ふる雨に色を変えても、花は
第52話 露花act.2―another,side story「陽はまた昇る」
ふっと襟元から香が昇って、心裡に顔が赤くなる。
深い森のような甘く深い苦みの香、この香の記憶と想いが熱を生む。
この香を生み出す肌の記憶が静かに目を覚ます、ほっとため息吐いて周太は微笑んだ。
…やっぱり香、残ってるね
暁宸、英二の肌に抱かれた。
夜明けの雨に濡れて服を脱いだ英二に、そのままベッドの時に惹きこまれて。
まだ眠りの時間にある寮の一室、ふたり肌を重ねて深い契に繋ぎ籠められた。
その悦びと熱が今も体の芯に燻って、どこか気怠い。
…今日、座学だけで良かった
もしも拳銃操法があったら、標的への集中にも疲れ切っただろう。
それは剣道でも逮捕術でも同じ、きっと辛かったに違いない。本当のことを言うと、朝の駆け足訓練も少し苦しかったから。
やっぱり朝に抱かれると体の負担が大きいかもしれない、そう解っているのに求められたら嬉しくて拒めなかった。
…ほんとうにきれいだった、英二…嫌なんて想えないし、言えないよね?
そんな正直な心の声に、首筋へと熱が昇りだす。
ほら、濡れたシャツ絡む肌が心にうかんでしまう、こんなの綺麗で困るのに?
どうしよう、また困った想像ヴィジョンが始まってしまう、何か別のことを考えて追い払わないと?
…だめです、今はだめ、これから授業なんだから…あっ、えいじいまはでてきちゃだめっ、
心のなか美しい幻との葛藤が廻ってしまう。
けれど現実の自分は生真面目に教場で座って、救急法と鑑識のテキストを見比べている。
きっと今、誰も周太がこんな想像をしてるなんて思わないだろう。
…やっぱり俺、「むっつりすけべ」っていうやつなのかな?
きっとそうだろう、こんな自分はすごくえっちで恥ずかしい。
こんなにえっちだと英二は嫌だろうか?はしたないのではないかな?
そんな心配廻らしていると、遠野教官と白石助教が教場に入ってきた。
…頭、切替えないと、
ひとつ呼吸して、周太は前を見た。
場長の松岡の号令で礼をし、着席をする。そして遠野教官が口を開いた。
「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」
言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせ僅かに微笑んだ。
この視線と言葉が示す講師が誰なのか?その嬉しい予想に周太は扉を見た。
見つめた扉は静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が微笑んでくれた。
「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」
穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
大好きな人の思いがけない登場に、周太は微笑んだ。
…吉村先生の授業を受けられるなんて、嬉しい
嬉しく見つめる教壇で穏やかな笑顔が佇んでいる。
こんな予想外があると思っていなかった、この間も吉村医師は何も言っていなかったけれど、内緒にしていたのかな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話を続けた。
「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」
そう説明しながら吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。
「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」
…光一?
ブルーの夏制服を着た光一が、教場で飄々と笑っている。
まさか光一まで登場するなんて?こんなの想定外で驚いてしまう。
けれど考えてみれば、英二が研修中なら光一が吉村医師の補佐をするのは当然かもしれない。
そんな納得と見つめる先で光一は資料を配布していく。
…こうしていると、先輩だなって感じるな?
授業を受ける側と、授業をサポートする側。
そして制服に付けられた階級章も、自分達と光一は違う。
年齢は同じでも光一は高卒任官だから4期上になる、けれど差を意識したことは今までに無かった。
いつも光一は山岳救助隊服姿か私服で、拳銃射撃大会も光一は隊服で出場したから制服姿をあまり見たことが無い。
だから初めて今、光一の階級章に気が付いて周太は驚いた。
…光一、警部補だったんだ?なにで特進したのかな、
普通、高卒任官なら23歳になる今はストレートに昇進しても巡査部長だろう。
それに新人の教育係は巡査部長が務めることが多いから、光一もそうなのだと思っていた。
けれど昇進には特別昇進のケースもある、機動隊や特殊部隊に所属する者は任務の特殊性から特進も多いと聞く。
山岳救助隊も特殊部隊に含まれ人命救助という任務は責任性が高い、だから特別昇進の措置もあるだろう。
どんな特進理由だったのかな?そう考えながら見る先で英二と光一が短い言葉に笑い合っている。
…仲良しだよね、ちゃんと、
ほっとして周太は小さく微笑んだ、ふたりの事が気掛りだったから。
あの連続強盗犯の逮捕時から、光一と英二は小さな擦違いを起こしかけている。
あのとき犯人確保で見せた光一の側面に英二は途惑い、それを感じ取った光一は不安に墜ちこんだ。
そのことを其々から聴いているけれど、きっと大丈夫だと自分は想っている。
…もしかしたら光一、このためにも今日は来たのかな?
