萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第52話 露籠act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-08-11 23:51:28 | 陽はまた昇るside story
空満つ水の彼方に隠して、



第52話 露籠act.3―side story「陽はまた昇る」

モノトーンの空は、雲が厚い。
頬撫でていく風も湿度を孕み、遠い雨の香を運んでくる。
どこか冷気をふくんだ風は上空を強く吹いていく、グレーの雲は速く流れ吹き寄せる。

もう、雨が近い。

「うん、雨が直に降るね?洗濯モンとか大丈夫?」

吹く風に目を細めて光一が、歩きながら訊いてくれる。
いつもながらパートナーの気遣いに微笑んで、英二は頷いた。

「大丈夫。周太が今朝、乾燥機使ってくれたから、」
「なに?おまえ、周太に洗濯させてんの?」

すこしだけテノールが怪訝になって問いかける。
この誤解に英二は軽く首振って微笑んだ。

「いつもじゃないよ?今朝はついでに一緒に洗ってくれて、」
「ふうん、なら良いけどさ、」

底抜けに明るい目を細めて、光一は首を傾げこむ。
なにか物言いたげな眼差しに見つめられて、英二は訊いてみた。

「光一、なんかあるのか?」
「うん?…まあね、」

駐車場に降りて、見慣れたナンバーのミニパトカーに凭れかかる。
無人の駐車場は放課後の喧騒が聞えてる、どこか賑やかな静けさに光一は口を開いた。

「今日の周太、ちょっと疲れてるみたいだけど?おまえ、朝からヤったよね?」
「うん、ごめん。朝からしたよ?」

さらり謝って英二は情事を認めた。
認めた記憶につい、幸せな気分になって微笑んでしまう。そんな顔を呆れ半分に眺めて光一は、率直に言ってくれた。

「あのさ?おまえ、あんま解ってないと思うんだけどね?ヤられる方の負担って結構キツイんだよ、腰とかマジくるらしいね?
だからエロい俺でも、コンナ躊躇してるんだろが。それをさ、平日の朝っぱらからって、無理させてんじゃない?大丈夫なワケ?」

それは解かってはいる、けれど指摘されたら心に刺さる。
やはり自分は身勝手かもしれない、気付かされた周太と自分の違いに英二は微笑んだ。

「だよな?やっぱり周太、無理してさせてくれてるんだよな、」
「当たり前だろ?おまえって賢いくせに、マジ馬鹿なときあんよね?おまえに言われて、周太が断れるワケないだろ、」

言いながらテノールがすこし溜息を吐く。
困ったよう上品な貌を顰めて光一は、真直ぐ英二を見つめた。

「おまえ、忘れたなんて言わせないよ?1月のコトがあるだろが、断ってこじれちゃったって例だよね?で、この間の逮捕の件もだよ。
あのとき藤岡が怪我したろ?あれって周太、おまえのコトを余計に心配したと思うね?だから今、おまえを幸せで充たしたいんだよ。
いまの周太は覚悟を固めている時なんだ、この研修が終わったら異動が2度来て、独りでオヤジさんの場所に行く。そう決めてるから、」

ふっと肩から吐息をついて、透明な目が英二を見つめてくれる。
どこか花のような香を風に交らせて、テノールの声が明確に告げた。

「残酷なコト言うよ?周太は今が最期かもしれない、そう覚悟してる。だから今、おまえに幸せな記憶を1つでも遺したいんだ。
そんな周太がさ、おまえが強請ったら断れるワケないよね?周太にとっても今、おまえとの記憶が1つでも多くほしい時なんだから、」

最期かもしれない、そう覚悟して。
そんなこと解っている、だから自分は尚更に今、離れられない。その想い正直に英二は口を開いた。

「ごめん、本当にそうだな。でも本音を言うと俺は、周太が具合悪いと嬉しいんだ。看病して独り占め出来るから嬉しい。
正直に言うと、周太が体を壊して諦めたら良い、それで警察官を辞めたら良いってすら思ってる。ほんと身勝手だって解ってるけどな」

