうか?
「…きっと、ある、」
確信を見つめて微笑んだ、その向こうに灰色の空が動いた。
ゆるやかな風が濡れた頬を撫でていく、その風に誘われるよう雲は流れて、空の一角が明るみだす。
そして風雨の紗を透かした空の彼方、太陽の俤が白く現われた。
―お父さん…?
現われた太陽に写真の俤を見て、濡れたシャツの胸元を握りこむ。
握りしめる掌の中には小さく、けれど硬く確かな輪郭が触れてくれる。
この鍵は大切な家を開く宝物、この持主への想いに熱が瞳の奥に灯りだす。
そして生まれた涙は想いの軌跡を描いて、雨と一緒に頬を伝った。
この鍵で馨は、あの夜も家に帰りたかった。
この鍵で家の扉を開いて、愛する妻と息子の笑顔に笑いかけたかった。
その想いごと自分は鍵を託されている、このことを忘れかけていたと今、気付かされる。
―俺も、この鍵で家に帰るんだ…周太が待つ家に、お母さんが待ってくれる家に、
この鍵で必ず帰り続けたい、そして大切な笑顔を護りたい。
この大切な願いを忘れて、自分は「別離」という名の絶望に心浸していた。
ただ、願えばいい。そんなシンプルなことにどうして、気付けなかったのだろう?
それくらい自分は「別離」が怖い、こんなにも暗愚になって気づけなくなるほど、怯えている。
だから覚悟をしたい。
きっと自分は、この先も何度も怯えるだろう。
これから現われる周太の危険、別離の瞬間たち、自分の無力感。そんなものに打ちのめされるだろう。
それでも何度でも自分は、この鍵の想いを蘇らせて立ち上がりたい。どんなに泣いても、絶対に諦めたくはない。
きっと絶望の雲の向こうには、幸せの瞬間が待っていると希望を見つめたい。
晴れない雲は無く、止まない雨も無い。だから終わらない絶望も、きっと無い。
そう信じていたい、何度でも「鍵」を想い出して。
何度も泣いても、幾度も絶望に惹きこまれても、暗い衝動に襲われても負けたくない。
どうか必ず暗い時を越えて、明るい幸せの瞬間に愛する人を攫いたい。
その瞬間の為にだけ、自分は命を懸けたい。
―死ぬために命を懸けるんじゃない、救けるために、生きるために命を懸けるんだ、
これが自分の願い、もう最初から見つめている。
この祈りに全てを懸けようと決めて、ここまで来た。
どうかこの願いを叶えたい。
幸せの笑顔だけが愛する人に咲く、そんな穏やかな日々を迎えたい。
その為だけに自分は命を懸けたい。ふたり永遠に眠るのは、ずっと先の未来でいい。
「うん…もっと先で、いいよな?」
これで覚悟が今、また1つ肚に座ったな?
この想いに微笑んで見上げた空は、雲が強い風に動いていく。
こんなふうに風動くとき、山の天候変化は大きい。けれど最高峰の頂は、晴れているかもしれない。
あの青く白い世界では、雲すら足元に見下ろす高い「神の領域」と似た視点が与えられる。
あの場所にもし今、自分が立っていたならば、こんな悩みは小さく見えるだろう。
「よし、」
もう、頭はクリアになった。
髪もシャツも天の水に冷やされて、肌から脳髄まで冷静が戻っている。
これならもう大丈夫、そんな想い微笑んだ背中に、大好きな声が掛けられた。
「えいじ?どうしたの、ずぶぬれだよ?」
愛しい声に振向いた視線の真中で、黒目がちの瞳が大きくなっている。
いったいどうしちゃったの?そんな疑問に瞳が困ったよう見つめてくれる。
そんな貌も可愛くて愛しくて、濡れた髪を掻きあげながら英二は綺麗に笑った。
「おはよう、周太。いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ?」
こんな答えにどう反応してくれるかな?
やっぱり、ちょっと変だって思われても仕方ないな?
そう笑いかけた先で黒目がちの瞳は、可笑しそうに微笑んでくれた。
「ん、雨に濡れるのも楽しいよね?…でも、風邪ひくといけないから、こっちに来て?拭いてあげるから、」
拭いてくれるなんて嬉しいです、俺に構って?
