山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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光秀の手紙発見

2017-09-12 09:29:12 | 日記
光秀の手紙
光秀の狙いは室町幕府再興か 「本能寺の変」10日後の書状原本発見 .


明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治にあてた手紙の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)
明智光秀が天正10年6月12日に土橋重治にあてた手紙の原本と確認された「土橋重治宛光秀書状」(美濃加茂市民ミュージアム所蔵)

 戦国時代の武将、明智光秀が「本能寺の変」で主君の織田信長を討った10日後に、反信長派の豪族に宛てた書状の原本を発見したと、三重大の藤田達生教授(日本史学)らが11日、明らかにした。信長に京都から追われた室町幕府の15代将軍、足利義昭を再度入洛(じゅらく)させようと協力を求める趣旨の記述があり、藤田教授は「光秀らが義昭を奉じて室町幕府を再興させようとする政権構想がうかがえる」としている。

 書状は天正10(1582)年6月12日、紀伊雑賀(さいか)衆の反信長派リーダー、土橋重治(しげはる)に宛てたとされる「土橋重治宛光秀書状」で、岐阜県美濃加茂市の美濃加茂市民ミュージアムで見つかった。縦11・5センチ、横56・7センチ。これまで書状の写しが東京大学史料編纂所にあるのは知られており、藤田教授は幕府再興説を唱えていたが、原本は見つかっていなかった。

 書状は「将軍(義昭)のご入洛のことについては、ご奔走されることが大切です」などの内容で、信長によって追放され鞆(広島県福山市)にいた義昭の帰洛を実現するため、光秀らが奔走している様子を伝えている。


孤立の光秀、かつての主君・義昭を戴くしかなかった? 傀儡から黒幕へ、「室町幕府の権威」再評価の動きも

 明智光秀が本能寺の変に踏み切った理由についてはかつて、信長に辱められた「怨恨(えんこん)説」や天下取りの「野望説」など、個人的な視点で理解されていた。しかし近年は研究が進み、織田政権内部の対立や戦国大名らとの関係の中で発生したとの解釈が重視されるようになってきている。

 3年前、岡山市の林原美術館での石谷家(いしがいけ)文書の発見は、信長が四国の長宗我部(ちょうそかべ)氏への対応を変更したことを機に、長宗我部氏との交渉担当だった光秀が面目を失い、進退窮まって変を起こしたとする「四国説」を浮上させることとなった。

 さらに今回の書状から、光秀は最終的に足利義昭との連携を構想していたと読むことができる。本能寺の変のあと、光秀は畿内や安土城のある近江の平定を目指したが、頼みとする細川藤孝(幽斎)や筒井順慶は協力を断ってきていた。

 孤立状態の光秀としては、かつての主君でもあった義昭を戴(いただ)いて、毛利氏や長宗我部氏らの協力も得た政権を目指すしかなかったのだろう。義昭については従来、「信長の傀儡(かいらい)」としか見られていなかったが、その力を再評価する動きも出ている。

 とはいえ、今回の書状は「山崎の合戦」前日という逼迫(ひっぱく)した中で書かれており、本能寺の変の前に、義昭との間で綿密な打ち合わせがあったとまでは証明されたわけでない。「義昭黒幕説」で決着とはいかず、変の「なぜ」を問う議論は今後も続くだろう。

(客員論説委員 渡部裕明)産経新聞より

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