本当は、周太の体を壊してでも引留めたい。そんな欲望がある。

もし周太が体を壊したら、あの部署への異動は無くなるだろう。あの部署は頭脳と体が完璧な人間だけが選抜されるから。
もちろん周太が体を悪くすることは哀しい、そんなの周太本人が辛いから。けれど引き離されるよりずっと良い。
なんとしてでも引留めてしまいたい、離したくない、離れずに済むなら何でも良い。そんな本音が深くに蟠る。
こんな自分は本当に身勝手で惨酷で、けれど正直な気持ちは変えられない。

「こんなに俺、自分勝手な男なんだよ。いつも真面目なことやってるけどさ、それも周太に好かれたいって下心が一番の動機だよ?
周太がいなかったら俺、生きている意味だって解らない。周太がいなきゃ俺はボロボロになる、昔みたいに人形になるかもしれない。
だからさ、周太が傍にいてくれる為なら、幾らでも俺は強くなれる。形振りなんか構わない、なんでもする。そんな勝手な男なんだ、」

恋の奴隷、それが自分。
こんなに誰かを求めて泣いて、残酷になって、罪すら平気で犯せる自分。
こんな自分の不純な本性に比べたら、光一の本性「白魔」は純粋で眩く美しい。
そんな自分を正直に唯ひとり『血の契』へと告げてしまう、その今に英二は微笑んだ。

「ごめんな、光一。こんな俺と『血の契』させて、こんな本性を見せたりして。この間も雲取山で話したばかりなのにな、」
「いや、構わないね、」

さらっと言って、光一は微笑んだ。
笑んだ透明な目は大らかに温かで、優しい眼差し見つめてくれる。
その目にどこか安らぐまま微笑んだ英二に、透明なテノールが笑ってくれた。

「おまえのソウいう本性、知ってるのは俺だけだね?俺だけが『血の契』で繋がれて、おまえの本性を全部知ってる。だろ?」
「うん。俺、光一には何も隠していない、周太に言えない事も話すし、見せてる。お前は俺の、アンザイレンパートナーだから、」

素直に答えて英二は、唯一のアンザイレンパートナーに笑いかけた。
笑いかけた先で唯ひとりの相手は綺麗な笑顔になって、率直に微笑んだ。

「なら、それでいい。おまえの全てを知っているのが俺だけなら、それで幸せだね。で、身勝手なトコも俺は好きだよ、正直でいい、」

告げる秀麗な貌は、美しい笑顔をモノトーンの空にほころばす。
この笑顔の無垢な想いが切ない、それほどに惹かれる自分がここにいる。それでも唯ひとりの恋人を想いながら英二は笑った。

「ありがと、光一。恋はあげられないけどな、ほんと愛してるよ?」
「ふん、憎たらしいね、おまえって?でも惚れてるよ、いつでも俺に甘えて、溜め込んだ無理をゲロしなね?周太の為にもさ、」

からり笑って答えてくれる、その目が底抜けに明るい。
今日もまた光一の明るさに助けられている、その感謝に微笑んで英二は肩を寄せた。

「うん、また吐き出させてもらうな?みっともないとこ見せるけど、頼むな、」
「仕方ないね、幾らでも面倒みてやるよ?一生ずっとね…英二、」

すこし躊躇うよう呼んでくれる名前が、温かい。
いま触れている肩も2枚の制服越しに温かで、ほっと心ほぐれてくれる。
ほぐれた心のまま笑いかけて、英二は低い声でパートナーに尋ねた。