光一は英二にファイルの事を告白する為にも来たのかもしれない?
そんな推察と見つめる向うから、光一は資料を配りながら此方に歩いてくる。
その貌は落着いた微笑が穏やかで、すこしだけ緊張をしていた。そこからの確信に周太は微笑んだ。
…やっぱり英二に謝りたくて来たんだね、光一?
光一は滅多に緊張しない。
基本的に物事に動じない性格だから、講師補佐くらいでは緊張はしない。
もし緊張するとしたら最大の支えで、且つ唯一の弱点とも言える「英二」のことだろう。
そう考えるうち白い手が資料を差し出して、テノールが周太に微笑んだ。
「はい、湯原くん、」
この呼び方は久しぶりだな?
懐かしい想いに微笑んで、周太は資料を受けとった。
「ありがとうございます、」
素直に答えて微笑むと、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
すこし不安げだけれど明るい眼差しは「また後でね?」と笑んで、すっきりとした背中は歩いて行った。
授業が終わるとすぐ、英二と光一は救急法の教材器具を片づけに行った。
それを見送って吉村医師は、教場の机を借りて藤岡の怪我を診てくれた。
もう傷みも殆どないらしい腕は、出血斑もほとんど消えている。
手際よい診察と処置にコツを見つけながら、周太は吉村の動きを記憶した。
…英二も上手だけれど、やっぱり先生はプロ中のプロだな、
授業でも吉村医師は包帯法の実技指導をしてくれた。
その時も英二の手並みは際立っていたけれど、やはり吉村は最高のER医師と言われるだけはある。
こうして優れた技能を見ていると、いつも好意でカウンセリングしてくれる事が改めて恐縮してしまう。
やっぱり凄い先生なんだな?そう見ているうち吉村は処置を終えて微笑んだ。
「宮田くん、きれいに処置してくれています。いつも包帯、ずれにくいでしょう?経過も良いですね、」
藤岡の処置は英二が毎晩、風呂の後にしている。
それを褒められて嬉しいな?そう心で微笑んだ向こうで藤岡も言ってくれた。
「ありがとうございます。ほんとに宮田、巧いし早いんですよね、」
からり笑って答えながら藤岡は肩脱ぎした左袖を戻している。
その隣から、処置の様子を一緒に見ていた内山が感心したよう吉村医師に尋ねた。
「吉村先生、いつも宮田は先生のお手伝いをしていると伺いましたが、宮田は優秀なんですね?」
「はい、彼は優秀です。なにより努力家で優しい、適性も高いでしょうね、」
嬉しそうな笑顔で答えてくれる。
包帯類を仕舞いながら吉村医師は、すこし得意げに話してくれた。
「さっき宮田くんと一緒に出て行った彼は、宮田くんの救助隊でのパートナーなんです。あの彼が教えてくれるのですが、
いつも宮田くんは現場でも、救助する方を細やかに気遣うそうです。容体によっては飴をあげて気持ちをほぐしたりしてね。
だから消防のレスキューに引継ぐ時は、皆さん落着かれているそうです。引継書も彼は工夫していますよ、消防にも好評です」
話してくれる笑顔は嬉しげで、英二を大切に可愛がってくれていることが解かる。
そんなふうに想ってくれることが英二の為に嬉しい、嬉しい気持ちで聴いていると吉村医師は言葉を続けた。
「そしてね、亡くなった方にも彼は手当するんです。その方が恥ずかしくないようにと気遣って、いつも丁寧に整えてくれます。
もちろん、ご遺体は検案をしますから直ぐ包帯も外します。それでも宮田くんは、同行者の気持ちを安らげる為にも手当するんですよ。
そうやって彼は、亡くなった方の尊厳も護ろうとしてくれます。そんな彼にね、私は医師として警察医として、いつも嬉しく思います、」
亡くなった人の尊厳も護る。
それはレスキューとして大切な想いだろう、そして周太自身にとっても。
いつか父と同じ任務に就いた時、周太も「死」と向き合う可能性があるのだから。
…お父さん、俺も英二みたいに出来るように、支えてくれる?
