東尾根へ
堀切オ
堀切カ・キ・ク
堀切ケ・コ。サ
堀切シ
堀切シを東から見返しています。
曲輪2から北側斜面に下ります。北第一曲輪
下から曲輪2を見上げています。
北第二曲輪
北第三曲輪、大きな岩の上に曲輪3’があります。曲輪というより通路であって、敵が登って来た時には防衛ラインをつくる施設でしょうか。
以上で入沢城を終わります。次回 医王寺城(佐久市臼田医王寺)
大井氏②
永正6年(1509年)、将軍足利義尹は関東管領上杉顕定に命じて大井行満と伴野貞慶の和睦を図ったが、劣勢に陥った伴野氏は甲斐の武田信虎を頼った。その後、永正16年(1519年)に信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領山内上杉氏などの間で離合集散を繰り返し、やがて天文12年(1543年)には長窪城の大井貞隆が武田晴信(信玄)に敗れ、弟の大井貞清は岩尾城の大井行頼とともに武田氏に臣従した。
戦国末期になると武田氏が滅亡し、徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が信濃に伸び(天正壬午の乱)、大井氏一族も巻き込まれていく。天正11年(1583年)、佐久で唯一残った後北条方の岩尾大井氏(大井朝光の孫光泰が祖)の大井行吉が立て篭もる岩尾城攻めで、徳川方の依田信蕃と弟の信幸が戦死を遂げている。一方、耳取大井氏の大井政成が徳川氏の家臣となり、旗本として存続した。長窪氏などの支族がある。
なお、出羽国由利郡の由利十二頭のほとんどが大井氏の庶流を称している。ウィキペディアより
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堀切シ
堀切シを東から見返しています。
曲輪2から北側斜面に下ります。北第一曲輪
下から曲輪2を見上げています。
北第二曲輪
北第三曲輪、大きな岩の上に曲輪3’があります。曲輪というより通路であって、敵が登って来た時には防衛ラインをつくる施設でしょうか。
以上で入沢城を終わります。次回 医王寺城(佐久市臼田医王寺)
大井氏②
永正6年(1509年)、将軍足利義尹は関東管領上杉顕定に命じて大井行満と伴野貞慶の和睦を図ったが、劣勢に陥った伴野氏は甲斐の武田信虎を頼った。その後、永正16年(1519年)に信虎が佐久郡平賀城を攻めたのを皮切りに、武田氏と村上氏の争いの場となり、大井氏・平賀氏・依田氏をはじめとする佐久郡の豪族も村上氏や武田氏、更に関東管領山内上杉氏などの間で離合集散を繰り返し、やがて天文12年(1543年)には長窪城の大井貞隆が武田晴信(信玄)に敗れ、弟の大井貞清は岩尾城の大井行頼とともに武田氏に臣従した。
戦国末期になると武田氏が滅亡し、徳川氏・後北条氏・上杉氏の勢力が信濃に伸び(天正壬午の乱)、大井氏一族も巻き込まれていく。天正11年(1583年)、佐久で唯一残った後北条方の岩尾大井氏(大井朝光の孫光泰が祖)の大井行吉が立て篭もる岩尾城攻めで、徳川方の依田信蕃と弟の信幸が戦死を遂げている。一方、耳取大井氏の大井政成が徳川氏の家臣となり、旗本として存続した。長窪氏などの支族がある。
なお、出羽国由利郡の由利十二頭のほとんどが大井氏の庶流を称している。ウィキペディアより