「このあいだ雲取山で、光一、言ってたよな?…曾おじいさんについて調べたって、」
「…ああ、調べたよ。今、ちょっと聴きたい?」

テノールの声も低めて、すこし笑って答えてくれる。
そっと振向いた先で吉村医師と周太の姿は、まだ見えない。この無人の駐車場でふたり並んで、英二は頷いた。

「うん、このあいだ聴きたかったけど、時間無かったから。今、聴いておきたい、」
「だね、」

そっと笑って透明な目が英二を見つめてくれる。
そして静かに薄紅の唇を開いて、光一は教えてくれた。

「あの小説とWEBで調べたコトから話すとね?あの家は、砲術方ってヤツの世襲をする家だね、」

『砲術方』

前に見た時代劇で、そんな役職を見た記憶がある。
その記憶のまま英二はザイルパートナーに尋ねた。

「砲術方、ってさ?幕藩体制の頃に、大砲や銃の指南役をしてたやつだろ?」
「そ、ようするにさ、代々ずっと銃や大砲の研究をして、使っていた家ってコト。銃火器使いの血筋って意味だよ、納得だろ?」

銃火器使いの血筋。

それが、あの家の「連鎖」の正体だとういのだろうか?
それは、晉の、馨の、そして周太の能力から納得できてしまう、
その連鎖は始まってから、どれくらい長い年月を経たのだろう?そんな疑問と見つめる先でテノールの声は続けてくれた。

「そういうわけでさ、曾じいさん自身も銃の名手だったワケ。で、日露戦争ではソッチ担当をしてる。戦争だから人も殺したろうね?
その戦後に上京して赤門に入ったんだよ、元が砲術方の家だから工学部で兵器研究をしたんだ。それで川崎に出来た重工に就職した。
その辺のコトがね、あの小説のエピローグと、あとがきから汲みとれたよ。それをWEBで調べた結果が、今、話した内容の通りだよ」

小さく溜息を吐いた口許から、ふっと花の香がこぼれだす。
その香を見つめながら英二は、今、考えた可能性に口を開いた。

「曾おじいさんが川崎に来たのは、銃や大砲の研究開発が目的って事だよな?それって、上からの命令があったからってことかな?」
「だね。警察も軍部も薩長閥だろ?出身から考えたら可能性は高いよね、じいさんが大学で射撃部だったことも、同じ理由っぽいしさ、」

答えて、光一は寂しげに微笑んだ。
この微笑の意味がもう解ってしまう、そして周太に絡まる「連鎖」の正体が朧に姿を見せていく。
この正体を示す言葉へと、静かに英二は声を喉から起こし上げた。

「あの『Fantome』は世襲制で続いて、藩閥政治でも利用されて、民主主義っていう今も続けられている。そういうことか?」

世襲とは「選択権の与奪」を意味する。
この世襲によって続く職務は、この民主主義の現代でも沢山ある。
瀬尾の家も世襲で事業を続けている、けれど周太に背負わされる『Fantome』は意味が違い過ぎる。

「なあ?民主主義ってさ、職業選択の自由があるはずだよな?…生命の保障もあるよな?なのに、なぜだよ?」

あの家に世襲される『Fantome』には、何の自由と保障があるのだろう?
ただ選択の権利すら奪われている、そんな現実が今、この民主主義という現代にある?

「あの職務は殺人者になるってことだ、自分も死ぬかもしれない。それを選択する権利まで奪われるのは、おかしいだろ?
あの家が砲術方だった、能力が高い、それだけの理由で…曾おじいさんも、おじいさんも、お父さんも、任務に就かされたのか?
本当は望んでいなくても狙撃手に就いたのは、全て仕組まれていたのか?能力がある家の人間だからって、いろんな形で追い込まれて、」

こんな現実が許されるのか?
こんな現実が民主主義国家を支えている?
こんな現実に絡み取られる人々に法治国家が支えられている?

「こんなの人柱じゃないか?治安の為だと言って、法律の元で犠牲が赦されているのか?人柱が、周太の現実ってことなのか?」

どうして?

