冷静なときにはたどり着く結論は、
すべての人間に等しく価値などなく、生きる「権利」などないから、生きていていい条件などない。生きていてはいけないという条件はない。
許すも許さないもないというのは存在していることを受容している。もしくは否定のしようがないということだ。
神様が許す許さないとかの考え方もあるけど、
日本の神様は無だと言っていた話を聞いたことがあるなあ。
でもって別の話で、無とは無限だって聞いたこともあるなあ。
こういうのってみんな関係あるのかなあ。
自分のなかにこういう考えがあるから救われているんだと思う。
■ ■ ■
惑うときには自分は有害か有益か問答する。
私は素晴らしい。のかもしれない。人のいうこと、機械の動かし方を、理解するのが早いのかもしれない。
(しかしそれは気のせいで、他の人は明らかにしないだけで分かっているのだけれど、自分だけがあけすけにわかったと表明しているだけかもしれない)
私はいない方がいいのかもしれない。
僕はいない方がいいのかもしれない。
人を不快にさせるのかもしれない。人と共に生きるには不足するところがあるのだろう。自分勝手なのだろう。
いっそ攻撃してくれればいいと思う。いっそ殺してはくれまいか。
この気持ちは何というのだろう。いたたまれないってこういうことなのか。
むしろ人を不快にさせて人に迷惑をかけてある意味苦しめて、さらに手を下させようとするなんて。ということだろうか。自分でとっとと消えろということだろうか。
自分が悪いのだろうか、相手が悪いのだろうか。ああ少なくとも自分に悪いところはあるのだろう。相手は悪いのだろうか、やっぱりこっちも少なくとも悪いところはあるのだろうけれども。
自分の有害さに対して、自分の有益さは太刀打ちできない。人を害しておいて、なんの有益か。息を詰めて静かに静かに、できるだけ気配を消して、いないもののように、波紋を起こさないように過ごすしかない。その態度もまた、人の神経を逆なでするのだけれど。
(ああでも、こんなことをしているからいろいろ不具合が発生するのだな)
■ ■ ■
なあ、なんだか、3度目言われてしまったのだけれども。今までに3人もの人に言われてしまったのだけど。多分そういうことを言われたのだと思うのだけど。
どうしよう(´・ω・`)
自分はそんなにどうしようもなくどうしようもない人間なのかな。くじけそうです。
自分がいなければ世界はもっと平穏だったのだろうか。人に心痛を与えなかったのだろうか。
自分がもっとしっかりして、気を配って、てしていたら、悪いことはやってこないの?
でも3人もの人間が言うからにはやっぱり私が駄目なの?
■ ■ ■
僕はあの人の助けとなっていたのだろうか苦しみの種だったのだろうか。
僕のいない世界と
僕のいる世界と
どっちが幸せだろう
しんどいぽん(´・ω・`)
■ ■ ■
悪妻はなくとも、悩めば、それが逃れられない悩みであればなお、だれでも哲学者になれると思うの。
まあ最近の私の場合、あんまり考えすぎてもしょうがないという風にしか思えなくなってしまっているのだけど。
■ ■ ■
投げやりなのかなあ。
でももう無理なんだけどなあ。
もうあるものだけでいいやと思ってしまうのですよ。
ないものを、まわりを巻き込んで実現させようというエネルギーなんか、もうないんですよ。一生懸命話して話して、間違ってると思ったことを正そうとしてって、けっこう頑張った時代もあったけど。
せめて近寄って妥協点見つけて、折り合うくらいしかできないんだけど。駄目かなあ。
駄目なのかなあ。
こんな人間が生きていちゃ駄目なのかなあ。
■ ■ ■
なんとなくヤケ食いしたくなったんだけど、チーズケーキ2個入りパックとか今日に限ってなくて、ホイップドーナツとシュークリームを買ってきたんだけど、1つめでお腹からストップかけられた(´・ω・`)
時々ケーキ何個かとか一気食いしたくなるよね。実際にはなかなかできないけどさ。
■ ■ ■
なんだろうね。
人には、無限に大丈夫だって言えるのに、自分には言えないのね。
やっぱり他人ごとなのかなあ。
無神経なのかなあ。
冷たいのかなあ。
■ ■ ■
大分ヘコんでいるんだけどね、
まあね、反論がないわけじゃない。
そこまで私という人間を否定する方がおかしいと思わないでもない。
でもさ、反論すればするほど、自分がどうしようもない人間を上書きするようで、さらにどんどん深みにはまっていくという。
ああ八つ当たりね。って思うこともあるけれど。
そういう風にとらえるからおまえは駄目なんだとか。まわりに波風を煽るんだとか。
ねえどうしたもんかねえ。
■2016.1.24 ちょっとだけ追記しました
