3月16日(火)中澤先生が逝去された。享年87歳。
先生と始めて会った、というより姿を見たという方が正確なのだが、それは中央鉄道学園のグランドだった。昭和48年の秋だったと思う。
その頃、創部して間もない東京経済大学ラグビー部は何かと先生のお世話になっていた。その日は本学のグランドが使えないので、中央鉄道学園のグランドで練習することになった。練習が終わるとお風呂も使わせてもらった。銭湯のお風呂より湯船が深かったことを、なぜか覚えている。
翌年、東経大ラグビー部は全国地区対抗ラグビー関東甲信越予選で快進撃を続け、決勝戦に進出。対戦相手は中澤先生の母校、山梨大学だった。その時の先生の胸中はどうだったか分からないが、東経大ヒフティーンに檄を飛ばし、鼓舞していた姿が思い出される。
僅差で正月、名古屋の瑞穂ラグビー場で行なわれる全国大会の出場権を得る。勝利の歓喜の渦中にあって「髙橋(現OB会会長)、金が掛かるぞ」と先生は冷静さをもって先を見通していた。
それから時が過ぎ、平成の初め頃だったか、先生は菅平でラグビー用品の店を開いていた。初めの1年目は、まったくの営業不振であったが、2年目にはにわかに活況を呈し、大げさに言えば菅平商戦の覇者となった感があった。先生のお店は最小資本の投下で最大利益を上げていた、ように見えた。
その状況を現出させたのが「二度と来るもんかTシャツ」の爆発的なヒットであった。最初の年の反省から、Tシャツを販売する。その方針は決まっていたが、購買意欲をかきたてるようなものが欲しかった。そこでさまざまなキャッチコピーを考えたそうだが、「スクラム」「タックル」そんなありきたりな言葉では満足しなかった先生は最初「菅平大嫌い」というフレーズを考えたそうだが「菅平」という固有名詞が入るところに差し障りがあるのではないか、との異論が出た。それで「大嫌い」なら「二度と来るもんか」と思うのではないか。そんな発想でキャッチコピーが決まったそうだ。
そして「二度と来るもんかTシャツ」は菅平のロングセラーとなった。
思い出の断片を語るように中澤先生のことを文章にしました。小生、70に手が届く年齢になりましたが、先生は人生の恩人だと今でも思っています。
どうか安らかにお眠りください。さようなら。
合掌
星野義春