今日も十勝は晴れている。
さわやかな風が吹いている。
広い平野と高い空は見るものを癒してくれる。
ああ神様ありがとうございます。
そんな思いで眺めていた。
苦しかったことも、辛かったことも、
すべて神様におまかせして、
ここからまた始めよう。
今日も十勝は晴れている。
さわやかな風が吹いている。
広い平野と高い空は見るものを癒してくれる。
ああ神様ありがとうございます。
そんな思いで眺めていた。
苦しかったことも、辛かったことも、
すべて神様におまかせして、
ここからまた始めよう。
こんなことはよくあることだが、
信じてきた信仰に裏切られる。
この場合の信仰は組織のなかでの信仰で、
そのほとんどが指導者との関係によるものだ。
具体的な例をあげてみると、
指導者が説教のなかで話していることを言ったり
行動したりすると、どうしてなんだと𠮟責される。
また、組織にいるひとに対して導けないと嘆く。
それだけならまだしも厄介だと思う。
また、せっかくたずねてくれているひとをなにかと
理由を付けて受け入れない。
指導者のみこころに沿わないだけで神様のみこころに
かなっていることは多いものである。
組織である以上難しいことはあるにせよ、
魂の救いがかかっているのだからと思う。
果たして指導者のみこころや組織が必要なのだろうか。
とても疲れたときや、人生がうまくいかないときに
神様は休ませてくださる。
決してあせることはない。
その休みのあいだになにかをみつけることがあるからだ。
人生に無駄な時間はない。
それもまた神様のご計画だったりする。
だから安心して休んで、神様におまかせしよう。
たまにあるようだが、教会で神様がすり替わっている。
どういうことかというと、本来ならば神様がおられるところに
別の何かが入り込み、いかにも神様のようにいる。
多いのは神の器、つまり指導者を神様にしている。
実際には見えないし、言も聞こえないので仕方のないこととは思うが、
それにしてもひどいものである。
教会を強く、大きくしたい思いからだろうが、
これでは本末転倒である。
もちろん神様はやさしいお方であるので、
押しのけられたとしても、愛されている。
しかし彼らはそれに気が付いてはいない。
雲の隙間からの光を見ていた。
ゆっくりと光が差し込んでいた。
まるで天の扉が開いたように、
美しく、幻想的な光景である。
時間のあるときだからこそだが、
そうでなくても神様はいてくださる。