ただ一言に凝縮されて、疑問と哀しみが脳と心を廻る。
このメビウスリンクを見つめるよう透明な目が英二を見、光一は言った。

「そういうことだね、」

ただ一言で、透明なテノールが現実を宣告した。

「…そっか、」

ぽつんと言葉こぼして、英二は空を見上げた。

モノトーンの空は雲の厚みを増していく。
もう風も冷気に水をふくんで、雨の香が濃くなっている。
もうじき集中的な雨がふる、そう読みとった天穹に深く呼吸した。

「ありがとな、光一、」

深呼吸した吐息に、英二は微笑んだ。
空から視線を隣へ降ろし、並んだザイルパートナーを見つめる。
見つめた先で底抜けに明るい目は温かに笑んでくれる、その温もりへと英二は笑いかけた。

「このこと、数日は光一に独りで背負わせたな?ごめんな、重かったろ?今からは、俺に背負わせてくれな?」
「どういたしましてだね、これからも一緒に背負うよ、」

透明なテノールが笑って答えてくれる、その声が心に優しく響く。
もし光一が居なかったら、これらの事実を知ることが自分だけで出来たのか解からない。

『 La chronique de la maison 』

周太の祖父、湯原晉博士がフランス語で書き遺した「記録」小説。
これは特別出版だったから部数も少なく、貴重本扱いで閲覧が難しい。
けれど仏文科に在籍した光一の父・明広が遺した蔵書から見つけられた、そして光一が翻訳してくれた。
これが無かったら50年前の事件も、晉と馨を廻る事情も、曾祖父・敦の背景も調べることは困難だったろう。
そして光一も英二の存在無しでは難しかった。再び周太が奥多摩に訪れた切欠も、馨の日記を見つけたのも英二だから。

そうした互いの扶助は「山」では尚更に濃い。
きっとお互いが無かったら山岳救助のパートナーが居ない、最高峰へも昇れない。
こんなふうに自分達ふたりは、互いの存在なしでは何も出来ないのかもしれない。
こんな自分たちは縁が深いのだろう、生涯のアンザイレンパートナーで『血の契』そんな二重の絆に繋ぎあう自分たちは。
この絆に温もり微笑んで、英二は大切な唯一のパートナーを見つめて綺麗に笑いかけた。

「光一、おまえが居るから俺、色んな可能性が掴めてるな?ありがとう、」
「うん?急に何さ?」

からり、底抜けに明るい目が笑ってくれる。
なんだかよく解からないよ?そう目で言いながら、けれど透明なテノールは応えてくれた。

「ま、確かにね?俺たち2人でなら、大概の可能性は手に入れられるね。だから一緒にいてよ…英二、」

ほら、また遠慮がちに名前を呼ぶんだ?
こういうとこ意外なほど初心で、いつも大胆な言動からは予想外だ?
けれどギャップが何だか良いなと想える、想い素直に英二は笑って、大切な唯ひとりに応えた。

「うん、一緒にいたい。そのためにも俺、早まったことしないから。周太のことで泣いても、踏み止まるよ、」

ここ最近、ずっと自分は周太との時間を止めたくて。
その為に挙動不審になっている自分を解っている、それを光一なら不安に想うだろう。
この為にも光一は今日ここに来てくれた、ファイルの謝罪と英二の精神的な不安を支えるために。
その想いへの感謝に微笑んだ英二に、透明な目は綺麗に笑ってくれた。

「そうしてね、ア・ダ・ム?可愛いイヴのコト、忘れないでよ?俺だって周太と…英二を護りたいんだ、だから、独りにしないでよね、」

独りにしないでよね?
そう笑って、けれど透明な目に寂しさの翳を隠すよう微笑んでくれる。
この寂しさの意味が心に撃ちこまれて、英二は素直に頭を下げた。

「ごめん、光一。本当にごめん、勝手に死のうとか考えて、ごめん、」

唯ひとりのアンザイレンパートナー、それなのに死んだら?
唯ひとりの『血の契』で、心ごと体を繋ぎたいと光一が願う相手は自分だけなのに?
それなのに光一を置き去りにして自分は周太と死のうとした、それがどんなに酷い裏切りだったのか?
漸く今になって気付かされて悔しい、悔しい想いと頭を上げると英二は言った。