この自分にも英二のよう出来るだろうか?
もし出来たなら、きっと父のいた部署でも希望を見つけることが出来る。
そう信じているから今はもう、異動になる瞬間を恐怖だけでは見つめない。そこで為すべき事があると信じているから。
こんなふうに英二はいつも、周太に希望を与えてくれる。そんなひとだから愛してしまう。
けれど今、英二の心には不安が起きる瞬間が増えてきた。
そのことが心配で、だから今朝のことも時間が経つにつれ心配になっている。
どうして今朝、英二は雨に打たれていたのか?
ずぶ濡れになって肌も冷えきるほど、雨に打たれて英二は何を求めたのか?
―…いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ…ずっと傍にいて…ずっと俺の隣で幸せに笑っていて?
いつも英二は朝と夜、冷たい水を被る。
そうやって心を引き締めるのだと以前に聴いた、それを今朝は雨に打たれて。
そうまでしなくては「心を引き締める」ことが出来なかったのは、きっと離れることが怖いから。
英二は離れる時を恐れている。
そのために先週、英二は周太の首に手を掛けようとした。
それくらい英二は今、別離の瞬間に追い詰められている。
これをどうしたらいいのだろう?
…本当は先生に相談出来たら良いのに…このことは出来ないね、
このことだけは、話せない。
なぜ英二と離れる時が訪れるのか?その事を明かすことが出来ないから。
そこまで吉村医師に背負わせることは決してできない。
この理由は他言が赦されない、家族にすら言えない自分だけの秘密なのだから。
そんな重たい秘密の瞬間が近づく今の想いは、きっと父の想いをトレースしているだろう。
愛する人を残していく想いは、きっと父も同じだった。
この法治の秘匿によって隔てられる想いは、あの日々に父も見つめていた。
それがどんなに哀しい孤独だったのか、今この時に少しだけ解かったのではないだろうか?
そして母の哀しみも尚更に気づいてしまう、愛する人の孤独を気付きながら何も出来ない苦悩を、母は抱いていた。
それでも母は、いつも笑って息子の自分を育み夫の帰りを迎えていた。
…ん、お母さんってすごいな?
あらためて想う母の強靭な優しさが、温かい。
あの強靭さが英二には必要なのだろう、けれど英二は母よりも知り過ぎている分だけ傷みが重い。
この違いが今朝の雨に見た情景となって顕れた。
それでも英二は笑ってくれる、その撓やかな勁さにまた心惹かれてしまう。
こんなふうに英二への想いは深くなる、こうして時の経過に想いは濃く鮮やかになって、心深くを根で包む。
あのひとが好き、何があっても。
どんな瞬間が訪れても、その度に自分の想いは深まっていく。
けれど、願っていいのなら。訪れる瞬間は1つでも多くの幸せな笑顔を生むものであってほしい。
そのときは辛く哀しい瞬間だとしても、必ず喜びの時を育てる素に変えていきたい。
だから今も、英二が哀しみの葛藤にゆれるこの今の瞬間も、幸せな笑顔に変えられないだろうか?