そんな素直な想いこぼれて、我ながら笑ってしまう。
この笑顔の幸せを見つめて英二は、部屋の中へと戻った。
今日最後の授業は2時限連続で、救急法の総括になっている。
これは自分にとって、最も身近な現場で大切な知識だから楽しみにしていた。
その授業始めに礼が終わると、遠野教官はいつものよう渋い声で言った。
「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」
言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせる。
その視線と言葉から講師が誰なのか、もう解かってしまう。
そう微笑んで見た扉が静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が現われた。
「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」
穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
きっと藤岡と関根と、瀬尾も笑っているだろう。そして誰より周太が嬉しく微笑んだろうな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話しを続けた。
「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」
そこまで説明し、吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。
「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」
「ああ、こちらこそ申し訳ありません、」
会話を交わし吉村医師は笑っている、その相手に英二の視線は止められた。
まだ見慣れない夏服姿、けれど背中も横顔もよく知っている、その透明な声すらも。
―なんだって今、ここにいるのだろう?
そんな疑問の真中で当人は資料を配っている。
そして英二に資料が手渡された時、相手の名前は唇から零れた。
「光一?なんで今、ここにいるんだよ?」
つぶやいた名前に、雪白の貌がこちらを見てくれる。
その貌で底抜けに明るい目は悪戯っ子に笑って、そして笑い堪えたテノールが言った。
「宮田くん、私は講師の補佐として居るんですよ?だから『国村さん』と呼んで下さいね、」
一人称「私」を遣う「国村さん」とは、初対面だな?
そんな感想が可笑しくなって、つい笑ってしまいそうになる。
けれど逢えたことが今、嬉しくて英二は素直に答えた。
「はい、失礼いたしました。国村さん、」
「うん、素直でよろしいですね、」
からり笑って「国村さん」はまた資料を配り始めた。
(to be continued)
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第52話 露籠act.1―side story「陽はまた昇る」
ガラス敲く音が、旋律になる。
ゆるやかに音は間隔を狭め、空間を水音が占めていく。
カーテン透かす光は淡い、もう夜が明けても仄暗い底に部屋は沈みこむ。
どこか流れ止められた時間は澹に埋もれて、寂しげな安らぎが寄添ってくる。
はたた、はたた…
ガラス打つ雨音が、眠り醒めた耳朶を撫でていく。
その音の合間を慰めるように、やさしい寝息が脈打っている。
穏やかな吐息は英二の懐で、オレンジの香と温もりを燻らせながら深く眠りこむ。
その微笑んだ唇にキスふれる、ふれたキスが甘くて、幸せで英二は微笑んだ。
「…周太、」
そっと名前を呼んで、やさしい寝顔に笑いかける。
雨ふる音と翳に籠められたモノトーンの部屋、眠る頬の紅潮だけが鮮やかな息吹に見えて。
世界に唯ひとつ咲いた花を抱いている、そんな想いに尚更この瞬間が愛しくなる。
…はたた、はたん、はたた…
優しい雨ふる音、やわらかな寝息の声、あわいオレンジの香。
ただ眠っているだけの人、けれど長い睫も薄紅の頬も生きて、シャツ透かす体温は命の鼓動を響かせる。
この静謐に横たわり抱きしめて、恋愛の生命を腕に抱いている。この瞬間こそが自分の全て。
そんな想いに見上げた窓は、カーテン透かして水の軌跡が影映す。
まだ雨は止まない、恋しい人と自分を閉じ込めるように。
もう雨は止まなくていい、このモノトーンの静寂にふたりきり眠っていたい。
そんな願い抱きしめて、けれど英二は腕をほどいた。
「…危ないな、また、」
こぼれた吐息が、ほろ苦い。
こんなふうに、ふたりきりを願うことが今は怖い。
ずっと永遠のふたりきりを願う、そのたび心が泣きだしそうで、叶わぬ願いに絶望してしまいそうで、怖い。
こんなに自分が弱いだなんて、想わなかったのに?
