山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

火燈城

2018-11-21 20:54:01 | 山城ー信州
火燈城は南側相木村にあります。
火燈城地図

南相木村を東西に走る地方道2号線で南相木役場方面に向かい、南相木小を過ぎて

100m0mくらい東に諏訪神社があります。この神社の西裏手から南愛木川を渡る遊歩道があります。(現地ではおみかの滝とあります。)

岩を刳り抜いた洞窟を抜けて橋を渡ります。

尾根を南に登ってゆくと(先端は曲輪)

北曲輪(仮に)

櫓が建てられた本丸城壁が見えてきます。

急な尾根を登ると

本曲輪

本曲輪から南尾根を見下ろすと、第一堀切

第一堀切を南から見返しています。

尾根を進み第二堀切

第二堀切を見返しています。

尾根を南にさらに進むと瘤があり

この瘤を越えると

東西50mの曲輪らしき平地があります。(縄張り図にはありません。)

西下には三角形の曲輪があり

平地もまず曲輪があったものと思います。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編より

武田氏の配下となった相木氏の動向
天文24年・弘治元年(1555年)の第2次川中島の戦いでは、長尾景虎(上杉謙信)がここを本陣とした。そして犀川対岸の大堀館を本陣とする武田晴信と対峙した。景虎は武田方の旭山城を封じ込めるため、裾花川対岸に葛山城を築いたが、戦いは長期化し、両軍は200日余に渡り対陣した。今川義元に調停を依頼して和睦、旭山城の破却などを条件に兵を引いた。この頃武田の侵攻に抵抗していた長野市小市地域を本拠としていた小田切氏の与力に横山氏の名が見られることから、その居城となっていたと考えられている。
永禄4年(1561年)の激戦となった第4次川中島の戦いでは、景虎改め上杉政虎は、八幡原の激戦が終わると、兵を横山城に収めたと伝えられている。
このように、横山城は、川中島の戦いにおいて謙信の善光寺平の抑えとしての役割を果たしていた。しかし武田方の支配が北信一帯に及ぶようになると相木氏の勢力下となったとされている。 ウィキペディアより


次回 滋賀県 虎御前山砦








最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。