山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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箕輪城の現状④

2016-12-03 19:27:50 | 山城ー上州
本丸・御前曲輪




縄張り図で空堀から本丸・御前曲輪へ登れます。

途中、蔵屋敷と本丸とを架ける橋があり、本丸西虎口と縄張り図には書かれています。発掘調査では橋の橋脚を支える礎石が発見されています。

縄張り図で、本丸から見下ろして、左手に通仲曲輪の支尾根、玉木山の支尾根、稲荷曲輪の支尾根が突き出ている北側虎口です。ここに武田勝頼一帯が攻め込んできた場所です。

箕輪長野氏の時代
永正9年(1512年) 戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚によって築かれた。また、大永6年(1526年)業尚の子の信業によって築かれたという説もある。信業の代には、守護代であり山内家宰の白井・総社長尾氏を凌駕する勢力を持っていた。
戦国時代の上野には関東管領山内上杉家が存在したが、永禄元年(1558年)、上杉憲政が越後へ亡命した後は、相模を本拠とする北条氏康、甲斐の武田信玄、越後の上杉政虎(上杉憲政の名跡を継いだ)が侵攻を繰り返す場であった。このようななかで信業の子長野業正は、上杉氏の後ろ盾を得て、箕輪衆と呼ばれる在郷武士団をよく束ね、「名君」と謳われて長野氏全盛時代を築き、最大の版図を有するに至った。業正の代にはまた、武田信玄の侵略がたびたび繰り返されたが、これをよく退け安定した地位を保った。

武田氏の侵攻

永禄4年(1561年)11月、業正が没すると(前年に没した説もあり)14歳(17歳とも)で子の業盛が家督を継いだ。業正は臨終に際し「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と伝え、その死は永らく秘匿された。しかし、業正の死を知るや信玄は再び西上野への侵攻を開始した。近隣の城を落とし、また調略を仕掛け寝返らせていった。
永禄8年(1565年)頃には箕輪城は孤立していき、翌永禄9年(1566年)武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして9月下旬には遂に落城し業盛は自刃して果てた。こののち箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、有力家臣である甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、浅利信種が城代に任じられる。元亀元年(1570年)頃には内藤昌豊(昌秀)が城代となり、天正3年(1575年) 長篠の戦いで内藤昌豊が討ち死にすると、その子内藤昌月が城代に任じられた。 ウィキペディアより


内藤昌月 善龍寺


空堀(一番前の写真)から本丸へ登ってきました。これは空堀で右が御前曲輪、左が本丸、恐らく当時はもっと深かったものと思います。

本丸

御前曲輪


次回 北の水堀から通仲曲輪へ






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