気がついたら、もう、ずっと
不夜、想話 act.2 ― another,side story「陽はまた昇る」
朝起きると、窓から見える小さな空は曇りだった。
少しだけ窓を開けると、すこし湿った冷たい風が部屋へと吹きこんだ。
明方に雨が降った、そんな気配を周太は感じた。
まだ空に残る、薄墨色の雲を見あげて周太は呟いた。
「奥多摩にも、降ったのかな…」
山では雨も風も、遭難の危険性を高くする。
明方の雨が降れば、朝の巡回の山道が気になる。
けれど、今日の宮田は非番。だから少しは安心できる。
それでも、山岳救助隊員は、非番でも召集を受ける事がある。
遭難事故が発生すれば、場合によっては呼ばれる。そんなふうに聴いている。
だから本当は、非番でも週休でも安心なんて、できない。
でもきっと大丈夫、もうそんなふうに信じている。
だってもう約束をしている。宮田は必ず自分の隣に帰ってくる。
「出会った時から、もうずっと俺はね、
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do そんなふうにさ、周太も、なってよ」
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
出会って7ヶ月半、寄り添う約束をして1ヶ月半。
それなのにどうして、もう、こんなふうに想ってしまうのだろう。
ぽつんと周太は呟いた。
「…息をするたびごとに、ずっと」
生きている限り、ずっと ― そういう意味を、宮田は言ってくれた。
あの隣は、思ったことだけしか言わない、出来ない。
だからもう、きっと、ずっと、離れることは出来ない。
だからきっと大丈夫、あの隣は必ず、自分の隣へと帰ってくる。
ふっと窓からの風が強くなった。
見上げた空の、グレーの雲の動きが速い。
上空の風はきっと強い、このまま空は晴れていくだろう。
「よかった、」
呟きと一緒に窓を閉めて、振り向いた時計は6:20だった。
まだのんびりできる、周太はベッドに座ってiPodのスイッチを入れた。
こういう朝の余裕ある時間は好きだ。
今日は昼過ぎから特練に行って、それから当番勤務。だから午前中は時間がある。
だから昨夜はいつもより、ゆっくり電話が出来た。
会ったばかり、けれど少しでも長く、話していたい。
お互いに、翌朝の余裕があった昨夜。だからつい、少し、長電話になった。
電話を通して想いを繋げる。ささやかなこと、けれどこんな小さな日常が、幸せで。
昨夜も嬉しかった、けれど少し困った。
「さっきさ、藤岡に会ったって周太、教えてくれたよな」
「ん、なんかね、最初は俺だって解らなかったって」
そうしたら隣は、笑って訊いてくれた。
「なんで周太だって、解らなかったんだ?」
藤岡が周太を解らなかった理由「なんかきれいになった」
関根にも瀬尾にも言われて、宮田の姉にも言われた。そして母にも。
あの隣とこうなって1ヶ月半、なんだか同じ事をよく言われてしまう。
なんだか、じゃない。
本当はその理由を、自分はもう知っている。
一昨日、白妙橋で、国村に背負われてザイル下降をした。
作業着に軍手でも、軽快な動きで適確に国村は降りていく。
ほんとうに凄いクライマーなんだ。そう感心していた背中に、話しかけられた。
「湯原くん。ご協力をさ、悪いね」
「あ、いや、こっちこそ」
気さくな明るい話し方が、国村は楽しい。
やっぱり良い奴なんだなと、思っていたら国村が続けた。
「宮田くんの背中ほどはさ、居心地良くないだろうけど」
「…え、?」
なんでそんなこと言うのだろう。
思わず聴き返したら、ちらっと細い目がこちらを見て笑った。
「ま、夜じゃないからね、我慢してよ」
なんてこというのだろうこのひと。
“背中、居心地、夜じゃないから ”…何なのか解ってしまう。だってこの1ヶ月半、宮田にもう、言われてばかり。
このひとなにか気づいているんだ、でも宮田は何も言っていなかった。
どうしよう、なんて答えればいいのか解らない。
困っていたら、器用にレストして空いた片手で、ぽんと背中を叩かれた。
「宮田くんと会うまでずっとさ、初めては何も、していなかったんでしょ?」
“初めて” ?