「光一、俺のこと殴っていい。おまえとの約束を忘れて、勝手なことをしようとしたんだ。こんな俺は最低だ、だから、」
「いいよ、気付いたからね、」

さらっと遮ると光一は微笑んだ。
そして視線で英二の後ろを示しながら、綺麗なテノールで笑いかけてくれた。

「おまえの美しい顔を殴るなんて、金を積まれても嫌だね。おまえの美貌は、俺の大切な眼福資源なんだからさ、」

愉しげに底抜けに明るい目が笑ってくれる。
その視線示した先へ想いを向けながらも、英二は隣のパートナーに微笑んだ。

「そっか、ありがとな。でも光一の方が俺より、ずっと綺麗だよ、」
「だからね、そういうこというと俺、意識しちゃうだろ?これでも俺は、おまえに惚れてんだからね、」

可笑しそうに笑って光一は、パトカーに凭れた体を起こした。
ぽん、と英二の肩をひとつ叩くと綺麗な笑顔を向けてくれる、そして校舎の方へと踵を返した。

「先生、5分待って頂けますか?周太とも少し話したいんですけどね、」
「はい、どうぞ?私も宮田くんと話したいですし、」

穏やかな声とテノールの会話を聴きながら、ゆっくり身を起こすと英二は振向いた。
視線の先で光一が周太と植込みの方へ歩いていく、そして吉村医師が英二へと笑いかけてくれた。

「藤岡くん、とても経過が良いですね。宮田くんの処置が巧いって、藤岡くんも喜んでいましたよ、」
「ありがとうございます、先生が教えて下さったお蔭です、」

素直に礼を述べて英二は綺麗に笑った。
そんな英二に吉村医師は嬉しそうに笑って、ふと思い出したよう口を開いた。

「さっき湯原くんに訊かれましたよ、事例研究で『春琴抄』の案件を話したそうですね?」

鼓動が、ひとつ心を引っ叩く。

この『春琴抄』の案件は『Le Fantome de l'Opera』と重なって謎解く扉になりやすい。
この重複に周太は気づいた?もう「ページが欠けた本」の意味を知ったのだろうか?
その可能性への緊張を見つめながら、英二は医師に尋ねた。

「はい、死体見分の良い事例だと思ったので。周太、どんな質問をしたんですか?」
「ページを抜いた理由は何か?そう訊いてくれましたよ。なので警察医としての見解ですが、お話しさせて頂きました、」

吉村は切長い目を温かに笑ませて、楽しそうに微笑んだ。
そして穏やかなトーンで話してくれた。

「あの『春琴抄』は喉布からページが切り外されて、ご遺体は定型的縊死の状態だった。この2つの『喉と首』には符号を感じます。
この符号から私は、ご本人が殺されることを望んで、自殺幇助を加害者がするよう仕向けたと想えるのです。この事を話させて頂きました、」

―自殺幇助、

この単語に、また鼓動が心を引っ叩く。
この言葉は14年前の殉職事件に対しても、真実を言い当ててしまう?
この言葉の事に周太は気づいてしまったのだろうか?そんな想い佇んでいる英二に、吉村医師が教えてくれた。

「それからね、湯原くんは少し疲れが溜まっているようです。季節の変わり目だからと思いますが、気を付けてあげて下さい、」

さっき光一にも「ちょっと疲れてるみたいだけど?」と指摘された。
そして吉村医師にも言われたということは、本当に周太は今、体調を崩しかけているだろう。
本当に気を付けないといけない、そう心に決めながら英二は微笑んだ。

「はい、ありがとうございます。早く寝かせるようにしますね、」
「ええ、そうして下さい。湯原くんは気管支系が少し弱いでしょう?だから熱も出しやすいのです、最近も熱を出したそうですが、」

