山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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武田氏の上州への侵攻③

2016-10-23 20:37:33 | 歴史資料
桧平の合戦

永禄三年(1560)九月、小幡国峰城主となった小幡図書之助景定は南牧砥沢城(小幡憲重が籠る)を覆滅すべく兵を出した。小幡憲重は武田信玄の援助を請うが、信玄承諾して信州より飯富兵部虎昌、小山田備中守信義を向かわせ、自らも出馬することを約束する。使者の市川右馬介、同右近介(右馬介の甥)は喜んで羽沢城に至り、尾張守憲重に報告し、右近介は急いで砥沢城に帰り要害の戦備を整える。
 敵は三里隔てた下仁田天台宗五大常住寺に立て籠もり対陣する。尾張守憲重と信実父子、上大学など十五騎の勇士と市川右馬介・右近介などの勢力を合わせて南牧磐戸に進むが、図書之助は斥候青柳藤右衛門に五百騎の兵を加勢し砥沢に向かわせた。両軍磐戸で合し、桧平・笹窪・渡戸の間で激突し激戦となる。
 敵は一旦勝ちに乗じて進むが、味方の上大学の弟小十郎兄弟四人討死、笹渡戸(大日方笹平の地か、この大日方は南牧)の川中にて上大学と青柳藤右衛門との対決となり、太刀を合わせ勝負を決する。大学の太刀にて青柳の弓手の高腿(大腿部)を切り落とし、力余って馬の背脇へ切り込み、人馬ともに川中へ倒れたが、大学すかさず青柳の首を取る。敵方は、将を失い周章狼狽して逃散した。これを追撃し、先を争って下仁田へ進む、このために図書之助の兵は常住寺を支えることができずに退散した。
 この戦いの行賞として、信玄は書状を市川右馬介・右近介に出している。「この度の忠節につき小田切・高野町(信州佐久町)、百二十貫。蓬田・桑山(信州佐久郡浅科町)八十貫の所を右馬介に海瀬三箇(南佐久郡八千穂村)百二十貫、崎田(八千穂村)七十貫のところ、右近介に出し置き候、向後いよいよ奉公肝要に候もの也、依って件の如し、永禄三年十月六日。これらの地はみな信州佐久の地である。しかし、天正十年(1582)滝川一益が関東管領として上州厩橋に入ると、市川家の信州各地に持っていた領地は悉く没収され、わずかにその本拠の羽沢付近を残すのみとなる。


笹平には笹平城。小沢城は市川六人衆の一人小沢源十郎行重の居城でしょうか。

桧平周辺地図

つづく(一旦越後和島村 中村城への報告に戻ります。)