萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露籠act.1―side story「陽はまた昇る」

2012-08-05 22:33:43 | 陽はまた昇るside story
天の水、ふりそそぐ想いは



第52話 露籠act.1―side story「陽はまた昇る」

ガラス敲く音が、旋律になる。

ゆるやかに音は間隔を狭め、空間を水音が占めていく。
カーテン透かす光は淡い、もう夜が明けても仄暗い底に部屋は沈みこむ。
どこか流れ止められた時間は澹に埋もれて、寂しげな安らぎが寄添ってくる。

はたた、はたた…

ガラス打つ雨音が、眠り醒めた耳朶を撫でていく。
その音の合間を慰めるように、やさしい寝息が脈打っている。
穏やかな吐息は英二の懐で、オレンジの香と温もりを燻らせながら深く眠りこむ。
その微笑んだ唇にキスふれる、ふれたキスが甘くて、幸せで英二は微笑んだ。

「…周太、」

そっと名前を呼んで、やさしい寝顔に笑いかける。
雨ふる音と翳に籠められたモノトーンの部屋、眠る頬の紅潮だけが鮮やかな息吹に見えて。
世界に唯ひとつ咲いた花を抱いている、そんな想いに尚更この瞬間が愛しくなる。

…はたた、はたん、はたた…

優しい雨ふる音、やわらかな寝息の声、あわいオレンジの香。
ただ眠っているだけの人、けれど長い睫も薄紅の頬も生きて、シャツ透かす体温は命の鼓動を響かせる。
この静謐に横たわり抱きしめて、恋愛の生命を腕に抱いている。この瞬間こそが自分の全て。
そんな想いに見上げた窓は、カーテン透かして水の軌跡が影映す。

まだ雨は止まない、恋しい人と自分を閉じ込めるように。
もう雨は止まなくていい、このモノトーンの静寂にふたりきり眠っていたい。
そんな願い抱きしめて、けれど英二は腕をほどいた。

「…危ないな、また、」

こぼれた吐息が、ほろ苦い。
こんなふうに、ふたりきりを願うことが今は怖い。
ずっと永遠のふたりきりを願う、そのたび心が泣きだしそうで、叶わぬ願いに絶望してしまいそうで、怖い。
こんなに自分が弱いだなんて、想わなかったのに?

「…頭、冷やして来るな?周太、」

眠る恋人へ微笑んでキスふれる、そして抱きしめた体から腕を静かに抜いた。
音たてないようベッドを降りて、そのままタオルを持つとベランダの窓に向かう。
そして長い指をカーテンに掛けて微かな音に引いた。

…しゃっ…

ちいさな布引く音に、濡れたガラスが現われる。
水が軌跡を描く窓の向こう、グレーの濃淡が雲を象り風に動いていく。
北西の方角も灰色の雲が充たしている、きっと奥多摩も雨だろう。
グレーの彼方に郷愁を見つめながら、長い指は窓の鍵を外した。

かたん、

鍵外された窓の把手に、長い指を掛ける。
静かに指先へ力籠めると、大きな窓はゆっくり音も無く開かれていく。

さああっ…

開かれた窓から、雨音が心ふれていく。
冷えた風が水を香らせ頬撫でる、そのまま微風の外へと英二は足をおろした。

さあっ、さあああ…

絶えない雨ふるベランダは、誰もいない。
生まれたはずの太陽も雲の向こう鎖されて、暁の光すら大地に届かない。
薄闇の支配する朝のなか、ふりそそぐ水の風へと英二は目を細めた。

―なんだか、心を曝されているみたいだな…

太陽は、今も空にあるだろう。
けれど隠された雨雲に見えない今が、どこか希望を隠される心と似ている。
この今もベッドで見つめてしまった「ふたりきり横たわっていたい」想いは、甘やかな絶望の願いだから。

もう6月になった、この雨は夏を呼ぶだろう。
そして呼ばれる夏に希望ごと遮られて、未来の幸せな瞬間を見つめることが出来ない。
そんな今の自分だから、甘い絶望に沈んでは自分勝手な欲望に奔りそうになる。

いま眠るひとの首に、この掌を掛けたなら?