どの初めてのことなのだろう。
いつも同じ誰かと必ず話すこと、誰かと一緒に食事に行くこと、誰かと買物に行くこと。
誰かの隣で過ごすこと、「いつものとおりに」誰かと一緒に笑うこと。
そして「絶対に」と約束をすること。
どれも初めてばかり、どれも宮田が初めてだった。
そしてどれも、幸せで、いつも嬉しい。
周太は訊いてみた。
「初めて、って、どの初めてのこと?」
「ああ、そうか、」
細い目がちらっと見て、唇の端があがった。
「俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?」
きっと、首筋も顔も、真っ赤だったと思う。だって掌まで赤くなっていたから。
でも、国村に言われたことは、どちらも本当のこと。
それでもう、解ってしまった。
自分がなぜ最近「きれいになった」と言われるのか。
あの隣がいつも、笑顔にして幸せにしてくれる。だから言われるのだと思っていた。
けれどほんとうは、それだけじゃない。そのことを、国村に言われて、気付かされた。
「きれいになった」ことは、国村に言われた「初めて」のことに絡まっている。
そう気づいから恥ずかしくて。
宮田の質問「なんで周太だって、解らなかったんだ?」
その答えの「なんかきれいになった」からだなんて、とても今は言えそうにない。
それでも、なんとか周太は口を開いた。
「…なんだかもう、気恥ずかしくて…今夜は無理」
なぜだか電話の向こうは、大喜びして笑っていた。
もう恥ずかしい、首筋も顔もきっと真っ赤になっていた。
それなのに嬉しそうに、あの隣は訊いてくれる。
「どうしてそんなに周太、気恥ずかしいんだ?」
「…藤岡に言われて俺、…困った、から」
電話の向こう、きれいな笑い声が聞こえた。
そんなふうに、何度か訊かれては、赤くなって。笑われて。
でもぜったいにいえないこんなこと。昨夜はそう、思ってしまって、言えなかった。
けれど国村のことば。
国村に言われて、初めて気がつけた「卒業式の夜」の意味。
それから奥多摩で、川崎の家で、一昨夜のあの場所で。
鏡に映った顔を見るたびに、なぜ自分の顔が変わっていくのか。その意味とその理由。
背負われて逃げ場のない場所で、国村に言われたこと。
ほんとうに恥ずかしくて、どうしていいか解らなかった。
けれど、そのお蔭で気付くことが出来た。
自分にとって、ほんとうに、すべて “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。
そのことに、気付くことが出来た。
国村は同じ年、けれどなんだか底が知れない。でも嫌な感じがしない。
細い目は底抜けに明るくて、飄々と笑って気さくに話してくれる。
パトカーの使い方も自由すぎるけれど、宮田と自分を気遣ってくれてのこと。
そしてこんなふうに、さり気なく、大切な事を気付かせてくれた。
そしてどこか、あの隣と似ているところがある。
同じ山ヤの警察官、危険の中に居るはずなのに、明るく笑って逞しい。
ちょっといじわるで困るけれど、思った事しか言えない、出来ない。
国村は、良い奴で良い男だ。
また会ってみたい、そんなふうに想わされる。
また玩具にされるのは、困るけれど。
宮田の隣にいると、こんなふうに。
会いたい人が増えていく。それはきっと、とても幸せな事だ。
食堂に行くと、深堀と佐藤が一緒に座っていた。
おはようございますと声かけて、深堀の横に座った。
先輩の佐藤は水を一口飲んで、それから静かに口を開いた。
「新宿駅の痴漢冤罪の公判が、ニュースなっている」
周太と深堀は、同時に佐藤の顔を見た。
そのニュースは、新宿署が抱えている闇の一部だった。
2年前の冬の早朝。20代半ばの男性が、母校の最寄駅ホームで自殺した。
理由は「痴漢」と言われ学生グループに暴行を受け、警察に連行されたこと。
その連行された先は、新宿警察署だった。
彼の死から一ヶ月後、新宿警察署は痴漢容疑で送検した。その根拠は開示されない、防犯カメラの映像だった。
書類送検は、東京都迷惑防止条例違反容疑。東京地検は被疑者死亡で不起訴処分とした。
「事件があった夜、宿直の職員が条例違反を主に取り扱う生活安全課だったんだ。
だから迷惑防止条例違反で片付けよう、そんな理屈だったのだろう。
あの時は彼の手に繊維が付着しているか、担当者はその検査も怠っていたんだ」
佐藤の声は低い。そして佐藤の目は、真直ぐに怒っている。
けれど微笑んで、佐藤は周太と深堀に謝った。
「こんな重たい話を、朝から済まない」
「いいえ、」
佐藤は卒業配置で新宿署へ来て、4年目の今は刑事課勤務だった。
この新宿署は、正義感の強い人間が配属希望すると言われている。
佐藤の目は、そんな性質が覗いて真直ぐだった。
周太が射撃特練に異例の抜擢をされた為、佐藤は特練を外された。
そのことで周太に厭味を言い、それがきっかけで親しくなった。
厭味を言われた時は、本当に嫌だった。けれど今は、佐藤の気持ちも周太は解る。
努力を重ねた人間ほど、異例の扱いを受ける人間を見れば、悔しく感じて当然だろう。
そして佐藤はそれだけの、努力を重ねて警察官として勤めている。
だから今もこんなふうに、佐藤は自分の勤務先の闇にさえ、真直ぐな目を厭わない。
少し空いた食堂の隅で、佐藤は低い声のまま続けた。
「冤罪で連行した彼が、その直後自殺した。それでは警察のは立場は厳しくなる。
だから彼に痴漢の冤罪を着せようと画策した。被疑者死亡なら不起訴にできる、死人に口無しだからね」
真直ぐな佐藤の目が、怒りに悲しそうだった。
そっと深堀が口を開き、佐藤に尋ねた。
「佐藤さん、どうして俺達に、そんな大切な話をしてくれるんですか?」
「うん。2人とも、遠野教場の出身だろう?」
そうですと頷くと、佐藤が微笑んだ。
「遠野さんが捜査一課の時、管内の傷害事件でご一緒したことがあるんだ。
真実を明らかにするためには、手段を選ばない。そういう刑事だと思ったよ」
「教官をご存知だったんですね」
