六位は明の第三代皇帝、朱棣です。
彼の事績は、明王朝の最盛期を作り出し、
亜細亜を始め遠くアフリカにまで覇を唱えて、
周辺諸国を冊封して宗主国たらんとした。
初め彼は、父の朱元璋(太祖洪武帝)の四男として生まれ、
その武勇を見込まれ、蒙古との国境地帯、燕の地を任され、
北平を拠点とした。
代が代り、甥の建文帝が即位すると、建文帝は周辺の諸王と成って居る
叔父達が、自らの地位を脅かすのでは?と思い、次々と叔父達の位を剥奪して行った。
この動きに危機を感じた朱棣は、「君側の奸を取り除く」として、挙兵しました。
自らの軍を、挙兵の大義名分の意味を込めて、靖難軍と名乗りました。
これを”靖難の変”と言います。
建文帝は叔父殺しの汚名を恐れて本気で討伐しないで居る内に、
遂には都の応天府(南京)を包囲され、宮殿に火を放ち陥されてしまいました。
都を陥した朱棣は、皇帝に即位して、都も地元の北平に移し、
北京(順天府)と改称しました。
そして、父は内政と農民保護の農本主義を重視して、
国の礎を固めましたが、彼は逆に拡大路線・商業主義を標榜して、
大いに外国との関わりを積極的に行いました。
まず挙げられるのが、宦官の鄭和を司令官にして、南海への
大使節船団を送りました。
これにより、東南亜細亜を始め、印度や遠くアフリカの国々まで、
明に朝貢の使節を送って来る様に成りました。
彼らの領主を、宗主国として現地の王に任命すると言う冊封体制を布き、
世界に力を誇示しました。
我が国日本でも、足利義満が日本国王として冊封たのが、
勘合貿易として有名です。
この南海遠征は、後に欧州で活発化する、大航海時代を
先んずる事半世紀ですので、その点でも、凄い事だと思います。
また、歴代王朝が苦しめられて来た北方騎馬民族のタタールとオイラートを、
中国皇帝史上初めて、自ら親征して討伐して成果を挙げたのも、
朱棣が最初です。
また、近年独立して居たヴェトナムも征服して、唐以来の
中国直轄領としたりして、その領土は明王朝史上の、最大版図を実現しました。
ただ、欠点も多かった事も事実です。
第一に、身を護る為とは言え、甥の建文帝に逆らって殺めたのは事実ですし、
しまいには建文帝自体を、歴史の記録から抹消しようとさえしました。
また、甥から位を奪ったその事を臣下に指摘された時は、その臣下の家族親戚、
働いて居る者にまで及び、皆殺しにしてしまいました。
そして、宦官の重用です。
父の朱元璋は、過去の多くの王朝の末期には、宦官が権力を握り、
政治が腐敗して滅んだ事を鑑み、宦官を卑賤な者として蔑む様、
国訓として居ましたが、
朱棣はその蔑まされて居た宦官に排除されそうな情報を得たり、
南京陥落の手助けをして貰った等した事から、宦官を重用しました。
この頃は、鄭和を始めとした有能な宦官が仕えていたので、
問題は無かったのですが、これにより代々宦官を重用する気風が出来、
朱元璋が危惧した通り、その末期には宦官の汚職と跋扈が、
国を滅ぼす主な原因と成ってしまった事です。
ただこれは遠い未来の事なので、かの一人の責任とするのは、
かなり酷かも知れませんね。
またこれら欠点は有った物の、三代目で有りながら、実力で皇帝に即位した事。
外征を自ら指揮して大成功を収めた事。
諸外国と交流して、世界中に覇を唱えた事。
内政でも永楽大典を編纂して文化を発展させる等します。
そして王朝の最盛期を作り上げ、最大版図として事等は、
凄いと思います。
ですので、彼をランクインさせました。
蛇足ですが、実はランクを作った後に思ったのですが、
七位の康熙帝と、永楽帝だと、康熙帝の方が皇帝・人間としては立派で、
ランクが上じゃ無いかな?と、ふと思いました。
始めは、実際に軍を動かして皇帝の座を奪ったので、
実力が有る。として上位にしたのですが、
康熙帝だって親征して居るし、総合的に見るとやはり康熙帝かな?と…
なので、彼との順位はどっちでもOKと言う事で(苦笑)
でも凄いのが、二位にもランクインして居る朱元璋!
彼とは親子です。
中国四千年の歴史の中で、十位の中に親子二代で入って居るって言うのは、
かなり凄い一家じゃないかな?って思いました。(まぁランク作っているのは筆者なんですが…(苦笑))