山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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津川城②

2016-10-15 20:05:42 | 山城ー越後
三の丸から二の丸へ


二の曲輪としているが馬場と思います。

馬場の東先端部は一段高く櫓跡とされています。

櫓台、この奥に竪堀が切られています。

馬場から西虎口を越えて

足場の階段整備の工事です。門跡とあり、こちらに回るのが大手であったのかもしれません。

門跡を下から見上げています。

縄張り図は「余湖くんのお城のページ」より、第二の門跡から西側先端部の曲輪7や石垣に囲まれた曲輪があったようですが見逃してしまいました。

ここの階段を登れば三の丸ですが、石垣とあり左手を覗くと

近世城郭を思わす見事な石垣があります。

見事な石垣の上にある三の丸(出丸ではないと思います。)
これを登れば二の丸ですが次回とします。(曲輪の名に余湖さんの曲輪番号と現地の案内板と異なっています、さらに二の丸では余湖さんと、現地案内とも私の見解が違いますのでご注意を)

蘆名家の内訌
<反伊達勢力の主力をなす蘆名家は当時、深刻な内訌を抱えていた。天正3年(1575年)に蘆名盛興が死去し[2]、嗣子がなかったため二階堂家から人質としてあった盛隆が家督を継いだ[3]。天正8年(1580年)には隠居の盛氏が死去し、盛隆も天正12年(1584年)10月6日に側近の大庭三左衛門に暗殺された[3]。このため蘆名家は盛隆の生後1か月の遺児である亀王丸が継ぐ事になるが、その亀王丸も天正14年(1586年)11月21日に3歳で夭折してしまった[3]。こうなると他家から養子を迎えるしかなく、候補に挙げられたのが政宗の同母弟・小次郎と義重の次男・義広であった[4]。小次郎と義広は政宗の曽祖父・伊達稙宗の血を受け継いでおり、その稙宗は盛氏の叔母を正室にしていた[4]。つまり、曽祖母を介して両者は蘆名家の血統を受け継いでいたのである[4]。血統も年齢も互角である両者の対立は、そのまま蘆名家の家臣団の分裂にもつながった[4]。小次郎には蘆名一門衆の猪苗代盛国、蘆名宿老の四天の大半、外様の国人領主などが味方し、義広には蘆名一門衆で執政である金上盛備が味方していた[5]。盛備は執政として外交も担当しており、当時中央で政権を確立していた豊臣秀吉と誼を通じており、その秀吉との関係を背景にして小次郎の派閥を切り崩し、義広を蘆名家の新当主とした[5]。
その結果、義広が蘆名家に入嗣すると同時に佐竹家から転身してきた大縄義辰らにより、小次郎派に対する粛清が開始される[6]。四天の宿老家では佐瀬家を除く三家が中枢から排除されて失脚する[6]。また小次郎を支持した国人層は遠ざけられて佐竹家から転身した家臣で中枢は占められ、これは蘆名家の内訌をさらに激化させる事になった。
伊達政宗が蘆名家の居城・黒川城を攻めるには、猪苗代湖の北にある猪苗代城を何としても落とさないといけない。当時の猪苗代城主は猪苗代盛胤で、天正13年(1585年)に父の猪苗代盛国から家督を譲られて城主になった人物である[7]。しかし盛国は隠居ながらなおも隠然たる影響力を持っており、先の継嗣争いでも小次郎派に与していた。ところが継嗣争いで敗れ、また盛胤とも不仲になり、隠居を次第に後悔するようになっていく[7]。また盛国は後妻が生んだ盛胤の異母弟・亀丸を溺愛し、盛胤を廃嫡して亀丸に家督を譲りたいと思うようになった。そのため天正16年(1588年)5月10日、盛胤が黒川城に出仕している間に盛国は猪苗代城を乗っ取ってしまった[7]。家臣の大半は盛国に従い、あくまで盛胤を支持する家臣は斬られ、激怒した盛胤は盛国を攻めるが猪苗代城は奪還できず、金上盛備が仲介に入ってひとまず父子は和睦した[7]。
政宗はこの盛国の後妻に近づいた。そして後妻を通じて盛国に内応を呼び掛け、盛国が遂に応じたのである。ウィキペディアより
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この内訌に伊達政宗は付け込み摺上原の戦いへと進むのです