すべての人間に等しく価値などなく、生きる「権利」などないから、生きていていい条件などない。生きていてはいけないという条件はない。
許すも許さないもないというのは存在していることを受容している。もしくは否定のしようがないということだ。
神様が許す許さないとかの考え方もあるけど、
日本の神様は無だと言っていた話を聞いたことがあるなあ。
でもって別の話で、無とは無限だって聞いたこともあるなあ。
こういうのってみんな関係あるのかなあ。
自分のなかにこういう考えがあるから救われているんだと思う。
■ ■ ■
惑うときには自分は有害か有益か問答する。
私は素晴らしい。のかもしれない。人のいうこと、機械の動かし方を、理解するのが早いのかもしれない。
(しかしそれは気のせいで、他の人は明らかにしないだけで分かっているのだけれど、自分だけがあけすけにわかったと表明しているだけかもしれない)
私はいない方がいいのかもしれない。
僕はいない方がいいのかもしれない。
人を不快にさせるのかもしれない。人と共に生きるには不足するところがあるのだろう。自分勝手なのだろう。
いっそ攻撃してくれればいいと思う。いっそ殺してはくれまいか。
この気持ちは何というのだろう。いたたまれないってこういうことなのか。
むしろ人を不快にさせて人に迷惑をかけてある意味苦しめて、さらに手を下させようとするなんて。ということだろうか。自分でとっとと消えろということだろうか。
自分が悪いのだろうか、相手が悪いのだろうか。ああ少なくとも自分に悪いところはあるのだろう。相手は悪いのだろうか、やっぱりこっちも少なくとも悪いところはあるのだろうけれども。
自分の有害さに対して、自分の有益さは太刀打ちできない。人を害しておいて、なんの有益か。息を詰めて静かに静かに、できるだけ気配を消して、いないもののように、波紋を起こさないように過ごすしかない。その態度もまた、人の神経を逆なでするのだけれど。
(ああでも、こんなことをしているからいろいろ不具合が発生するのだな)
■ ■ ■
なあ、なんだか、3度目言われてしまったのだけれども。今までに3人もの人に言われてしまったのだけど。多分そういうことを言われたのだと思うのだけど。
どうしよう(´・ω・`)
自分はそんなにどうしようもなくどうしようもない人間なのかな。くじけそうです。
自分がいなければ世界はもっと平穏だったのだろうか。人に心痛を与えなかったのだろうか。
自分がもっとしっかりして、気を配って、てしていたら、悪いことはやってこないの?
でも3人もの人間が言うからにはやっぱり私が駄目なの?
■ ■ ■
僕はあの人の助けとなっていたのだろうか苦しみの種だったのだろうか。
僕のいない世界と
僕のいる世界と
どっちが幸せだろう
しんどいぽん(´・ω・`)
■ ■ ■
悪妻はなくとも、悩めば、それが逃れられない悩みであればなお、だれでも哲学者になれると思うの。
まあ最近の私の場合、あんまり考えすぎてもしょうがないという風にしか思えなくなってしまっているのだけど。
■ ■ ■
投げやりなのかなあ。
でももう無理なんだけどなあ。
もうあるものだけでいいやと思ってしまうのですよ。
ないものを、まわりを巻き込んで実現させようというエネルギーなんか、もうないんですよ。一生懸命話して話して、間違ってると思ったことを正そうとしてって、けっこう頑張った時代もあったけど。
せめて近寄って妥協点見つけて、折り合うくらいしかできないんだけど。駄目かなあ。
駄目なのかなあ。
こんな人間が生きていちゃ駄目なのかなあ。
■ ■ ■
なんとなくヤケ食いしたくなったんだけど、チーズケーキ2個入りパックとか今日に限ってなくて、ホイップドーナツとシュークリームを買ってきたんだけど、1つめでお腹からストップかけられた(´・ω・`)
時々ケーキ何個かとか一気食いしたくなるよね。実際にはなかなかできないけどさ。
■ ■ ■
なんだろうね。
人には、無限に大丈夫だって言えるのに、自分には言えないのね。
やっぱり他人ごとなのかなあ。
無神経なのかなあ。
冷たいのかなあ。
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大分ヘコんでいるんだけどね、
まあね、反論がないわけじゃない。
そこまで私という人間を否定する方がおかしいと思わないでもない。
でもさ、反論すればするほど、自分がどうしようもない人間を上書きするようで、さらにどんどん深みにはまっていくという。
ああ八つ当たりね。って思うこともあるけれど。
そういう風にとらえるからおまえは駄目なんだとか。まわりに波風を煽るんだとか。
ねえどうしたもんかねえ。
■2016.1.24 ちょっとだけ追記しました