ああと頷いて、懐かしそうに佐藤が目を細めた。
「その時に、遠野さんが言ったんだ。
“ずっと背を向けて来た事と決着をつける それしか筋を通す方法はない ”
だから俺も、この事件のことは真直ぐ見ていたい。そんなふうに思っている」
遠野教官らしいと周太は思った。
きっと同じように感じたのだろう、微かに頷きながら深堀が言った。
「そういう教官の生徒だからと、信頼してくれたんですね」
「ああ、」
頷いて、佐藤は少し寂しげに笑った。
「この新宿署は警視庁でも最大規模だ。だから人間の種類も様々だよ。
そんな大規模だからこそ、本当に話せる相手を、署内に探すことは難しい。よく、俺はそう感じるよ」
佐藤の様な警察官もいれば、その冤罪事件の発端を作った警察官もいる。
副都心警察、新宿警察署。この署内にはきっと、端正と頽廃の2つの姿勢が共存している。
この新宿という場所自体、その2つの顔がある。
都庁と公式園遊会が開かれる公立苑池の所在地である、副都心新宿。
その片隅に繁華をほこり、東洋一の歓楽街と呼ばれる歌舞伎町。
相反する性格が、この新宿では共栄し建っている。
そして13年前、公式園遊会の警邏任務後に、歌舞伎町の銃弾で父は斃された。
この新宿の二面性、端正と頽廃の狭間に、警察官として父は殉職した。
―俺達の仕事はな、人間と、その生きる場所を学ぶ事なんだろうな―
御岳駐在所長の岩崎が教えてくれた事。
壊れた父の人生のパズルを、復元するために自分はこの街に来た。
パズルピースの大きな一つ、13年前の殉職事件。
そのことからも、岩崎の言葉は本当だと実感が出来る。
朝食を済ませて自室へと周太は戻った。
写しかけの専門書と、鑑識のファイルをデスクに広げた。
宮田に借りた専門書は、思った以上に専門性が高くて、周太は驚いている。
警察学校時代から、本気を出した宮田は怜悧だった。
そして卒業後の宮田は、驚くほど早く大人びていっている。
一昨日に背負ってくれた背中も肩も、一ヶ月半前よりずっと頼もしかった。
「毎日さ、こんなふうに短時間でも訓練するんだ」
そう言って笑って、あざやかに岩場を登ってくれた。
頼もしくて嬉しくて、背負ってもらえる幸せが、いとしかった。
この隣が、こんなふうに大人になった卒業配置先。
その場所に一緒に立つことができて、幸せで、嬉しかった。
卒業式のあの夜は、ただ離れ難くて、あの笑顔が好きで、ただ傍にいたかった。
ほんとうはあの夜、自分はなにも、解っていなかった。
キスくらいは聞いたことはあった、抱き寄せるくらいも。どちらも経験は無かったけれど。
けれど、キスの意味を知らなかった。抱き寄せられた、その後のことも意味も、何も知らなかった。
ほんとうは不安で怖くて、どうしていいか解らなかった。
けれどそれでも、きれいな笑顔を、ほんの少しの瞬間でも多く、隣で見つめていたかった。
ただそれだけの理由。でも自分には、あの笑顔しかなかったから。
なにより大切で、たったひとつの温もりだった。
卒業配置されて現場に立つ、そうしたらもう、孤独の底で父の軌跡を見つめていく。
そんな覚悟だけを抱いて、卒業式の場に立っていた。
この隣ともきっと、遠く離れていく。そう覚悟して諦めていた。
卒業配置先での配属挨拶が終わって、南口改札で待ち合わせた時。
中央線ホームから階段を上る、あの隣の姿が、眩しかった。
希望していた卒業配置先は、宮田の性分に合っていた。それが解って、嬉しかった。
「山岳救助隊員のさ、救助服の採寸をしたんだ。結構ね俺、似合ってた」
あの公園のベンチに座って、嬉しそうに話してくれる笑顔。
山岳訓練の日に話していた通りに、奥多摩へと宮田は配置された。
警視庁青梅警察署。奥多摩の山に囲まれた、のどやかな田舎の風光と人の心。
けれどそこは、警視庁管内で最も厳しい、生死を見つめる山岳救助の現場だった。
「奥多摩はさ、遭難者と自殺者の件数が多いんだ。だから死体見分も多くなる」
警察学校時代、一緒に資料を眺めた学習室で、宮田は寂しげに微笑んだ。
凍死者遺体と自殺遺体の行政見分は、警察官の業務になる。
あのとき周太は、宮田の長い指の掌を見つめていた。
きれいな白い大きな掌、それが遺体の見分をする。そう思うと、切なかった。
それでもさと、きれいに笑って宮田は言った。
「登山家をね、山ヤって言うらしい。山ヤの警察官が山岳救助隊員なんだ。
山の安全とさ、山を好きな人達を、手助けして守ることが、任務なんだ」
ほらと開いてくれた資料には、奥多摩地域の雪山での救助訓練姿が写っていた。
真白な雪山は、厳しいけれど本当にきれいだった。
その白銀の世界に立つ救助隊員の、スカイブルーのウィンドブレーカー姿が鮮やかだった。
かっこいいだろと微笑んで、あの隣は教えてくれた。
「山岳経験は俺、まだ本当に少ない。でもな、こうして見ているだけで、山にはなんか惹かれるんだ」
それから、きれいに笑って、教えてくれた。
「俺、山ヤの警察官になりたいよ」
そして宮田は本当に、山ヤの警察官として卒配された。
卒業配置挨拶の後、あの公園のベンチに座って、卒業配置先での話を嬉しそうにしてくれた。
それから、ふっと宮田は黙って、ぼんやり空を見上げていた。
いつものように、やさしい穏やかな静かな時間が、あの隣をつつんでいた。
そんな隣の気配が、本当はずっと好きだった。
あの時の自分はその事すら、まだきちんと自覚していなかった。
ただ、もう二度とこんな時間はないだろうと、諦めの底にいた。
そしてただ、隣の気配の穏やかな、やさしい記憶を少しでも、自分の中に遺したかった。
そして、あの夜の、あの瞬間が、自分を壊して浚ってしまった。
― お前が、好きだ ―
しんぞうが、とまる、と思った。
聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がした。
だって信じられなかった。
どうして自分なんかに、そんな事を言えるの?
どうして、そんなにきれいな笑顔なのに、自分の事を選ぼうとするの?