そんな想い佇んで眺める先、吉村医師は片付け終えて立ち上がった。
そして穏やかな笑顔で周太を見ると、白衣を脱ぎながら医師は声をかけてくれた。
「湯原くん、すこし校内を案内してくれますか?久しぶりなので、1人だと迷子になりそうです、」
「はい、」
即答に周太は微笑んだ。
少しでも吉村医師と話す時間が出来るのは嬉しい、きっと吉村もそのつもりで提案してくれたのだろう。
嬉しい想いと一緒に廊下へ出ると、藤岡と内山が笑いかけてくれた。
「じゃあ俺たち、先に寮に戻ってるな、」
「ん、また後でね、」
すぐ後の再会に笑って別れると、ふたり並んで歩きだす。
いつも見慣れた白衣姿と違う、スーツ姿でいる吉村医師は目新しい。
それも警察学校を一緒に歩いていることが、有り得べき場面なのに不思議で周太は微笑んだ。
「先生、今日の講師の事は、前から決まっていたんですか?」
「はい、この授業はよく担当させて頂くんです。だから今回も5月には決まっていました、でも君たちには内緒にしてみたんです、」
言って切長い目を悪戯っ子に吉村は笑ませた。
やっぱり内緒にしていたんだな?この篤実な医師の一面が楽しくなって周太は笑った。
「俺、驚きました。それで嬉しかったです、先生の授業が受けられるなんて、」
「それは光栄です、私の授業は少しでもお役にたちそうですか?」
「はい、たくさん役に立ちます、」
笑い合いながら歩いていく廊下は、いつもと違って見える。
頼もしい豊かな懐を持つ大人が隣を歩いている、その安心感が温かい。
こんなふうに、ただ一緒に歩くだけでも相手を安らがせる懐を自分も持てたら良いのに?
こういう人が「大きな人」だろうか、この冬に吉村医師が話してくれたよう自分も「大きな人」になれたらいい。
そんな憧れに微笑んで、ふと周太は思い出した質問に口を開いた。
「先生、本のページをわざと抜きとるのは、どういう気持ちだと思いますか?」
先月の事例研究で英二が話してくれた「ページが欠けた本と扼殺事件」この検案を担当したのは吉村医師。
あのとき「ページが欠けた本」についても吉村は見解を医師と警察医の立場から述べたと聴いた。
それならば、吉村医師には解るかもしれない。
『Le Fantome de l'Opera』
家の書斎に納められた、紺青色の壊された本。
あの本の謎を解く鍵を、この医師の言葉から探し出せる?
(to be continued)
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第52話 露花act.2―another,side story「陽はまた昇る」
ふっと襟元から香が昇って、心裡に顔が赤くなる。
深い森のような甘く深い苦みの香、この香の記憶と想いが熱を生む。
この香を生み出す肌の記憶が静かに目を覚ます、ほっとため息吐いて周太は微笑んだ。
…やっぱり香、残ってるね
暁宸、英二の肌に抱かれた。
夜明けの雨に濡れて服を脱いだ英二に、そのままベッドの時に惹きこまれて。
まだ眠りの時間にある寮の一室、ふたり肌を重ねて深い契に繋ぎ籠められた。
その悦びと熱が今も体の芯に燻って、どこか気怠い。
…今日、座学だけで良かった
もしも拳銃操法があったら、標的への集中にも疲れ切っただろう。
それは剣道でも逮捕術でも同じ、きっと辛かったに違いない。本当のことを言うと、朝の駆け足訓練も少し苦しかったから。
やっぱり朝に抱かれると体の負担が大きいかもしれない、そう解っているのに求められたら嬉しくて拒めなかった。
…ほんとうにきれいだった、英二…嫌なんて想えないし、言えないよね?
そんな正直な心の声に、首筋へと熱が昇りだす。
ほら、濡れたシャツ絡む肌が心にうかんでしまう、こんなの綺麗で困るのに?
どうしよう、また困った想像ヴィジョンが始まってしまう、何か別のことを考えて追い払わないと?
…だめです、今はだめ、これから授業なんだから…あっ、えいじいまはでてきちゃだめっ、
心のなか美しい幻との葛藤が廻ってしまう。
けれど現実の自分は生真面目に教場で座って、救急法と鑑識のテキストを見比べている。
きっと今、誰も周太がこんな想像をしてるなんて思わないだろう。
…やっぱり俺、「むっつりすけべ」っていうやつなのかな?
きっとそうだろう、こんな自分はすごくえっちで恥ずかしい。
こんなにえっちだと英二は嫌だろうか?はしたないのではないかな?
