神様があいされるひとはすべてのひとである。
特別にこんなひとだという定義はない。
それなのに教会では前者のひとびとに、
あなたこそ神様が特別に愛されたひとだという。
後者にはそんなことは言わない。
なぜならば後者は大丈夫だからだ。
誰がそんなことを決めたのだろう。
後者はいろいろな苦労があっても懸命に生きてきた。
教会には理解されなくても。
それは神様もご存じである。
すべてのひとを神様は愛されている。
どちらかというとこの言葉は後者に必要なのかもしれない。
神様があいされるひとはすべてのひとである。
特別にこんなひとだという定義はない。
それなのに教会では前者のひとびとに、
あなたこそ神様が特別に愛されたひとだという。
後者にはそんなことは言わない。
なぜならば後者は大丈夫だからだ。
誰がそんなことを決めたのだろう。
後者はいろいろな苦労があっても懸命に生きてきた。
教会には理解されなくても。
それは神様もご存じである。
すべてのひとを神様は愛されている。
どちらかというとこの言葉は後者に必要なのかもしれない。
たまにテレビで特集をやっているように
わかりやすい救いのひとがいる。
ヤクザだったけれど牧師になったとか、
覚醒剤をやっていたが、教会に行って今は働いているとか、
とてもわかりやすい救いである。
これに対してわかりにくい救いとは、
一見何の問題もなく見えるひとである。
両親がそろっていて家も貧しくはなく
きちんと学校や仕事に行っている。
つまり教会に行く必要がないし、
神様も求めてはいないように見えるひとである。
教会は前者にはやさしいが、後者にはそうでもない。
まるで放蕩息子の弟と兄である。
わたしは後者の方だったので、
牧師からはあなたはそうでもないねと言われていた。
牧師は保護司の資格があったため、教会にはそれらしいひとがいた。
彼らを保護していたため他が見えなくなった。
しばらくして教会には来なくなった。
教会がどうのこうのではないが、信仰生活は難しかったのかもしれない。
彼らのことは神様が愛されたものとしてすばらしいと思うが、
問題なのは他をおろそかにすることである。
ひとの闇はどこにあるのかわからないからである。
ここ何日か十勝はとても暑い。
早くも夏が来たのかと思ってしまう。
北海道らしからぬ気温である。
神様は、特に福の神様は一見そう見えないことが多いのである。
どこかいかがわしそうなのだが実はこのひとこそ幸運をもたらす神様で…
あり得ないことのように現れてくださる。
それはまるで五月の十勝に真夏が来るように…
きっとあなたにも…
自分の気持ちや考えがどうであれ、
みこころを祈っていることがある。
たとえばもう関わらないほうがいいと思っているひとのために
とりなしを祈っていたりすることがある。
神様が愛しておられることがよくわかる。
直接関わることはなくても神様のみこころならばと祈る。
危険な方向を向いていることがわかっていても
彼らがそれを選択している以上仕方のないことである。
本当に余計なことだと思いながらでも、
今日もまた祈っている。
神様の愛がさらに伝わってくる。
いつも神様は良いものを与えてくださる。
それぞれに必要なものをご存知なのでありがたい。
お金やものはもちろん、良い出会いとか、
良い人生とか、もちろんそれを開拓するのは自分である。
嬉しいこと、悲しいこと、いろいろあるが、
神様がいてくださる。
神様ご自身がわたしへのプレゼントだったことに
若いころのわたしは気付いていた。
神様と神様の愛に感謝していた。