だって宮田なら、普通の幸せを、いくらでも手に入れられる。
きれいな笑顔にふさわしい、きれいな幸福を手に入れられる。
それなのに、なぜ? そんな疑問ばかりが途惑っていた。
けれど、きれいな笑顔で、宮田は真直ぐに見つめて、言ってくれた。
―湯原の隣で、俺は今を大切にしたい
湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい―
あんなきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
きれいな笑顔をずっと、見つめていたい。そう願ってしまった自分がいた。
もう二度と会えなくなるかもしれない。
そんな覚悟が余計に、自分の唇をほどいて心を吐かせてしまった。
「お前の隣が、好きだ。明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」
涙と一緒に零れた言葉は、きれいな笑顔が、きれいに全て受け留めてくれた。
ほんとうはもう、解っていた。きっともう隣から離れられない。
だってあの、きれいな笑顔に自分は、支えられ与えられ、卒業式を迎えたから。
もうあの笑顔が無くては、もう、生きられない。そんな自分になっていた。
だから、心ごと、体も、全てを、差し出してしまった。
初めて、名前を、呼んでくれた。
生え際の小さな傷にふれて、初めての口づけをくれた。
きれいな長い指でふれた唇に、唇を重ねて、初めてのキスをくれた。
瞳、覗きこんで胸射して熱い、初めての視線をくれた。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、初めてで。
誰かが自分だけを見つめている事が、嬉しくて、そして怖くて、初めてで。
肌に肌でふれられることも、初めてで。
髪に頬に唇に、隠していた全てにも、熱くふれられることも、初めてで。
熱くて、痛くて、けれど甘やかで嬉しくて、そんな想いも、初めてで。
たった一夜のこと。
けれどその一夜で、差し出した心も体も声すらも、全てが変えられてしまった。
そんな事になるなんて、なにも、自分は解っていなかった。
途惑いと、途惑いのまま独りになる悲しみが、涙に変わってとまらなかった。
そんなに辛いのに、それでも自分は、後悔なんて出来なかった。
そして本当はもう、願ってしまっていた。
警察官の道を捨ててでも、大切な母を捨てでも、この隣に座っていたい。
そんなふうに本当は、心の底で泣いていた。
ファイルに添えたペンを持った右掌。その捲ったシャツの袖の翳、赤い色が咲いている。
あの夜からずっと、あの隣が刻み続けてくれる痣。
あの翌朝は、この痣はいつか、消えてしまうのだろうかと思っていた。
けれどもう、この痣は、消えることは無い。
だって。自分にとって本当に全て “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。
なんだか今朝は、あの隣のことばかり考えてしまう。
木曜日には会える。そして一緒に雲取山へ登る。
けれど今すぐにもう、あの隣の気配を感じたい。
借りた専門書と鑑識のファイルをまとめて、鞄にしまう。
クロゼットを開けて、Gジャンを出して羽織った。
あの隣が選んで買ってくれた服、一昨日の奥多摩でも着ていた。
それからiPodとオレンジの飴を胸ポケットに入れて、周太は廊下に出た。
いつものパン屋によって、クロワッサンとオレンジデニッシュを買った。
そのまま、いつもの公園に行って、いつものベンチに座る。
自販機で見つけた、焦茶色の缶のプルリングをひいた。
ほろ苦くて甘い香が、かわいた落葉の香と混じり合う。
そっと啜ると、甘くて温かくて、嬉しかった。
それから、あの隣に借りた専門書を開いて、そのまま時間まで過ごした。
22時、当番勤務の休憩時間、休憩室で周太は鑑識のファイルを開いた。
借りた専門書からメモをとっていく。
肌の付着物についての記述は、特に気になって二回読み返した。
ふっと見た時計が、22:45になっている。
いつもなら21時が電話をくれる時間、けれど今夜は無理だった。
当番勤務の合間、軽い夕食をと休憩に入った時、携帯が3秒間を振動した。
開いてみると、大好きな名前だった。
From : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
でもさ、話題はちょっと、危ういかもしれない?
非番でも召集がかかることもあるんだ。
微笑んで、そう教えてくれた事が、現実になった。
明方の雨はもう、昼間の晴天に乾いただろう。けれどまだ強い、上空の冷たい風が吹いている。
救けに来てくれた金曜日、初めて見た山岳救助隊服姿。
そして一昨日、初めて見た山ヤの警察官としての姿。
どれもが全て、眩しくて。頼もしくて、嬉しかった。見惚れてしまいそうで、困ってしまった。
だから信じている、きっといつも大丈夫。必ず自分の隣へと、帰ってきてくれる。
信じて待っている、そう伝えたくて、周太もメールを送った。
それにしても、宮田のメールの最後の一文。
「話題はちょっと、危ういかもしれない?」て、なんだろう?
ほんとうにいつも、あの隣のメールは謎かけが多い。
ふっと、気配に目が覚める。
鑑識のファイルに頬埋めて、いつのまにか眠っていたらしい。
携帯の時計が23時を示している。あの隣は今どこで、どうしているのだろう?
