山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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春日城⑤

2018-10-09 21:42:32 | 山城ー信州
本丸へ

二の丸を南から見ています。

堀切カ

二の丸南曲輪(仮に)

振り返って二の丸城壁を見ています。

二の丸南曲輪の土塁と空堀

堀切キ

二の丸南第二曲輪(仮に)

堀切

本丸

堀切ク

堀切ケ

本丸南曲輪(仮に)

堀切コ

曲輪4

堀切サ

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編、(北は左)右の曲輪4まで歩きました。

次回 本丸の東支尾根

鎌倉期初頭から室町時代にかけて、この地を祢津氏庶流春日氏が支配していたため、春日氏の者による築城を思われる。
祢津氏
戦国時代には、天文10年(1541年)5月には甲斐国の武田信虎が村上義清・諏訪頼重と共同で滋野三家の小県郡海野平へ侵攻した(海野平の戦い)
滋野一族のうち、海野棟綱は嫡男海野幸義が討死し、真田幸綱(幸隆)、根津政直らと上野国に逃亡したが、根津元直は諏訪猶子であり神氏を理由に許され、本領安堵された。
『高白斎記』によれば、根津氏の当主・根津元直は天文11年(1543年)に武田氏に臣従し、同年12月15日には元直の娘・禰津御寮人(根津元直次男、根津政直の妹)が晴信に嫁いでいる。晴信と禰津御料人の間には武田信清が誕生している。
因みに政直の正室は、武田信虎の娘であることから、武田氏と根津氏は重縁関係で結ばれていたことが判明していることや、妻の父である武田信虎は、根津政直の信州高遠知行地内で根津政直の庇護の下終焉まで暮らしたことから、両家が非常に密接な関係を結んでいた事がうかがえる。
元直の嫡男・勝直は早世しており、三男の信忠は真田幸綱の妹と婚姻を結んだものの、病弱の為、潜竜斎と号して出家し、真田昌幸に招かれ岩櫃城下の根津屋敷(通称:志摩小屋)に入った為、家督は元直死後は次男の根津政直(以降松鴎軒常安)が継いだ。
松鴎軒常安は、以降上野国方面の武田氏の勢力の拡大に真田氏とともに貢献している。
永禄10年(1567年)8月には武田家臣団が生島足島神社に起請文を提出しており、根津氏では松鴎軒常安が単独で起請文を提出し、他に根津被官として小田中氏、桜井氏、別府氏、岡氏ら被官の連名起請文が存在している[1]。
天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて武田軍は織田・徳川連合軍に敗退し、松鴎軒常安の嫡男・根津月直も原隼人正配下として奮戦するものの討死した。
現在も長篠古戦場には根津月直と根津家被官の須藤豊後守、土屋助丞などの墓石が、同族真田信綱、昌輝一族などと共に並んで弔われている。
尚、松鴎軒常安自身は天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍による甲州征伐の際は信濃国北部の飯山城に飯山城代として居り、上杉景勝への援軍要請に当たったため、難を逃れている。ウィキペディアより


祢津氏は根津氏とも表します。

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