ある男はその後とても幸せに暮らしている。
今も生きている。
昔のことを思い出すこともあるが、
今がいいので大丈夫らしい。
神様はそれを良しとされ、
彼とともにおられる。
ある男はその後とても幸せに暮らしている。
今も生きている。
昔のことを思い出すこともあるが、
今がいいので大丈夫らしい。
神様はそれを良しとされ、
彼とともにおられる。
聖職者のなかには献身者として訓練を受けていたときのトラウマが
今でも残り、就任した教会の牧会に苦しんでいる牧師がいる。
そのときに教えられたことを固く守り、それが正しいと信じているため、
残念なことになってしまう。
本人も相当苦しんでいるのであるが、これではひとは救われない。
イエスは教会の外に出されているが、戸をたたいている。
わたしも一緒にたたいている。
なぜならばわたしもそんな牧師と同じところを通されたからだ。
時間をかけて神様のところに帰れたが、
立場上か、プライドか、神様を知ることなく牧会をすることほど
危険なことはない。
他があきらめて戸をたたかなくなっても、
イエスとともにたたき続けることが必要である。
教会に通っていると、何かにつけて人間的だと言われることがあるが、
人間で何が悪いのだろうと思うことはないだろうか。
人間が人間らしく生きることを否定し、神の側についていないと責める。
聖書を読んでいくとそれもありだと思わされるかもしれない。
しかし神様はそうおっしゃるお方ではない。
そのままでいいとおっしゃるお方である。
聖職者によってはそのままでいいというとわがままになるというが、
わがままでよいと思う。
人間は神に似せて造られたが神ではない。
完全ではないし、失敗もする。
でもそれだから神様が必要である。
神様に愛されながら生きていけばいい。
人間なので、祟りのある神様や祟りのある教会に行くのは難しい。
神様のなかにはご利益はあるが、やることが多い神様がいらっしゃる。
願いは叶えるけれども、それには見返りがあるとか、
とにかく大変な思いをする。
行いが悪ければ最終的には祟られてしまう。
こんな神様は正直言って面倒だ。
人間はきちんと出来ないのが前提であるので、
無条件で救われる神様を信仰するのが良いと思う。
十勝は急に寒くなった。
とても強い風が吹いている。
雪の季節が近いことをおしえてくれる。
雪が降ってしまえばそうはないが、
降る前は何だかとてもさみしい。
ひとや神様のあたたかさが心にしみる思いだ。