「…頭、冷やして来るな?周太、」
眠る恋人へ微笑んでキスふれる、そして抱きしめた体から腕を静かに抜いた。
音たてないようベッドを降りて、そのままタオルを持つとベランダの窓に向かう。
そして長い指をカーテンに掛けて微かな音に引いた。
…しゃっ…
ちいさな布引く音に、濡れたガラスが現われる。
水が軌跡を描く窓の向こう、グレーの濃淡が雲を象り風に動いていく。
北西の方角も灰色の雲が充たしている、きっと奥多摩も雨だろう。
グレーの彼方に郷愁を見つめながら、長い指は窓の鍵を外した。
かたん、
鍵外された窓の把手に、長い指を掛ける。
静かに指先へ力籠めると、大きな窓はゆっくり音も無く開かれていく。
さああっ…
開かれた窓から、雨音が心ふれていく。
冷えた風が水を香らせ頬撫でる、そのまま微風の外へと英二は足をおろした。
さあっ、さあああ…
絶えない雨ふるベランダは、誰もいない。
生まれたはずの太陽も雲の向こう鎖されて、暁の光すら大地に届かない。
薄闇の支配する朝のなか、ふりそそぐ水の風へと英二は目を細めた。
―なんだか、心を曝されているみたいだな…
太陽は、今も空にあるだろう。
けれど隠された雨雲に見えない今が、どこか希望を隠される心と似ている。
この今もベッドで見つめてしまった「ふたりきり横たわっていたい」想いは、甘やかな絶望の願いだから。
もう6月になった、この雨は夏を呼ぶだろう。
そして呼ばれる夏に希望ごと遮られて、未来の幸せな瞬間を見つめることが出来ない。
そんな今の自分だから、甘い絶望に沈んでは自分勝手な欲望に奔りそうになる。
いま眠るひとの首に、この掌を掛けたなら?
そんなことをしても幸せにはなれない、そう解っている。
それなのに、別離の瞬間が怖くて怯えて、ともに眠れる今に時を止めたいと願ってしまう。
そんな自分は弱すぎる、こんな自分が悔しくて赦せない、それなのに衝動は消えない。
この掌には今、抱きしめていた体温がまだ温かい。
この耳に聴いた吐息は優しい音楽になって、幸せな記憶を残している。
ふれる吐息のオレンジの香も、黒髪ゆれる穏やかで爽やかな匂いも、自分は好きで。
温もり、声、香、それから瞳の表情、抱きついてくれる掌と腕の想い、何もかもが愛しくて堪らない。
この全てが「生きている」から輝くのだと知っている、それなのに何故、衝動が消えない?
―どうして…
自分で自分が解からない、ただ恋して愛していることしか解からない。
この想いだけが真実で、確かなもので、この想いの為に護りたいと願い努力を積んできた。
それなのに時の迫る今、共に死を願ってしまう。こんな弱さを後悔した自分なのに、今もまた心揺らいだ。
だから想う、もしかしたら人は自分自身が最大の敵なのかもしれない。
―必死なほど、自分が敵になるのかな…自分の弱さが壁になって、
ただ想い廻らしながら手すりに凭れ、雨空に身を晒す。
髪を透って雫こぼれて、頬に首筋に冷たく降りそそぐ。もうシャツが濡れて、絡むよう肌に纏わりつく。
濡れたシャツ透かして雨が肌を打つ、水うたれる感覚に意識が冷えて、落着いた思考が戻りだす。
見つめる空間は雨に、白い紗がおりて幻のよう目に映る。そんな情景に、どこか儚い涯を見た。
この世界の全ては幻かもしれない。
この今に自分が抱いている不安も哀しみも、儚い夢かもしれない。
それならば絶望にすら「涯」が、終わりがきっとあるだろう、だから信じて進んだなら希望に遭える?
この雨雲を抜けた向こうには、太陽が変わることなく輝いているように、自分が求める幸福の瞬間もあるだろうか?
「…きっと、ある、」
確信を見つめて微笑んだ、その向こうに灰色の空が動いた。
ゆるやかな風が濡れた頬を撫でていく、その風に誘われるよう雲は流れて、空の一角が明るみだす。
そして風雨の紗を透かした空の彼方、太陽の俤が白く現われた。
―お父さん…?
現われた太陽に写真の俤を見て、濡れたシャツの胸元を握りこむ。
握りしめる掌の中には小さく、けれど硬く確かな輪郭が触れてくれる。
この鍵は大切な家を開く宝物、この持主への想いに熱が瞳の奥に灯りだす。
そして生まれた涙は想いの軌跡を描いて、雨と一緒に頬を伝った。
この鍵で馨は、あの夜も家に帰りたかった。
この鍵で家の扉を開いて、愛する妻と息子の笑顔に笑いかけたかった。
その想いごと自分は鍵を託されている、このことを忘れかけていたと今、気付かされる。
―俺も、この鍵で家に帰るんだ…周太が待つ家に、お母さんが待ってくれる家に、
この鍵で必ず帰り続けたい、そして大切な笑顔を護りたい。
この大切な願いを忘れて、自分は「別離」という名の絶望に心浸していた。
ただ、願えばいい。そんなシンプルなことにどうして、気付けなかったのだろう?