信じている、でも想ってしまう。ぽつんと呼び声が唇を零れた。
「…みやた、」
ぼんやりとした視界の真中で、そっと携帯の着信ランプが灯った。
「…あ、」
携帯を開いて、耳にあてた。
きれいな低い声が、やさしく言葉を聴かせてくれた。
「待ってた?」
声が聞けて、嬉しい。声を聴けた今、こんなにあなたの無事がうれしい。
微笑んで周太は、答えた。
「…ん、待ってた」
答えた微笑みに、そっと涙がひとすじおりた。
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】
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不夜、想話 act.2 ― another,side story「陽はまた昇る」
朝起きると、窓から見える小さな空は曇りだった。
少しだけ窓を開けると、すこし湿った冷たい風が部屋へと吹きこんだ。
明方に雨が降った、そんな気配を周太は感じた。
まだ空に残る、薄墨色の雲を見あげて周太は呟いた。
「奥多摩にも、降ったのかな…」
山では雨も風も、遭難の危険性を高くする。
明方の雨が降れば、朝の巡回の山道が気になる。
けれど、今日の宮田は非番。だから少しは安心できる。
それでも、山岳救助隊員は、非番でも召集を受ける事がある。
遭難事故が発生すれば、場合によっては呼ばれる。そんなふうに聴いている。
だから本当は、非番でも週休でも安心なんて、できない。
でもきっと大丈夫、もうそんなふうに信じている。
だってもう約束をしている。宮田は必ず自分の隣に帰ってくる。
「出会った時から、もうずっと俺はね、
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do そんなふうにさ、周太も、なってよ」
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
出会って7ヶ月半、寄り添う約束をして1ヶ月半。
それなのにどうして、もう、こんなふうに想ってしまうのだろう。
ぽつんと周太は呟いた。
「…息をするたびごとに、ずっと」
生きている限り、ずっと ― そういう意味を、宮田は言ってくれた。
あの隣は、思ったことだけしか言わない、出来ない。
だからもう、きっと、ずっと、離れることは出来ない。
だからきっと大丈夫、あの隣は必ず、自分の隣へと帰ってくる。
ふっと窓からの風が強くなった。
見上げた空の、グレーの雲の動きが速い。
上空の風はきっと強い、このまま空は晴れていくだろう。
「よかった、」
呟きと一緒に窓を閉めて、振り向いた時計は6:20だった。
まだのんびりできる、周太はベッドに座ってiPodのスイッチを入れた。
こういう朝の余裕ある時間は好きだ。
今日は昼過ぎから特練に行って、それから当番勤務。だから午前中は時間がある。
だから昨夜はいつもより、ゆっくり電話が出来た。
会ったばかり、けれど少しでも長く、話していたい。
お互いに、翌朝の余裕があった昨夜。だからつい、少し、長電話になった。
電話を通して想いを繋げる。ささやかなこと、けれどこんな小さな日常が、幸せで。
昨夜も嬉しかった、けれど少し困った。
「さっきさ、藤岡に会ったって周太、教えてくれたよな」
「ん、なんかね、最初は俺だって解らなかったって」
そうしたら隣は、笑って訊いてくれた。
「なんで周太だって、解らなかったんだ?」
藤岡が周太を解らなかった理由「なんかきれいになった」
関根にも瀬尾にも言われて、宮田の姉にも言われた。そして母にも。
あの隣とこうなって1ヶ月半、なんだか同じ事をよく言われてしまう。
なんだか、じゃない。
本当はその理由を、自分はもう知っている。
一昨日、白妙橋で、国村に背負われてザイル下降をした。
作業着に軍手でも、軽快な動きで適確に国村は降りていく。
ほんとうに凄いクライマーなんだ。そう感心していた背中に、話しかけられた。
「湯原くん。ご協力をさ、悪いね」
「あ、いや、こっちこそ」
気さくな明るい話し方が、国村は楽しい。
やっぱり良い奴なんだなと、思っていたら国村が続けた。
「宮田くんの背中ほどはさ、居心地良くないだろうけど」
「…え、?」
なんでそんなこと言うのだろう。
思わず聴き返したら、ちらっと細い目がこちらを見て笑った。
「ま、夜じゃないからね、我慢してよ」
なんてこというのだろうこのひと。
“背中、居心地、夜じゃないから ”…何なのか解ってしまう。だってこの1ヶ月半、宮田にもう、言われてばかり。
このひとなにか気づいているんだ、でも宮田は何も言っていなかった。
どうしよう、なんて答えればいいのか解らない。
困っていたら、器用にレストして空いた片手で、ぽんと背中を叩かれた。
「宮田くんと会うまでずっとさ、初めては何も、していなかったんでしょ?」
“初めて” ?
どの初めてのことなのだろう。
いつも同じ誰かと必ず話すこと、誰かと一緒に食事に行くこと、誰かと買物に行くこと。
誰かの隣で過ごすこと、「いつものとおりに」誰かと一緒に笑うこと。
そして「絶対に」と約束をすること。
どれも初めてばかり、どれも宮田が初めてだった。
そしてどれも、幸せで、いつも嬉しい。
周太は訊いてみた。
「初めて、って、どの初めてのこと?」
「ああ、そうか、」
細い目がちらっと見て、唇の端があがった。
「俺が訊いたのはね、キスとさ、ベッドの中ふたりでする “初めて” のことだけど?」
きっと、首筋も顔も、真っ赤だったと思う。だって掌まで赤くなっていたから。
でも、国村に言われたことは、どちらも本当のこと。