そんな心配廻らしていると、遠野教官と白石助教が教場に入ってきた。
…頭、切替えないと、
ひとつ呼吸して、周太は前を見た。
場長の松岡の号令で礼をし、着席をする。そして遠野教官が口を開いた。
「今日の救急法は講師の方にお願いしてある、警察医で救命救急の専門医の方だ、」
言って、遠野は英二と藤岡に目を走らせ僅かに微笑んだ。
この視線と言葉が示す講師が誰なのか?その嬉しい予想に周太は扉を見た。
見つめた扉は静かに開かれて、懐かしいロマンスグレーの白衣姿が微笑んでくれた。
「こんにちは、青梅署警察医の吉村と申します、」
穏やかな声で吉村医師は微笑んで、教場を見渡した。
大好きな人の思いがけない登場に、周太は微笑んだ。
…吉村先生の授業を受けられるなんて、嬉しい
嬉しく見つめる教壇で穏やかな笑顔が佇んでいる。
こんな予想外があると思っていなかった、この間も吉村医師は何も言っていなかったけれど、内緒にしていたのかな?
そんな想いと見つめる吉村医師は、いつもの穏かな笑顔で話を続けた。
「今日は『救命救急と死体見分』と講題を頂いています。これは生死の差はありますが、被害者の方に対応する意味で同じです。
この現場としては市街地と山岳地域のケースがありますが、この2つのケースの違いから現場の対応を考えて頂けたらと思います、」
そう説明しながら吉村医師は黒板へと向き合った。
そのとき教場の扉がノックと開かれて、制服姿の長身が資料を抱えて入ってきた。
「先生、遅くなってすみませんね。コピー機が混んでいたので、」
…光一?
ブルーの夏制服を着た光一が、教場で飄々と笑っている。
まさか光一まで登場するなんて?こんなの想定外で驚いてしまう。
けれど考えてみれば、英二が研修中なら光一が吉村医師の補佐をするのは当然かもしれない。
そんな納得と見つめる先で光一は資料を配布していく。
…こうしていると、先輩だなって感じるな?
授業を受ける側と、授業をサポートする側。
そして制服に付けられた階級章も、自分達と光一は違う。
年齢は同じでも光一は高卒任官だから4期上になる、けれど差を意識したことは今までに無かった。
いつも光一は山岳救助隊服姿か私服で、拳銃射撃大会も光一は隊服で出場したから制服姿をあまり見たことが無い。
だから初めて今、光一の階級章に気が付いて周太は驚いた。
…光一、警部補だったんだ?なにで特進したのかな、
普通、高卒任官なら23歳になる今はストレートに昇進しても巡査部長だろう。
それに新人の教育係は巡査部長が務めることが多いから、光一もそうなのだと思っていた。
けれど昇進には特別昇進のケースもある、機動隊や特殊部隊に所属する者は任務の特殊性から特進も多いと聞く。
山岳救助隊も特殊部隊に含まれ人命救助という任務は責任性が高い、だから特別昇進の措置もあるだろう。
どんな特進理由だったのかな?そう考えながら見る先で英二と光一が短い言葉に笑い合っている。
…仲良しだよね、ちゃんと、
ほっとして周太は小さく微笑んだ、ふたりの事が気掛りだったから。
あの連続強盗犯の逮捕時から、光一と英二は小さな擦違いを起こしかけている。
あのとき犯人確保で見せた光一の側面に英二は途惑い、それを感じ取った光一は不安に墜ちこんだ。
そのことを其々から聴いているけれど、きっと大丈夫だと自分は想っている。
…もしかしたら光一、このためにも今日は来たのかな?
光一は英二にファイルの事を告白する為にも来たのかもしれない?
そんな推察と見つめる向うから、光一は資料を配りながら此方に歩いてくる。
その貌は落着いた微笑が穏やかで、すこしだけ緊張をしていた。そこからの確信に周太は微笑んだ。
…やっぱり英二に謝りたくて来たんだね、光一?
光一は滅多に緊張しない。
基本的に物事に動じない性格だから、講師補佐くらいでは緊張はしない。
もし緊張するとしたら最大の支えで、且つ唯一の弱点とも言える「英二」のことだろう。
そう考えるうち白い手が資料を差し出して、テノールが周太に微笑んだ。
「はい、湯原くん、」
この呼び方は久しぶりだな?