そんなことをしても幸せにはなれない、そう解っている。
それなのに、別離の瞬間が怖くて怯えて、ともに眠れる今に時を止めたいと願ってしまう。
そんな自分は弱すぎる、こんな自分が悔しくて赦せない、それなのに衝動は消えない。

この掌には今、抱きしめていた体温がまだ温かい。
この耳に聴いた吐息は優しい音楽になって、幸せな記憶を残している。
ふれる吐息のオレンジの香も、黒髪ゆれる穏やかで爽やかな匂いも、自分は好きで。
温もり、声、香、それから瞳の表情、抱きついてくれる掌と腕の想い、何もかもが愛しくて堪らない。
この全てが「生きている」から輝くのだと知っている、それなのに何故、衝動が消えない?

―どうして…

自分で自分が解からない、ただ恋して愛していることしか解からない。
この想いだけが真実で、確かなもので、この想いの為に護りたいと願い努力を積んできた。
それなのに時の迫る今、共に死を願ってしまう。こんな弱さを後悔した自分なのに、今もまた心揺らいだ。
だから想う、もしかしたら人は自分自身が最大の敵なのかもしれない。

―必死なほど、自分が敵になるのかな…自分の弱さが壁になって、

ただ想い廻らしながら手すりに凭れ、雨空に身を晒す。
髪を透って雫こぼれて、頬に首筋に冷たく降りそそぐ。もうシャツが濡れて、絡むよう肌に纏わりつく。
濡れたシャツ透かして雨が肌を打つ、水うたれる感覚に意識が冷えて、落着いた思考が戻りだす。
見つめる空間は雨に、白い紗がおりて幻のよう目に映る。そんな情景に、どこか儚い涯を見た。

この世界の全ては幻かもしれない。
この今に自分が抱いている不安も哀しみも、儚い夢かもしれない。
それならば絶望にすら「涯」が、終わりがきっとあるだろう、だから信じて進んだなら希望に遭える?
この雨雲を抜けた向こうには、太陽が変わることなく輝いているように、自分が求める幸福の瞬間もあるだろうか?

「…きっと、ある、」

確信を見つめて微笑んだ、その向こうに灰色の空が動いた。
ゆるやかな風が濡れた頬を撫でていく、その風に誘われるよう雲は流れて、空の一角が明るみだす。
そして風雨の紗を透かした空の彼方、太陽の俤が白く現われた。

―お父さん…?

現われた太陽に写真の俤を見て、濡れたシャツの胸元を握りこむ。
握りしめる掌の中には小さく、けれど硬く確かな輪郭が触れてくれる。
この鍵は大切な家を開く宝物、この持主への想いに熱が瞳の奥に灯りだす。
そして生まれた涙は想いの軌跡を描いて、雨と一緒に頬を伝った。

この鍵で馨は、あの夜も家に帰りたかった。
この鍵で家の扉を開いて、愛する妻と息子の笑顔に笑いかけたかった。
その想いごと自分は鍵を託されている、このことを忘れかけていたと今、気付かされる。

―俺も、この鍵で家に帰るんだ…周太が待つ家に、お母さんが待ってくれる家に、

この鍵で必ず帰り続けたい、そして大切な笑顔を護りたい。

この大切な願いを忘れて、自分は「別離」という名の絶望に心浸していた。
ただ、願えばいい。そんなシンプルなことにどうして、気付けなかったのだろう?
それくらい自分は「別離」が怖い、こんなにも暗愚になって気づけなくなるほど、怯えている。
だから覚悟をしたい。

きっと自分は、この先も何度も怯えるだろう。
これから現われる周太の危険、別離の瞬間たち、自分の無力感。そんなものに打ちのめされるだろう。
それでも何度でも自分は、この鍵の想いを蘇らせて立ち上がりたい。どんなに泣いても、絶対に諦めたくはない。
きっと絶望の雲の向こうには、幸せの瞬間が待っていると希望を見つめたい。