心配そうに首傾げながら話してくれる、その視線がふと動いた。
その視線の先に英二も振向くと、光一と周太が戻ってきていた。

「周太、」

名前を呼んで笑いかけた先、黒目がちの瞳が微笑んでくれる。
その眼差しがすこし潤んで見えるのは、熱が幾らかあるのだろうか?
今日はトレーニングも短めの方が良いかな?考えながら英二は吉村医師へと笑いかけた。

「吉村先生、また、」
「はい、おふたりとも体に気を付けて。またコーヒー淹れてくださいね?」

パトカーの助手席に乗りこみながら吉村が笑いかけてくれる。
それに笑って頷いた英二に、光一が愉しげに言ってくれた。

「コーヒー、俺にもよろしくね?じゃ、またね、」

からり笑って運転席に乗り込むと、慣れたハンドル捌きにミニパトカーは動き出した。
いつも一緒に乗る車体が自分を置いたまま遠ざかっていく、それが何だか不思議ですこし切ない。
あのパトカーに搭乗することが自分の「日常」になっている?そんな実感に微笑んで英二は、隣の婚約者に笑いかけた。

「周太、部屋に戻ってから、トレーニングルーム行く?」
「ん、行く。でも俺、忘れ物しちゃったんだ。すぐ追いかけるから、先に行っていて?」
「じゃあ俺も一緒に行くよ、周太」

何の忘れ物だろう?そう笑いかけた先で黒目がちの瞳が見上げてくれる。
瞳は微笑んで、けれど周太は小さく首を振って答えた。

「図書室で調べものしたいんだ、1人で集中すると早く終わるから、先にトレーニングに行ってて?ランニングマシーン使いたいな?」

ランニングマシーンを使いたいのなら、先に行って確保しておく方が良いだろう。
それに図書室ですこし時間を遣ってくれる方が、体調を崩しかけた周太には楽をさせられる。
そんな考えに微笑んで、英二は頷いた。

「解かった、先に走ってるな?鞄、持って帰っておくよ。その方が図書室で身軽だろ?」
「ん、ありがとう…じゃあ、」

鞄を受けとり別れると、周太は図書室の方へと歩き始めた。
廊下の角を曲がりしな振向くと、小柄な背中が逆方向へと曲がり消えていく。
その背中は姿勢が端正で、凛とした静謐が美しかった。

―…いまの周太は覚悟を固めている時なんだ…周太は今が最期かもしれない…だから今、おまえに幸せな記憶を1つでも遺したいんだ

さっき光一に言われた言葉が、端正な背中に蘇える。
あの背中を一年前の自分も見つめていた、いつしか憧れて恋をして、そして愛した。
ずっと抱きしめていたいと願って、生涯かけて護ることを決めて、そして今ここにいる。
けれど本当は、護られているのは、どちらの方なのだろう?

―周太、君だけに恋してるんだ…ずっと傍にいてよ?

寮の自室へと歩きながら、心に願いがこぼれていく。
遅い午後の廊下は薄暗くて、窓には灰色の空がすこしずつ密度を増していく。
もう間もなくに雨は降りだす、そんな予兆を見つめながら英二は、自室の鍵を開いた。

かちり、…ぱたん、

開錠音と扉閉まる音がして、白い部屋に独りきりになる。
どこか寂しく部屋が見えるのは、周太と離れている所為だろうか?
いま少し離れているだけで哀切が心を絞めだしていく、ここで毎日を周太の隣で過ごした時間が泣きそうになる。
これでは初任総合が終ったら、自分はどうなってしまうのだろう?卒配された頃のよう、また青梅署での日常に切なさを見る?

卒業式の別れは哀しくて、もう二度と逢えないかもしれないと覚悟して。
これが最後ならと「今」に懸けて告白をした、あの一夜に全てを懸けて心ごと体を繋いで、幸せな夢を見た。
そして離れて生きる日々が始まって、それでも心は繋がる「今」を幸せだと言い聞かせてきた。
けれど、再び毎日を隣で過ごしてしまえば、もう、離れて生きる日々が前よりも怖い。
この「今」が幸せな分だけ失うのが怖くて、幸せに貪欲になる自分がいる。

人は、幸せへの望みは尽きること無いほどに、強欲なのだろうか?

