十勝みのる教会

教会堂、献金、奉仕、集会がない教会。しかし、神様があなたを愛してくれていることだけを伝える教会。

神様を崇める、それとも⁈

2020-09-29 17:27:38 | 日記

宗教組織は神様を崇めるためにつくられた。

しかし本当に崇められているのは誰なのだろうか。

ほとんどの宗教組織では神様は蚊帳の外、

実際には指導者だったり、役員だったりする。

信者の信仰生活はもちろん、私生活まで管理する。

結婚や神学校に行くにも許可がいる。

なぜならば認められないと結婚式はしてもらえないし、

神学校入学のときも指導者の推薦状を書いてもらえない。

神様のみこころであったとしてもこれでは成就することはない。

つまりそれをしたいならば指導者のいうことをよく聞き、

指導者のみこころを成就するしかない。

こんなところに居たくないと他のところに行けば、

前の組織の指導者の手がまわるため、結局は迷惑をかけてしまう。

それでも受け入れることができればその組織と指導者は本物だろう。


良い人

2020-09-27 07:23:37 | 日記

ぼくは、子供のころからずっと「良い人になりなさい」と言われて育った。

どうも、旦那です。

そりゃあそうで、「悪い人になりなさい」なんて言うひとはたぶん、いないとおもう。

教会に行ってからは、指導者の言葉に忠実な信徒であることが「良い人」とされた。

ぼくの人生は、信仰生活がすべてだった。

本当は自分はこんなことが楽しい、こんなことがやりたい、という思いは邪魔な感情だと

教えられ、今までよりももっとレベルの高い「良い子」が要求された。

聖書的に生きてると、社会の人々との軋轢(あつれき)が生まれるが、そのことを

聖書でいう「地の塩」だと正当化された。

ぼくは、社会の人間として生きていけなくなった。死んでこの世から消えたいと思った。

「良い人」のままで・・・。

あれから何年経ったんだろう。ぼくは妻の言葉に助けられて、いまも生きている。

この社会の人間として。

いま、大事にしているもの、それは「ときめき」

やりたいこと、楽しいこと、こうなったらいいなぁという夢。

きっと本当の神様は、この自分自身を喜んでくれる。夢を叶えてくれる。

ぼくのなかの「良い人」は、気が付けばどこかにいってしまった。

もちろん今でも

存在していて、ふとした時に出てきてぼくを苦しめる。

そんなとき、それは仕方ないかな、と流すことが今のぼくの課題です。


救われること、救われないこと

2020-09-22 16:46:58 | 日記

救いの方法はひとそれぞれである。

宗教をしているひとでも救われないひともいれば、

何もしなくても救われるひともいる。

ひとである以上何かに頼らないと生きていけないという

説もあるが、これもまたひとそれぞれで、

頼ったものが大変なもので、前よりも救われないこともある。

また頼らなくても自分の方法で救われることもある。

神様が抽象的で分かりにくいのなら無理して信じることはない。

やさしい神様だと分かったときに信じても遅くはないからだ。


呪いの伝承

2020-09-19 20:29:03 | 日記

どこの組織でも多少はあるが、

あっても大変なだけである。

ひとを呪うことによって

呪われたひとがまた呪う。

このような連鎖を断ち切らない限り

幸せにはなれない。

それはわかっているけど

それでも出来ないのがひとである。

神様はわかって寄り添ってくださる。


さりげなくおられる神様

2020-09-14 19:16:57 | 日記

困ったときや助けてほしいときはわかりやすいが、

それ以外でも、神様はさりげなくそばにおられる。

もちろんそれだからといってかしこまることもなく、

無理に従う必要もない。

とてもやさしいお方である。

何も強制せず、見返りも求められない。

そばにいて見守ってくださるお方である。