二の丸西下の西尾根を下ってから二の丸へ
北尾根から西尾根に渡ります。
第五堀切(西尾根の一番下)
第四堀切
西曲輪
第三堀切
第二堀切
西尾根から二の丸の城壁を見ています。
腰曲輪
第一堀切
二の丸の直下まで来ました
二の丸、秋葉神社が祭られています。
次回 本丸から曲輪4へ
永正13年(1515年)、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏に攻められ祢津氏系春日氏は滅ぼされ、その後は望月氏系春日氏の居城となった。天文10年(1541年)、武田氏の佐久侵攻後、望月氏は武田氏に属し、春日城も依田系芦田信守の属城となった。
望月氏
戦国時代
戦国期に入ると、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退し、嫡流の望月昌頼は武田氏に抵抗して敗れるが、天文12年(1543年)9月に庶流の望月信雅(源三郎、印月斎)は実弟の望月新六と共に、同じく滋野氏の流れをくむ真田幸綱(幸隆)の仲介による説得を得て武田氏に臣従し、望月氏を継いだ。源三郎は武田晴信(武田信玄)の一字「信」を与えられ信雅と名乗った。また、望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を武田信玄の弟の典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、次いで望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏は武田一門に組み込まれていった。
信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は養子の望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし信永は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれたが、後に印月斎(信雅)が望月氏当主に復帰する状態となる。
天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、多くの武田家臣は織田氏により処刑された。望月氏の一族では印月斎(信雅)や望月権兵衛らが難を免れ、甲斐国南部の河内領や静岡県富士市から静岡市清水区あたりに身を隠し移り住んだという。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでいるとされ、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身であるとする伝承がある。
印月斎は実子もなく、武田氏からの養子も既に死去していたため、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の宗家の昌頼とは年代的に別の人物と思われる)。昌頼は後北条氏に攻められるも望月城に籠城し、攻めあぐねた北条氏と講和し傘下に入るが同年9月、徳川家康配下の依田信蕃(武田旧臣)に攻められ、一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城。昌頼は十八歳で自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。ウィキペディアより
北尾根から西尾根に渡ります。
第五堀切(西尾根の一番下)
第四堀切
西曲輪
第三堀切
第二堀切
西尾根から二の丸の城壁を見ています。
腰曲輪
第一堀切
二の丸の直下まで来ました
二の丸、秋葉神社が祭られています。
次回 本丸から曲輪4へ
永正13年(1515年)、信濃国の佐久郡望月地方の豪族望月氏に攻められ祢津氏系春日氏は滅ぼされ、その後は望月氏系春日氏の居城となった。天文10年(1541年)、武田氏の佐久侵攻後、望月氏は武田氏に属し、春日城も依田系芦田信守の属城となった。
望月氏
戦国時代
戦国期に入ると、隣国甲斐国の武田氏や、越後国の長尾氏(上杉氏)などの度重なる侵攻により衰退し、嫡流の望月昌頼は武田氏に抵抗して敗れるが、天文12年(1543年)9月に庶流の望月信雅(源三郎、印月斎)は実弟の望月新六と共に、同じく滋野氏の流れをくむ真田幸綱(幸隆)の仲介による説得を得て武田氏に臣従し、望月氏を継いだ。源三郎は武田晴信(武田信玄)の一字「信」を与えられ信雅と名乗った。また、望月盛昌の娘(昌頼の兄妹)を武田信玄の弟の典厩信繁の嫁とし、信繁の子(望月信頼、次いで望月信永)を信雅の養子とするなどして、名族望月氏は武田一門に組み込まれていった。
信雅引退(出家し印月斎一峰と称す)の後は養子の望月信永が家督を継ぎ、武田氏の「御親類衆」として60騎を率いて本陣旗本として活躍する。しかし信永は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて討ち死する。その後しばらくは信永の実兄・武田信豊の管理下に置かれたが、後に印月斎(信雅)が望月氏当主に復帰する状態となる。
天正10年(1582年)の織田・徳川連合軍の武田領侵攻により武田氏は滅亡し、多くの武田家臣は織田氏により処刑された。望月氏の一族では印月斎(信雅)や望月権兵衛らが難を免れ、甲斐国南部の河内領や静岡県富士市から静岡市清水区あたりに身を隠し移り住んだという。現在でも子孫の多くがこの地域に住んでいるとされ、九曜紋の家紋を持つ全国の望月の姓の大半の方がこの地域出身か、祖先がこの地域の出身であるとする伝承がある。
印月斎は実子もなく、武田氏からの養子も既に死去していたため、跡目は望月昌頼が継ぐことになったが、一族の出身かは不明(同名の宗家の昌頼とは年代的に別の人物と思われる)。昌頼は後北条氏に攻められるも望月城に籠城し、攻めあぐねた北条氏と講和し傘下に入るが同年9月、徳川家康配下の依田信蕃(武田旧臣)に攻められ、一か月に及ぶ攻城戦の末に望月城は落城。昌頼は十八歳で自刃し、望月氏嫡流は絶えたと言われている。ウィキペディアより