それでもう、解ってしまった。
自分がなぜ最近「きれいになった」と言われるのか。
あの隣がいつも、笑顔にして幸せにしてくれる。だから言われるのだと思っていた。
けれどほんとうは、それだけじゃない。そのことを、国村に言われて、気付かされた。
「きれいになった」ことは、国村に言われた「初めて」のことに絡まっている。
そう気づいから恥ずかしくて。
宮田の質問「なんで周太だって、解らなかったんだ?」
その答えの「なんかきれいになった」からだなんて、とても今は言えそうにない。
それでも、なんとか周太は口を開いた。
「…なんだかもう、気恥ずかしくて…今夜は無理」
なぜだか電話の向こうは、大喜びして笑っていた。
もう恥ずかしい、首筋も顔もきっと真っ赤になっていた。
それなのに嬉しそうに、あの隣は訊いてくれる。
「どうしてそんなに周太、気恥ずかしいんだ?」
「…藤岡に言われて俺、…困った、から」
電話の向こう、きれいな笑い声が聞こえた。
そんなふうに、何度か訊かれては、赤くなって。笑われて。
でもぜったいにいえないこんなこと。昨夜はそう、思ってしまって、言えなかった。
けれど国村のことば。
国村に言われて、初めて気がつけた「卒業式の夜」の意味。
それから奥多摩で、川崎の家で、一昨夜のあの場所で。
鏡に映った顔を見るたびに、なぜ自分の顔が変わっていくのか。その意味とその理由。
背負われて逃げ場のない場所で、国村に言われたこと。
ほんとうに恥ずかしくて、どうしていいか解らなかった。
けれど、そのお蔭で気付くことが出来た。
自分にとって、ほんとうに、すべて “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
―息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。
そのことに、気付くことが出来た。
国村は同じ年、けれどなんだか底が知れない。でも嫌な感じがしない。
細い目は底抜けに明るくて、飄々と笑って気さくに話してくれる。
パトカーの使い方も自由すぎるけれど、宮田と自分を気遣ってくれてのこと。
そしてこんなふうに、さり気なく、大切な事を気付かせてくれた。
そしてどこか、あの隣と似ているところがある。
同じ山ヤの警察官、危険の中に居るはずなのに、明るく笑って逞しい。
ちょっといじわるで困るけれど、思った事しか言えない、出来ない。
国村は、良い奴で良い男だ。
また会ってみたい、そんなふうに想わされる。
また玩具にされるのは、困るけれど。
宮田の隣にいると、こんなふうに。
会いたい人が増えていく。それはきっと、とても幸せな事だ。
食堂に行くと、深堀と佐藤が一緒に座っていた。
おはようございますと声かけて、深堀の横に座った。
先輩の佐藤は水を一口飲んで、それから静かに口を開いた。
「新宿駅の痴漢冤罪の公判が、ニュースなっている」
周太と深堀は、同時に佐藤の顔を見た。
そのニュースは、新宿署が抱えている闇の一部だった。
2年前の冬の早朝。20代半ばの男性が、母校の最寄駅ホームで自殺した。
理由は「痴漢」と言われ学生グループに暴行を受け、警察に連行されたこと。
その連行された先は、新宿警察署だった。
彼の死から一ヶ月後、新宿警察署は痴漢容疑で送検した。その根拠は開示されない、防犯カメラの映像だった。
書類送検は、東京都迷惑防止条例違反容疑。東京地検は被疑者死亡で不起訴処分とした。
「事件があった夜、宿直の職員が条例違反を主に取り扱う生活安全課だったんだ。
だから迷惑防止条例違反で片付けよう、そんな理屈だったのだろう。
あの時は彼の手に繊維が付着しているか、担当者はその検査も怠っていたんだ」
佐藤の声は低い。そして佐藤の目は、真直ぐに怒っている。
けれど微笑んで、佐藤は周太と深堀に謝った。
「こんな重たい話を、朝から済まない」
「いいえ、」
佐藤は卒業配置で新宿署へ来て、4年目の今は刑事課勤務だった。
この新宿署は、正義感の強い人間が配属希望すると言われている。
佐藤の目は、そんな性質が覗いて真直ぐだった。
周太が射撃特練に異例の抜擢をされた為、佐藤は特練を外された。
そのことで周太に厭味を言い、それがきっかけで親しくなった。
厭味を言われた時は、本当に嫌だった。けれど今は、佐藤の気持ちも周太は解る。
努力を重ねた人間ほど、異例の扱いを受ける人間を見れば、悔しく感じて当然だろう。
そして佐藤はそれだけの、努力を重ねて警察官として勤めている。
だから今もこんなふうに、佐藤は自分の勤務先の闇にさえ、真直ぐな目を厭わない。
少し空いた食堂の隅で、佐藤は低い声のまま続けた。
「冤罪で連行した彼が、その直後自殺した。それでは警察のは立場は厳しくなる。
だから彼に痴漢の冤罪を着せようと画策した。被疑者死亡なら不起訴にできる、死人に口無しだからね」
真直ぐな佐藤の目が、怒りに悲しそうだった。
そっと深堀が口を開き、佐藤に尋ねた。
「佐藤さん、どうして俺達に、そんな大切な話をしてくれるんですか?」
「うん。2人とも、遠野教場の出身だろう?」
そうですと頷くと、佐藤が微笑んだ。
「遠野さんが捜査一課の時、管内の傷害事件でご一緒したことがあるんだ。
真実を明らかにするためには、手段を選ばない。そういう刑事だと思ったよ」
「教官をご存知だったんですね」
ああと頷いて、懐かしそうに佐藤が目を細めた。
「その時に、遠野さんが言ったんだ。
“ずっと背を向けて来た事と決着をつける それしか筋を通す方法はない ”
だから俺も、この事件のことは真直ぐ見ていたい。そんなふうに思っている」
遠野教官らしいと周太は思った。