そして気がつかされてしまう、光一の強靭な美しさが見える。
光一の「今」あるものへ満足する無欲さは、どれだけ純粋で聡明なのか漸くに解かる。
けれど自分は、弱くて、愚かで、失うことに怯えてしまう。もう2度目なのに前以上に心震えて、また哀切に沈みこむ。
もう自分は、この先も同じ別離がある度に何度でも、この強欲な傷みを繰り返す?

「…なんども繰り返すなんて、俺、ばかだな?」

独り言が、ほろ苦い。
それでも自分で可笑しくて、笑いながら英二は2つの鞄をデスクに置いた。
もう薄暗い窓へ向かうとカーテンを開く、その空を見上げながら壁に背凭れた。

もう空は厚い雲に覆われて、太陽が白い。
グレーの雲に透けては隠れる白陽に、光は昏い。ぼんやり見上げる黒雲は風に流れていく。
太陽の白い翳は灰色の硲を照らして、明滅するよう輝いて隠れて、モノトーンは密度を濃くさせる。
そうして窓に雫が、ひとつ水の波紋を叩いた。

「…降り出したな、」

呟いた独り言に被せるよう、雨音が窓を覆いだす。
降りだした水の姿を見つめる向う、吉村医師と光一の懸念が重なってしまう。
こんな天候の変化が激しい日、すこし怠そうな周太は体調を崩すのではないだろうか?

「うん…迎えに行こう、」

独り言に決めて英二は、壁から背を離した。
携帯電話をポケットに入れて制服のまま部屋を出る、そして施錠すると廊下を歩き始めた。
もう廊下は薄暗い闇に沈みだす、窓は雨の波紋が次々と打って、もう外が見えない。
光一と吉村医師は今、どのあたりを走っているだろう?この豪雨では運転も大変だろう。
そんな心配をしながら歩いて、英二は図書室の扉を開いた。

ふっと頬撫でる、古い紙の香が懐かしい。
並ぶ書架を通りぬけて閲覧コーナーの机を見て回る。
けれど見つけたい姿は、どの机にも無い。

―書架の方かな、

背の高い書架の通路を、ひとつずつ見て回っていく。
そのどこにも小柄な姿は見当たらない、首傾げながら英二はカウンターへと踵を返した。
そしてカウンター内にいる図書当番の女性警官へと、英二は笑いかけた。

「すみません、」
「あ、宮田さん?」

すぐ名前を呼んで笑ってくれた顔は、見覚えがある。
たぶん華道部で一緒の初任科教養に在籍中の子だな?そんな記憶に微笑んで英二は尋ねた。

「いつも俺といる人、見ませんでした?小柄で、ちょっと童顔の、」
「湯原さんですか?今日はいらしていませんけど、」

笑顔で返された言葉に、心が凍った。

―来ていない?

確かに周太は「図書室で調べものしたい」と言っていた。
けれど現実には図書室に来ていない、ならば周太はどこに行った?
もう廻りだす不安を隠したままに微笑んで、英二は礼を言った。

「そっか、ありがとう、」

踵を返して廊下に出る。
静かに扉を閉めて、そして周太と別れた廊下へと歩き始めた。

―あの場所から図書室へ向かう、その間に寄れる場所は?