懐かしい想いに微笑んで、周太は資料を受けとった。
「ありがとうございます、」
素直に答えて微笑むと、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
すこし不安げだけれど明るい眼差しは「また後でね?」と笑んで、すっきりとした背中は歩いて行った。
授業が終わるとすぐ、英二と光一は救急法の教材器具を片づけに行った。
それを見送って吉村医師は、教場の机を借りて藤岡の怪我を診てくれた。
もう傷みも殆どないらしい腕は、出血斑もほとんど消えている。
手際よい診察と処置にコツを見つけながら、周太は吉村の動きを記憶した。
…英二も上手だけれど、やっぱり先生はプロ中のプロだな、
授業でも吉村医師は包帯法の実技指導をしてくれた。
その時も英二の手並みは際立っていたけれど、やはり吉村は最高のER医師と言われるだけはある。
こうして優れた技能を見ていると、いつも好意でカウンセリングしてくれる事が改めて恐縮してしまう。
やっぱり凄い先生なんだな?そう見ているうち吉村は処置を終えて微笑んだ。
「宮田くん、きれいに処置してくれています。いつも包帯、ずれにくいでしょう?経過も良いですね、」
藤岡の処置は英二が毎晩、風呂の後にしている。
それを褒められて嬉しいな?そう心で微笑んだ向こうで藤岡も言ってくれた。
「ありがとうございます。ほんとに宮田、巧いし早いんですよね、」
からり笑って答えながら藤岡は肩脱ぎした左袖を戻している。
その隣から、処置の様子を一緒に見ていた内山が感心したよう吉村医師に尋ねた。
「吉村先生、いつも宮田は先生のお手伝いをしていると伺いましたが、宮田は優秀なんですね?」
「はい、彼は優秀です。なにより努力家で優しい、適性も高いでしょうね、」
嬉しそうな笑顔で答えてくれる。
包帯類を仕舞いながら吉村医師は、すこし得意げに話してくれた。
「さっき宮田くんと一緒に出て行った彼は、宮田くんの救助隊でのパートナーなんです。あの彼が教えてくれるのですが、
いつも宮田くんは現場でも、救助する方を細やかに気遣うそうです。容体によっては飴をあげて気持ちをほぐしたりしてね。
だから消防のレスキューに引継ぐ時は、皆さん落着かれているそうです。引継書も彼は工夫していますよ、消防にも好評です」
話してくれる笑顔は嬉しげで、英二を大切に可愛がってくれていることが解かる。
そんなふうに想ってくれることが英二の為に嬉しい、嬉しい気持ちで聴いていると吉村医師は言葉を続けた。
「そしてね、亡くなった方にも彼は手当するんです。その方が恥ずかしくないようにと気遣って、いつも丁寧に整えてくれます。
もちろん、ご遺体は検案をしますから直ぐ包帯も外します。それでも宮田くんは、同行者の気持ちを安らげる為にも手当するんですよ。
そうやって彼は、亡くなった方の尊厳も護ろうとしてくれます。そんな彼にね、私は医師として警察医として、いつも嬉しく思います、」
亡くなった人の尊厳も護る。
それはレスキューとして大切な想いだろう、そして周太自身にとっても。
いつか父と同じ任務に就いた時、周太も「死」と向き合う可能性があるのだから。
…お父さん、俺も英二みたいに出来るように、支えてくれる?
この自分にも英二のよう出来るだろうか?
もし出来たなら、きっと父のいた部署でも希望を見つけることが出来る。
そう信じているから今はもう、異動になる瞬間を恐怖だけでは見つめない。そこで為すべき事があると信じているから。
こんなふうに英二はいつも、周太に希望を与えてくれる。そんなひとだから愛してしまう。
けれど今、英二の心には不安が起きる瞬間が増えてきた。
そのことが心配で、だから今朝のことも時間が経つにつれ心配になっている。
どうして今朝、英二は雨に打たれていたのか?
ずぶ濡れになって肌も冷えきるほど、雨に打たれて英二は何を求めたのか?
―…いつもの水被るやつ、今朝は空のシャワーにしただけだよ…ずっと傍にいて…ずっと俺の隣で幸せに笑っていて?
いつも英二は朝と夜、冷たい水を被る。
そうやって心を引き締めるのだと以前に聴いた、それを今朝は雨に打たれて。
そうまでしなくては「心を引き締める」ことが出来なかったのは、きっと離れることが怖いから。
英二は離れる時を恐れている。
そのために先週、英二は周太の首に手を掛けようとした。
それくらい英二は今、別離の瞬間に追い詰められている。
これをどうしたらいいのだろう?