きっと同じように感じたのだろう、微かに頷きながら深堀が言った。
「そういう教官の生徒だからと、信頼してくれたんですね」
「ああ、」
頷いて、佐藤は少し寂しげに笑った。
「この新宿署は警視庁でも最大規模だ。だから人間の種類も様々だよ。
そんな大規模だからこそ、本当に話せる相手を、署内に探すことは難しい。よく、俺はそう感じるよ」
佐藤の様な警察官もいれば、その冤罪事件の発端を作った警察官もいる。
副都心警察、新宿警察署。この署内にはきっと、端正と頽廃の2つの姿勢が共存している。
この新宿という場所自体、その2つの顔がある。
都庁と公式園遊会が開かれる公立苑池の所在地である、副都心新宿。
その片隅に繁華をほこり、東洋一の歓楽街と呼ばれる歌舞伎町。
相反する性格が、この新宿では共栄し建っている。
そして13年前、公式園遊会の警邏任務後に、歌舞伎町の銃弾で父は斃された。
この新宿の二面性、端正と頽廃の狭間に、警察官として父は殉職した。
―俺達の仕事はな、人間と、その生きる場所を学ぶ事なんだろうな―
御岳駐在所長の岩崎が教えてくれた事。
壊れた父の人生のパズルを、復元するために自分はこの街に来た。
パズルピースの大きな一つ、13年前の殉職事件。
そのことからも、岩崎の言葉は本当だと実感が出来る。
朝食を済ませて自室へと周太は戻った。
写しかけの専門書と、鑑識のファイルをデスクに広げた。
宮田に借りた専門書は、思った以上に専門性が高くて、周太は驚いている。
警察学校時代から、本気を出した宮田は怜悧だった。
そして卒業後の宮田は、驚くほど早く大人びていっている。
一昨日に背負ってくれた背中も肩も、一ヶ月半前よりずっと頼もしかった。
「毎日さ、こんなふうに短時間でも訓練するんだ」
そう言って笑って、あざやかに岩場を登ってくれた。
頼もしくて嬉しくて、背負ってもらえる幸せが、いとしかった。
この隣が、こんなふうに大人になった卒業配置先。
その場所に一緒に立つことができて、幸せで、嬉しかった。
卒業式のあの夜は、ただ離れ難くて、あの笑顔が好きで、ただ傍にいたかった。
ほんとうはあの夜、自分はなにも、解っていなかった。
キスくらいは聞いたことはあった、抱き寄せるくらいも。どちらも経験は無かったけれど。
けれど、キスの意味を知らなかった。抱き寄せられた、その後のことも意味も、何も知らなかった。
ほんとうは不安で怖くて、どうしていいか解らなかった。
けれどそれでも、きれいな笑顔を、ほんの少しの瞬間でも多く、隣で見つめていたかった。
ただそれだけの理由。でも自分には、あの笑顔しかなかったから。
なにより大切で、たったひとつの温もりだった。
卒業配置されて現場に立つ、そうしたらもう、孤独の底で父の軌跡を見つめていく。
そんな覚悟だけを抱いて、卒業式の場に立っていた。
この隣ともきっと、遠く離れていく。そう覚悟して諦めていた。
卒業配置先での配属挨拶が終わって、南口改札で待ち合わせた時。
中央線ホームから階段を上る、あの隣の姿が、眩しかった。
希望していた卒業配置先は、宮田の性分に合っていた。それが解って、嬉しかった。
「山岳救助隊員のさ、救助服の採寸をしたんだ。結構ね俺、似合ってた」
あの公園のベンチに座って、嬉しそうに話してくれる笑顔。
山岳訓練の日に話していた通りに、奥多摩へと宮田は配置された。
警視庁青梅警察署。奥多摩の山に囲まれた、のどやかな田舎の風光と人の心。
けれどそこは、警視庁管内で最も厳しい、生死を見つめる山岳救助の現場だった。
「奥多摩はさ、遭難者と自殺者の件数が多いんだ。だから死体見分も多くなる」
警察学校時代、一緒に資料を眺めた学習室で、宮田は寂しげに微笑んだ。
凍死者遺体と自殺遺体の行政見分は、警察官の業務になる。
あのとき周太は、宮田の長い指の掌を見つめていた。
きれいな白い大きな掌、それが遺体の見分をする。そう思うと、切なかった。
それでもさと、きれいに笑って宮田は言った。
「登山家をね、山ヤって言うらしい。山ヤの警察官が山岳救助隊員なんだ。
山の安全とさ、山を好きな人達を、手助けして守ることが、任務なんだ」
ほらと開いてくれた資料には、奥多摩地域の雪山での救助訓練姿が写っていた。
真白な雪山は、厳しいけれど本当にきれいだった。
その白銀の世界に立つ救助隊員の、スカイブルーのウィンドブレーカー姿が鮮やかだった。
かっこいいだろと微笑んで、あの隣は教えてくれた。
「山岳経験は俺、まだ本当に少ない。でもな、こうして見ているだけで、山にはなんか惹かれるんだ」
それから、きれいに笑って、教えてくれた。
「俺、山ヤの警察官になりたいよ」
そして宮田は本当に、山ヤの警察官として卒配された。
卒業配置挨拶の後、あの公園のベンチに座って、卒業配置先での話を嬉しそうにしてくれた。
それから、ふっと宮田は黙って、ぼんやり空を見上げていた。
いつものように、やさしい穏やかな静かな時間が、あの隣をつつんでいた。
そんな隣の気配が、本当はずっと好きだった。
あの時の自分はその事すら、まだきちんと自覚していなかった。
ただ、もう二度とこんな時間はないだろうと、諦めの底にいた。
そしてただ、隣の気配の穏やかな、やさしい記憶を少しでも、自分の中に遺したかった。
そして、あの夜の、あの瞬間が、自分を壊して浚ってしまった。
― お前が、好きだ ―
しんぞうが、とまる、と思った。
聴いてはいけない事を、非現実的な事を、言われたような気がした。
だって信じられなかった。
どうして自分なんかに、そんな事を言えるの?
どうして、そんなにきれいな笑顔なのに、自分の事を選ぼうとするの?