それくらい自分は「別離」が怖い、こんなにも暗愚になって気づけなくなるほど、怯えている。
だから覚悟をしたい。
きっと自分は、この先も何度も怯えるだろう。
これから現われる周太の危険、別離の瞬間たち、自分の無力感。そんなものに打ちのめされるだろう。
それでも何度でも自分は、この鍵の想いを蘇らせて立ち上がりたい。どんなに泣いても、絶対に諦めたくはない。
きっと絶望の雲の向こうには、幸せの瞬間が待っていると希望を見つめたい。
晴れない雲は無く、止まない雨も無い。だから終わらない絶望も、きっと無い。
そう信じていたい、何度でも「鍵」を想い出して。
何度も泣いても、幾度も絶望に惹きこまれても、暗い衝動に襲われても負けたくない。
どうか必ず暗い時を越えて、明るい幸せの瞬間に愛する人を攫いたい。
その瞬間の為にだけ、自分は命を懸けたい。
―死ぬために命を懸けるんじゃない、救けるために、生きるために命を懸けるんだ、
これが自分の願い、もう最初から見つめている。
この祈りに全てを懸けようと決めて、ここまで来た。
どうかこの願いを叶えたい。
幸せの笑顔だけが愛する人に咲く、そんな穏やかな日々を迎えたい。
その為だけに自分は命を懸けたい。ふたり永遠に眠るのは、ずっと先の未来でいい。
「うん…もっと先で、いいよな?」
これで覚悟が今、また1つ肚に座ったな?
この想いに微笑んで見上げた空は、雲が強い風に動いていく。
こんなふうに風動くとき、山の天候変化は大きい。けれど最高峰の頂は、晴れているかもしれない。
あの青く白い世界では、雲すら足元に見下ろす高い「神の領域」と似た視点が与えられる。
あの場所にもし今、自分が立っていたならば、こんな悩みは小さく見えるだろう。
「よし、」
もう、頭はクリアになった。
髪もシャツも天の水に冷やされて、肌から脳髄まで冷静が戻っている。
これならもう大丈夫、そんな想い微笑んだ背中に、大好きな声が掛けられた。
「えいじ?どうしたの、ずぶぬれだよ?」
愛しい声に振向いた視線の真中で、黒目がちの瞳が大きくなっている。
いったいどうしちゃったの?そんな疑問に瞳が困ったよう見つめてくれる。
そんな貌も可愛くて愛しくて、濡れた髪を掻きあげながら英二は綺麗に笑った。
「おはよう、周太。いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ?」
こんな答えにどう反応してくれるかな?
やっぱり、ちょっと変だって思われても仕方ないな?
そう笑いかけた先で黒目がちの瞳は、可笑しそうに微笑んでくれた。
「ん、雨に濡れるのも楽しいよね?…でも、風邪ひくといけないから、こっちに来て?拭いてあげるから、」
拭いてくれるなんて嬉しいです、俺に構って?
そんな素直な想いこぼれて、我ながら笑ってしまう。
この笑顔の幸せを見つめて英二は、部屋の中へと戻った。
今日最後の授業は2時限連続で、救急法の総括になっている。
これは自分にとって、最も身近な現場で大切な知識だから楽しみにしていた。
その授業始めに礼が終わると、遠野教官はいつものよう渋い声で言った。
「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」
言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせる。
その視線と言葉から講師が誰なのか、もう解かってしまう。
そう微笑んで見た扉が静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が現われた。
「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」
穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
きっと藤岡と関根と、瀬尾も笑っているだろう。そして誰より周太が嬉しく微笑んだろうな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話しを続けた。
「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」
そこまで説明し、吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。
「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」
「ああ、こちらこそ申し訳ありません、」
会話を交わし吉村医師は笑っている、その相手に英二の視線は止められた。
まだ見慣れない夏服姿、けれど背中も横顔もよく知っている、その透明な声すらも。
―なんだって今、ここにいるのだろう?
そんな疑問の真中で当人は資料を配っている。
そして英二に資料が手渡された時、相手の名前は唇から零れた。
「光一?なんで今、ここにいるんだよ?」
つぶやいた名前に、雪白の貌がこちらを見てくれる。
その貌で底抜けに明るい目は悪戯っ子に笑って、そして笑い堪えたテノールが言った。
「宮田くん、私は講師の補佐として居るんですよ?だから『国村さん』と呼んで下さいね、」
一人称「私」を遣う「国村さん」とは、初対面だな?
そんな感想が可笑しくなって、つい笑ってしまいそうになる。
けれど逢えたことが今、嬉しくて英二は素直に答えた。
「はい、失礼いたしました。国村さん、」
「うん、素直でよろしいですね、」
からり笑って「国村さん」はまた資料を配り始めた。
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