山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の西上州への侵攻(下仁田町史)④

2016-10-25 18:49:01 | 歴史資料
武田晴信は南牧羽沢城を拠点として甘楽郡小幡方面を治めつつ、小県郡長窪城主、大井貞隆を攻撃して捕虜にしたのが天文十二年九月の事である。さらに天文十五年五月、信州佐久市の内山城主、大井貞清は父貞隆が捕えられても内山城に立て籠もり武田に屈しなかった。武田軍は水の手を取り水脈を断って、抗戦を続けたもののついに五月二十日に至り、降伏開城した。
 信州佐久地方に境を接する西上野の高田や南牧の地衆は当然脅威を感じて警戒を強めた。高田氏は甘楽郡の西牧、小坂(甘楽郡下仁田町)菅原、高田(甘楽郡妙義町、現在富岡市)地方を領有していた高田小次郎憲頼であり、菅原に本城があった。

佐久市内山周辺地図
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出城には高田城、筑前上の砦、八木連郷土谷津の砦、春日田城、御屋敷城、桐の木坂城、奴居出城、西牧城などがある。
 高田憲頼は平井城の関東管領である上杉憲政の出頭であるり、寵臣であった。「関東八州古戦録」では、佞臣菅野大膳亮と上原兵庫の奉行被官・側近の出頭衆であるが、武田晴信を討とうと言い出したとある。武田氏の勢力拡大に対して脅威を感じ、先手を取って武田を滅ぼせば、川越の夜戦以来の面目を保つことができ、関東管領の威光も増して、以後、北条氏康もしり込みして、この城に手を出すことがなくなるであろう。このように憲政の尻を押して無法の企てを勧めたのである。
 高田憲頼は親族である笠原新三郎清繁の立て籠もる信州佐久郡志賀城(地図で内山城の北に位置する。)へ加勢に加わった。
 倉賀野の金井小源太秀景等の主力が碓氷峠を越え、浅間山山麓の小田井原に進出し、志賀城の憲頼などに呼応して武田勢に対して布陣した。「妙法寺記」では「さるほどに、板垣駿河守、甘利備前守、横田備中守、多田野三八殿そのほか向かい、戦慣れ候。上州の人数伐り負け候いて、名大将十四五人討取り雑人三千人ばかり討取る。この首を志賀城の周りに悉く懸けさせ候。これを見て要害の人数も力を失い申し候。」

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