だって宮田なら、普通の幸せを、いくらでも手に入れられる。
きれいな笑顔にふさわしい、きれいな幸福を手に入れられる。
それなのに、なぜ? そんな疑問ばかりが途惑っていた。
けれど、きれいな笑顔で、宮田は真直ぐに見つめて、言ってくれた。
―湯原の隣で、俺は今を大切にしたい
湯原の為に何が出来るかを見つけたい。そして少しでも多く、湯原の笑顔を隣で見ていたい―
あんなきれいな笑顔で、こんなふうに言われたら、身動きなんか、出来ない。
きれいな笑顔をずっと、見つめていたい。そう願ってしまった自分がいた。
もう二度と会えなくなるかもしれない。
そんな覚悟が余計に、自分の唇をほどいて心を吐かせてしまった。
「お前の隣が、好きだ。明日があるか解らないなら、今、俺は、宮田の隣に居たい」
涙と一緒に零れた言葉は、きれいな笑顔が、きれいに全て受け留めてくれた。
ほんとうはもう、解っていた。きっともう隣から離れられない。
だってあの、きれいな笑顔に自分は、支えられ与えられ、卒業式を迎えたから。
もうあの笑顔が無くては、もう、生きられない。そんな自分になっていた。
だから、心ごと、体も、全てを、差し出してしまった。
初めて、名前を、呼んでくれた。
生え際の小さな傷にふれて、初めての口づけをくれた。
きれいな長い指でふれた唇に、唇を重ねて、初めてのキスをくれた。
瞳、覗きこんで胸射して熱い、初めての視線をくれた。
こんなに近く隣にいる事も、触れられる事も、初めてで。
誰かが自分だけを見つめている事が、嬉しくて、そして怖くて、初めてで。
肌に肌でふれられることも、初めてで。
髪に頬に唇に、隠していた全てにも、熱くふれられることも、初めてで。
熱くて、痛くて、けれど甘やかで嬉しくて、そんな想いも、初めてで。
たった一夜のこと。
けれどその一夜で、差し出した心も体も声すらも、全てが変えられてしまった。
そんな事になるなんて、なにも、自分は解っていなかった。
途惑いと、途惑いのまま独りになる悲しみが、涙に変わってとまらなかった。
そんなに辛いのに、それでも自分は、後悔なんて出来なかった。
そして本当はもう、願ってしまっていた。
警察官の道を捨ててでも、大切な母を捨てでも、この隣に座っていたい。
そんなふうに本当は、心の底で泣いていた。
ファイルに添えたペンを持った右掌。その捲ったシャツの袖の翳、赤い色が咲いている。
あの夜からずっと、あの隣が刻み続けてくれる痣。
あの翌朝は、この痣はいつか、消えてしまうのだろうかと思っていた。
けれどもう、この痣は、消えることは無い。
だって。自分にとって本当に全て “初めて” は、あの隣。
そんな “初めて” からずっと、自分は、きれいになっている。
I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
息をするたびごとにずっと、君への愛は深まっていく ほんとうに心から、激しく深く愛している
あの隣に「そんなふうにさ、周太も、なってよ」と願われた。
けれどもう、とっくに自分は、そうなっている。
なんだか今朝は、あの隣のことばかり考えてしまう。
木曜日には会える。そして一緒に雲取山へ登る。
けれど今すぐにもう、あの隣の気配を感じたい。
借りた専門書と鑑識のファイルをまとめて、鞄にしまう。
クロゼットを開けて、Gジャンを出して羽織った。
あの隣が選んで買ってくれた服、一昨日の奥多摩でも着ていた。
それからiPodとオレンジの飴を胸ポケットに入れて、周太は廊下に出た。
いつものパン屋によって、クロワッサンとオレンジデニッシュを買った。
そのまま、いつもの公園に行って、いつものベンチに座る。
自販機で見つけた、焦茶色の缶のプルリングをひいた。
ほろ苦くて甘い香が、かわいた落葉の香と混じり合う。
そっと啜ると、甘くて温かくて、嬉しかった。
それから、あの隣に借りた専門書を開いて、そのまま時間まで過ごした。
22時、当番勤務の休憩時間、休憩室で周太は鑑識のファイルを開いた。
借りた専門書からメモをとっていく。
肌の付着物についての記述は、特に気になって二回読み返した。
ふっと見た時計が、22:45になっている。
いつもなら21時が電話をくれる時間、けれど今夜は無理だった。
当番勤務の合間、軽い夕食をと休憩に入った時、携帯が3秒間を振動した。
開いてみると、大好きな名前だった。
From : 宮田
subject: 今から山に
本 文 : 遭難救助の召集が来た。道迷いの捜索、今からだとビバークになると思う。
大丈夫、必ず俺は隣に帰るから。
でもさ、話題はちょっと、危ういかもしれない?
非番でも召集がかかることもあるんだ。
微笑んで、そう教えてくれた事が、現実になった。
明方の雨はもう、昼間の晴天に乾いただろう。けれどまだ強い、上空の冷たい風が吹いている。
救けに来てくれた金曜日、初めて見た山岳救助隊服姿。
そして一昨日、初めて見た山ヤの警察官としての姿。
どれもが全て、眩しくて。頼もしくて、嬉しかった。見惚れてしまいそうで、困ってしまった。
だから信じている、きっといつも大丈夫。必ず自分の隣へと、帰ってきてくれる。
信じて待っている、そう伝えたくて、周太もメールを送った。
それにしても、宮田のメールの最後の一文。
「話題はちょっと、危ういかもしれない?」て、なんだろう?
ほんとうにいつも、あの隣のメールは謎かけが多い。
ふっと、気配に目が覚める。
鑑識のファイルに頬埋めて、いつのまにか眠っていたらしい。
携帯の時計が23時を示している。あの隣は今どこで、どうしているのだろう?
信じている、でも想ってしまう。ぽつんと呼び声が唇を零れた。
「…みやた、」
ぼんやりとした視界の真中で、そっと携帯の着信ランプが灯った。
「…あ、」
携帯を開いて、耳にあてた。
きれいな低い声が、やさしく言葉を聴かせてくれた。
「待ってた?」
声が聞けて、嬉しい。声を聴けた今、こんなにあなたの無事がうれしい。
微笑んで周太は、答えた。
「…ん、待ってた」
答えた微笑みに、そっと涙がひとすじおりた。
【歌詞引用:savage garden「truly madly deeply」】
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