神様の愛に感動し、涙する。
あとからあとから流れてくる涙を拭きながら、
やさしい神様と話をする。
神様は既にご存知なので、とても安心していられる。
教会で受けた傷も癒してくださる。
神様がいてくださる限り、
過去の記憶も怖くない。
神様の愛に感動し、涙する。
あとからあとから流れてくる涙を拭きながら、
やさしい神様と話をする。
神様は既にご存知なので、とても安心していられる。
教会で受けた傷も癒してくださる。
神様がいてくださる限り、
過去の記憶も怖くない。
神様のやさしい愛がいつものように降りそそぐ。
神様は愛してくださるお方である。
そばにいてくださり、誰よりも理解してくださる。
怖い神様ではない。
こうしなさいといわれることもない。
教会や他の人がなんといっても、
神様はとてもやさしいお方である。
神様の愛に埋もれて生活をしていると、
とてもとてもありがたい気持ちになる。
いままで気がつかなかったことや、
わからなかったことも多くあるのがわかったりする。
教会では教えてもらえない神様の愛。
この状態こそが救いなのかもしれない。
特別なことをしなくても、
神様は愛してくださるのである。
神様の愛が雪崩のように流れ込むことがないだろうか。
それは一瞬にして心をうめてしまう。
悲しかったり、寂しかったり、疲れているのも忘れるくらい
神様の愛はあたたかい。
教会のメッセージや聖書からではなく、
やさしい、やさしい神様がいらしてくださり、
あなたの心を満たしてくださる。
救われる条件は何もない。
無条件の救いをあなたに・・・。
今日は終戦記念日、79年前に戦争は終わったはずなのに、
なぜか教会では戦争が繰り返されている。
というのは、戦時中に正しいこととされていたことが
教会のなかで相変わらず行われているということだ。
もちろん一部の教会だけだと信じたい。
お国のため、つまり神様のために命を捨てるのは美徳である。
お国の制度、つまり牧師に従わないものは非国民、罪と定められる。
お国のために供出、つまり生活費をすべて献金すること。
一億一千火の玉、つまりみんな同じ方向を向いて自由に考えることも、
個性も許されない。ただただ神様のため。
このようなことが行われているため、どうしても戦争が終わった気がしない。
牧師に問いただすと、そんなことは言ってないの一点張りだ。
戦争の責任を取りたくないので、あることないことを言って逃れようとする。
当時だったら間違いなく逮捕されるところだが、現在は平和になっているため
そんなこともない。
問題はそこにいた信徒の人生の犠牲である。
自殺したり、精神病になったり、生活できなくなってしまう。
一体この戦争はいつまで続くのだろうか。
本当に終戦を迎えたければ教会に行かない選択がある。
そんなことを考えていた。