晴れない雲は無く、止まない雨も無い。だから終わらない絶望も、きっと無い。

そう信じていたい、何度でも「鍵」を想い出して。
何度も泣いても、幾度も絶望に惹きこまれても、暗い衝動に襲われても負けたくない。
どうか必ず暗い時を越えて、明るい幸せの瞬間に愛する人を攫いたい。
その瞬間の為にだけ、自分は命を懸けたい。

―死ぬために命を懸けるんじゃない、救けるために、生きるために命を懸けるんだ、

これが自分の願い、もう最初から見つめている。
この祈りに全てを懸けようと決めて、ここまで来た。

どうかこの願いを叶えたい。
幸せの笑顔だけが愛する人に咲く、そんな穏やかな日々を迎えたい。
その為だけに自分は命を懸けたい。ふたり永遠に眠るのは、ずっと先の未来でいい。

「うん…もっと先で、いいよな?」

これで覚悟が今、また1つ肚に座ったな?
この想いに微笑んで見上げた空は、雲が強い風に動いていく。
こんなふうに風動くとき、山の天候変化は大きい。けれど最高峰の頂は、晴れているかもしれない。
あの青く白い世界では、雲すら足元に見下ろす高い「神の領域」と似た視点が与えられる。
あの場所にもし今、自分が立っていたならば、こんな悩みは小さく見えるだろう。

「よし、」

もう、頭はクリアになった。
髪もシャツも天の水に冷やされて、肌から脳髄まで冷静が戻っている。
これならもう大丈夫、そんな想い微笑んだ背中に、大好きな声が掛けられた。

「えいじ?どうしたの、ずぶぬれだよ?」

愛しい声に振向いた視線の真中で、黒目がちの瞳が大きくなっている。
いったいどうしちゃったの?そんな疑問に瞳が困ったよう見つめてくれる。
そんな貌も可愛くて愛しくて、濡れた髪を掻きあげながら英二は綺麗に笑った。

「おはよう、周太。いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ?」

こんな答えにどう反応してくれるかな?
やっぱり、ちょっと変だって思われても仕方ないな?
そう笑いかけた先で黒目がちの瞳は、可笑しそうに微笑んでくれた。

「ん、雨に濡れるのも楽しいよね?…でも、風邪ひくといけないから、こっちに来て?拭いてあげるから、」

拭いてくれるなんて嬉しいです、俺に構って?

そんな素直な想いこぼれて、我ながら笑ってしまう。
この笑顔の幸せを見つめて英二は、部屋の中へと戻った。



今日最後の授業は2時限連続で、救急法の総括になっている。
これは自分にとって、最も身近な現場で大切な知識だから楽しみにしていた。
その授業始めに礼が終わると、遠野教官はいつものよう渋い声で言った。

「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」

言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせる。
その視線と言葉から講師が誰なのか、もう解かってしまう。
そう微笑んで見た扉が静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が現われた。

「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」

穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
きっと藤岡と関根と、瀬尾も笑っているだろう。そして誰より周太が嬉しく微笑んだろうな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話しを続けた。

「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」

そこまで説明し、吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。

「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」
「ああ、こちらこそ申し訳ありません、」

会話を交わし吉村医師は笑っている、その相手に英二の視線は止められた。
まだ見慣れない夏服姿、けれど背中も横顔もよく知っている、その透明な声すらも。

―なんだって今、ここにいるのだろう?

そんな疑問の真中で当人は資料を配っている。
そして英二に資料が手渡された時、相手の名前は唇から零れた。

「光一?なんで今、ここにいるんだよ?」

つぶやいた名前に、雪白の貌がこちらを見てくれる。
その貌で底抜けに明るい目は悪戯っ子に笑って、そして笑い堪えたテノールが言った。

「宮田くん、私は講師の補佐として居るんですよ?だから『国村さん』と呼んで下さいね、」

一人称「私」を遣う「国村さん」とは、初対面だな?

