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第七位 -清の聖祖、康熙帝-

2006年04月16日 17時11分30秒 | 世界@名無史楽家
7位は中国最後の王朝、清の康熙帝、愛新覚羅玄(アイシンギョロ ゲンヨウ)です。
 アイシンギョロと言う読み方に付いては、満州語での発音なので、
日本では公家からラストエンペラーの皇弟に嫁いだ事で有名な、愛新覚羅浩さんが居るので、
アイシンカクラの方が、馴染みが有ると思いますね?

 玄は清帝国の第三代皇帝ですが、後金の太祖、弩爾哈斉(ヌルハチ)から数えると四代目です。
 彼の事績は、清を中華帝国として確立、中国大陸を統一した事です。
更に外征をして、清の最大領土への礎を築いた事です。

 確かに先代までの遺産を、この玄も受け継いでの創業ですが、
彼も少年時代(7歳)に即位する事に成り、最初は朝廷の権臣に従って居ました。
しかし暫らくして、相撲が趣味と言う様に見せかけて力士を育成し、
その実は親衛隊を育成していて、時期を見てその力士に見せ掛けた親衛隊に、
権臣を排除させて朝廷の実権を取り戻して親政を始めました。

 何となく始皇帝に通じる所が有りますが、彼は成人してから実権を握りましたが、
玄は少年時代に、それを策して、実行に移した所は、yはり非凡だと思います。

 その後、国内の統一戦の仕上げに取り掛かります。
 実は当時の中国大陸は、玄の父、福臨の時代に、ほぼ征服は完了はして居たのですが、
まだ前王朝の残明勢力が残って居ました。
 主な勢力は、台湾と一部大陸に勢力を持つ、鄭成功の一族である鄭家。
 ビルマに亡命した明の皇族永明王、そして清の内部でも、明を裏切って清に付いて勢力を誇る、漢人諸王等も不気味な存在。
 そんな中、漢人諸王が領土を将来的に取り上げられると知って、独立戦争を仕掛けて来ました。
 これが呉三桂を中心に起こった三藩の乱です。
 これらと、台湾の鄭家を降伏させ、国内の統一を成し遂げます。
 外征では蒙古高原のカルカ部族や、チベットに侵入したジュンガル部族等を討伐して、
ダライラマを助ける等して、蒙古高原やチベット、トルファン周辺の西域をも勢力に置きました。
 また、蒙古高原とシベリア近辺では、この頃露西亜人が進出して、彼らの活動が活発に成って居ました。
 そして露西亜軍とも戦い、西洋の軍隊を破って居ます。
 そして露西亜(の名君ピョートル一世)と平等条約を結び、有利な国境を定めました。
こうして満州はオホーツク海沿岸、北はシベリア付近までを勢力に納めました。
西では、彼の孫で有る乾隆帝が、ジュンガル部族を破り、西域を治めて帝国最大版図を実現させた。
と言う事に成っていますが、西域もジュンガル部族も、実は玄が征服して居るので、
乾隆帝は領内の叛乱を鎮圧しただけ、と言う様にも取れるわけです。
 ですので、帝国最大版図の(礎)実現は、玄が成し遂げた、と言っても過言では無いと思います。

 また、ここまでだと軍事的才能しか注目して居ませんが、内政も素晴らしい手腕を発揮しました。
 まず財政の緊縮を進め、予算の支出を前王朝の明の、約40分の1にまで切り詰めたり、
宣教師のイエズス会を保護して、彼らを通じ最新の兵器を取り寄せたり、先進の科学知識を取り入れました。
 また学問に力を入れて百科事典の「古今図書集成」や、字典の「康熙字典」を編纂させました。
 そして、国内の経済動脈で有る南北を結ぶ大運河の修復や、氾濫で悩ます黄河の大治水工事を行う等、
民衆が穏やかに暮らす為の政治を心掛けました。

 こうした事績は、歴史家に因っては、中国史上最高の名君。
と賞賛する人も多く居ます。
 なので、筆者も文句なくランクインさせました。

 ただ、惜しくも筆者の琴線に触れなかったのは、弩爾哈斉の創業・部族統一戦、宗主国独立戦。
皇太極の始祖を継ぐ発展事業。福臨の中国大陸征服戦。
等の、創業に関わる本格的戦いを経験しなかった。と言う事と、
”文字の獄”と言う言論統制を行った。と言うこの二点だけです。

 まぁ後者は、異民族国家なので、漢人を統制するには致し方無い事だったのかも知れません。

残念!!