…本当は先生に相談出来たら良いのに…このことは出来ないね、
このことだけは、話せない。
なぜ英二と離れる時が訪れるのか?その事を明かすことが出来ないから。
そこまで吉村医師に背負わせることは決してできない。
この理由は他言が赦されない、家族にすら言えない自分だけの秘密なのだから。
そんな重たい秘密の瞬間が近づく今の想いは、きっと父の想いをトレースしているだろう。
愛する人を残していく想いは、きっと父も同じだった。
この法治の秘匿によって隔てられる想いは、あの日々に父も見つめていた。
それがどんなに哀しい孤独だったのか、今この時に少しだけ解かったのではないだろうか?
そして母の哀しみも尚更に気づいてしまう、愛する人の孤独を気付きながら何も出来ない苦悩を、母は抱いていた。
それでも母は、いつも笑って息子の自分を育み夫の帰りを迎えていた。
…ん、お母さんってすごいな?
あらためて想う母の強靭な優しさが、温かい。
あの強靭さが英二には必要なのだろう、けれど英二は母よりも知り過ぎている分だけ傷みが重い。
この違いが今朝の雨に見た情景となって顕れた。
それでも英二は笑ってくれる、その撓やかな勁さにまた心惹かれてしまう。
こんなふうに英二への想いは深くなる、こうして時の経過に想いは濃く鮮やかになって、心深くを根で包む。
あのひとが好き、何があっても。
どんな瞬間が訪れても、その度に自分の想いは深まっていく。
けれど、願っていいのなら。訪れる瞬間は1つでも多くの幸せな笑顔を生むものであってほしい。
そのときは辛く哀しい瞬間だとしても、必ず喜びの時を育てる素に変えていきたい。
だから今も、英二が哀しみの葛藤にゆれるこの今の瞬間も、幸せな笑顔に変えられないだろうか?
そんな想い佇んで眺める先、吉村医師は片付け終えて立ち上がった。
そして穏やかな笑顔で周太を見ると、白衣を脱ぎながら医師は声をかけてくれた。
「湯原くん、すこし校内を案内してくれますか?久しぶりなので、1人だと迷子になりそうです、」
「はい、」
即答に周太は微笑んだ。
少しでも吉村医師と話す時間が出来るのは嬉しい、きっと吉村もそのつもりで提案してくれたのだろう。
嬉しい想いと一緒に廊下へ出ると、藤岡と内山が笑いかけてくれた。
「じゃあ俺たち、先に寮に戻ってるな、」
「ん、また後でね、」
すぐ後の再会に笑って別れると、ふたり並んで歩きだす。
いつも見慣れた白衣姿と違う、スーツ姿でいる吉村医師は目新しい。
それも警察学校を一緒に歩いていることが、有り得べき場面なのに不思議で周太は微笑んだ。
「先生、今日の講師の事は、前から決まっていたんですか?」
「はい、この授業はよく担当させて頂くんです。だから今回も5月には決まっていました、でも君たちには内緒にしてみたんです、」
言って切長い目を悪戯っ子に吉村は笑ませた。
やっぱり内緒にしていたんだな?この篤実な医師の一面が楽しくなって周太は笑った。
「俺、驚きました。それで嬉しかったです、先生の授業が受けられるなんて、」
「それは光栄です、私の授業は少しでもお役にたちそうですか?」
「はい、たくさん役に立ちます、」
笑い合いながら歩いていく廊下は、いつもと違って見える。
頼もしい豊かな懐を持つ大人が隣を歩いている、その安心感が温かい。
こんなふうに、ただ一緒に歩くだけでも相手を安らがせる懐を自分も持てたら良いのに?
こういう人が「大きな人」だろうか、この冬に吉村医師が話してくれたよう自分も「大きな人」になれたらいい。
そんな憧れに微笑んで、ふと周太は思い出した質問に口を開いた。
「先生、本のページをわざと抜きとるのは、どういう気持ちだと思いますか?」
先月の事例研究で英二が話してくれた「ページが欠けた本と扼殺事件」この検案を担当したのは吉村医師。
あのとき「ページが欠けた本」についても吉村は見解を医師と警察医の立場から述べたと聴いた。
それならば、吉村医師には解るかもしれない。
『Le Fantome de l'Opera』
家の書斎に納められた、紺青色の壊された本。
あの本の謎を解く鍵を、この医師の言葉から探し出せる?
(to be continued)
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