そんな感想が可笑しくなって、つい笑ってしまいそうになる。
けれど逢えたことが今、嬉しくて英二は素直に答えた。

「はい、失礼いたしました。国村さん、」
「うん、素直でよろしいですね、」

からり笑って「国村さん」はまた資料を配り始めた。





(to be continued)

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one scene 某日、学校にてact.6―side story「陽はまた昇る」

2012-08-05 04:36:08 | 陽はまた昇るside story
言えないことも、



one scene 某日、学校にてact.6―side story「陽はまた昇る」

白いシーツに黒髪こぼれて、暁の光に艶ふりそそぐ。
すこし紅潮した頬のあわい色彩が優しい、その頬に翳おとす睫にも光けぶる。
幸せに微笑んで眠る唇が愛しくて、そっと英二はキスをした。

「…周太、」

宝物のよう名前ささやいて、もういちど唇を重ねる。
ふれる時はオレンジの香あまくて、すっかり馴染んだ味が嬉しい。
まだ今は夜明けの時、だから独り占めできる時間は2時間はある。でも今日はそれだけじゃない。

―今日は、昼間も独り占め出来るな、

今日は日曜日、ふたりで外出をする。そんな予定に微笑んでしまう。
本当は青梅から真直ぐ川崎に帰りたかった、けれど状況が変わって警察学校寮に戻って。
それを後悔はしない、山ヤとしてレスキューとして、男として友達として、藤岡1人にするわけにいかないから。
けれど、周太との約束を守れないことは哀しくて。逢えない時間と独りの夜を思うと、辛くて。
昨日帰って自室の扉を開いた瞬間、からっぽの空洞が心映りこんで煙草が恋しくなった。けれど、周太は待ってくれていた。

―…俺の隣が英二の帰る場所なのでしょう?だから、待ってたよ

そう言ってくれて、うれしかった。
約束を守れなかったのに、それでも周太はここで待っていてくれた。
まさかと思った、逢いたい気持ちの幻なのかと思った、夜眠り墜ちる瞬間も幻を抱いているのかと不安で。
けれど目覚めた今も、腕のなかにいてくれた。待ってくれていたことは夢でも幻でも無かった。
この現実が嬉しくて仕方ない、懐のひとを英二は抱きしめた。

「待っていてくれて、ありがとう…ほんとうに俺、嬉しいんだよ?」

どんなに嬉しいか、なんて君には解らないよね?

独りぼっちで眠ると思って、墜ち込んでいた。
本当は離れていると不安で、特に水曜の夜があってから尚更に離れることが怖い。
もし離れている間に周太の状況が変わってしまったら、二度と逢えなかったら?そんな不安に離せない。
そして、奥多摩山中で見た光一の、もう1つの貌に抱いてしまった想いを聴いてほしかった。

白魔、冷厳、無慈悲の慈悲

雪白の横顔は、そんな言葉たちが相応しかった。
透明な目は無垢のまま冷酷で、白い手は容赦なく犯人の手首を砕いた。
あの瞬間、光一のクライミングネーム『K2』は「非情の山」を意味すると思い知って。
あの瞬間の光一に冬富士の雪崩を見た、白銀の山神を映したような姿に、唯人である自分が共に立つことへの畏怖を憶えた。
そんな光一の素顔に怯えかけた自分がいた、それでも、あの山っ子と一緒にいたいと自分は願ってしまう。
だから誰かに言ってほしかった、あの神のようなクライマーと夢を共有し続ける、その約束を認めてほしかった。

“ふたりは最高峰に行くためにも、お互いに唯一人のパートナー”

そう周太が言ってくれた時、本当に嬉しかった。
この純粋で凛とした瞳が真直ぐ見つめて、穏やかな声が告げてくれた、それが嬉しい。
この最愛の恋人に言われたのなら、それが運命なのだと肯定出来てしまう。

「…周太?どうして俺がほしい言葉が、いつも解かる?」

微睡む顔へと静かに笑いかける、そんな今の瞬間も愛おしい。
ふたりきり抱きしめ横たわっている、このひと時は宝物の時間。
ずっと、こうして寄り添っていられたら?そんな想いに英二は、ほろ苦く微笑んだ。

―そんな考えが、危ないな…俺は、

ずっとこのまま時を止めて、寄添いたい。
そんな考えと想いが水曜日、自分の掌を恋人の首へと掛けさせた。
あの過ちを繰り返しそうな熱情が自分で怖い、これは何の解決にもならないと解っているのに。
それなのに離れることが嫌で傍にいたくて、自分だけに独り占めしたくて、そんな独占欲が離れる瞬間に怯えて狂いだす。

