三の丸から二の丸へ、岐阜県の恵那市・中津川市・瑞浪市は信州を県境としており、縄張りも武田氏を意識した堅固な構えを持った山城が多いように思います。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7e/05/c90b44c74c651d1f0bc435e27f1ac86f.jpg)
この三角を残した、次への曲輪につながる城壁が二度も現れます。(前回記事参照)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/79/a320fd1aa1727cb5153d5e8e42e9f945.jpg)
三角をした壁を登ると、石を利用した虎口が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/15/dbb3b39df782e5bf5748d7b80931d306.jpg)
奥に一段高く曲輪3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/58/8f7d867606afe1e7f5b4bf895cef358d.jpg)
曲輪3は複雑で、北側は櫓台でしょうか。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/8b/2b14f652c24bbce8c9c09241b47e3ae2.jpg)
縄張り図は「余湖くんのホームページ」より
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/79/dae6e72b30ab86609ddb64403bc050b3.jpg)
曲輪3を北から振り返って見ています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/24/c5/a419c1c34979f5df0e199b1863410aed.jpg)
阿寺城の特徴は空堀に土橋を残しつつ作っています。この写真は分かりにくいですが、「右側に土橋があります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6e/80/9bf29f5d19fc4f1ec99ee2a152a78cdd.jpg)
空堀の上に曲輪2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6d/c2/7688c5b1772a249407b05329e46bde1c.jpg)
曲輪2の北側にある空堀と組み合わされた土橋
次回 本丸へ
阿寺城について
戦国時代に遠山友忠が飯羽間城から入城する。しかし苗木城を守っていた父遠山友勝が没したため、子の遠山友重に阿寺城を譲り苗木城に移った。天正2年(1574年)甲斐武田氏の攻撃により友重は奮戦し討死を遂げた。阿寺城も陥落し復興することはなかった。ウィキペディアより
遠山友忠
美濃国恵那郡の領主遠山友勝の子として生まれた。
本家筋の岩村遠山氏から苗木遠山氏に入った遠山直廉が、元亀3年(1572年)5月18日に戦傷死すると、父遠山友勝が織田信長の命でこれを継いで苗木城主となったことから、友忠が飯羽間城主となった。
友忠はその後、飯羽間城を長男友信[5]に任せて、自らは明照城(あてらじょう)に移っていたが、父友勝が亡くなったので、明照城を次男友重に任せて、自らは三男(嫡男)友政をつれて苗木城に入った[6]。苗木では領主が友勝・友忠と一年の内に相次いで代わったので、人心が乱れて国人一揆が発生したが、友忠は厳しく鎮圧した。
甲斐武田氏・織田氏に両属していた遠山景任(直廉の兄)が同年8月に病死して岩村遠山氏が断絶すると、信長は四男坊丸をその養嗣子として送り込んだことから、元亀3年に武田信玄が西上作戦を開始した際に従属関係の断ち切られた東美濃も攻め込まれ、伊奈郡の秋山虎繁(信友)が侵攻して岩村城を降伏させた。友勝の一族は同族の明知遠山氏や東三河の奥平氏などと協力して秋山と戦ったが敗れている。 つづく ウィキペディアより
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この三角を残した、次への曲輪につながる城壁が二度も現れます。(前回記事参照)
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三角をした壁を登ると、石を利用した虎口が見えてきます。
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奥に一段高く曲輪3
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曲輪3は複雑で、北側は櫓台でしょうか。
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縄張り図は「余湖くんのホームページ」より
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曲輪3を北から振り返って見ています。
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阿寺城の特徴は空堀に土橋を残しつつ作っています。この写真は分かりにくいですが、「右側に土橋があります。
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空堀の上に曲輪2
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曲輪2の北側にある空堀と組み合わされた土橋
次回 本丸へ
阿寺城について
戦国時代に遠山友忠が飯羽間城から入城する。しかし苗木城を守っていた父遠山友勝が没したため、子の遠山友重に阿寺城を譲り苗木城に移った。天正2年(1574年)甲斐武田氏の攻撃により友重は奮戦し討死を遂げた。阿寺城も陥落し復興することはなかった。ウィキペディアより
遠山友忠
美濃国恵那郡の領主遠山友勝の子として生まれた。
本家筋の岩村遠山氏から苗木遠山氏に入った遠山直廉が、元亀3年(1572年)5月18日に戦傷死すると、父遠山友勝が織田信長の命でこれを継いで苗木城主となったことから、友忠が飯羽間城主となった。
友忠はその後、飯羽間城を長男友信[5]に任せて、自らは明照城(あてらじょう)に移っていたが、父友勝が亡くなったので、明照城を次男友重に任せて、自らは三男(嫡男)友政をつれて苗木城に入った[6]。苗木では領主が友勝・友忠と一年の内に相次いで代わったので、人心が乱れて国人一揆が発生したが、友忠は厳しく鎮圧した。
甲斐武田氏・織田氏に両属していた遠山景任(直廉の兄)が同年8月に病死して岩村遠山氏が断絶すると、信長は四男坊丸をその養嗣子として送り込んだことから、元亀3年に武田信玄が西上作戦を開始した際に従属関係の断ち切られた東美濃も攻め込まれ、伊奈郡の秋山虎繁(信友)が侵攻して岩村城を降伏させた。友勝の一族は同族の明知遠山氏や東三河の奥平氏などと協力して秋山と戦ったが敗れている。 つづく ウィキペディアより