山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

飯羽間城(信の城)

2017-01-20 21:03:02 | 岐阜の山城
飯羽間城は岐阜県岩村町飯羽間にあります。

飯羽間城地図

国道257号線からバス停下飯羽の二又から県道406号線に入りますと、ここへ着きます。

県道わきにある説明板

登り口は大きく山を南に廻って、田んぼの畦道を進むと、この看板があります。

本丸に向かう途中、飯羽間遠山氏の歴代城主の説明がありますが、残念ながら場内は薮で覆われています。

飯羽間城は遠山氏の十八支城の一つで有力な城であったようです。

本丸、その他薮の中に曲輪は確認できますが写真にはなりません。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、縄張りはとても立派ですが薮の中です。

遠山氏について

 遠山氏の出自については、桓武平氏の末流鎌倉権五郎景政から出たとするもの、藤原利仁流加藤氏から出たとするものがあるが、利仁流加藤氏の分かれとするのが自然なようだ。
 利仁流加藤氏の祖は景通で、景通は源頼義の郎党で、景通の子景貞(景清とも)が伊勢国に下向して伊勢加藤氏の祖となり、景貞-景員-景廉と続いた。景廉の代に伊勢国から東美濃に移り、頼朝が伊豆国で挙兵した時より仕えた。そして、景廉の男景朝が恵那郡遠山庄を領して遠山を家号とし、岩村城に拠った。
遠山氏の繁衍
 信濃・美濃・三河・下総・常陸・相模・武蔵・陸前・羽前・丹波・豊前など、全国的に遠山氏と称するものは多い。これら遠山氏も元祖は遠山景朝としているが、大別すると美濃遠山氏の他に、信濃遠山氏と相模遠山氏になる。その他はそれらからの分かれである。
 相模遠山氏は同国足柄郡松田に拠って栄えた大族で、後北条氏に仕えて重臣となり、大永・天文のころ(1521~1532)江戸城を守った。武蔵遠山氏は、この分かれで室町時代に成立したものである。遠山氏は何れも「丸に二つ引両」を家紋に用いている。
 『遠山氏史蹟』によると、鎌倉権五郎後裔説は、徳川中期以後遠山地方に広く分布していた説であるらしい。柳瀬などの村落に伝わる記録類、また遠山谷に祀られている八幡社の多くは鎌倉を冠し、鎌倉正八幡と称されていたことなども、遠山氏が鎌倉権五郎より出たとの説を生むようになった。江戸時代中ごろの元文頃(1736)に書かれた『伊那温知集』および『伊那郡実録』、その他『遠山氏由緒』などは、いずれも平氏系であるとし、併せて遠山氏の本国は鎌倉であるとしている。
 利仁流藤原氏説も、権五郎説と同じ時代から遠山地方に伝えられていたものであるようだ。『尊卑分脈』によれば、景朝を遠山氏の初代としている。景朝は、美濃遠山庄の開発をした人であり、岩村城の築城も景朝によって始められたとされている。「承久の変(1221)」には北条泰時に従い、執権の命を受けて公卿側首謀者の一人、一条中将信能の首をはねた。景朝は幕府にその存在を認められた美濃遠山氏の開祖とされるべき人物であった。
 文治元年(1185)、源頼朝は加藤次景廉をもって、遠山庄の地頭に補し、景廉の嫡男景朝はここに住して、遠山を姓とし領主となり岩村城を築いてその本拠としたのである。以後、遠山氏は恵那郡全体に繁栄して一大豪族となり、土岐郡の守護となった土岐氏とその勢力を競うようになった。武家家伝より


信の城

信の城は飯羽間城から北へ1kmくらいにあります。
信の城地図

山に登って東に向かうと二重堀切があります。
本丸、二の丸は薮の中です。

二の丸は確認できました。この砦、飯羽間城の北側を補完する役目であったと推測します。

縄張り図は「余湖くんのホームページ」より




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。