こんなふうに自分が誰かを求めるなんて、想わなかった。この恋人に出逢うまでは。
こんなに繋がりたい相手がいるなんて知らなかった、唯ひとりの人を抱くまでは。
こんなにも失うことが怖いことを、自分は知らなかったのに。

「…好きだよ、周太。だから、ごめん…でも愛してるんだ、」

そっと囁いて、キスをする。
ふれるだけのキス、それなのに酷く幸せが甘くて蕩かされる。
こんなにもキスが甘いことも、媚薬のよう効いてしまうことも、この唇に自分は知った。

このままだと、また危ないな?
ほら、もう体の芯には衝動が目を醒ましかけた、このままだと素肌を求めてしまう。
まだ理性が残っているうちに、早くこの体から一旦離れた方が良い。

―ちょっと頭、冷やして来ようかな

すこし自分を持て余し微笑んで、眠る小柄な体から静かに腕を抜きとると英二は起きあがった。
いつものようデスクのメモ用紙にペンを走らせ「中庭にいるよ」と置手紙をする。
そうして鍵とタオルを持つと、静かに扉を開いて廊下に出た。

まだ眠り深い時間は、朝の沈黙に静まり返る。
誰もいない廊下には自分の足音だけが響いて、静謐の深さを増してしまう。
ただ朝の光だけが目覚めて足元を照らし、あわい光の映る廊下を歩いていく。この静寂の時が自分は好きだ。

―こんなふうに静かだと、山を想い出して良いな…

いまごろ御岳の山は、鳥たちの目覚めの声が響くだろう。
朝靄は山嶺を廻らし流れて、おだやかな湿度と香を空気に与えて融けていく。
きっと夜露の降りた草木は瑞々しい香、あのブナの木も目覚めの呼吸に芳香を放つだろう。
こんな想像に願いがうかぶ『すこしでも早く、周太を連れて奥多摩に行きたい』と願い、祈りだす。
家ごと奥多摩に移って故郷を作る、そんな日を迎えたいと願う。

そんな想いと歩いて中庭に出ると、現実の樹木の香が頬撫でた。
どこか懐かしい香に微笑んで、いつもの水道で蛇口をひねると冷水が流れだす。
そこへ差出した頭に水は降注いで、髪から滴りだすなか意識が目を醒ましていく。

今日は日曜日、休日を周太と外出して過ごす。
初任総合の研修中だからスーツでの外出だけれど、それでも2人一緒に過ごせる時間が嬉しい。
そんな休日だから本当は、水を被って意識を締める必要はないのかもしれない。
それでも何があるか解らないから、こうして心締めて冷静を裡へと作り出す。

「…よし、」

蛇口を閉めて、水を止める。
タオルを被り頭を上げると、ふっと吹きつけた風が濡れ髪を撫でつけた。
拭っていく頬に首筋に風ふれる、その涼やかさに冷え切った脳髄が感覚まで研ぎ澄ます。
そんな澄んだ聴覚へと、微かな足音がふれた。

…たん、…たん、…たん、

足音が、中庭への扉前で止まる。
そして扉はゆっくり開いて、小柄な白シャツ姿が微笑んだ。

「英二、」

素足に履いたスニーカーが、中庭へと降りてくる。
朝露ゆらしながら歩いてくる足元が、瑞々しく濡れていく。
やわらかな黒髪に朝陽を艶にして、黒目がちの瞳が嬉しそうに笑ってくれた。

「おはよう、英二…追いかけてきちゃった、」

そんなの嬉しいです、ぜひ追いかけて下さい。

そんな心裡の声に笑ってしまう。
ずっと自分は、この恋人を慕っては後を縋って、捕まえようとしているから。
だから今も掴まえたくて、英二は長い腕を伸ばした。

「おはよう、周太。追いかけてくれて嬉しいよ、」

素直な想い告げて笑って、英二は恋人を横抱きに抱きあげた。
こうしてしまえば逃げられない、自分の腕に閉じ込めて、どうか掴まえさせていて?




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