考え廻らし歩いていく廊下へと、雨音が窓を叩いて響きだす。
ガラスを隔てた空は昏い、モノトーンの翳が色濃く厚みを増していく。
もう太陽の白い翳も遠くになって、雨ふる雫に外は充たされ校舎を水音が支配する。

ざああああ…ざああ…

歩いていく革靴の、ソールの音が雨音に相槌を打つ。
自分の足音と水ふる音を聴きながら考え廻らして、英二は階段を昇り始めた。
昇っていく階段は薄闇に沈みこんで昏い。いつもなら明るい陽射しふる空間も今は、雨の音だけが降っている。
この先にある扉は屋上に通じている、そこに想ってしまう可能性が、怖い。

それだけは、絶対に無い。

そう心に断言する。
周太の強さを知っている、信じている、だから断言する。
けれど、ならばなぜ周太は「図書室で調べものしたい」と嘘を吐いた?

―きっと独りになりたかったんだ、周太、

なぜ独りになりたかったのか?
その答えはきっと『自殺幇助』この単語に見た真実だろう。
きっともう周太は吉村医師の言葉から、父の死の真実に気づいてしまった。

馨の死は、あの殉職の真実は「自殺」。

犯人に狙撃され死ぬことを選んだ、不作為の自殺幇助による自死だった。
このことは、馨が最後に綴った日記に見つめる心情で、裏付けることが出来てしまう。
殉職の前夜にラテン語で書かれた、最期のページから。

“この私が裁きを受ける瞬間は、誰かの尊厳を守るために射殺され、すこしでもこの罪の贖罪が叶うことを”

あの一文の通りに馨は被弾し、新宿のアスファルトに斃れた。
銃を構えても威嚇発砲せず、銃口を避けもせず、潔癖なままに撃たれた。
まるで自らを銃殺刑に裁くよう弾丸を受容れて、ラテン語に記した一文の通り贖罪へ死んだ。
そして遺した願いの通りに殺害犯は今、店の主人となって客を温かな食事と空気で受けとめている。

この馨の願いと選択は崇高と言えるだろう。
けれど遺された家族にとって、こんな哀しい苦しい選択は無い。
この哀しみに周太は気づいてしまった?だから独り屋上に行ってしまった?

でも今は、雨が降っているから屋上には出られない。
けれど屋上に続く階段なら独り静かになれる、そこに周太は座りこんでいる?
そう考えて最後の踊り場を曲がったけれど、階段は無人だった。

「…周太、」

探し求めるひとの名前を呼んで、革靴の跫が速くなる。
まさかこの豪雨のなか周太は屋上に出ている?いま熱があるだろうに?
不安に押されるまま階段を二段飛ばしに駆け上がる、雨音が見る間に近くなる。

がたん、

屋上への扉を開いて、風が雫を全身へと叩きつけた。
そのままコンクリートへ踏み出して、足元の水溜りに波紋が広がっていく。
ただモノトーンの昏い空ひろがる空間は無人で、雨の白い矢だけが音と冷気に降りそそぐ。

「周太!」

呼んだ名前に、応えは無い。
けれど英二は雨の冷気のなかへ駆け出した。

歩く革靴の周りに波紋が広がる、水の飛沫が制服の裾を染めていく。
冷たい雨が髪を肩を打ちつける、青い生地は肌に纏わりつき髪は額へ絡まりつく。
濡れた髪を掻きあげコンクリートの水を走って、死角になる影の方へと駆け寄っていく。
この1年前にも周太と佇んだ、翳になる鉄柵の場所。あの場所へと水を跳ねながら走っていく。

角を曲がる、隠れた場所に入っていく。
そして水を踏む涯に辿り着いた場所に、小柄な制服姿が倒れていた。

「…っ、周太!」

降りそそぐ冷たい雨のなか、コンクリートの水溜りに跪く。
けれど周太は動かない、横倒れた体は冷たい雨に打たれるまま動いてくれない。

「周太!どうしたんだ、周太!」

呼んだ名前にも応えないで、長い睫は伏せられている。
横向きになった貌は蒼白に近い、濡れた黒髪が額に頬に零れている。
全身を水に浸した制服は肌を透かすほど濡れきって、冷たい雨に打たせたまま動かない。

「周太っ!」

名前を叫んで抱き起す、その体が、冷たい。






(to be continued)

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